>現代ビジネス >誤読も甚だしい…「教育勅語の現代語訳」が戦前なら「不敬罪」になりかねない「驚きの理由」 >辻田真佐憲 (文筆家・近現代史研究者)の意見・ >14時間・
>神武天皇、教育勅語、万世一系、八紘一宇……。
>私たち日本人は、「戦前の日本」を知る上で重要なこれらの言葉を、どこまで理解できているでしょうか?
>右派は「美しい国」だと誇り、左派は「暗黒の時代」として恐れる。
>さまざまな見方がされる「戦前日本」の本当の姿を理解することは、日本人に必須の教養と言えます。
そうですね。
>歴史研究者・辻田真佐憲氏が、誤解されやすい「教育勅語」についてわかりやすく解説します(第2回/全3回)。
>※本記事は辻田真佐憲『「戦前」の正体』(講談社現代新書、2023年)から抜粋・編集したものです。
>「国体の精華」のための「忠孝の四角形」
>ではその構造とはなにか。
>筆者はこれを、「忠孝の四角形」と名付けたい。
>この四角形は、天皇の祖先、当代の天皇、臣民の祖先、当代の臣民の四者で構成される。
>そしてこの四者が、忠と孝という価値観で固く結びつく。
>忠とは、君主にたいする臣民のまことであり、孝とは、父にたいする子のまことである。
それは支配と服従の関係ですね。
>これを図示するとつぎのようになる。
>忠
>天皇の祖先 ← 臣民の祖先
>↑孝 ↑孝
>天皇 ← 臣民
>忠
>歴代の臣民は、歴代の天皇に忠を尽くしてきた。
>当代の臣民も、当代の天皇に忠を尽くしている。
>これが縦の軸だ。
>また、これまでの臣民はみずからの祖先にたいして孝を尽くしている。
>当代の天皇もまた過去の天皇に孝を尽くしている。
>これが横の軸だ。
>このような忠孝の四角形は、日本にしか永続していない。
>少なくとも、それが教育勅語の世界観だった。
>ほかの国では、君主が倒され、臣民が新しい君主になっており、忠が崩壊している。
>それはまた、そのときどきの君主が徳政を行わず、結果的に祖先から引き継いだ王朝を滅ぼしたという点で、孝も果たせていない。
>ところが、日本は忠孝がしっかりしているので、万世一系が保たれているというのである。
そうですね。我が国では日本語文法の階称により上下関係が定まっていますね。
>このような忠孝の四角形が崩れず、万世一系が保たれていることを、教育勅語は「国体の精華」と呼ぶ。
そうですね。国体の成果は日本語文法の成果でしょうね。
>つまり、日本の国柄のもっともすばらしい部分ということだ。
>そして教育を行うにあたっても、この「国体の精華」にもとづかなければならないという。
上下の個人判断を認めない社会ですね。素晴らしいようでもあり情けないようでもありますね。
>君臣関係をないがしろにする「不敬」
>以上を踏まえて、教育勅語の内容をみてみよう。
>教育勅語は、3つの部分からなっている。
>まずは最初の部分を左に引く。
>朕(ちん)惟(おもふ)に、我が皇祖皇宗、国を肇(はじ)むること宏遠に、徳を樹つること深厚なり。
>我が臣民、克(よ)く忠に、克く孝に、億兆心を一にして世世厥(そ)の美を済(な)せるは、此れ我が国体の精華にして教育の淵源(えんげん)亦実に此に存す。
>やっぱりむずかしいと思うかもしれないが、「朕惟ふに」以下をつぎのように整理してみよう。
>(1)我が皇祖皇宗
>国を肇むること宏遠に
>徳を樹つること深厚なり
>(2)我が臣民
>克く忠に
>克く孝に
>「我が皇祖皇宗」とは天皇の祖先たちであり、それに対応する「我が臣民」もここで過去の臣民たちを意味する。
>教育勅語はこのように、君臣が相互に対応するかたちで構成されている。
>したがってここの意味は、つぎのようになる。
>天皇の祖先たちは、広く遠く国をはじめ、深く厚く徳を立てた。
>過去の臣民たちは、忠に励み、孝をつくした──。
>前者がやや抽象的でわかりにくいが、その含意するところはあとではっきりする。
>なお、文がいったん「深厚なり」で切れているが、井上毅の原案では一文だった。
>たんに長すぎて途中で切られたにすぎない。
>そしてそのあとはこうつづく。
>天皇の祖先たちも、過去の臣民たちも、心をひとつにして(億兆心を一にして)、いつの時代も立派な振る舞いをしてきた。
日本人は日本語の文法通りに言動したということですね。
>これぞ、日本の国柄のもっともすばらしい部分(国体の精華)であって、教育を行うにあたっても、ここを根本に据えなければならない。
>まさに、さきほど説明したとおりの内容だろう。
>ちなみに「国体」とは、天皇を中心にいただく日本独自の国のありかたをさす。
>重要なワードなので、以後は現代語訳せず、国体と記すこととする。
国体とは序列国家の事ですね。
>このようにみると、さきの国民道徳協会訳文がいかに原文を踏まえていないかがわかる。
>訳者の佐々木は、戦後の日本人にわかりやすくしようとするあまり、君臣の別をないがしろにしてしまっているからだ。
>「臣民」が「国民」と訳されているだけではない。
>「皇祖皇宗」は「私たちの祖先」と訳され、臣民の祖先と区別がついていない。
>現代風にしようとするあまり、教育勅語の根底にある君臣関係を破壊している。
そうですね。
>戦前ならば、不敬罪に問われかねなかったのではないか。
日本語の文法には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。だから難関出身者たちが社会で幅を利かせている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していないことを知っている必要がある。 順位の比較は没個性的でなくてはならない。だから、序列競争の励みは個性の育成にはならない。
日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。ため口を禁じられているので、相手と対等な立場でものをいう事ができない。人間が真に平等であるという実感を体験したことがない。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。
日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬と序列作法には浅薄さが付きまとう。
日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在をウチソト意識として確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことに懸命になる。そして、定刻通りに帰宅しないなど義理の仕事にやりがいを感じている。無哲学と序列メンタリティの相乗作用により派閥政治は無くならない。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。だが叙勲の獲得は難しい。