金沢旅情
彼はブラジルで悠々自適、おそらく好きな本を買い込んでは、自分のアトリエに持ち込み、読書三昧の日々を過ごしていることだろう。
本社の重役からブラジルにある子会社の社長に転出して、そのまま居着いてしまった。風聞では、一人娘のお嬢さんも、ブラジルの市民権を持った日系三世と結婚されたということであるから、故国日本へは足が遠のき、骨を埋める気になったのだろう。
彼と私はひとまわり以上も年が離れていたし、平社員と重役という立場もあって、私にはそれなりの遠慮があったが、オフタイムには個人的な付き合いがあった。
彼のことを私は、大陸浪人とあだ名していた。
満州の荒野に、着流しになわの帯でも巻き、セッタをはいて、夕日を背にてして立ち、夢を語り、ロマン語り、人生を語るそんな姿が彼には1番似つかわしいと思える不思議な雰囲気があった。
それは彼の上司に対する言動にも、部下に対する言動にも、その雰囲気が出ていたから会社人間としての恣意的な演出では決してなかった。
彼の風貌も言動も所詮、彼の個性や人生観や価値観によってきたるものであり、それが彼独特の持ち味を感じさせていたのであった、
とはいっても、際立って突出した何かがあるという訳でもなく、当たり前のことを、当たり前のように言う、凡人だったと私は評している。
そんなAさんに私は青春の輝きを見つけ。自分の夢を重ね合わせていたのであろ。私は彼が好きだった。
彼は金沢の4高で学び、東大の経済学部へ進んだ。卒業後当時の花形産業と言われた繊維会社へ就職した。そして、太平洋戦争に学徒出陣したが、無傷で帰ってきた。
戦争といえば、空襲しか知らない我々世代とは違い、無傷と言っても鉄砲の弾丸をかいくぐった経験はあっただろうから、人間が生きることの厳しさの自覚と言ったら、我々世代とは比べ物にならなかった。厳しいものがあった。
私は自分よりも、もう1世代前に生まれた先輩たちの学生生活、特に旧制高校の生活には関心があった。
というのは、青年としての純粋さや、理想を求め、苦悩し、人生に悩むその姿が私の理想であり、酒を飲み高吟するばんからは、私の憧れであったからである。
彼が持っている雰囲気は私の求めているものをふんだんに持ち合わせていた。雀百まで踊り忘れずか、三つ子の魂100までか。
私が「金沢旅情」を作詞作曲しようと思ったのは、金沢への憧れからであったが、その奥には金沢がAさんの青春の地であったということが前提となっている
短かめの北陸の夏は、ここ兼六園にも影を落とし、霞池から引いた噴水はさびしげだった。
兼六園随一の石灯ろうを小さく見て、霞池はさざ波が漂っている。
頬を過ぎゆくここの風に吹かれて、池のほとりにたたずみながら、私は自分の青春を思い返し、幻と消えた夢と重ねてAさんの青春を思いやった。いや四高生の青春に思いをはせた。
四高といえば、私は何の関係もない。単なる通りすがりの旅人である。それにもかかわらず、私は自分の青春と四高生の青春を重ね合わせていた。池を散策しながら,私は自分の若き日を思い返してみた。
はるかな青春。今はもう遠い過去になりつつあるが懐かしい。そこには夢と希望が満ちあふれ、詞があり、歌があった。純白の画布におろす絵筆を握る手には胸の思いがあふれていた。
ママにならない現実と違って、時は苦みを分散して脱落させ、過去の華美なものだけが、重層的に残っていて、ノスタルジアは心を憩わせてくれる。
私はいつの間にか彼になり変わっていた。
霞池に映り、流れゆく雲を見ながら、そして時計の針を逆に回して、人生の意味を問い、人間存在の根源的なものを尋ねてみた。しかし浮かびくるのはその昔あこがれた少女の面影のみだった
