サッカー狂映画監督 中村和彦のブログ

電動車椅子サッカーのドキュメンタリー映画「蹴る」が6年半の撮影期間を経て完成。現在、全国で公開中。

佐村河内氏は手話通訳の手話を読み取れていたか?

2014年03月14日 | 手話・聴覚障害

我ながらしつこいなあと思いますが、記者会見の際、佐村河内氏が手話通訳の手話を読み取れていたかについて書いてみたいと思います。
あくまで私の推論になります。
以前書いた記事と重なる部分もあります。

もう1週間前のことになりますが、佐村河内氏は記者会見の最後に手話表現をしました。
自ら進んで表現したわけではなく、手話が出来るかどうかの“証明”として要望があり、手話を“見せた”わけです。

お世辞にも、“上手い”とは言えない手話でした。
インターネットの書き込みなどを見ると、手話が初心者ㇾべルという意見も多いようですが、3年くらい勉強していてもあの程度の人はいます。逆に1年でも上手い人もいます。
ともかく佐村河内氏の総合的な手話力は、それほどではないと判断されたわけです。
普通に考えれば、手話の読み取り能力もそれほどでもないということになります。
まあ本当にそうでしょう。
表現と読み取りは連動している部分も多いからです。

そこで「佐村河内氏は、手話通訳を見るふりをしていただけなんじゃないの。手話通訳なんか必要なかったんじゃないの?」という疑念が起こるわけです。

しかしそれは一般論です。
佐村河内氏の場合は、特殊事例として考える必要があります。

まず一般論として聴力レベル50デシベルの人は手話通訳を使うことは、ほとんど(あまり)ないでしょう。
以前に記事にも書きましたが、新たに手話を覚えるより補聴器などで補うなど、聴覚を活用した方が楽だからです。
もちろんなかには手話を学ぼうという人もいるでしょう。また、手話通訳者、手話学習者、コーダ(親がろう者で自らは健聴者のことをコーダと呼ぶ)など、聴力が低下する以前に、ある程度手話を習得している者であれば、むしろ手話の方が楽だと思うかもしれません。
しかし手話通訳の派遣費用の問題もあります。
佐村河内氏の場合は、両耳全ろうを演じるために手話通訳をつけることにしたわけでしょうが、そのためには大前提として手話を覚えなくてはなりません。
そこで手話力が問われるということになるわけです。

ただ佐村河内氏の場合は、手話を使う局面が限定されます。
手話表現ですが、どんな時にやらなくてはならないのか。
対話する相手が、聞こえない、あるいはきわめて聞こえにくい人で、手話使用者であった場合、手話を使わなければなりません。
ではどんな場面が想定されるかといと、あまりそうった場面は想定されません。
そういった方々がコンサートに来る可能性は低いし、佐村河内氏は基本的にろう者との接点を避けていたようです。
それが故に、ろう者のなかでも、事件が発覚するまで佐村河内氏の存在を全く知らない人が多かったようです。

では他にどういった場面が想定されるかというと、コンサートに来た手話が出来る健聴者、もしくは音楽を楽しむことができる聴力レベルの難聴者、その両者が手話で佐村河内氏に話しかけられた時など、極めて限定された局面になります。
そういった場面は、質問や賞賛の声をあらかじめ想定し、答えの手話表現も練習したのだと思います。
つまりそういった極めて限定的な局面以外は手話表現する必要もなければ、機会もなかったのだと思います。
そういった機会を避けていた、とも言えますが。
また杖をついたり包帯をまくことで手話を使わなくてもいいようにカモフラージュもしていたのかもしれません。

ですから佐村河内氏の手話表現は、当然下手でしょうし、下手なんだろうなと以前から思っていました。


次に手話の読み取りについて考えていきます。
佐村河内氏の、一般的な意味での手話読み取り能力はそれほど高くないと思われます。
というより低いかもしれません。
手話表現が下手だということとも関連しているでしょうが、ろう者との接点が少なく、揉まれていないことも理由の一つです。

但し、そのことと手話通訳の手話が読み取れることとは、全く別の話です。
佐村河内氏氏は、自分向けに読み取りやすく表現してくれた手話を読み取りさえすればいいのです。
ざっくりと言えば、佐村河内氏は聴覚で情報を70%得て、足りない部分を手話で補っているということです。
もっと言えば、聞きもらした単語を手話で確認する、その程度なのかもしれません。
分からない時や一部疑問に思った時に手話通訳を見て補完する、それも充分手話通訳だと思います。
もちろん佐村河内氏は、50デシベルの難聴ですから、聴覚でほぼ意味を掴んで手話通訳が必用のない時もあるわけです。
むしろそういった場合の方が多かったかもしれません。

聞き取ることに集中している場合、手話が目に入ってこないのではないかというご指摘もありました。
記者会見時の佐村河内氏のことを考えると、もし聴覚に集中すれば、語音明瞭度が70%でも90%以上の意味を掴むことに問題はなかったかもしれません。そしてそうであれば手話はあまり目に入ってこなかったでしょう。
しかし彼の場合は、手話に目を向けなくてはいけないという意識の方が高かったと思われます。対外的に手話通訳が必要だと言い切っていますし、あくまで特殊事例です。
手話通訳を見て苦労することなく耳に入ってきた言葉もあるでしょうし、予想された“謝罪”や“謝れ”などといった言葉は耳から脳へ直で入っていったのかもしれません。

