日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

平手打ち警官に支持多数=電話

2007年10月08日 | Weblog
メール2千件超す-神奈川県警 9月6日

電車内で騒いでいた男子高校生(16)を平手打ちした神奈川県警の巡査長(33)が傷害の現行犯で逮捕された事件で、県警本部などに巡査長の行為を「よくやった」などと支持する電話やメールが6日午後4時現在、2000件以上寄せられた。
県警監察官室は「巡査長は明らかにやり過ぎだった」として、思わぬ反響に困惑している。
 
 監察官室によると、電話やメールは
「よくやったというべきだ」
「警官の行動を支持する」
「注意できる大人がいない中、警察官の行動は安心できる」
「寛大な処置をお願いします」など、
ほとんどが巡査長の行為を肯定する内容だった。
 これに対し、
「厳しく処分しろ」など批判的な内容は4件しかなかったという。
 
監察官室は「普段、電車内のマナーの悪さに不快感を抱いている人が敏感に反応したようだ」と分析した。

近頃の高校生のマナーの悪さには、何とかならんのか、なんとしてくれというのが大人の思いだ。しかしうかつに注意するとどんな被害をこうむるかを先に考えるので、誰も注意しないのが現状だ。

それは西日本JR列車サンダーバードの強姦事件を見ればよくわかる話だ。誰一人として悪漢に注意しないで、かかわりを持たないように、見てみぬ振りをしたではないか。
これが庶民の生活実感とその行動なのだ。それを現実に踏まえたところからの発想や、判断がほしい。

職務上注意できるのは警官しかいないではないか。こんな緩みきった世相の中で一般の大人に注意するように求めるのは非現実的で求めすぎである。

もう1つ例を挙げる。
広島での話し。
暴走族を捕まえるのに、彼らは取り締まり警官をなめきって挑発していた。この状況が放映されるの見るたびに、警察の弱腰に腹が立って、職務怠慢じゃないかとすら思った。
県警の本部長、竹花氏がパトカーに体当たりを許可した。そうしたら暴走族は体当たりを恐れて暴走行為をしなくなった。
これは実例であり実績だ。

今の高校生を口で注意して聞くと思うか。
それはあまりにも現状や実態を知らなさ過ぎる。私は20年間にわたって、高校生の生活指導をしてきたが、とても言葉上の注意では彼らは聞かない。それどころか、注意しようものなら倍以上の暴言を浴びせられる。これ以上どうしろと言うのだ。これが高校の生活指導の現場の生の声だ。現実だ。

また何をされるかわからない状況の中で、注意できるのは警官だけだ。それも口頭注意では、おそらく聞くまい。
こういう中で、毅然とした態度をとるのは、本来は大人の仕事だが、被害を恐れて誰も注意などしない。そういうことでマナーの悪さは、さらに輪がかかっているのが実態だ。
おかしい社会が出来上がってしまっているのだ。

こういう状況下でマナーの悪さを正そうと思えば、警察署に連行するか、現場で怪我をしない程度で殴るかしか、現実問題の解決には方法がないのではないか。

 国民は何とかしなくては思いつつも、手出しが出来ない。それを警官がやってくれたのだ。英雄視はしないが、その行為たるや多くの人が望み、共感を覚えるのは当たり前じゃないか。
 これが暴力か?これはマナー指導上必要悪だ。現実的な解決法はこれしかない。
だから警官擁護の意見が圧倒的に多いのである。

観察室の係官は現場の状況や、実態を知らないで、発言するから、庶民との感覚のずれを指摘されるのだ。そして今回は庶民の判断は正しい。マナーが悪く注意したら何をするか判らない高校生のガキ共は痛い目に遭わせないと、マナーを改善するようなことはおそらく出来ないだろう。

「警察官として殴る行為は肯定できない。詳しい経緯も捜査中で、巡査長を一方的に英雄視する声には戸惑いを感じる」としている。
何を寝ぼけたことを言ってるんだ。目を覚ませ。 

英雄だとは思わないが、よくやったというのが、大方の見方だろう。
警官の平手打ちには喝采を送る。

 美人

2007年10月08日 | Weblog
姿かたちよく見目麗しいのは、女性だけとは限らない。

男性でも、男ぶりがよくて、同姓でもほれぼれ見とれるれるほどの人が居るものだ。
そんな人を見ていると、この人はきっと、善良で立派な人なんだと、ひとりで決めて、中身も確かめずに、独断と偏見に満ちた評価を下す。

ましてや、背広をきちっと着こなし、気の利いた装身具、たとえばシックな時計、のりの利いたワイシャツや、ちらっと見える上品なカウスボタン。それに顔に似合う眼鏡などを身に付けて、外見もパリっと整えているときは、中身はどうあれ、外見にすべてその人の人格が現れているようで、中身と外見が一致しているような錯覚をする。

そして、その錯覚に基づいて評価をするのだが、評価自体が当てならないのに、それに信頼を寄せて先入観を作ってしまう。

それでも、人間の直感というやつは恐ろしいもので、すべてを見抜いて正鵠を得ている場合もなきにしもあらずだが、私はこのような評価がその人の一瞬のスナップとしてはズバリあたっていることを認めはしても、一つの体に神と悪魔の両極端を併せ持っている人間の、個性なり、資質なりの時系列化されたトレンドを示しているとは思わない。

なぜならば、人は意識的努力によって、自分の綺麗な部分(たとえそれが体の部分であっても、心の部分であっても)を出そうと努力するものであるから。

そして私は人の心の奥底に住む、神と悪魔のお互いを差引しても、なお神性が残る人こそ、美人だと思う。

しかも、こういう種類の美人は年とともに、ますます磨きがかかってその美しさは光彩を放つ。

こんな簡単な美人の見分け方ができるようになるまでに、50年の歳月を要した。