サッカー狂映画監督 中村和彦のブログ

電動車椅子サッカーのドキュメンタリー映画「蹴る」が6年半の撮影期間を経て完成。現在、全国で公開中。

佐村河内氏は、聞こえる、聞こえない、聞き取りにくい、聞こえにくい、…。

2014年03月10日 | 手話・聴覚障害

 「聞こえにくい」「聞こえない」だけでは言葉が足りない。
 「聞こえる」と「聞こえない」の間には様々な「聞こえにくい」がある。
 「聞き取りにくい」「聞こえにくい」「より聞こえにくい」「さらに聞こえにくい」…。


 2つ前の記事「聞こえにくい人である佐村河内守氏と手話~記者会見より」を読んでいただいた耳鼻科医の先生から、ご指摘をいただいた。
まず一つ目は、語音明瞭度が71%の佐村河内氏の右耳では90%以上の言葉が理解できる、つまりほとんど理解できるのではないか。
周囲の音がうるさい場合は別として、聞こえる音量で右耳に言葉が入ってきた場合、不明瞭な29%は、その前後の聴き取れた音から類推して90%くらいは理解できるだろうということだ。先日の記事を書いた時点では会見の最後の30分ほどは活字でしか見れていなかったのだが、確かに会見の最後の方は手話通訳を見ないで「言葉を理解している」ことも多かった。ただどこかしらとんちんかんなやりとりにも見え、完全には言葉が入っていないようにも見えた。
 自分としては60~80%くらいの理解で足りない部分を手話通訳で補っているのではないかと考えていた。本来は不明瞭な部分は補聴器を付けて補うのであるだろうが、佐村河内氏は補聴器を選択しなかった。両耳全ろうと主張していた時代のスタイルを崩したくなかったのだろうが、マイクを通じた声を補聴器で聞くと聞き取りにくいという当事者の声もある。

90%くらい(ほとんど)わかるという議論に戻る。例えば感度の悪いラジオを聞き、70%がわかればだいたいわかるという論理である。おそらくそうなのであろう。外国語の70%を聞いても他を補うのは難しいかもしれないが、母語の日本語であればかなり類推できるというわけだ。佐村河内氏の母語(第一言語)は日本語である。しかしキーになる単語を聞きもらしたりした場合は、とんちんかんな解釈になってしまうことなどはあると思う。そういった時は通常は聞き返せばすむことなのだろうが、佐村河内氏の場合は手話通訳が補っているのではないだろうか。例えばわからない時だけ見たり。狭い空間であれば手話通訳がむしろいない方が楽で、ほとんと見ているふりということもあるのかもしれないが、質問者によって音量や滑舌もかなり違うということを考えると、聴覚だけで情報を得て、全く手話は見ているふりだけとは思えないのだ。それとも私の誤解なのだろうか。
しかし、佐村河内氏の聴力レベルの難聴者で手話通訳をつける例はほとんどないだろう。通常は補聴器装用による聴覚活用の方が、手話を覚えるよりはるかに簡単だからだ。
ところが佐村河内氏は手話通訳を選んだ。佐村河内氏にとって手話とは手話通訳とは、両耳全ろうの作曲家を演じる上で必要不可欠であったのだろう。完璧に両耳全ろうの作曲家を演じ切るために佐村河内氏は熱心に手話を学んだのかもしれない。俳優が演じる上で外国語や方言を懸命に覚えたのと同じような意味において。
両耳全ろうの作曲家を演じるために、黒い衣装と長髪、杖などが必要であったように手話も必要だったのかもしれない。動機は極めて不純だが手話を学ぶということに関しては真摯に臨んだのかもしれない。あくまでも想像である。あるいは耳鳴りに苦しみ、聴力低下におびえ、本当に手話を必要としたのだろうか。

もし両耳全ろうで手話通訳を介在しないとすれば、相手に筆談をお願いすることになる。ある程度聞こえる(聞き取りにくい?耳が遠い?)彼とすればかったるいことこの上なかったのかもしれない。何よりも絵にならない。
手話を多少(?)は身に付けた佐村河内氏は必要もないのに手話通訳がいた場面もあったであろう。例えば補聴器も付けている、環境も静か。しかしいくら長髪とはいえ手話通訳者と会うときは補聴器を外していたのかもしれない。補聴器装用の有無について、手話通訳者は極めて敏感だからだ。そう考えると補聴器の無い状態で。うるさい場所で打ち合わせしなくてはならない時などは便利だと感じたこともあったかもしれない。必要の無い時は手話の読み取りのいい勉強にもなったことだろう。