実際通訳者の手話は、手話学習者でもある佐村河内氏にとてもわかりやすい手話のように見えました。
通常手話通訳者は、相手の希望に合わせて(相手が)わかりやすい手話表現をします。
日本語の言語体系とは全く違った日本手話だったり、あるいは日本語に対応した日本語対応手話であったりするわけです。
日本語対応手話の場合は、極端な場合は、助詞にいたるまで手話で表現する場合もあります。そうなるととんでもない単語数になってしまうわけですが。
単純に2つに分けられるものではない面もありますし、様々な意見もありますので、ここではあまり深く掘り下げません。
通訳者は。利用者の手話、要望に合わせて、利用者にわかりやすいように通訳をするわけです。
しかし通訳者の力量で使い分けられない場合もありますし、もちろん不特定多数を相手に通訳をする場合は事情が違います。


では記者会見での手話通訳を具体的に見ていきます。
TVで手話通訳が映し出されたのはわずかだったので、2つの場面のみです。

まずは佐村河内氏と神山氏のやり取りの場面です。

神山氏の「義手のバイオリニストの「みっくん」に対して、自分に謝るのか、あるいはバイオリンをやめるのかというメールをうっていますが、今考えれば笑止千万のメールなんですが、あれはどういう思いで、自分にどういう力があって一人の女の子の運命を左右しようとしたんでしょうか? またそれに対する謝罪の言葉をまだ聞けてないんですが」という質門の「一人の女の子の運命を左右しようと」の部分の手話表現の映像がありました。
手話表現は、手話単語的には、1人、女の子、運命、左右、する、といった感じで、口形をしっかりつけた表現でした。
口形をつけるとは、声には出さずに「ひとりのおんなのこの、うんめいをさゆうしようと」といった口の形をするということです。
運命という手話単語をわからないことはあるかもしれませんが、基本的には、ろう者との交流がない手話学習者にもとてもわかりやすい手話表現です。


さらに別の場面
「佐村河内さんが生きていて一番輝いていたと思った瞬間と、一番人生のなかでどん底だなと思った瞬間、それはいったいどんな時、どういうことをしている時だったか教えてください」
という質問(質問というより誘導ですが)があり、「どん底だなと思った瞬間、それはいったいどんな時、どういうことをしている時だったか教えてください」にあたる部分の手話通訳が映し出されました。
手話単語的には、最低、思う、2つ(左手で2本指を出し右手の人差し指で交互に指し示す)、いつ?といったものでした。
その後も何か補足があった可能性がありますが、後半部分をまとめてくれて、手話学習者にもとてもわかりやすいものです。
口形もついています。


手話がわからない人にはわかりにくかったかもしれませんが、佐村河内氏の総合的な手話力でも充分読み取れる、そして聞き取りにくかった場合の確認には充分な手話表現なのではないかということです。
いろんな意味でいびつな形ではあるけれど、手話通訳が成立していたのではないかと思われます。

本来は、手話通訳無し補聴器無しで、マスコミに“配慮”を求めて記者会見をやってくれていれば、50デシベルの難聴である佐村河内氏の聞こえが一体どの程度の聞こえなのかはっきりしてよかったのでしょうが、佐村河内氏としては手話通訳の必要性は譲れなかったようです。そしてそのことは嘘とは言い切れないだろう。
実際手話通訳は、ある程度機能していただろうということです。

また記者会見での手話通訳者は、佐村河内氏が聴力レベル50デシベル程の難聴者であるとわかったうえでの通訳です。
以前にましてわかりやすい手話通訳を心掛けたのかもしれません。
手話通訳者がいつ佐村河内氏の聞こえのレベルを知ったのかは、わかりませんが。

この間、佐村河内氏の一件に対する意見をいろいろと聞きました。
まあ一言で言えば、大嘘つきのペテン師野郎でとんでもないということになります。
しかし多くの方が事実誤認している点も多いようです。

以前にも書きましたが、この件に関しては様々な問題が内包されているので一つ一つ分けて考える必要があると思っています。


パラリンピックのロービジョンアルペンスキー(追記有)

2014年03月12日 | 日記

この1週間、サムライブルーは国立で試合があったし、なでしこジャパンはアルガルペカップで決勝進出を果たしたわけですが、佐村河内氏の件ばかり書き込んでいて…、たまには別のことを書き込みます。

生観戦したサムライブルーの一戦はキレキレの岡崎選手がもっとも印象的でしたが、山口蛍選手と青山選手のボランチコンビもまずまずの出来で、長谷部選手が負傷離脱している状況を考えると、山口蛍選手がボランチの軸になってもおかしくはないくらいですね。
長谷部選手はワールドカップにはコンディションを合わせてくるでしょうから、23人から漏れることはよもやないとは思いますが、青山選手が浮上し、細貝選手が漏れるということがありうるのでしょうか。しかし細貝選手への守備への信頼感はかなりあるように思われるますのでどうなるか。しかし守備力の(も)ある山口蛍選手の台頭を考えるとどうなってもおかしくはない。遠藤選手を途中から投入して、ゲームを落ち着かせる采配など、サムライブルーのボランチがどうなっていくのか興味津々です。

ブログ更新しようと思ったのは、サッカーではなくてパラリンピックのことです。
昨日、NHKのソチパラリンピックの番組を見ていたら、視覚障害者のアルペンスキー、女子のスーパー大回転が紹介されていました。
ガイド役は先を滑り、少し遅れて視覚障害者のアスリートが滑るというものです。

映像を見ながらの、司会者やゲストのやりとりはだいたい以下のような感じでした。

「選手の前を滑るガイドが選手を誘導していくんですね」
「これ視覚障害ですか」
「前のガイドが蛍光のわかりやすい(ごにょごにょ)」
「声聞こえますね」
「この声でガイドしているんですか」
「凄い、凄すぎる」
「(ガイドとの)信頼関係でしょうね」
「本当に驚きました」

