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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

永井俊哉氏 2/2  

2021-09-14 22:18:55 | 文化

 

>男性革命は、ギリシャ哲学やユダヤ教や仏教や儒教など、男性原理に基づく宗教や哲学が誕生した紀元前5世紀頃の「枢軸時代」がピークなのだが、その頃の日本はまだ縄文時代で、当時の日本人はプリミティブな地母神を崇拝していた。

>6世紀になると、日本は、男性宗教の一つである仏教を輸入するが、当時の日本の為政者たちは、仏教を、自分が解脱するための宗教としてではなく、現世に対する執着を捨てない怨霊を成仏させる技術として導入した。   

 

アメリカ人は日本人が仏教徒であることを知って、我々がインド哲学を理解しているものと思っている。ところが、事実はそうでない。我々日本人にとってあの世の事は絵空事に近い。

ヒンズー語は印欧語であり文法に時制を持っている。だから、過去・現在・未来に相当する前世・現世・来世の世界観をもっている。だが、特亜三国 (日本・中国・韓国) の言語には文法に時制がない。だから、特亜三国人には世界観がない。そして、特亜三国人は輪廻転生の考えに囚われて苦しむこともない。だから、自己の涅槃を求める小乗仏教は必要でない。     

 

>無念の死を遂げた敗者が、怨霊となってたたりをなすという怨霊信仰は、日本だけでなく、世界中にある。>しかし、怨霊を神として崇める伝統があるのは、少なくとも先進国では、日本だけである。 

 

恐ろしいものは全て日本人の神様・雷様になりますね。   

 

>世界の仏教圏においても、「誰でも死ねば仏になることができる」と信じているのは、日本の仏教信者だけである。

 

日本人は善悪の区別がはっきりしないですからね。   

 

>この怨霊崇拝とその仏教的変形も、「甘え」で説明できる。>土居は、日本人が「甘えの葛藤の彼岸にある者を神と呼んでいる」と言うが、敗者となっても、怨霊としてたたりをなせば、神あるいは仏として崇めてもらえると期待することも、甘えの一つである。

 

全てを巻き込むのが日本人のメンタリティですね。敵対する意図がない。   

 

>旧約聖書では、イスラエルの民が、出エジプトの後、カナンへ向かう途中、神が邪魔になる住民を大量に殺戮しているが、殺された人々が怨霊となって報復したり、イスラエルの民が鎮魂のために怨霊を神として崇拝したりするということはない。>イスラエルの民にとって、ヤハウェは唯一絶対の神であり、他の神を崇拝することは許されない。

 

イスラエルの民には都合の良いとこるだけを取る習慣はないのですかね。   

 

>ユダヤ-キリスト教が父性の宗教だとするならば、日本の伝統宗教は母性の宗教である。>母親が相手なら、幼児は、欲求不満のとき、泣きじゃくって駄々をこねれば、あやされて慰めてもらえる。 >だから、日本では、怨霊が「自分を神として崇めてくれ」と駄々をこねるのである。  

 

それは大人の体をした精神的な子供ですね。     

 

>だが、父親に対しては、こうした甘えは許されない。>父なる神は、絶対的な超越神であり、人間同士の恩讐の彼方にある。 

 

あるべき姿の内容が脳裏に構築されていますね。   

 

>世界で一番男性的な宗教は、イスラム教にちがいない。 >最近電車の中で、私は、イスラム文化圏から来た夫婦を目にした。

>妻は手ぶらで座席に座っているのに、夫は片手で重い荷物を持ちながら、もう片方の手で幼児を抱き、揺れる車内でバランスを取りながら立っているのを見て、「イスラムの男はたくましいな」と思ったものである。 >他方で、イスラムの男性が、日本の年配の女性に席を譲ったところ、その女性が、深々と頭を下げてお礼を言った後、彼女のいい年した息子を座らせたのを見て仰天したといった類の話もよく聞く。 

 

人間はみな同じではないですね。    

 

>外国から来た女たちは、日本の男を評して、「頼りない」「子供っぽい」「男らしくない」と言う。 

 

日本人の脳裏にはあるべき姿の内容が構築されていないので、脳裏はどろどろしています。これは頼りない子供っぽい男らしくないの根源をなしています。       

 

>「男らしくない」あるいは同じことだが「父親らしくない」という評に対しては、「そんなことはない。戦前の日本の怖い父親を見よ。妻に対して威張っている亭主関白には、父親の威厳があるではないか」と反論したくなる人もいるかもしれない。 >確かに「メシ!」「フロ!」と妻に命令する亭主関白は、一見すると偉そうである。 >しかし、妻から見れば、亭主関白などは、自分一人では身の周りの世話が何もできない「大きな赤ちゃん」に過ぎない。