おそらく分からない時は聞き返したり、質問する方も配慮したりすれば、聴覚活用だけでも成立した会見だったのだろうが、手話が何割かを補足した、そうなのではないかと私は思っている。例えば日本語としてわかりにくく何を言おうとしているのかよくわからない質問の時などは、手話通訳が要約して表出してくれてとても助かったということもあったかもしれない。あるいはタイムラグを利用して考える時間にあてたり、目を合わせたくない質問者の顔を見ずにすんだという(佐村河内氏にとっての)効用もあったのかもしれない。


佐村河内氏の聴力レベルの人と、高度難聴の人とを、同列に扱うべきではないというご指摘も受けた。
そんな気はなかったが、言葉が足りない、あるいは説明不足の点があったのだろう。
自分としては。聞こえる人(聴者)との違いを強調したいがために、まるで高度難聴のような論じ方になってしまった面があったかもしれない。

 「聞こえにくい」「聞こえない」だけでは難聴を示す言葉が足りないような気がする。
「聞こえる」と「聞こえない」の間には様々な「聞こえにくい」がある。
中程度の難聴である佐村河内氏に「聞こえにくい」という言葉を使ってしまうと、より聞こえにくい人々をなんと呼べばいいのか。
「より聞こえにくい」「さらに聞こえにくい」「もっともっと聞こえにくい」…。
 佐村河内氏レベルだと「聞き取りにくい」「耳が遠い」という表現の方が当てはまるのだろうか。
 ただ、「聞こえる」という言葉を当てはめると、とても違和感を感じてしまう。
仮に、医学的には「ほとんど言葉は理解できる」という現象を「聞こえる」と呼ぶのだとしても(実際はよくわかりません)、 世間一般あるいはマスコミが「聞こえる」という言葉を使うときには意味が変容し「聞こえる人と同じ」というニュアンスを感じてしまい、 とてもとても拒否反応がある。 具体的には、TVで耳鼻科医が言う「聞こえる」とニュースキャスターなどが言う「聞こえる」の意味が何か違うような気がするのだ。あくまで私の感覚的な問題である。
情報としての言葉が耳から入ったとしても、50デシベルの難聴と13デシベルの聞こえる人(聴者)は違うだろう。
「聞こえる」という言葉を使ってしまったら、その差異が見えなくなってしまうのではないか。そんな気がしてならない。
13デシベルとは以前検査してもらった私の聴力レベルだ。

佐村河内氏はとんでもない大嘘つきだったわけだが、50デシベルの難聴者でもある。
「50デシベルなんて聞こえるんじゃないの?手帳ももらえないんでしょ。聴覚障害じゃないんでしょ」と単純に片づけられたたら大変困った状況になってしまう。
もちろん高度難聴とは違う「聞こえにくさ」なのだろうが、確実に日常生活で困る局面はあるわけだから。
それどころか、多くの聞こえない聞こえにくい人たちが、「聞こえてるんでしょ?」と言われて困った状況が既に発生しているようだ。例えば後ろから声をかけれられて振り向く。本当は声は聞こえず、振動や人の気配で振り返っただけなのに誤解されたり。

「聴覚障害2級」「感応性難聴」「…」こういった言葉がこれほど頻繁に、TVの地上波や新聞・雑誌、お茶の間に登場することはなかっただろう。であるならば、これを機に理解が深まることはあっても、誤解と偏見が広がるということになってはならない。
この間、佐村河内氏の一件を繰り返し書き込んでいるが、これは聞こえない聞こえにくいというということに関して少しでも正確な情報を発信したいという思いからだ
とはいえ、私自身、映画「アイ・コンタクト」を作るまでは、聞こえない聞こえにくい世界に関して、全くの無知だった。
少々脱線してしまうが。映画「アイ・コンタクト」は、ろう者によるろう者のオリンピックであるデフリンピックに出場した“ろう者サッカー女子日本代表”を追ったドキュメンタリー映画である。
映画を作るために、聞こえない世界のことや手話を学んだのだが、もっとも感じた点は、聞こえない聞こえにくいといっても実に様々だということだ。聞こえのレベルだけで言っても、全く聞こえない人から補聴器装用でかなり聞こえる人まで幅広いし、しゃべれるけど聞こえない(聞こえにくい)存在にも驚いた。手話に関しても、物心ついた時から手話を使っていた人から、大人になってから学び始めた人までいて何が何だかわからなかった。とにかく一言では言い表せないということを痛感し、映画ではその多様性こそを表現しようとした。