見ながら、聞きながら、これって全盲ではなくて、“弱視”とか、“視野狭窄”のクラスだよね。
ガイドにはマイクが付いてたし、無線で声送っているんだよね。
ガイドがオレンジを着ているってことは、見えやすい色なら認識できるってことだよね。

発信する側に情報が不足しているようで、どうにもよくわからない。
ゲストはまだしも司会者側がきちんと把握して説明してくれよと思っていたら、ゴールした後のタイム表示の際にやっとB3という表示が3~4秒だけ出ました。
「あー、なるほど。ブラインドサッカーで言えば、以前の言い方で言えば、B2B3クラスっていうことね」ということがやっと、はっきりわかりました。
現在はそのクラスのサッカーをロービジョンフットサルと呼んでいますので、「要するに“ロービジョンアルペンスキー”、“ロービジョンスーパー大回転”だったわけね」と、合点、ガッテンしました。
ロービジョンという名称は、なかなか秀逸で、わかりやすいと思います。

ちなみに、B1、 B2、 B3の見え方は以下。
B1 視力0~光覚(手の形が見分けられない視力)
B2 光覚~矯正視力0.03または視野5度以内
B3 矯正視力0.03~0.1、または視野5度~10度
同一クラスの競技者が少ない場合は、他のクラスと統合(コンバインド)し、クラス毎の係数を実タイムに掛け合わせてリザルトを算出するハンディキャップシステムが用いられる。   (日本障害者スキー連盟のHPによる)

優勝した選手はB3クラス。銀と銅はB2クラスでした。
さすがにB1クラスではスーパー大回転は無理なのではないかと思われます。
パラリンピックのアルペン競技にB1クラスがあるのかどうかわからないのですが、あるとしたらコースも独自に作らないと難しいのではないかと思います。パラリンピックのアルペン競技の種目になくても、ローカル的にはあるのかもしれませんが、よくわかりません。
ご存知の方がいたら教えてください。

TV番組のゲストは、クロスカントリーの伴走者、あるいはマラソンの伴走者をイメージして、それとの比較で「凄い」と言っているようで、あまり知識がない人には、「見えないのに凄い」と伝わったかもしれません。
もちろん充分凄いんですが、何だかよくわからなくて凄いと思うより、ある程度理解したうえで“凄い”と思った方がいいのになあと思ったりします。

視力も、見える見えないの間に見えにくいがあり、見えにくいのなかにもさまざまな見えにくさがあります。
例えばロービジョンフットサル(その当時は別の名称でしたが)日本代表チームの合宿を取材した時も、見え方、見えにくさは、様々でした。コートの遠い所は見えないけど近くに来れば見えたり、視野狭窄だったり、一部が見えない視野欠損だったり。

見え方も、聴こえ方も様々です。

(追記)
ちょっと興味を持って視覚障害のアルペンスキーをスカパー(無料!ちゃんと解説も有)で見ていたら、B1クラスの選手も出ていました。
男子スーパー大回転に出場、しかし残念ながらコースアウトでした。
つまりB2B3限定のロービジョンアルペンスキーではなかったわけです。
しかし現実問題として、B1クラスの選手が出場するのはむずかしいようです。

ちなみに選手とガイドのやりとりは、ガイドの背面についたスピーカーからガイドの声が選手に伝わるみたいで、選手の声は無線でガイドに送られるということらしい。声、声を出すタイムミング、適度な距離感を保つなど、本当に息が合わないと成立しないスポーツ。

男子滑降も見ましたが、120km以上のスピードでガイドと至近距離で滑ってるし、凄い迫力です。

ところで日本選手は今大会、全競技を通して視覚障害部門には一切出場していないようです。
だから目にする機会がなかったんですね。


佐村河内氏は、聞こえる、聞こえない、聞き取りにくい、聞こえにくい、…。

2014年03月10日 | 手話・聴覚障害

 「聞こえにくい」「聞こえない」だけでは言葉が足りない。
 「聞こえる」と「聞こえない」の間には様々な「聞こえにくい」がある。
 「聞き取りにくい」「聞こえにくい」「より聞こえにくい」「さらに聞こえにくい」…。


 2つ前の記事「聞こえにくい人である佐村河内守氏と手話~記者会見より」を読んでいただいた耳鼻科医の先生から、ご指摘をいただいた。
まず一つ目は、語音明瞭度が71%の佐村河内氏の右耳では90%以上の言葉が理解できる、つまりほとんど理解できるのではないか。
周囲の音がうるさい場合は別として、聞こえる音量で右耳に言葉が入ってきた場合、不明瞭な29%は、その前後の聴き取れた音から類推して90%くらいは理解できるだろうということだ。先日の記事を書いた時点では会見の最後の30分ほどは活字でしか見れていなかったのだが、確かに会見の最後の方は手話通訳を見ないで「言葉を理解している」ことも多かった。ただどこかしらとんちんかんなやりとりにも見え、完全には言葉が入っていないようにも見えた。
 自分としては60~80%くらいの理解で足りない部分を手話通訳で補っているのではないかと考えていた。本来は不明瞭な部分は補聴器を付けて補うのであるだろうが、佐村河内氏は補聴器を選択しなかった。両耳全ろうと主張していた時代のスタイルを崩したくなかったのだろうが、マイクを通じた声を補聴器で聞くと聞き取りにくいという当事者の声もある。