 

そうですね。 司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」      

 

>欧米では、夫が妻のために食事を運び、部屋に入るときには、自ら扉を開けて、妻を先に入れる。 >こうした「婦人への奉仕」という欧米に伝統的な騎士道精神を見て、「欧米では、女性は尊重されている」と思うかもしれない。 >実はこれは、「女は、オレたち男が守ってやらなければ生きていけない、か弱い動物だ」という男尊女卑の態度の表れである。 >日本の男にとって、妻が母親の代替物であるのに対して、欧米の男にとって、妻はペットなのである。

 

そうですね。英語では、husband であり、husbandry 家畜飼育法ですね。   

 

>3. サムライは男らしいか  >読者の中には、日本の男には、欧米の男にはない男らしさがある。 >例えば、太平洋戦争の時、特攻隊に自ら志願するなど、死を恐れずに戦ったのは、日本兵の方であって、英米の兵は、“女々しい”ことに安易に降伏した。と反論する向きもいるだろう。  

 

太平洋戦争初期に、フィリピンの米比軍はキング少将もジョーンズ少将も投降して、75000人以上の将兵の命を救った。

太平洋戦争後期に、日本軍は米空軍の飛来をゆるして、1945年3月10日未明、東京の下町の江東地区がB29約300機による空襲をうけ、死者10万をこす被害を出した。

日本人の指導者には、作戦の成否を予測する力はないのか。人命の尊重はどのように考えられていたのであろうか。

 

>戦前の軍人や江戸時代の武士にとって、「死は鴻毛よりも軽し」だった。>この「勇ましさ」は、日本の文化が母性的ではなくて、父性的であることを示しているのだろうか。

 

日本人の勇ましさは見栄と外聞によるものでしょうね。日本には恥の文化があります。 

日本人には恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。だから、恣意を鍛えて、意地・根性・大和魂に仕立てる。日本人の勇ましさは恣意決定によるものでしょう。          

 

>戦陣訓に「生きて虜囚の辱を受けず」とあるように、戦時中の日本兵は、捕虜になるよりも自決の道を選んだ。  

 

日本兵の自決は見栄と外聞によるものですね。義理 (序列関係から生じる義務) と人情 (私意・我儘・身勝手) の板挟みになった末に日本人が選ぶ道でしょうね。       

 

>中には、戦闘中に意識を失って、不本意にも捕虜となった日本兵もいたが、彼らは、その恥ずべき事実が母国に知られないことを切望した。  

 

そうですね。恥ずかしながら、生きて帰って参りましたと恥をさらすことになりますね。長谷川和夫という偽名を使う日本兵も大勢いたそうですね。    

 

>これに対して、捕虜となったアメリカの兵隊は、自分が捕虜となったことを祖国の家族に知らせて欲しいと願い出て、日本人を驚かせた。 

 

日米の生活習慣の違いですね。自分の安否を気遣う人がアメリカには多くいたのですね。    

 

>アメリカ兵も、命をかけて祖国を守ろうとした点では、日本兵と変わらなかったが、彼らには、家族を守る父親としての責任もあったので、無駄な死を避けて捕虜となることは、少しも恥ずかしいことではなかった。 >何よりも、彼らは、死が美しいとは思っていなかった。

 

アメリカ兵には犬死の美学はなかったのですね。彼らには戦場にて辞世の句を詠むことも無かった。    

 

>日本には、長い間咲き続ける梅の花よりも、すぐに散ってしまう桜の花を愛する独特の美学がある。>花となって散っていった特攻隊員や潔く腹を切った武士たちは、そうした死の美学に陶酔していた。>「花は桜木、人は武士」である。  

 

日本人は気分・雰囲気・感情に身を任せることが幸せと感じているようですね。ナウな感じのする人間ですね。   

 

>特攻は、今では日本の専売特許ではなくなったが、自爆テロを行うイスラム原理主義者たちは、父なる神アッラーのために死ぬのであって、日本人のように、死そのものが美しいとは考えない。

 

回教徒は酒を飲みませんから、気分・雰囲気に酔いしれて自爆テロをしているわけでもないでしょう。    

 

>精神分析学では、死への欲動をタナトゥスと名付けているが、日本には、なぜタナトゥスの美学があるのか。 >人は、死ねば土に帰る。 >死ぬということは、母なる大地の懐に戻るということを意味している。 

 

我々は自然に帰るのですね。   

 

>日本の特攻隊員が死ぬ直前に叫んだ言葉は、「天皇陛下万歳」ではなく、「お母さん」だった。 >勇ましい武士も、死ぬ直前に口にした言葉が「おっか(お母さまのこと)」だったりする。 >自ら死を選んだサムライは、その深層心理において、胎内回帰願望によって動機付けられていた。>このように、一見すると勇ましそうな日本人の死の美学も、実はきわめて幼児的な欲動に基づいているのである。  