前述したデフリンピックの出場資格は、聴力レベルが55デシベル以上である。佐村河内氏に出場資格はないが、聴力レベル的にはかなり近い。日本において聴覚障害者と認定され手帳を取得し福祉サービスを受けることが出来るのは70デシベル以上だが、WHO(国際保健機関)では、41デシベル以上が福祉サービスを享受出来るように推奨されており、アメリカでは佐村河内氏の聴力レベルでも日常生活に支障があれば様々な福祉サービスを受けることができるようだ。
これはあくまで想像だが、もしアメリカで、聴力50デシベルの人に向かってメディアが「聞こえている」と発言したら大変なことになるだろう。
日本であっても許されることではないと思う。
日本では佐村河内氏レベルの難聴の人は日常生活に困っていても福祉サービスを受けることができなかったようだが、30デシベル以上の人を対象に補聴器購入の助成事業がやっと始まったようである。

 

2つ前の記事のコメント欄でもご指摘があったが、会見での佐村河内氏と神山氏のやり取りの書き込みのなかで明らかな私の間違いがあった。
手話通訳者のTV映像があり確認した。

やり取りを再び書きおこしてみる。

神山氏「義手のバイオリニストの「みっくん」に対して、自分に謝るのか、あるいはバイオリンをやめるのかというメールをうっていますが、今考えれば笑止千万のメールなんですが、あれはどういう思いで、自分にどういう力があって一人の女の子の運命を左右しようとしたんでしょうか? またそれに対する謝罪の言葉をまだ聞けてないんですが」 

  この時点までに、謝罪という意味合いの何らかの手話表現があったのかと思っていたが、「一人の女の子の運命を左右」あたりまでの表出で、「謝罪」までは手話通訳は表現できていなかった。

佐村河内氏、神山氏のほうを向き、「どういうことですか、何を謝れと?」

   この間、手話通訳者が佐村河内氏を呼ぶ。

神山氏「(遮るように)まだ手話通訳終わっていませんよ。通訳終わってからのほうがいいんじゃないんですか」
   (会場笑い)
佐村河内氏「はっ? 僕は今、おっしゃったことに対して話しているわけです。何を僕がみくちゃんに謝る…」
神山氏「(遮るように)じゃもう、目と目を見てやりましょう。僕と口話をしてください。
佐村河内氏「あの、そういうふざけたことはやめてもらえませんか。科学的な検査がそこに出てるじゃないですか」
神山氏「聞こえるというね」
佐村河内氏「(憮然として)あの皆さん大変申し訳ありません。もう質問は結構です」
(その後、やりとりが続く)

 流れがわかった上で見返してみたが、神山氏の「まだ手話通訳終わっていませんよ。通訳終わってからのほうがいいんじゃないんですか」という言葉の後、笑う場面だろうか?という思いは変わらない。

 ただ、佐村河内氏の「はっ? 僕は今、おっしゃったことに対して話しているわけです。何を僕がみくちゃんに謝る…」という言葉を受けて、神山氏が「じゃもう、目と目を見てやりましょう。僕と口話をしてください。」とつい言ってしまった心情は理解できる。
この点は事実誤認のため。神山氏に大変失礼なことを書いてしまった。
ただ言うべきことではないと思う。
また50デシベルの難聴者のことを「聞こえる」と呼んでもいいのだろうかという思いは変わらない。
この点なども「高度難聴のように論じた」印象を与えてしまった部分なのかもしれないが、20デシベル以下の「聞こえる」と50デシベルの難聴の「聞こえる」は絶対に意味が違うと思う。

50デシベルの難聴の当事者の方々の考えは様々なのかもしれない。
ひょっとしたら「聞こえる」と言いたい方もいらっしゃるのかもしれない、「聞き取りにくい」と認識してほしい方もおられるのかもしれない。


極力間違いなどないように書き込んでいるつもりですが、不備な点があればご指摘ください。
また意見など、自由に書き込みください。

佐村河内氏の件は、一つずつ分けて考える必要があると思い、マスコミがあまり触れないであろう「聞こえ」に絞って書き込んできました。
今後、「障害と表現」「ドキュメンタリー」という観点からも書き込んでいきたいと思っています。