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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

比較の問題 1/2

2019-10-13 05:02:47 | 教育

>今年春の4年制大学進学率(18歳人口ベース、浪人込み)は53.7%と報告されている。 >この世代の半分が大学に行くことの数値的な表現だ。 >これは世界有数の高さで、日本が教育大国と言われるゆえんでもある。

そうですね。しかし、残念なことに、わが国においては教育が人間序列形成の手段に使われていますね。これは、序列人間の性によるものでしょうね。

> 大学の上には大学院が置かれる。 >目的は「学術の理論及び応用を教授研究し、その深奥をきわめ、又は高度の専門性が求められる職業を担うための深い学識及び卓越した能力を培い、文化の進展に寄与すること」だ(学校教育法第99条)。 >研究者だけでなく、高度専門職業人の養成も担うとある。 

大学院は、我が国民の要望に応えて設立された教育機関でないでしょうね。

>そのため、能力ある優秀な若者の入学が期待されるが、日本の生徒の大学院進学志望率は低い。

日本人の能力は、序列争いのための能力ですからね。限りなく世俗的 (現実) であって、学問的 (非現実) ではありませんね。

>さらに、中学校2年生の4年制大学進学志望率は56%と高いが、大学院になると3%まで激減する。

一旦人間の序列が大学入試で定まれば、日本人としてそれ以上に望むことは何もありませんからね。これは、当然の結果でしょうね。

> 大学院とは何たるものかを知らないのかもしれないが、一番に大学院へ行っても恩恵はない、行き場がなくなることを早くして心得ているのかもしれない。

そうですね。わが国は、無哲学・能天気の人間の住むところですからね。学問をしたら行き場がなくなることは目に見えています。外国留学をして帰ってきたら就職先に困るようなものでしょう。

>この危機的教育の現場を通して子供たちは潜在的に感じているのだろう。

日本人は、何が危機であるのかも本質的なところを理解していないでしょうね。子供たちは、それを雰囲気として感じ取っているのでしょう。

>もう今の教育、学校は終わっている。

そうですね。終わりがあって、始まりがない。それが我々の本質的な問題でしょうね。
わが国は、序列判断の国である。世俗的な序列順位により判断をするので、心底満足のゆく価値観が教育機関から得られない。
何事も比較の問題である。だが、日本人には、非現実 (考え) の内容がない。だから、現実対現実の内容の比較オンリーになる。それで、終わりである。興奮して得意になっても、’それでどうした’ (So, what? ) という英米人の問いには答えが出ない。だから、結局人生は空しい。
この種の問いに答えるためには、非現実 (考え) の内容対現実の内容の比較が必要である。それのない比較は、浅はかでありつまらない。思慮深い相手を満足させることができない。


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個の自分

2019-10-12 12:01:11 | 文化

(略)
>  ちょっと話は広がるけれど、西洋文明とは「個の自分」を確立する歴史だったのではないかと、僕はかねがね思っている。 >だから、自分の意見をはっきり主張することが求められる。 >「個の自分」を確立しようとすれば、これが基本姿勢であり、なおかつとても重要なポイントなのだ。  

そうですね。

>  日本人は「はっきりものを言わない」「何を考えてるのか、わからない」と昔からよく言われる。 >それは日本が内面を「察する文化」だからだろうと僕は思うが、まぁ“言わぬが花”という姿勢は、西洋人には理解しにくい価値観かもしれない。

そうですね。全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
日本人には、考えがない。だから考えの内容を理解することはできない。
日本人には、考えでないものがある。だから、察しが幅を利かせている。

>  これには宗教観も大きく影響している。  ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、旧約聖書を経典とする一神教である。>その神とは、人知を超えた絶対的な存在であり、間違っても人間ではない。

その内容は世界観ですから、間違っても人間ではありませんね。

>ということは、崇拝する対象は自分の外側にあるのだ。

そうですね。’あるべき姿’ の内容は、自分の外側にありますね。

>  それに対して東洋の宗教はというと、たとえば日本の神道は森羅万象に神が宿ると考える。 >だから身近にいろいろな神様がいる。 >中国の道教もインドのヒンドゥー教も多神教である。>仏教は多神教とは言いがたい面もあるけれど、仏教における神、つまり仏は少なくとも世界の創造者でもなければ、支配者でもない。>僕は、これら東洋の神々は人間の内側に存在するのだと思う。