90%くらい(ほとんど)わかるという議論に戻る。例えば感度の悪いラジオを聞き、70%がわかればだいたいわかるという論理である。おそらくそうなのであろう。外国語の70%を聞いても他を補うのは難しいかもしれないが、母語の日本語であればかなり類推できるというわけだ。佐村河内氏の母語(第一言語)は日本語である。しかしキーになる単語を聞きもらしたりした場合は、とんちんかんな解釈になってしまうことなどはあると思う。そういった時は通常は聞き返せばすむことなのだろうが、佐村河内氏の場合は手話通訳が補っているのではないだろうか。例えばわからない時だけ見たり。狭い空間であれば手話通訳がむしろいない方が楽で、ほとんと見ているふりということもあるのかもしれないが、質問者によって音量や滑舌もかなり違うということを考えると、聴覚だけで情報を得て、全く手話は見ているふりだけとは思えないのだ。それとも私の誤解なのだろうか。
しかし、佐村河内氏の聴力レベルの難聴者で手話通訳をつける例はほとんどないだろう。通常は補聴器装用による聴覚活用の方が、手話を覚えるよりはるかに簡単だからだ。
ところが佐村河内氏は手話通訳を選んだ。佐村河内氏にとって手話とは手話通訳とは、両耳全ろうの作曲家を演じる上で必要不可欠であったのだろう。完璧に両耳全ろうの作曲家を演じ切るために佐村河内氏は熱心に手話を学んだのかもしれない。俳優が演じる上で外国語や方言を懸命に覚えたのと同じような意味において。
両耳全ろうの作曲家を演じるために、黒い衣装と長髪、杖などが必要であったように手話も必要だったのかもしれない。動機は極めて不純だが手話を学ぶということに関しては真摯に臨んだのかもしれない。あくまでも想像である。あるいは耳鳴りに苦しみ、聴力低下におびえ、本当に手話を必要としたのだろうか。

もし両耳全ろうで手話通訳を介在しないとすれば、相手に筆談をお願いすることになる。ある程度聞こえる(聞き取りにくい?耳が遠い?)彼とすればかったるいことこの上なかったのかもしれない。何よりも絵にならない。
手話を多少(?)は身に付けた佐村河内氏は必要もないのに手話通訳がいた場面もあったであろう。例えば補聴器も付けている、環境も静か。しかしいくら長髪とはいえ手話通訳者と会うときは補聴器を外していたのかもしれない。補聴器装用の有無について、手話通訳者は極めて敏感だからだ。そう考えると補聴器の無い状態で。うるさい場所で打ち合わせしなくてはならない時などは便利だと感じたこともあったかもしれない。必要の無い時は手話の読み取りのいい勉強にもなったことだろう。

おそらく分からない時は聞き返したり、質問する方も配慮したりすれば、聴覚活用だけでも成立した会見だったのだろうが、手話が何割かを補足した、そうなのではないかと私は思っている。例えば日本語としてわかりにくく何を言おうとしているのかよくわからない質問の時などは、手話通訳が要約して表出してくれてとても助かったということもあったかもしれない。あるいはタイムラグを利用して考える時間にあてたり、目を合わせたくない質問者の顔を見ずにすんだという(佐村河内氏にとっての)効用もあったのかもしれない。


佐村河内氏の聴力レベルの人と、高度難聴の人とを、同列に扱うべきではないというご指摘も受けた。
そんな気はなかったが、言葉が足りない、あるいは説明不足の点があったのだろう。
自分としては。聞こえる人(聴者)との違いを強調したいがために、まるで高度難聴のような論じ方になってしまった面があったかもしれない。

 「聞こえにくい」「聞こえない」だけでは難聴を示す言葉が足りないような気がする。
「聞こえる」と「聞こえない」の間には様々な「聞こえにくい」がある。
中程度の難聴である佐村河内氏に「聞こえにくい」という言葉を使ってしまうと、より聞こえにくい人々をなんと呼べばいいのか。
「より聞こえにくい」「さらに聞こえにくい」「もっともっと聞こえにくい」…。
 佐村河内氏レベルだと「聞き取りにくい」「耳が遠い」という表現の方が当てはまるのだろうか。
 ただ、「聞こえる」という言葉を当てはめると、とても違和感を感じてしまう。
仮に、医学的には「ほとんど言葉は理解できる」という現象を「聞こえる」と呼ぶのだとしても(実際はよくわかりません)、 世間一般あるいはマスコミが「聞こえる」という言葉を使うときには意味が変容し「聞こえる人と同じ」というニュアンスを感じてしまい、 とてもとても拒否反応がある。 具体的には、TVで耳鼻科医が言う「聞こえる」とニュースキャスターなどが言う「聞こえる」の意味が何か違うような気がするのだ。あくまで私の感覚的な問題である。
情報としての言葉が耳から入ったとしても、50デシベルの難聴と13デシベルの聞こえる人(聴者)は違うだろう。
「聞こえる」という言葉を使ってしまったら、その差異が見えなくなってしまうのではないか。そんな気がしてならない。
13デシベルとは以前検査してもらった私の聴力レベルだ。

佐村河内氏はとんでもない大嘘つきだったわけだが、50デシベルの難聴者でもある。
「50デシベルなんて聞こえるんじゃないの?手帳ももらえないんでしょ。聴覚障害じゃないんでしょ」と単純に片づけられたたら大変困った状況になってしまう。
もちろん高度難聴とは違う「聞こえにくさ」なのだろうが、確実に日常生活で困る局面はあるわけだから。
それどころか、多くの聞こえない聞こえにくい人たちが、「聞こえてるんでしょ?」と言われて困った状況が既に発生しているようだ。例えば後ろから声をかけれられて振り向く。本当は声は聞こえず、振動や人の気配で振り返っただけなのに誤解されたり。

