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土田淳真氏  

2025-02-05 06:32:21 | 文化

>ダイヤモンド・オンライン   >「東大合格者数」に踊らされる人が知らない「本当に重要な数字」   >土田淳真によるストーリー・   >23時間・   

>三田紀房の受験マンガ『ドラゴン桜2』を題材に、現役東大生(文科二類)の土田淳真が教育と受験の今を読み解く連載「ドラゴン桜2で学ぶホンネの教育論」。   

>第25回は「東大合格者数」について考える。   

>「合格者数」と「合格率」は異なる   

> 進学実績の低迷に直面する龍山高校では、学校の改革案が議論されている。   

>実権を握る理事長代行・龍野久美子は「国際社会で活躍できる独創性豊かな人材の育成」という理念を掲げるが、桜木建二はこれを一蹴し、難関大学への合格実績のみが全てだと訴えた。   

 

独創性豊かな人材は個性的ですね。個性豊かな人は我が道を行くから難関がない。  

難関大学の合格者は没個性的ですね。個性的な競争であっては不公平だからである。  

没個性的な順位の競争は参入が容易なため序列競いが激しくなるので難関となる。そして個性的な人間は出て来ない。   

 

> つい先日、共通テストが終わったかと思ったら、2月からは首都圏の中学受験が本格化している。   

>今年も受験シーズンがやってきた。   

>「個性を伸ばす教育を」などという文句がうたわれながらも、桜木のセリフの通り毎年の東大合格者数ランキングに注目してしまう人は多いだろう。   

 

個性と没個性は二律背反ですね。   

我が国の教育者は、個性を取るか’ ‘没個性を取るかをはっきりさせた方が良いですね。そうすれば、無駄な争いがなくなります。  

 

>とはいえ、かく言う私も例外ではない。   

> 難関大学への進学実績は、中学受験や高校受験を考える生徒・保護者にとっては一つの大きな基準になる。   

>もちろん、東大合格者数がその学校の実力をある程度反映しているのは間違いない。   

> しかし、発表された数値を額面通り受け取るのは少々危険だ。   

>初歩的な話で恐縮だが、合格者数と合格率は違う。   

> 例えば2024年の東大現役合格実績を見ると、開成高校は117人、聖光学院高校は86人だ。   

>一見すると開成の方が多くの合格者を輩出しているように思える。   

> しかし、合格率で比較すると、聖光学院が開成を上回る。   

>とはいえ、受験する科類によっては合格者数も変化するため、どちらの方が合格実績がいいのかというのは比較しづらい。   

> また、浪人率に関しても触れておかねばならない。   

>都立最難関・日比谷高校では東大合格者に占める現役生の割合は87%であるのに対し、私立の男子御三家の一角・麻布高校では69%である。   

>私の出身校ではなんと東大合格者の約半分が浪人だ。   

 

浪人衆は没個性的ですね。彼らはわが国の期待される人間像に成れるのかしら。   

 

日本語の文法には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。だから難関出身者たちが社会で幅を利かせている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していないことを知っている必要がある。 順位の比較は没個性的でなくてはならない。だから、序列競争の励みは個性の育成にはならない。     

 

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。ため口を禁じられているので、相手と対等な立場でものをいう事ができない。人間が真に平等であるという実感を体験したことがない。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。   

 

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬と序列作法には浅薄さが付きまとう。   

 

日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在をウチソト意識として確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことに懸命になる。そして、定刻通りに帰宅しないなど義理の仕事にやりがいを感じている。無哲学と序列メンタリティの相乗作用により派閥政治は無くならない。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。だが叙勲の獲得は難しい。   

 

 

 

 

 



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