そうですね。’人間はみな仏’ なのかもしれませんね。

>  このような宗教観もあいまって、東洋では「個の自分」を確立しようとはしてこなかった。

そうですね。個の確立を願えば、小乗仏教の人になるでしょうね。

>ところが日本は、戦後、アメリカをはじめとする西洋の文化を取り入れるにつれて、いつしか彼らの追い求める「個の自分」も手に入れようとした。

そうですね。個の確立が我々の理想ですね。だが、日本人には意思がない。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思 (will) がない。
意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 意思の無い日本人は仕方がないので、無為無策でいる。それで、精神修養の必要性が語られる。

>個人主義、個人情報といった個の権利主張のみならず、電話もテレビもエアコンも、時代はパーソナルに向かっている。

現実の内容は、頭の外にある。それは見ることができる。見ればわかる。考える必要はない。楽ちんである。
非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。それは見ることができない。ただの話である。話の筋を理解するためには、その文章内容を理解しなくてはならない。これは、骨の折れる作業である。だから、日本人は通常、理解というものを避けている。その代わりに、忖度 (推察) を利用する。だが、忖度は、理解とは似て非なるものである。忖度は、聞き手の勝手な解釈であって、現実直視になっていない。いうなれば、空想・妄想の類である。’現実直視になっていない’ ことを批判すると、当人は、’だって、本当にそう思っていたのだから仕方がないではないか’ と抗弁して譲らない。だから、いつまでも現実直視ができないでいる。お陰様で、わが国は、漫画アニメの大国になりました。  

>  もちろんそれらの全部が悪いと言いたいのではない。 >でも、「個の自分」を確立しようとすればするほど、自然からはどんどん遠ざかっているようにしか僕には思えない。

そうですね。わが国においては依然として、人もアニマルの如くに自然の中に溶け込んでいますね。

>人間も自然の一部だとすれば、それはやはり“不自然”なことではないだろうか。

そうですね。不自然ですね。それが日本人の結論です。日本人には、意思がない。意思がなければ、責任もない。日本人に災害の責任を問えば、それは牛馬の苦しみになる。とかく、この世は無責任。
肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。
徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)

(略) 


考えないこと

2019-10-07 11:35:36 | 教育

> にほんブログ村 子育てブログへ  >以下(https://bllackz.com/?p=118)より引用します。
>—————————–
>■「よけいなことを考えるな」というメッセージ
> サラリーマンは考えることよりも、考えないことが求められる職業である。

そうかもしれませんね。

>何をどうするかという部分についても「考えさせない」ために、企業は「マニュアル」を用意している。

マニュアルは、マニュアル人間のための聖書ですね。

>マニュアルというのは、実は人間を「考えさせない」ためのものであることに気づかなければならない。

そうですね。日本人のための作法のようなものですね。

>マニュアルは効率化とサービスの均質化を生み出すので企業にとっては好都合な存在だ。

そうですね。ご唱和の世界の道具立てですね。

>しかし、逆に考えると、それを行う人間には「この通りにやれ」という強制になる。

そうですね。自分勝手な言動は許されませんね。その代わり、その実行には責任が伴わない。

>誰もが同じ手順でやるように強制し、一切の例外を認めさせない。 >マニュアルは、「よけいなことを考えるな」というメッセージなのである。

そうですね。製品・サービスに個人的なばらつきは歓迎されませんからね。

>サラリーマンが考えていいのは、会社が「考えろ」と強制した部分だけだ。 >それ以外の部分は「考えないこと」が期待されている。

そうですね。

>それもそうだ。 >考えるというのは、自分の意見を持つということだ。 >考えて自分の意見を押し通すというのは、集団よりも個人を優先するということなのだ。

そうですね。個人主義ですね。わが国の社会では、敬遠されがちの主義主張ですね。

>サラリーマン全員が、自分の好き勝手にあれこれ考え始めると、統制が付かなくなる。

それは、ノンマニュアル組の人間のすることでしょうね。責任者が責任をもって事に当たるのが正当ですね。

>だから、あれこれ「考えない」で、言われたことだけを完璧に実行するロボットのような人間を企業は欲しがり、学校はそれを意識的にも無意識的にも読み取って、そのようになるように子供を矯正していく。