「聴覚障害2級」「感応性難聴」「…」こういった言葉がこれほど頻繁に、TVの地上波や新聞・雑誌、お茶の間に登場することはなかっただろう。であるならば、これを機に理解が深まることはあっても、誤解と偏見が広がるということになってはならない。
この間、佐村河内氏の一件を繰り返し書き込んでいるが、これは聞こえない聞こえにくいというということに関して少しでも正確な情報を発信したいという思いからだ
とはいえ、私自身、映画「アイ・コンタクト」を作るまでは、聞こえない聞こえにくい世界に関して、全くの無知だった。
少々脱線してしまうが。映画「アイ・コンタクト」は、ろう者によるろう者のオリンピックであるデフリンピックに出場した“ろう者サッカー女子日本代表”を追ったドキュメンタリー映画である。
映画を作るために、聞こえない世界のことや手話を学んだのだが、もっとも感じた点は、聞こえない聞こえにくいといっても実に様々だということだ。聞こえのレベルだけで言っても、全く聞こえない人から補聴器装用でかなり聞こえる人まで幅広いし、しゃべれるけど聞こえない(聞こえにくい)存在にも驚いた。手話に関しても、物心ついた時から手話を使っていた人から、大人になってから学び始めた人までいて何が何だかわからなかった。とにかく一言では言い表せないということを痛感し、映画ではその多様性こそを表現しようとした。

前述したデフリンピックの出場資格は、聴力レベルが55デシベル以上である。佐村河内氏に出場資格はないが、聴力レベル的にはかなり近い。日本において聴覚障害者と認定され手帳を取得し福祉サービスを受けることが出来るのは70デシベル以上だが、WHO(国際保健機関)では、41デシベル以上が福祉サービスを享受出来るように推奨されており、アメリカでは佐村河内氏の聴力レベルでも日常生活に支障があれば様々な福祉サービスを受けることができるようだ。
これはあくまで想像だが、もしアメリカで、聴力50デシベルの人に向かってメディアが「聞こえている」と発言したら大変なことになるだろう。
日本であっても許されることではないと思う。
日本では佐村河内氏レベルの難聴の人は日常生活に困っていても福祉サービスを受けることができなかったようだが、30デシベル以上の人を対象に補聴器購入の助成事業がやっと始まったようである。

 

2つ前の記事のコメント欄でもご指摘があったが、会見での佐村河内氏と神山氏のやり取りの書き込みのなかで明らかな私の間違いがあった。
手話通訳者のTV映像があり確認した。

やり取りを再び書きおこしてみる。

神山氏「義手のバイオリニストの「みっくん」に対して、自分に謝るのか、あるいはバイオリンをやめるのかというメールをうっていますが、今考えれば笑止千万のメールなんですが、あれはどういう思いで、自分にどういう力があって一人の女の子の運命を左右しようとしたんでしょうか? またそれに対する謝罪の言葉をまだ聞けてないんですが」 

  この時点までに、謝罪という意味合いの何らかの手話表現があったのかと思っていたが、「一人の女の子の運命を左右」あたりまでの表出で、「謝罪」までは手話通訳は表現できていなかった。

佐村河内氏、神山氏のほうを向き、「どういうことですか、何を謝れと?」

   この間、手話通訳者が佐村河内氏を呼ぶ。

神山氏「(遮るように)まだ手話通訳終わっていませんよ。通訳終わってからのほうがいいんじゃないんですか」
   (会場笑い)
佐村河内氏「はっ? 僕は今、おっしゃったことに対して話しているわけです。何を僕がみくちゃんに謝る…」
神山氏「(遮るように)じゃもう、目と目を見てやりましょう。僕と口話をしてください。
佐村河内氏「あの、そういうふざけたことはやめてもらえませんか。科学的な検査がそこに出てるじゃないですか」
神山氏「聞こえるというね」
佐村河内氏「(憮然として)あの皆さん大変申し訳ありません。もう質問は結構です」
(その後、やりとりが続く)

 流れがわかった上で見返してみたが、神山氏の「まだ手話通訳終わっていませんよ。通訳終わってからのほうがいいんじゃないんですか」という言葉の後、笑う場面だろうか?という思いは変わらない。

 ただ、佐村河内氏の「はっ? 僕は今、おっしゃったことに対して話しているわけです。何を僕がみくちゃんに謝る…」という言葉を受けて、神山氏が「じゃもう、目と目を見てやりましょう。僕と口話をしてください。」とつい言ってしまった心情は理解できる。
この点は事実誤認のため。神山氏に大変失礼なことを書いてしまった。
ただ言うべきことではないと思う。
また50デシベルの難聴者のことを「聞こえる」と呼んでもいいのだろうかという思いは変わらない。
この点なども「高度難聴のように論じた」印象を与えてしまった部分なのかもしれないが、20デシベル以下の「聞こえる」と50デシベルの難聴の「聞こえる」は絶対に意味が違うと思う。

50デシベルの難聴の当事者の方々の考えは様々なのかもしれない。
ひょっとしたら「聞こえる」と言いたい方もいらっしゃるのかもしれない、「聞き取りにくい」と認識してほしい方もおられるのかもしれない。


極力間違いなどないように書き込んでいるつもりですが、不備な点があればご指摘ください。
また意見など、自由に書き込みください。

佐村河内氏の件は、一つずつ分けて考える必要があると思い、マスコミがあまり触れないであろう「聞こえ」に絞って書き込んできました。
今後、「障害と表現」「ドキュメンタリー」という観点からも書き込んでいきたいと思っています。


 