男女7歳にして席を同じうせず、という社会規範がどれほど人の心を縛ったか知らないが、いつの時代でも美少女への憧れは煩悶の日々にみずみずしい感覚を注いでくれる
彼の話によると、彼が四高生だったころ、近くの喫茶店に美しい娘が働いていた。当時喫茶店で働いていたという事実から推測するに、それほど恵まれた生活環境にはなかった女性だろう。
さんさんと輝く太陽の下に何の苦労もなく育った深窓の令嬢にも心惹かれるが、何らかの不幸を背負いこみ、グレイの憂いを含んでいる陰性の美少女にはことのほか、心惹かれるのでは無かろうか。と言うのは、社会正義に目覚め、理想に走りがちの青年にとっては彼女をこの俺が幸せにしなくちゃという意気込みと自負があり、おそらく四高生の幾人かはそう思ったことだろう。
50年の時が流れて、その美少女もいい年のおばあさんになっているはずだ。
彼が見せてくれたその写真を見て、これだけの美人を男が放っておくはずがないと私は思ったが、彼女のその後の人生は相変わらず苦労の多いもので、ついに幸福の女神は彼女に微笑みかけなかったようである。
そういえば、何も四高生に限らず、我が青春にも似たような思い出がある。このダブリのおかげで、私の旅は一層豊かなものになった。
私はこの旅情や心境を次のような詞に託した。そして不幸な彼女の境遇と私の苦渋に満ちた青春を重ね合わせて、(モル)単調のメロディーをつけざるを得なかった
金沢旅情
1,昔の夢は 懐かしく
はるばるたどる 北陸路
今も微笑む かの人を
尋ねて、金沢 一人旅
2,霞池の さざ波に
移るの面影 懐かしいや
たたずみ、おれば 身にしみて
今なお聞こえる 青春賦 ( はるのうた)
3,幾春秋が めぐれども
昔のままよ 兼六園
100万石の 城跡に
聞くは松風 セミ時雨
彼はブラジルで悠々自適、おそらく好きな本を買い込んでは、自分のアトリエに持ち込み、読書三昧の日々を過ごしていることだろう。
本社の重役からブラジルにある子会社の社長に転出して、そのまま居着いてしまった。風聞では、一人娘のお嬢さんも、ブラジルの市民権を持った日系三世と結婚されたということであるから、故国日本へは足が遠のき、骨を埋める気になったのだろう。
彼と私はひとまわり以上も年が離れていたし、平社員と重役という立場もあって、私にはそれなりの遠慮があったが、オフタイムには個人的な付き合いがあった。
彼のことを私は、大陸浪人とあだ名していた。
満州の荒野に、着流しになわの帯でも巻き、セッタをはいて、夕日を背にてして立ち、夢を語り、ロマン語り、人生を語るそんな姿が彼には1番似つかわしいと思える不思議な雰囲気があった。
それは彼の上司に対する言動にも、部下に対する言動にも、その雰囲気が出ていたから会社人間としての恣意的な演出では決してなかった。
彼の風貌も言動も所詮、彼の個性や人生観や価値観によってきたるものであり、それが彼独特の持ち味を感じさせていたのであった、
とはいっても、際立って突出した何かがあるという訳でもなく、当たり前のことを、当たり前のように言う、凡人だったと私は評している。
そんなAさんに私は青春の輝きを見つけ。自分の夢を重ね合わせていたのであろ。私は彼が好きだった。
彼は金沢の4高で学び、東大の経済学部へ進んだ。卒業後当時の花形産業と言われた繊維会社へ就職した。そして、太平洋戦争に学徒出陣したが、無傷で帰ってきた。
戦争といえば、空襲しか知らない我々世代とは違い、無傷と言っても鉄砲の弾丸をかいくぐった経験はあっただろうから、人間が生きることの厳しさの自覚と言ったら、我々世代とは比べ物にならなかった。厳しいものがあった。