 

我々には、ゲゼルシャフト、 (天皇制) より、ゲマインシャフト (家族愛) がより基本的ですね。   

 

>4. 日本人の縮み志向 >韓国の比較文化論者、李御寧は、「縮み」志向の日本人という本の中で、日本文化には縮み志向があることを指摘した。 >たしかに、縄文時代の屈葬から現代のカプセルホテルに至るまで、日本人が小さな箱の中に縮んで入りたがることを示す例は枚挙に暇がない。 >これは、日本では土地が不足しているからだと言う人もいるが、日本以上に人口密度が高いところに、必ず縮み志向の文化があるわけではない。

 

日本人の縮み志向は言語に支配されたメンタリティ (考え方) にあるのでしょうね。   

 

>日本人が縮み志向であるということは、日本人が大人になることを拒絶しているということである。>そして、日本人が「小さな箱」の中に入りたがるのは、胎内回帰願望の現れである。

 

日本人には世界観がない。無哲学・能天気では心もとないですからね。小さな所に入りたがりますね。      

 

>日本人は、縮むことだけでなく、縮めることも好きである。>1980年代に、日本人は、欧米人が発明した製品の精巧な小型版を作り、世界の市場を席巻した。  

 

日本人は目先・手先に神経を集中することが得意ですからね。加工技術が発達すれば小型化できる。   

 

>李御寧によると、初めて世界的にヒットした日本発の輸出品は、折りたたみ式の扇子だったそうだ。>だから、先進国の製品を見て、それを縮めて模倣し、輸出するという伝統は、平安時代からあったことになる。 

 

そうかもしれませんね。   

 

>このように、日本人は、先進国が作った物のミニチュアを作ることに熱心なのだが、これもまた、きわめて幼児的な現象である。

 

幼児は高度の技術力を発揮できませんね。    

 

>幼児は、大人がしていることを見ては、「…ごっこ」という遊び心で、そのミニチュアを作りたがるからだ。  

 

猿真似は、サルでもやりますね。    

 

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永井俊哉氏 1/2  

2021-09-14 22:03:45 | 文化

>永井俊哉ドットコム

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>中根千枝は、『タテ社会の人間関係』の中で、日本の社会をタテ社会として特徴付け、欧米型のヨコ社会と対比した。 >「あなたの職業は?」と聞かれて、例えば「システム・エンジニアです」と答える社会はヨコ社会で、「松下の社員です」と答える社会はタテ社会である。>日本では、スペシャリストが複数の会社を相手に才能を売り歩くという雇用形態よりも、一つの会社に定年まで所属して、様々なポジションをこなすという雇用形態のほうが主流である。   

 

そうですね。横への動きは不自由ですが、縦の動きは可能です。これは日本人の序列メンタリティのなせる業でしょうね。      

 

>少なくともこの本が出版された1977年ごろまでは、日本は完全なタテ社会だった。

 

日本の国は序列社会、日本人は序列人間である。   

 

>中根が注意を促しているように、タテ社会にヨコの関係がないわけではない。 >「場」による集団内部に限定されたヨコの関係ならある。 >だから、中根が言う「タテ社会」とは、「ウチ」と「ソト」の区別にこだわる「ウチ社会」である。

 

そうですね。韓国人は絶対敬語を使うが、日本人は相対敬語を使う。相対敬語を使うと内外を区別する必要がでてきますね。    

 

>「ウチ社会」は、「ウチ」という言葉が示しているように、家をモデルにした社会である。

 

八紘一宇の精神ですね。    

 

>どの文化でも、家族という集団は、利益追求のための機能的集団(ゲゼルシャフト)ではなくて、愛の共同体(ゲマインシャフト)である。>ただ、多くの文化では、子供たちは、ゲマインシャフトから追い出されて、ゲゼルシャフトの中で大人として成熟していくのに対して、日本人は、いつまでもゲマインシャフトの温情主義的なぬくもりの中に留まろうとする。>戦前の日本政府は、国“家”を、天皇を家長とする家族に喩えた。

 

序列社会の始動ですね。   

 

>戦後、国家のイデオロギーが崩壊すると、日本人は、会社に家庭的なゲマインシャフトを求めた。>そして、人見知りする幼児のように、日本人は、共同体内部では親密な人間関係を築きながら、よそ者に対しては、引っ込み思案な態度を示す。

 

それは馴れ合いですね。 馴れ合いとは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。

よそ者については、自分との上下関係が付けにくいですからね。つい、よそよそしくなる。   

 

ルース・ベネディクトは、『菊と刀(The Chrysanthemum And the Sword)』で、恩を着せられることによる義理が、日本人の意識を強く制約していることを指摘した。