そうですね。考えない教育は、日本人の特性に適合していますね。

>学校に課せられた使命は、「上司の言うことをよく聞いて、口答えせず、言われたことを忠実に行い、不満があっても黙々と働き、集団生活を優先する」人間を作り出すことなのだ。 >そして、国民の8割が学校を卒業してサラリーマンになるのだから、その教育は成功していると言うことができる。

そういう事になりますね。お陰様で、技術立国となり経済大国になった。

>■日本の教育では「考えさせない」ことが使命
>ところで、人間はいろいろ物を覚えさせれば自然に「考える」人間になってしまう。

そうですね。しかし、考えることは、難しい。

>しかし、日本の教育では「考えさせない」ことが使命としてある。

考えない事なら、日本人にもできる。

>教育の現場では、どうやって子供たちを考えさせないようにしているのだろうか。 >それには、次の5つによって、成し遂げられている。
> (1)暗記を押し付けて「考えさせない」

暗記は、現実の内容である。考えは、非現実の内容である。現実の内容は、日本人の頭の中にもよく入る。非現実の内容の想定は難しい。その理由は、非現実の内容を盛り込む枠組みが日本語には存在しない。

> (2)苦手を押し付けて「考えさせない」

苦手の事柄に関しては、個人的な発想が滞りがちですね。

> (3)制服を押し付けて「考えさせない」

制服は、没個性の表われですね。

> (4)規則を押し付けて「考えさせない」

規則の内容は、現実 (既成事実) である。考えの内容は、非現実である。現実の内容は、’本当’ のことである。非現実 (考え) の内容は、’嘘’ である。だから、考えの内容は、日本人の想定外になりがちである。

> (5)団体行動を押し付けて「考えさせない」

団体行動中では、他への追従を余儀なくされますね。

(略)
>日本の学校は、考えない人間を5つの方法で生み出していると言っても過言ではない。

そういう事になりますね。

>あなたは考えているだろうか? 

私には、少々考えがあります。

>あなたの受けた教育は、社畜になるための教育だったのだから、「自分を取り戻す」ためには、学校で覚えたことはすべて忘れる必要がある。

そうですね。受験テクニックは全て忘れました。

>ただ、サラリーマンで居続けたい人間だけは、考えてはいけない。 > 下手に考えると、社会からはぐれてしまうからだ。

そうですね。’生養生は、怪我のもと’ ですからね。

>—————————————
>従順なサラリーマンになるため16年間も思考停止の訓練を続けてきた。 >企業がそういう人材を求めていた時代ならそれも意味があったかもしれません。 >しかし時代は大きく変わり、自ら考え、追求できる人材がいなければ企業も存続していけません。

そうですね。

>学校教育の現実を知るとともに、これからの学校をどう変えていくか? >小学校から大学まで、その在り方を根本ヵら考え直す時なのだと思います。

そうですね。現在の学校は、日本人の特性を生かした教育をしていますね。その在り方を根本から考え直すと、日本語を根本から考えることになるのではないでしょうか。


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覚える・考える

2019-10-07 04:05:42 | 教育

> にほんブログ村 子育てブログへ  >以下(https://bllackz.com/?p=118)より引用します。
>—————————–
>多くの日本人は勘違いしているのだが、物を覚えるというのと、考えることができるというのは別のものだ。

そうですね。

>・覚える。 >・考える。 >この2つは似ているようで、まったく違う。

そうですね。

>覚えるというのは、世の中の原理原則を覚え、歴史を覚え、仕組みなどを記憶するというものだ。 >しかし、「覚える」というのは単なる基本であり、本来はそこからさらに飛躍しなければならない。>それが「考える」というものだ。

