関東大震災から90年経過しました。当時を知る人と言うと、少なくとも小学生以上でないと状況把握ができなかったと思いますから、かなりの高齢者になります。
私の母親は御徒町あたりで被災しましたが、乳児だったので恐らくその母親に背負われて避難したものと想像します。記憶は当然ながらありません。母親の父は画家でもあったので、震災の様子を描いて地方で出版したとの情報がありますが、残念ながら実物を見たことはありません。
私の父親は本郷区で被災し、こちらは小学生だったので、避難したことを記憶していました。家族は地震後の火事が迫る中、上野の山に避難し、幸い全員無事に済みましたが、当時で言えば耐火建築である土蔵の壁が地震で崩れてしまい火事を防ぐjことができず、店舗を兼ねた住居が全焼しました。火事についてはなす術がなかったと聞きます。
山の手と下町のちょうど境界あたりに位置するこの地域では、隅田川の対岸地域で起きたような旋風による被害はあまり無かったようで、無事に避難した人が多かったと聞きますが、けが人は多かったと聞きます。
ただ、本人を含めた兄弟の勉強用机、本箱、いずれも現在のものよりも小型だったためか、運び出すことができたようで、その他の家財も大半持ち出せたと聞きました。大八車などの運搬用具があったためと思いますが、小型車並みの幅がありますから、橋などの交通の要所での混雑を助長した可能性がありますね。
食事は、お昼時で支度途中だったものをそのまま持ち出したと聞きます。また、近所のパン屋さんの商品を大量に購入して被災者に配ったと話していました。食べ物の不自由さはあまり話していなかったので、勿論、十分ではなかったと思いますが、米、味噌中心の食材を裸火で煮炊きする時代でしたので、手間をかければ、食事の支度もできたように想像されます。
まとまりませんが、とりあえず、9月1日に間に合わせて。
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私の母親は御徒町あたりで被災しましたが、乳児だったので恐らくその母親に背負われて避難したものと想像します。記憶は当然ながらありません。母親の父は画家でもあったので、震災の様子を描いて地方で出版したとの情報がありますが、残念ながら実物を見たことはありません。
私の父親は本郷区で被災し、こちらは小学生だったので、避難したことを記憶していました。家族は地震後の火事が迫る中、上野の山に避難し、幸い全員無事に済みましたが、当時で言えば耐火建築である土蔵の壁が地震で崩れてしまい火事を防ぐjことができず、店舗を兼ねた住居が全焼しました。火事についてはなす術がなかったと聞きます。
山の手と下町のちょうど境界あたりに位置するこの地域では、隅田川の対岸地域で起きたような旋風による被害はあまり無かったようで、無事に避難した人が多かったと聞きますが、けが人は多かったと聞きます。
ただ、本人を含めた兄弟の勉強用机、本箱、いずれも現在のものよりも小型だったためか、運び出すことができたようで、その他の家財も大半持ち出せたと聞きました。大八車などの運搬用具があったためと思いますが、小型車並みの幅がありますから、橋などの交通の要所での混雑を助長した可能性がありますね。
食事は、お昼時で支度途中だったものをそのまま持ち出したと聞きます。また、近所のパン屋さんの商品を大量に購入して被災者に配ったと話していました。食べ物の不自由さはあまり話していなかったので、勿論、十分ではなかったと思いますが、米、味噌中心の食材を裸火で煮炊きする時代でしたので、手間をかければ、食事の支度もできたように想像されます。
まとまりませんが、とりあえず、9月1日に間に合わせて。
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