 

義理は序列関係から生じる義務ですからね。義理が廃れば日本人の世界は闇になりますから強く制約されますね。      

 

>こうした互酬性原理の優位は、日本に限らず、プリミティブな社会では広く見られる。>個体発生と系統発生とを対応させるならば、互酬性社会は、母子の間の、水平的な交換関係を機軸とする鏡像段階に相当する。>この段階は、父という超越的第三者(コミュニケーション・メディア)によって、垂直的に交換が媒介されていないという意味で、プリミティブなのである。

 

無哲学・能天気の状態では、垂直的な交換は無理ですね。   

 

>『菊と刀』は、日本の文化と欧米の文化の違いを「恥の文化」と「罪の文化」の違いとして説明したことでも有名である。

 

そうですね。意思の無い日本人には罪がない。だが、序列社会には恥がある。      

 

>日本の経営者が「世間をお騒がせして、まことに申し訳ありません」と言って辞職するのは、日本の文化が恥の文化だからである。>罪の文化の視点からすれば、罪がないのなら辞職する必要はないということになるが、恥の文化の視点からすれば、世間を騒がせて恥ずかしいということが、引っ込む口実として認められる。

 

罪のない社会においては、勝負あったでひっこむのである。負けることは恥ですね。         

 

>恥とは、他者という鏡に映し出された醜い自我に対する不安の感情である。 >その際、醜いかどうかに普遍的な基準はない。 

 

それは、その時の気分・雰囲気・感情で決まりますね。    

 

>周りが色白のお嬢さんばかりなら、一人だけガングロ・ヤマンバでいることは恥ずかしいことだし、周りが不良少女ばかりならば、一人だけ良い子ぶりっ子でいることは恥ずかしい。>このように、恥は、鏡像的な他者との相対的な関係で決まる、浮き上がることを恐れる感情に過ぎない。  

 

そうですね。没個性的なら安堵しますね。   

 

>これに対して、罪は、超越的で普遍的な規範に違反したときの意識である。  

 

罪は個人的な感情でしょうね。罪の意識に覚醒すれば、その人は入信することになる。    

日本人には意思がないが、西洋人には意思がある。だから、受動もあれば能動もある。被害者意識のみならず加害者意識もある。加害者意識が高ずると罪の意識になる。魂の救済が必要になる。そこで、キリスト教がこれを助ける。      

 

>罪の文化の人は、もし自分が正しいことをしていると確信しているならば、周囲から笑われても、恥ずかしいとは思わずに、むしろ周囲が無知なのだと考える。 

 

そうですね。各人に哲学は必要ですね。Everyone needs a philosophy.       

 

>日本人には、唯一神から与えられた、超越的で普遍的な規範はない。

 

日本人には世界観がないですからね。何物にも侵されない世界を自己の脳裏に構築することは無理ですね。   

 

>だから、しばしば主義主張に節操がない。

 

そうですね。

あるアメリカの国務長官曰く、‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない。’ 

 

>かつて鬼畜米英を叫んでいた日本人が、一転して親米的になったのを見て、マッカーサーは、日本人の精神年齢が12歳だと言ったが、このように、罪の文化から見れば、恥の文化は幼児的に見える。  

 

変わり身の早さは日本人の得意芸ですからね。目先・手先の事柄に神経を集中させていますね。現実があって非現実 (考え) の無い人間の特徴ですね。     

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。     

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。個人の価値判断が抜け落ちている。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。  

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)   

 

>アリストテレスも、『ニコマコス倫理学』の中で、恥は「若年者にふさわしい感情」だと書いている。

>2. 「甘え」の構造 >日本文化の幼児性を、もっと直截に「甘え」という言葉で指摘したのが、土居健郎の『「甘え」の構造』である。 >もちろん、甘えるという現象は、日本人だけに見られるわけではない。>どこの国でも、幼児は母親に甘えるものだ。

 

そうですね。    

 

>だが、日本では、幼児がいつまでも母親に甘え続けることができるのに対して、多くの国では、子供たちは、父親によって、精神的な乳離れを強要される。

 

アメリカにおいては、‘Independent!’ (自主独立) という言葉は子供に対する褒め言葉になっていますね。わが国では、大の男が大衆の前で甘えさせていただくと申し開きをする。皆の衆に自分が大目に見ていただくことである。        

 

>では、なぜ日本人は、母親に甘え続けることが許されるのだろうか。>なぜ、日本の文化は幼児的な段階に留まっているのか。>それは、日本では、母権社会から父権社会への転換である男性革命が、きわめて不十分であったからである。 

 

女性は哲学に疎遠である。哲学には家庭の内容が含まれていない。  

 

 

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