佐村河内氏の手話表現の意味

2014年03月08日 | 手話・聴覚障害

佐村河内氏の記者会見の最後に、佐村河内氏が手話表現する場面があったようだ。
前の記事にも書いたように会見を終了まで見ることが出来なかったので、なでしこジャパンの試合をTV観戦した後、残り30分の質疑応答や手話表現を探してみた。

最後の手話表現の意味を書き出しておきます。

佐村河内守と申します。
私は本当に悪いことをしました。
日本中の皆様、こころから申し訳ありませんでした。
本当に…


(注釈) 単語に分解して書き出しておきます
佐村河内守と申します。
私・名前・サ・ム・ラ・ゴ・ウ・チ・守・言う

私は本当に悪いことをしました。
その・時・私・本当・悪い

日本中の皆様、こころから申し訳ありませんでした。
日本・中・皆さん・心(気持ち)・から・申し訳ない

本当に…
本当


聞こえにくい人である佐村河内氏と手話~記者会見より(追記有)

2014年03月07日 | 手話・聴覚障害

本日11時から佐村河内氏の記者会見が開かれた。
13時30分くらいまで行われたが、13時くらいまでは見ることができた。

会見のなかで、正直、これは嘘だろうと思う部分もいくつか(も?)あった。
謝罪会見という観点からみれば、謝罪の気持ちもが足りないという点もあったと思う。
きっとその点は多くのマスコミも今後触れていくであろう。

佐村河内氏が、以前、両耳全ろうで“3年前から”聞こえるようになったという点は正直信じられないが、‘’現在の‘’聞こえの部分に関しては、嘘はなかったと思う。わかってほしいが故の、あるいはわからせるための多少の誇張があった可能性はあると思うが嘘とは違うだろう。

いろいろ思うところはあるが、佐村河内氏の聞こえと、そのことの報道、会見での手話通訳に限って書いてみたい。
(できるだけ、聞こえない聞こえにくいことの知識がない人にもわかりやすく書いてみたい。『そんなこと知ってるよ』という人はその箇所はとばしてください)

冒頭で診断書が提示された。
右耳の聴力レベルは48.8デシベル、語音明瞭度 71%、 左耳の聴力レベルは51.3デシベル、語音明瞭度 29%。感音性難聴である。身体障害者手帳が取得できる聴覚障害ではない。
(ちなみに聴力レベルは純音聴力検査での検査。自分で音が聞こえたらボタンを押すという方式の検査。脳波を調べたABR検査、いわゆる科学的聴力検査右が40デシベル 左が60デシベル。それほど大きな誤差はないところから佐村河内氏の自己申告は信用度があるということになる)

デシベルとは音の大きさの単位。数字が大きくなるほど大きな音ということになる。
つまり右耳では、48.8デシベルの音が聞こえて、右耳では51.3デシベルの音が聞こえるということである。
50デシベルとはどのくらいの音の大きさかというと普通に会話している程度である。あるいは静かな部屋でTVをつけて1m半ほど離れて普通に聞こえるくらいの音量。(今、簡易的な音量の測定器で測定しました)。聞こえる人(健聴者、聴者)であれば、問題なくテレビの音が聞こえるが、50デシベルの難聴の人は、何か音がしていることがわかる程度ということになる。つまり音がしているのはわかるが意味はわからないということになる。会見での佐村河内氏の言葉を借りれば「相手がしゃべっているのは聞こえているが、何を言っているのかはわからない」ということになる。
ちなみに障害者手帳を取得できる聴覚障害のなかでもっとも軽い6級は、両耳の聴力レベルが70デシベル以上、あるいは片耳が90デシベル以上、もう片方が50デシベル以上という規定である。90デシベルとは羽田空港沖でのジャンボジェット機の騒音くらいの音の大きさである)

語音明瞭度とは、聞こえた言葉の何%の意味がつかめたかということ。
例えば、70デシベルの声でしゃべってもらえば音ととしては聞こえるはずである。そのうち何%が聞き取れたかということだ。
以下のようにイメージしてもらうとわかりやすいかもしれない。
何かの文章を書いてみて、消しゴムでところどころを消してみる。
右耳は明瞭度71%なので、不明瞭な部分は29%。文章の29%を消してみても71%残るので意味はかなりつかめるだろう。
しかし左耳の明瞭度は29%。文章の71%を消してしまえば意味はつかめなくなってしまうだろう。
あるいは霧がかかって文字の29%しか見えない。そういった状況を想像してもらえるとわかりやすいかもしれない。
佐村河内氏は「音がねじれている」という言葉で表現していた。
感音性難聴の特徴でもある。難聴には伝音性難聴と感音性難聴がある。(混合性難聴は両方がミックスしたものである)。簡単に聞こえのことを説明すると、空気振動が耳に伝わり内耳で電気信号に代えられ脳に送られれる。感音性難聴は電気信号に変える部分、および電気信号を脳に伝える部分の異常である。仮に補聴器をつけても、ねじれやひずみはそのまま拡大されることも少なくない。ただ佐村河内氏のレベルの難聴であれば補聴器はかなり有効である。しかし補聴器をつけたからといって聞こえる人と同じように聞こえるわけではない。
佐村河内氏は補聴器は以前より使用していたようでもある。長髪にしていたのは補聴器を隠すためでもあったらしい。

