日本人には意思がない。
意思は未来時制の文章内容で、日本語には時制がない。
だから、日本人には自律意思がない。
優柔不断・意志薄弱に見える。
意思があれば、加害者意識 (罪の意識) も湧いてくる。
意思がなければ、加害者意識は強くない。アニマルのようなものか。
だが、被害者意識だけはある。謝罪がなければ恨みを生ずる。これが、実に恨めしい。
罪の意識がなければ、謝罪もない。謝罪があれば、それは自虐となる。
恨みを避けるために我々は供養をする。
英語には時制がある。
時制のある文章内容は、非現実である。
だから、文章の内容も個人個人で違っている。個人主義を認めることになる。
主体的思考が可能になる。民主政治も衆愚政治に陥ることなく行われる可能性がでてくる。
意思の違いがなければ、個人の違いも認めがたい。
意思の内容を表明する個人もいなければ、それを個人に求める者もいない。
だから、集団の中に意思の存在を示す指導者が育たない。だが、序列制度の親分は育つ。
意思のない親分には責任がない。とかく、この世は無責任。
意思のある所に方法はある。(Where there's a will, there's a way).
意思のないところには方法がない。だから、親分は、無為無策でいる。
恣意 (私意・わがまま・身勝手) はあるのだが、恣意にはリーズン (理性・理由・適当) がない。だから、リーズナブルな説明責任を期待することはできない。
恣意により、自ら望むことなく危機に陥る民族である。
・> 「丸山は国家の方向が国民の自律意志に基づいて決定されるべきだという考えを持っていた。国民の判断と主体的思考を基礎に、時間がかかっても民主主義を実現させなければいけないということだ。これが丸山の『永久革命論』だ。彼は徹底的に合理主義的な知識を基盤とする近代主義者だ。彼の哲学には、他のアジアの国々の固有の民族主義を害する行為を日本がしてはいけないという内容もある。敗戦後の日本の混乱した状況で、彼の主張は当時の日本社会で大きな反響を起こした」
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