打ち勝つことは、真の融和することだ。
山田耕筰 文化の日に
私の作業場には、一枚の色紙の入った額がかっている。
もう、かれこれ40年以上も昔のことで、色も少しくすんで、真っ白だった色紙が灰色がかってきている。
この額こそが私が、家宝としているものである。いや、家宝というよりも、私の創作活動に大きな力を与える源となっているものである。
昭和は38年11月3日。文化の日に、私は音楽の師匠、山田耕筰先生のお宅へうかがっていた。
当時、先生は原宿の駅前にあるマンションの7階に住んでおられた。
ひとしきり、人生談議に花が咲いた後で、私はこういった。
「先生。ここまで生きてくるのに、とにかくいろいろありました。今までの私は困難が生じると、それに向かって、やあやあ声をあげながら、刀を振り回していたのですが、今ここに至って、くるものは何でも来い。全部、自分の胸の内に取り込んで、消化してやるぞ、という心境です」といった。
そしたら、先生はにっこりされて「色紙」とおっしゃった。
鳥の子紙に包まれた真っ白な色紙で、四周金縁の縁取りがしてある。
奥さんが持ってこられた色紙に先生は体の不自由をおして
「打ち勝つことは真の融和することだ。耕筰」と先生らしい字で書かれ、中央に先生ご自身の似顔絵をすらすらと描かれた。
頭のほうはつるつるテンだが、鼻の下のちょび髭はちゃんと描かれている。
それは、山田先生一流のユーモアで、ほほえましい限りである。
さらにローマ字でがkocsakuとお書きになって、たぶんサインするときに使われるのだろうと思われた竹製の花押を押して、
「武田喜明君 卒業を祝して」と書き加えてくださった。
作曲家として私は有名であろうが、無名であろうが、この一枚の色紙によってどれほど勇気づけられ、自信を持つことができたことか
このことを考える度に、この一枚の色紙がいつも私は子供にも、孫にも語り伝えたい、我が家の貴重な家宝であると思うのである。
別になんの意図もなく、私がふと、もらした心境を、先生は即座に受けとめられて、色紙の上に私のはなむけの言葉として贈ってくださったのだ。
大学を卒業するのは翌年の3月で、その前年のの11月3日・文化の日に、まさかはなむけの言葉をいただくとは、夢にも思わなかったが、今になってみると、本当にありがたい事である。卒業の半年も前に、卒業を祝してと書かれて、にっこり笑われた先生のユーモアが今でも思い出されて、私の心を和ませる。
先生がなくなられてから、たった一度だけしか、お墓参りをしていないのが気にかかる。
そのうちに大阪から車を飛ばしてでも、墓参するつもりである。
その時はもちろん、私の作品の中で、自信作を先生にお目にかけて、聴いて頂くつもりである。ピアノ伴奏で作ったソロ曲「延命十句観音経」 がいいか、それとも女声合唱曲「舎利礼文」がいいか。
迷うところである。