佐村河内氏が昔から今の聴力レベルであったとしたら(昔はもっと軽かった。しかし耳鳴りはあったということかもしれないが)、新垣氏とのやり取りでのなかで、新垣氏が「聞こえないと感じたことはない」という言葉に違和感はない。佐村河内氏が言うように、佐村河内氏がほとんどしゃべって新垣氏が反応する、佐村河内氏は補聴器装用と口話、読唇で問題なかったのだと思う。
電話に関しては、新垣氏が電話で話したと主張、佐村河内氏は一度もないと主張。佐村河内氏がほぼ一方的にしゃべり、新垣氏の相槌を補聴器を通じて聞く、あるいは聞こえやすい電話機器を利用したりすれば活用できると思う。
またデモテープを聞いた、聞かないという点に関しては、高音など聞きにくい箇所はあったかもしれないが、佐村河内氏の聴力レベルでもチェックできるポイントは多々あったと思う。
しかし電話とデモテープ(テープじゃなくてパソコンとかでしょうが)の件は、佐村河内氏側からすると、認めてしまえば3年前までは聞こえていなかった(両耳全ろうだった)ということが嘘になり、嘘に嘘を重ねる必要があったのかもしれない。

結局、以前。佐村河内氏が障害者手帳を取得した際、いったいどのくらい聞こえていたのかは謎のままになってしまった。
今くらいの聴力レベルだったと考えるたほうが諸々わかりやすいのだが、一時的に聴力がガクンと落ちて回復したという可能性はあるのかもしれない。定着してしまえば回復はあり得ないだろうが、短期であればそういったケースもあるといったことも聞いたことはある。
今日の会見では具体的な病院名も出て、入院の必要があるといった診断を受けたそうだ。難聴の世界では有名な病院である。記録も残っているのだろうが、刑事事件にでもならない限り調査することは不可能なのであろう。しかし本人が認めれば、調査することも可能であるとしたら、今日、その言質をとるべきだったのかもしれない。

そして手話である。
そもそも、何故、佐村河内氏は手話を学ぼうと思ったのだろうか?
本当に中途失聴し両耳全ろうになったのなら、すぐにというわけではないだろうが手話を学ぶということも多い。当初聞こえないということに絶望するが、聞こえない世界、手話の世界があることを知り、学び始めることが多いわけだ。

だが聴力レベルが現在と同じ程度であったとすれば、何故手話を学ぼうと思ったのかが理解しにくい。
そのくらいの聴力レベルの人は手話ではなく口話で会話している人がほとんどだからだ。
聞こえない世界にいくのではなく、聞こえる人の世界にとどまっていたいという気持ちも強いのだと思う。
以前、佐村河内氏は。一時的に聴力レベルががくんと落ちて回復したのだろうか、あるいは聴力レベルとしては重くなくても耳鳴りがひどく手話の必要性を感じたのかもしれない。あるいは1995年に手話ブームを巻き起こしたTVドラマ「星の金貨」の影響でもあったのだろうか。
きっかけはどうあれ手話を覚えるのは容易ではない。

次に今日の会見での手話通訳のことに関してふれたてみたい。
佐村河内氏は補聴器装用ではなく、手話通訳というコミュニケーション手段を選択した。
補聴器をつけていたとしても、あのけたたましいシャッター音のなかで質問者の声を聞き取るのは難しかっただろうし、質問者も必ずしも近くにいるわけではないので読唇もやりにくく、成立しなかったと思う。
もし成立させるとすれば、質問中は撮影禁止、質問者は前に出てマイクなしで佐村河内氏の正面に立ち出来るだけゆっくりと質問するといった何かしらの“配慮”が必要だったと思う。
佐村河内氏は、聞こえにくい難聴者であることには間違いないからだ。

診断書が提示されたものの、聞こえる聞こえないという疑念は会場にも渦巻いていたようだ。
会場の質問者の声は、佐村河内氏の座る位置ではどの程度の大きさで聞こえていたのだろうか?
調べようと思えば、簡易的な音量を測る装置を持っていって測定することもできると思うのだが。
会場に取材に行くことでかなうなら絶対に調べたいところではあったのだが。

佐村河内氏が手話通訳の手話を読み取る、その点に関してはおかしな点はなかったように思う。
むしろ質問者やテレビのゲスト出演者などのほうに首を傾けざるをえない点があった。
例えば、昼の番組にゲスト出演していた耳鼻科医の方が「手話通訳を見ていないでうなずいている」という場面があったが、少なくともその瞬間は佐村河内氏は確かに手話通訳を見ていた。勘違いがあった理由は、カメラの角度であろう。手話通訳の方は佐村河内氏から見て真正面より少し右にいて、一方TV局によってはかなり斜めにカメラが位置しており、佐村河内氏がかなりそっぽを向いている印象があったからであろう。もちろんゲストの方に悪意はなく、また嘘でもないが、明らかな間違いだと思う。
また夕方のニュースでは、別の耳鼻科医の方が、「質門に対して聞き返すことなく答えていた」というような意味合いのことを言われていたのだが(正確にどう言われていたかは失念しました)、佐村河内氏は何度も手話で通訳者に聞き返す場面があった。おそらく質疑応答のすべてを見られたわけではないことからくる誤解だったのではないかと思われる。
もちろん音量や聞こえやすい声であったことにより、聞こえたこともあったのかもしれない。

会見全体を通して佐村河内氏は、手話通訳を見てから答えていた。
手話は質問によっては、言い終わるとほぼ同時に表現し終えることができる。しかしちょっとわかりにくい質問の場合はそうはいかない。実際、そういった質門の際は、何度か聞き返す場面が見られた。
ニュースなどで、佐村河内氏がとんちんかんというか、あえて論点をずらした答えをしているという指摘があった。なかには故意に論点をずらした場合もあったかもしれないが、手話通訳が入ることによって論点が少々ずれてしまうことはよくあることである。自分自身も講演する時など、何度も経験したことがある。


