日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

マルコスと新平家物語

2007年10月28日 | Weblog
吉川英治の傑作「新平家物語」の終わりの方に、平家の落人が
九州山脈の山奥深い、椎葉の里に逃れて、そこで平和な生活を営んでいる場面が出てくる。
太陽の光や自然は、源氏や平家を何一つとして区別することなく、
ただ、一つの大きな力で、動物も植物も人間もみんな等しく、生かされている姿が、絶妙な筆致で描かれて、読むものを椎葉の里の住人かと、錯覚させてくれる。

私も、吉川英治先生のこの境地、万物と宇宙をも、飲み込むような大きな大きな愛によって生かされているという神仏の世界にも通じるような境地に憧れを持っている。

 フィリピンの大統領・マルコス氏は民衆の力によって失脚させられた。20年余りの間、フィリピンの大統領として権力をほしいままにし、真にフィリピン国民の生活に貢献するというよりは、自分の権力と地位の
保全と継続に汲々として、最後は民衆によって見放されてしまい、
権力の座を追われてしまったのである。

「奢れる者久からず 、只春の夜の夢の如し」を地で行った。

 その昔、今から800年ほど前に、平家は春の夜の夢のごとく消え去った場面が、マルコス失脚劇で、目の前に繰り広げられたような気がした。

 そして、これは観念による絵や写真ではなく、テレビ画面を通して実感を伴って、私に迫ってきた。
 800年の昔、京都を舞台に繰り広げられた平家一門の栄枯盛衰の模様は、ところを変えて、今フィリピンで、起っている。マルコス追放劇そのままだったんだろうか。
 テレビに大写しされたマルコス氏の表情には、栄枯盛衰の心の思いが如実に表れていた。
 人間誰しも権力や地位や金には激しい執着を持つものだが、それは深く考えると、人間の迷妄・心の迷い以外の何物でもないということになるのではないだろうか。
求めて与えられたところで、むなしい結果しかないという人間存在の業に思いをいたすとき、必然的に生ずる「栄枯盛衰」 「生者必滅」の仏教哲理が胸に染みとおる。
 
 科学技術進歩の発達によって、世の中のテンポが早まり、あわただしい現代の世相ではあるが、それに逆らって、各人が自分の人生を見つめ直す一つの手段として、このマルコス劇を眺めたとすれば、マルコス氏にとってのこの悲劇も、それなりの意味のあることだと私は納得できた。