私は自分よりも、もう1世代前に生まれた先輩たちの学生生活、特に旧制高校の生活には関心があった。
というのは、青年としての純粋さや、理想を求め、苦悩し、人生に悩むその姿が私の理想であり、酒を飲み高吟するばんからは、私の憧れであったからである。
彼が持っている雰囲気は私の求めているものをふんだんに持ち合わせていた。雀百まで踊り忘れずか、三つ子の魂100までか。
私が「金沢旅情」を作詞作曲しようと思ったのは、金沢への憧れからであったが、その奥には金沢がAさんの青春の地であったということが前提となっている
短かめの北陸の夏は、ここ兼六園にも影を落とし、霞池から引いた噴水はさびしげだった。
兼六園随一の石灯ろうを小さく見て、霞池はさざ波が漂っている。
頬を過ぎゆくここの風に吹かれて、池のほとりにたたずみながら、私は自分の青春を思い返し、幻と消えた夢と重ねてAさんの青春を思いやった。いや四高生の青春に思いをはせた。
四高といえば、私は何の関係もない。単なる通りすがりの旅人である。それにもかかわらず、私は自分の青春と四高生の青春を重ね合わせていた。池を散策しながら,私は自分の若き日を思い返してみた。
はるかな青春。今はもう遠い過去になりつつあるが懐かしい。そこには夢と希望が満ちあふれ、詞があり、歌があった。純白の画布におろす絵筆を握る手には胸の思いがあふれていた。
ママにならない現実と違って、時は苦みを分散して脱落させ、過去の華美なものだけが、重層的に残っていて、ノスタルジアは心を憩わせてくれる。
私はいつの間にか彼になり変わっていた。
霞池に映り、流れゆく雲を見ながら、そして時計の針を逆に回して、人生の意味を問い、人間存在の根源的なものを尋ねてみた。しかし浮かびくるのはその昔あこがれた少女の面影のみだった
男女7歳にして席を同じうせず、という社会規範がどれほど人の心を縛ったか知らないが、いつの時代でも美少女への憧れは煩悶の日々にみずみずしい感覚を注いでくれる
彼の話によると、彼が四高生だったころ、近くの喫茶店に美しい娘が働いていた。当時喫茶店で働いていたという事実から推測するに、それほど恵まれた生活環境にはなかった女性だろう。
さんさんと輝く太陽の下に何の苦労もなく育った深窓の令嬢にも心惹かれるが、何らかの不幸を背負いこみ、グレイの憂いを含んでいる陰性の美少女にはことのほか、心惹かれるのでは無かろうか。と言うのは、社会正義に目覚め、理想に走りがちの青年にとっては彼女をこの俺が幸せにしなくちゃという意気込みと自負があり、おそらく四高生の幾人かはそう思ったことだろう。
50年の時が流れて、その美少女もいい年のおばあさんになっているはずだ。
彼が見せてくれたその写真を見て、これだけの美人を男が放っておくはずがないと私は思ったが、彼女のその後の人生は相変わらず苦労の多いもので、ついに幸福の女神は彼女に微笑みかけなかったようである。
そういえば、何も四高生に限らず、我が青春にも似たような思い出がある。このダブリのおかげで、私の旅は一層豊かなものになった。
私はこの旅情や心境を次のような詞に託した。そして不幸な彼女の境遇と私の苦渋に満ちた青春を重ね合わせて、(モル)単調のメロディーをつけざるを得なかった
金沢旅情
1,昔の夢は 懐かしく
はるばるたどる 北陸路
今も微笑む かの人を
尋ねて、金沢 一人旅
2,霞池の さざ波に
移るの面影 懐かしいや
たたずみ、おれば 身にしみて
今なお聞こえる 青春賦 ( はるのうた)
3,幾春秋が めぐれども
昔のままよ 兼六園
100万石の 城跡に
聞くは松風 セミ時雨