我ながらしつこいなあと思いますが、記者会見の際、佐村河内氏が手話通訳の手話を読み取れていたかについて書いてみたいと思います。
あくまで私の推論になります。
以前書いた記事と重なる部分もあります。
もう1週間前のことになりますが、佐村河内氏は記者会見の最後に手話表現をしました。
自ら進んで表現したわけではなく、手話が出来るかどうかの“証明”として要望があり、手話を“見せた”わけです。
お世辞にも、“上手い”とは言えない手話でした。
インターネットの書き込みなどを見ると、手話が初心者ㇾべルという意見も多いようですが、3年くらい勉強していてもあの程度の人はいます。逆に1年でも上手い人もいます。
ともかく佐村河内氏の総合的な手話力は、それほどではないと判断されたわけです。
普通に考えれば、手話の読み取り能力もそれほどでもないということになります。
まあ本当にそうでしょう。
表現と読み取りは連動している部分も多いからです。
そこで「佐村河内氏は、手話通訳を見るふりをしていただけなんじゃないの。手話通訳なんか必要なかったんじゃないの?」という疑念が起こるわけです。
しかしそれは一般論です。
佐村河内氏の場合は、特殊事例として考える必要があります。
まず一般論として聴力レベル50デシベルの人は手話通訳を使うことは、ほとんど(あまり)ないでしょう。
以前に記事にも書きましたが、新たに手話を覚えるより補聴器などで補うなど、聴覚を活用した方が楽だからです。
もちろんなかには手話を学ぼうという人もいるでしょう。また、手話通訳者、手話学習者、コーダ(親がろう者で自らは健聴者のことをコーダと呼ぶ)など、聴力が低下する以前に、ある程度手話を習得している者であれば、むしろ手話の方が楽だと思うかもしれません。
しかし手話通訳の派遣費用の問題もあります。
佐村河内氏の場合は、両耳全ろうを演じるために手話通訳をつけることにしたわけでしょうが、そのためには大前提として手話を覚えなくてはなりません。
そこで手話力が問われるということになるわけです。
ただ佐村河内氏の場合は、手話を使う局面が限定されます。
手話表現ですが、どんな時にやらなくてはならないのか。
対話する相手が、聞こえない、あるいはきわめて聞こえにくい人で、手話使用者であった場合、手話を使わなければなりません。
ではどんな場面が想定されるかといと、あまりそうった場面は想定されません。
そういった方々がコンサートに来る可能性は低いし、佐村河内氏は基本的にろう者との接点を避けていたようです。
それが故に、ろう者のなかでも、事件が発覚するまで佐村河内氏の存在を全く知らない人が多かったようです。
では他にどういった場面が想定されるかというと、コンサートに来た手話が出来る健聴者、もしくは音楽を楽しむことができる聴力レベルの難聴者、その両者が手話で佐村河内氏に話しかけられた時など、極めて限定された局面になります。
そういった場面は、質問や賞賛の声をあらかじめ想定し、答えの手話表現も練習したのだと思います。
つまりそういった極めて限定的な局面以外は手話表現する必要もなければ、機会もなかったのだと思います。
そういった機会を避けていた、とも言えますが。
また杖をついたり包帯をまくことで手話を使わなくてもいいようにカモフラージュもしていたのかもしれません。
ですから佐村河内氏の手話表現は、当然下手でしょうし、下手なんだろうなと以前から思っていました。
次に手話の読み取りについて考えていきます。
佐村河内氏の、一般的な意味での手話読み取り能力はそれほど高くないと思われます。
というより低いかもしれません。
手話表現が下手だということとも関連しているでしょうが、ろう者との接点が少なく、揉まれていないことも理由の一つです。
但し、そのことと手話通訳の手話が読み取れることとは、全く別の話です。
佐村河内氏氏は、自分向けに読み取りやすく表現してくれた手話を読み取りさえすればいいのです。
ざっくりと言えば、佐村河内氏は聴覚で情報を70%得て、足りない部分を手話で補っているということです。
もっと言えば、聞きもらした単語を手話で確認する、その程度なのかもしれません。
分からない時や一部疑問に思った時に手話通訳を見て補完する、それも充分手話通訳だと思います。
もちろん佐村河内氏は、50デシベルの難聴ですから、聴覚でほぼ意味を掴んで手話通訳が必用のない時もあるわけです。
むしろそういった場合の方が多かったかもしれません。
聞き取ることに集中している場合、手話が目に入ってこないのではないかというご指摘もありました。
