>岸田文雄氏「news23」で白熱した河野氏と野田氏の議論に「国民の皆さんにどう説明するかということ」 > 報知新聞社 2021/09/23 07:24
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> 自民党の総裁選に立候補した河野太郎氏、岸田文雄氏、高市早苗氏、野田聖子氏が22日、TBS系「news23」(月~木曜・午後11時、金曜・午後11時半)に出演した。 > その中で新型コロナウイルスの行動制限緩和の時期に関して4人に質問をした。>質問の前に小川彩佳キャスターから「もちろん、今後の感染状況次第という面があるのだとは思いますが、一方で目標があれば頑張れるという側面もあるのだと思います。
日本人の得意な ‘頑張って’ ですね。
>こうしたことを示していくのもリーダーシップだと思いますのでぜひここはお答えいただきたく思います」とした上で「飲食店でのお酒の提供の解禁など制限の緩和はいつごろを目指しますか」と質問した。
根拠なく ‘目指す’ のは無責任ですね。自己のリーズン (理性・理由・適当) を掲げて、リーズナブルな答えを出していただきたいですね。
>答えは三択でAが「11月ごろ」。Bが「年末年始」。Cが「来年春の卒業式・入学式ごろ」で、それぞれAからCの札を上げて回答することを求めた。
とかくこの世は無責任。札上げの競技のようなものですね。
> これに4人の中で唯一、河野氏は札をあげず「私はこういう無責任な質問はよくないと思います。 >特にメディアが」と指摘した。
そうですね。わが国のメディア特に問題視されていますね。
> その理由を「前提も分からない中で何がいつごろできるんですか?ということを申し上げるのは何か淡い期待のようなもの。 >で、それができなかったらどうする。 >どういう状況になるのかも分からない。 >変異がどういうふうになるか分からない中で、やっぱり科学的なデータをきちんと集めて、お示しをして、それを政府としてどう解釈するのか。 >だから、こういう政策に協力をして欲しいと申し上げるのが筋だと思うんです」と述べた。
そうですね。まことに理路整然としたご意見ですね。
> 続けて「そういう前提のデータも何もなくて、じゃあどうしますか?というのは…。 >それは簡単ですよね、こうしたいです、ああしたいです、と。
それは歌詠みのようなものですね。日本人の昔からの伝統ですね。進歩がない。
>それが責任のある政治だとは私にはとても思いませんし、責任のあるメディアがこういう報道の仕方をするのは、私は少しおかしいのではないか?やっぱり、みんなで科学的データをきちんとそろえてそれをどういうふうに解釈するのかというところが議論するのだったらそれを議論すればいい。
そうですね。歌詠みと祀りごとはこの国が始まって以来やっていることですね。これが日本流のリーダーシップなのかもしれませんね。
>その上でじゃあ今、こういうことをやるべきかどうかを議論するんだったら、それを議論して、こういう政策をやろう、それにぜひ協力をしてくださいと申し上げるのが筋だと思いますが、そういう科学的な根拠となるデータもなしに、さぁどうしますか?というようなことを日本のマスメディアがまだ、このコロナ禍でやっているのは私はちょっとメディアにも反省していただけなければいかんと思います」と繰り返し指摘していた。
そうですね。データをそろえて議論することは必要ですね。コロナ禍の中で政治家が動じないというのは政治音痴の証拠でしょうね。
> この発言に野田氏は「ただ目標を作んないといけないんじゃないですか?
可能性があれば目標は立てられますね。
>行動制限。>自分はここで行動制限を緩めていく。>だから、こういうことをしていく。
小手先の操作だけでは収まる問題ではなさそうですね。
>科学的知見を積み重ねていくことを言わなければいけないんじゃないですか?」と疑問を投げかけた。
'敗因について一言いはしてくれ。我が国人が あまりの皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである。我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである' (昭和天皇)
> これに河野氏は「こういう状況になったら、こういうことができるよね、という議論はできると思う」と述べると、野田氏は「ある程度のメド、なるべく早く、特に若い人たち、子どもたちには行動制限はとてつもなく精神的に厳しいものがあるんですよ。
嘘も方便ということですか。根拠なく真実を述べることは難しいですね。
>また。アーティスト、イベントもできない。 >そういうことをもう少し人ごとのように言うんではなくて、そのなりわいのことを考えながら、もう少し積極的に。
日本人には意思がない。だから、積極的には無理でしょうね。
日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。
意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。だから戦時中は、玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。困った時には '他力本願・神頼み' になる。生きる力 (vitality) が不足している。
' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)
どうやら '指示待ち人間' ができあがったようですね。
>メディアが悪いとかいうことは私は、政治家としてどうかと思う」と指摘していた。
我が国のメディアは良くないですね。国民に容易に判断できるように解説していませんね。この点は大いに反省すべき点ですね。
> この議論に「C」を上げた岸田氏は「さっきの議論については、要は見通しを持ちたいという国民のみなさんに対してどう説明するかということなんだと思います。
コロナ退治の問題ですね。その方法が確立すれば、後は時間の問題ですね。誰がやっても同じになるでしょう。しかし、コロナ退治の方法が確立していないと、見通しは立てられませんね。その答えは絵空事になりますね。
>具体的にどういう努力をして目標を作っていくのか。
それが大切な所ですね。各々の努力方法を出し合って比較し合ったらたらよいでしょう。方法に違いがあれば、見通しも変わったものになるでしょうね。
>それとも目標を掲げてそのために何をしなければいけないか、その説明の手法だと思います。
コロナの退治方法に違いがあれば、目標の期日にも違いが出て来るでしょうね。
>どっちがいいかは国民のみなさんが判断されるんだと思います」と述べた。
最も有効な退治方法が最短の期日になりますね。皆さんがその方法を選ぶことと思いますね。四人の候補者が退治方法に議論を集中さないと期日の推定もできませんね。根拠なくただ札をあげるのは無責任な回答ですね。
言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。
非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。
世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。
自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定がわが国では一生涯続く。
日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。
意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' 対 '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。
非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。
わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。個人の価値判断が抜け落ちている。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。
イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。
何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)
我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。
『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)
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