そうですね。

>学校が物を覚えさせる場所であるというのは誰でも知っている。 >しかし、考えさせているのだろうか。

学校は、考えさせてはいないでしょうね。

>日本の教育は、構造的に「覚えさせても、考えさせない」という教育になっている。

そうですね。

>覚えさせても、考えさせないのである。

そうですね。

>「考える」という部分を軽視している。

考えるのは、難しいですからね。都合により省略しているのでしょう。

>なぜか。それは、学校が何のためにあるのかを考えれば理解できるかもしれない。 >学校とは、社会で通用する人間を作り出すところだからだ。

それは、そうですね。

>日本で「社会に通用する」というのは、サラリーマンになれるということでもある。

そうですね。それが、一番簡便な方法ですね。

>■教育とは子供を規格化するという側面がある
>学校は最終的に子供を社会で通用する人間に「矯正」する場所である。>子供を規格化するのだ。

そういう事になりそうですね。

>日本では国民の8割がサラリーマンであることを考えると、日本の学校で重要な使命は日本人がサラリーマンとして通用するように規格化するのが使命と言うことになる。

学校を出たら就職ですね。

>ここに問題がある。
>サラリーマンとは、「上司の言うことをよく聞いて、口答えせず、言われたことを忠実に行い、不満があっても黙々と働き、集団生活を優先する」ということができる人間でなければならない。

自分の頭で考えるのは、難しいことですからね。

>だから、日本の教育はその現状に沿って、そういった人間を作り出す仕組みになっているのである。

わが国の現状は、日本語の性質にも関係しているでしょうね。

>上記の特徴を、もう一度よく考えてみて欲しい。 >あることに気づかないだろうか。 >「上司の言うことをよく聞く」とは、自分の意見を持たないで指示待ちの人間になるということである。

そうですね。日本人には意思がない。だから、受動ばかりで能動がない。指示待ち人間になる。
意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制というものがない。だから、日本人の脳裏には未来時制は無く、日本人には意思がない。

>つまり、自分で「考えない」ことが重要だ。

そうですね。つまり、無哲学・能天気だということですね。

>「口答えしない」と言うのも、自分の意見を殺して会社の意向を無条件で重視するというものだ。

そうですね。上意下達の励行ですね。

>つまり、自分で「考えない」ことが重要だ。

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
非現実・考えの内容は、時制のある文章になる。しかし、日本語の文法には、時制というものがない。だから、自己の考えを文章にすることは難しい。自分で考えないことは、楽ちんでもある。

>「言われたことを忠実に行う」というのも、ロボットのようになるということであり、それはすなわち自分で「考えない」ことが求められている。

そうですね。自分で考えない人には、作法の励行が便利ですね。

>「不満があっても黙々と働く」という奴隷のような状態も同じで、「考えないようにする」ことで達成できる。

奴隷には、自由というものがない。自由は、意思の自由のことである。しかし、日本人には、意思がない。だから、自由にも意味がない。
日本人には、意思はないが恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。恣意は、バラバラな単語 (小言・片言・独り言) のままで存在するので、文章にならない。だから、意味も無い。議論にもならない。
意思 (will) の自由は認められても、恣意 (self-will) の自由は認められていない。恣意の自由は ‘自由のはき違え’ と称されて、社会的に受け入れられない。だから、わが国においては、いまもなお ‘不自由を常と思えば不足なし’ となっている。

>「集団生活を優先する」というのも、結局は自分の意見や考えよりも会社集団を尊重するということであるから、「考えない」ことで達成できるのだ。

そうですね。’個人の考えは通らない’ が通り相場となっています。考えは、人によりまちまちです。日本語には時制がないから、個人の意見の内容を識別することが難しい。だから、人々は、個性のある考えの内容に興味を持たず、没個性の社会になっている。個性の存在を認めなければ、優れた個人の選出もない。


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教育虐待

2019-10-05 03:48:30 | 教育

>■教育虐待の背景にある学歴主義と正解主義
> 「教育虐待」の定義は、一般的には「子どもの受容限度を超えて勉強をさせること」となります。>近年、メディア等で教育虐待という言葉を見聞きすることも増えてきましたし、たしかに児童虐待全体の通報件数でいえばかつてとは比較にならないほど増えていますが、それをもって教育虐待が増えているとはいい切れません。