記者会見時の佐村河内氏のことを考えると、もし聴覚に集中すれば、語音明瞭度が70%でも90%以上の意味を掴むことに問題はなかったかもしれません。そしてそうであれば手話はあまり目に入ってこなかったでしょう。
しかし彼の場合は、手話に目を向けなくてはいけないという意識の方が高かったと思われます。対外的に手話通訳が必要だと言い切っていますし、あくまで特殊事例です。
手話通訳を見て苦労することなく耳に入ってきた言葉もあるでしょうし、予想された“謝罪”や“謝れ”などといった言葉は耳から脳へ直で入っていったのかもしれません。
実際通訳者の手話は、手話学習者でもある佐村河内氏にとてもわかりやすい手話のように見えました。
通常手話通訳者は、相手の希望に合わせて(相手が)わかりやすい手話表現をします。
日本語の言語体系とは全く違った日本手話だったり、あるいは日本語に対応した日本語対応手話であったりするわけです。
日本語対応手話の場合は、極端な場合は、助詞にいたるまで手話で表現する場合もあります。そうなるととんでもない単語数になってしまうわけですが。
単純に2つに分けられるものではない面もありますし、様々な意見もありますので、ここではあまり深く掘り下げません。
通訳者は。利用者の手話、要望に合わせて、利用者にわかりやすいように通訳をするわけです。
しかし通訳者の力量で使い分けられない場合もありますし、もちろん不特定多数を相手に通訳をする場合は事情が違います。
では記者会見での手話通訳を具体的に見ていきます。
TVで手話通訳が映し出されたのはわずかだったので、2つの場面のみです。
まずは佐村河内氏と神山氏のやり取りの場面です。
神山氏の「義手のバイオリニストの「みっくん」に対して、自分に謝るのか、あるいはバイオリンをやめるのかというメールをうっていますが、今考えれば笑止千万のメールなんですが、あれはどういう思いで、自分にどういう力があって一人の女の子の運命を左右しようとしたんでしょうか? またそれに対する謝罪の言葉をまだ聞けてないんですが」という質門の「一人の女の子の運命を左右しようと」の部分の手話表現の映像がありました。
手話表現は、手話単語的には、1人、女の子、運命、左右、する、といった感じで、口形をしっかりつけた表現でした。
口形をつけるとは、声には出さずに「ひとりのおんなのこの、うんめいをさゆうしようと」といった口の形をするということです。
運命という手話単語をわからないことはあるかもしれませんが、基本的には、ろう者との交流がない手話学習者にもとてもわかりやすい手話表現です。
さらに別の場面
「佐村河内さんが生きていて一番輝いていたと思った瞬間と、一番人生のなかでどん底だなと思った瞬間、それはいったいどんな時、どういうことをしている時だったか教えてください」
という質問(質問というより誘導ですが)があり、「どん底だなと思った瞬間、それはいったいどんな時、どういうことをしている時だったか教えてください」にあたる部分の手話通訳が映し出されました。
手話単語的には、最低、思う、2つ(左手で2本指を出し右手の人差し指で交互に指し示す)、いつ?といったものでした。
その後も何か補足があった可能性がありますが、後半部分をまとめてくれて、手話学習者にもとてもわかりやすいものです。
口形もついています。
手話がわからない人にはわかりにくかったかもしれませんが、佐村河内氏の総合的な手話力でも充分読み取れる、そして聞き取りにくかった場合の確認には充分な手話表現なのではないかということです。
いろんな意味でいびつな形ではあるけれど、手話通訳が成立していたのではないかと思われます。
本来は、手話通訳無し補聴器無しで、マスコミに“配慮”を求めて記者会見をやってくれていれば、50デシベルの難聴である佐村河内氏の聞こえが一体どの程度の聞こえなのかはっきりしてよかったのでしょうが、佐村河内氏としては手話通訳の必要性は譲れなかったようです。そしてそのことは嘘とは言い切れないだろう。
実際手話通訳は、ある程度機能していただろうということです。
また記者会見での手話通訳者は、佐村河内氏が聴力レベル50デシベル程の難聴者であるとわかったうえでの通訳です。
以前にましてわかりやすい手話通訳を心掛けたのかもしれません。
手話通訳者がいつ佐村河内氏の聞こえのレベルを知ったのかは、わかりませんが。
この間、佐村河内氏の一件に対する意見をいろいろと聞きました。
まあ一言で言えば、大嘘つきのペテン師野郎でとんでもないということになります。
しかし多くの方が事実誤認している点も多いようです。
以前にも書きましたが、この件に関しては様々な問題が内包されているので一つ一つ分けて考える必要があると思っています。