文春に記事を書かれた神山氏も会見で質問された。義手のバイオリニストみっちゃんの思いを胸に質門されていた。その思いは理解できるしもっともだが、「それはないだろう」という場面もあった。質門の内容ではなく、手話通訳や聞こえに関することである。
前後のことを書き出さないとわかりにくいので書き出させてもらった。
現場にいたわけではないので、あくまで映像を見ながら想像したことになる。

神山氏「義手のバイオリニストの「みっくん」に対して、自分に謝るのか、あるいはバイオリンをやめるのかというメールをうっていますが、今考えれば笑止千万のメールなんですが、あれはどういう思いで、自分にどういう力があって一人の女の子の運命を左右しようとしたんでしょうか? またそれに対する謝罪の言葉をまだ聞けてないんですが」    
    佐村河内氏、神山氏のほうを向き、
佐村河内氏「どういうことですか、何を謝れと?」
神山氏「(遮るように)まだ手話通訳終わっていませんよ。通訳終わってからのほうがいいんじゃないんですか」
   (会場笑い)
佐村河内氏「はっ? 僕は今、おっしゃったことに対して話しているわけです。何を僕がみくちゃんに謝る…」
神山氏「(遮るように)じゃもう、目と目を見てやりましょう。僕と口話をしてください。
佐村河内氏「あの、そういうふざけたことはやめてもらえませんか。科学的な検査がそこに出てるじゃないですか」
神山氏「聞こえるというね」
佐村河内氏「(憮然として)あの皆さん大変申し訳ありません。もう質問は結構です」
(その後、やりとりが続く)

「まだ手話通訳終わっていませんよ」の部分だが、おそらく手話通訳の方はいったん「謝罪まだない」といった意味のことを表現し、いったん手話を止めて、「どういうことですか。何を誤れと?」という佐村河内氏の言葉を受けて補足説明を始めたのではないだろうか?
というか補足説明するために佐村河内氏を呼んだのではないだろうか?
それを見た神山氏が「まだ手話通訳は終わっていませんよ。全部を聞いてからの方がいいんじゃないんですか?」と言う。
会場から笑いが起きる。
しかし笑う場面だろうか?
茶番だと思ったのだろうか。
何が起きているのかしっかりと見る必要があった場面だったのではないだろうか。
そこに状況を読み取れる人間はいたのだろうか?出来ればそこにいたかった。
通訳はその後「まだ手話通訳終わっていませんよ。通訳終わってからのほうがいいんじゃないんですか」と表現する。
そうすると当然佐村河内氏はわけがわからず「はっ?」なる。
すると神山氏が「目と目を見てやりましょう。僕と口話をしてください」という。
私自身も聞いた瞬間に正直、「何言ってるの、この人!」と思ったのだが、案の定佐村河内氏は「そういうふざけたことはやめてもらえませんか」と答えた。
少なくとも、あの環境(多くのシャッター音、補聴器もなく、距離も近くはない)で言うことではないと思う。
もちろん「何故補聴器をしないで出てきたのか?」という疑問はあるわけで、そのことを聞かれている人もいた。
また50デシベルの難聴者のことを「聞こえる」と呼んでもいいのだろうか。もちろん聞こえないわけではないが、聞こえにくい状況ではあると思う。


佐村河内氏は大嘘つきだったことに間違いはないが、きこえにくい(*中程度の)難聴者であることだけは事実だ。
その点だけは、しっかりと理解しておかなくてはならないと思う。
聞こえにくい人を誤解しないためにも。
{*の部分ですが、「軽度の」から「中程度の」に訂正しました。実際は中程度の難聴に分類されるようですが、感覚的には「軽度の」の方がより伝わると思い(  )を付けて「軽度の」という表現にしていましたが、誤解を招いてしまったようで訂正しました}


ところで手話通訳の方はあの場に出てくることに関して、相当な勇気が必要だったと思う。
その点は本当に察するに余りある。


(追記)
以下の部分に間違いがありました。

「まだ手話通訳終わっていませんよ」の部分だが、おそらく手話通訳の方はいったん「謝罪まだない」といった意味のことを表現し、いったん手話を止めて、「どういうことですか。何を誤れと?」という佐村河内氏の言葉を受けて補足説明を始めたのではないだろうか?
というか補足説明するために佐村河内氏を呼んだのではないだろうか?

TVでその時の手話通訳者の映像が流されてわかりました。
実際には、「謝罪まだない」といった意味合いのことまでは、手話通訳者は表現していませんでした。
その部分を通訳しようと手話通訳者が佐村河内氏が呼んだのを見て、神山氏が「まだ手話通訳終わっていませんよ」と発言した流れのようです。
私の想像が間違っていました。取り急ぎ訂正しておきます。
そのことを踏まえて新たに記事を書き込みます。

(追記の追記)
この記事を読んだ耳鼻科医の方から、語音聴力検査に関して事実誤認があるのではないかというご指摘をいただきました。佐村河内氏は右耳の語音明瞭度が71%ですが、文章の理解力という点では90%以上になっているのではないか。騒音などで聞き取りにくい時はあったでだろうが、会見の際も右耳を通して情報は入っていたのではないかということです。


聞こえない聞こえにくい人は、誤解を受けやすい立場にあります。
この記事は、聞こえない聞こえにくい人、高度難聴から軽度難聴にいたるまで、誤解されることのないように、出来るだけ正確な情報をお伝えしようと思い発信しました。
しかし事実誤認の点ががあれば逆に大変失礼なことをしてしまったことになります。

この記事を読んでいただいた方に誤解してほしくないのは、決して佐村河内氏を擁護しているわけではないという点です。きちんとした検査の結果出た診断に対しては、彼のやったことは別として、冷静に見る必要がある、そういった思いで記事を書きました。

また改めて記事を書き込みます。