教育虐待・児童虐待は、校内暴力・家庭内暴力にもつながりますね。

>ただ、わたしの感覚としては、「裾野が広がってきている」と感じています。>かつてのようなごく一部のものすごく教育熱心ないわゆる教育ママだけではなく、程度のちがいこそあっても以前より多くの親が教育虐待をしている、あるいはそれに近いことをしているのが現状ではないでしょうか。

そうでしょうね。多くの親には反省が必要ですね。

>そのことには、いまの親世代が受けてきた日本の教育の影響が大きいように思います。>明治以降にはじまった日本の近代教育は、全国津々浦々どこにいても平等に教育を受けられて、努力をした人が評価され出世していくという「公平さ」に重きを置いたものです。

そうですね。身分制度の打破ですね。身分の低い野良犬のクロでも、軍隊で出世できるようになりました。漫画の ‘ノラクロ’ には、人気がありました。

>だからこそ、テストの内容も公平でなければならない。

そうですね。同次元の下での序列争いですね。異次元の競争は、無視されてきました。

>そして、公平なテストにするために、試験に出る内容とその答えがあらかじめ授業で与えられ、それをいかに吸収してテストで再現できるかという能力を競うようになりました。

暗記の種本は、全員に共有されなくてはなりませんね。

>そうして、日本の教育や社会において学歴主義、そして正解主義というものが幅を利かすようになっていったのです。

学歴主義は序列制度です。新しい形の身分制度ですね。それは、生まれの違いによらず、成績の違いに基づいている。
正解主義は現実主義です。現実の内容は、唯一つある、それは、見ることができる。見ればわかる。だから、誰にでもできる。考える必要がない。楽ちんである。
もしも、現実の内容が人より違っているならば、それは事実関係調べをして、一つにしなくてはならない。
非現実 (考え ) の内容は、頭の中にある。それは、見ることができない。ただの話である。話の内容を知るには、その文章内容を理解しなければならない。これは、骨の折れる仕事である。全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
矛盾を含んでいない文章は、全て正しい考えを示している。考えの内容は、人それぞれに違っている。だから、正解は、一つではない。幾らでもある。その内容は、個性的である。
矛盾を含んでいる文章も、その矛盾を除去すれば、正しい考えになる。矛盾の除去には対話・議論が役に立つ。だから、言論を盛んにしなくてはならない。

>そうすると、まずは学歴主義の影響として、偏差値が少しでも高い学校に子どもを行かせたいと親は思うようになる。

日本語には、階称 (言葉遣い) というもがある。だから、’上と見るか・下と見るか’ の世俗的な上下判断ができないと、日本語の日常会話にも支障をきたします。その上、日本人の礼儀作法は序列作法になっているので、世俗の上下判断が正しくない人は、礼儀正しい日本人にもなれません。人を見損なってはいけないという想いが高じて、強迫観念の域にまで達しています。ですから、肩の凝る社会になっています。人々は、’頑張って’ 、‘お疲れ様’ などと常に声を掛け合っています。だから、日本人は、序列の存在を知れば、それが価値あるものだと盲信します。

>それから、親自身も正解主義のなかで育ちましたから、子どもにどんな教育をすれば偏差値が高い学校に進学させられるのかと考え、教育に正解を求めるようになった。

現実の内容には、正解は一つしかない。考え (非現実) の内容には、正解はいくらでもある。

>家庭教育にも正解主義をあてはめはじめたわけです。

現実しか知らない人には、考え (非現実) がない。現実しか知らない人は、軽薄な人である。考え (非現実) のある人は、思慮深い人である。
‘(略) しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’ (フランク・ギブニー)

>ただ、「この教育が正しいんじゃないか、あれが正しいんじゃないか」と親が迷っているうちは教育虐待につながることはそうないと思います。>でも、そんなふうに迷っていた親が、あるひとつの家庭教育の手法に対して「これが絶対に正しいんだ!」と思い込み、迷いなく子どもに押しつけはじめると非常に危険です。>その思い込みによって子どもの顔が見えなくなり、気づいたときには子どもが壊れている……ということになりかねません。

そうですね。日本人には、目覚めの時が必要ですね。



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