日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

中学2年生の殺人事件

2007年10月21日 | Weblog
結論から先にいうと、かって日本は、治安の良い国、犯罪の少ない国,国民道徳が守られている国
礼節の邦人とまで言われて、海外からも住みやすい国という点で、一目置かれていた。

ところが、現代日本の犯罪状況はどーか。犯罪は多発し、しかも凶悪化している。
加えて、外人までが、日本国民の犯罪に対するガートの脆弱さにつけ込んで、日本国内で犯罪を犯す。不良外人にとっては、仕事のしやすい、犯行を行う上で、過ごしやすい日本と言うのが、現状なのだ。

どうしてこういうことになったのか。またどうしてこんな国になったのか。
言葉でいえば、社会病理現象と、ひとくくりになって、言ってしまえるが、それでは、一般人には、なんのことやらさっぱりわからない。

原因が、多岐にわたり、複雑になっていることは認めても、そのひとつひとつを解決して、犯罪全体を防ぐというようなことは、理論上可能であっても、現実には不可能なことなのである。

だから、私は、学者とか、識者とか言われる人たちの言葉には、ほとんど注目しない。し鵜呑みにはしない。

原因や現象を別の言葉で、というよりは難しい、学術用語で説明したにすぎず、ほとんどが現実的には役にたたない、言葉上の提言にすぎない。

やはりこれは現場の専門家の経験律から割り出された、犯罪防止策を徹底してもらうのが、一番手っ取り早いと思う。

長崎では、中学生が、4歳の子供を20mの高さのビルから突き落として死亡させている。この事件では、加害者が、中学2年生12歳ということらしいが、殺人を犯しても、犯罪には、ならないので、矯正施設で教育を受けるという、事だけで済まされそうだ。

 加害者に対しては、この程度の措置をした。
これでは犯罪者救済になるだけで、本来罪も無く殺された被害者にとっては、まったく殺されるぞんである。

被害者、すなわち自分の意思に反して殺された被害者の救済はどうなっているのか。
どうしてこういうバランスのとれないことが、法律として決められているのであろうか。

 子どもに責任がないというならば、子供の行動に対して、未熟な子供に対して監督責任を持つ親が、それなりに制裁を受けるのは当然のことではないか。

森山法務大臣は、この件で、少年法を改正して、14歳から刑事罰の対象として少年法を採用。12歳に、引き下げるつもりは無いと言明した。その理由とし、3年前に引き下げたばかりだからという。

こんなことは理由にならないし、これにかわって何か有効な手立ての提案があるかと思えば何も無い。

こういう考えの人が治安が悪化する一方の現状にマッチできるのであろうか。

 治安の悪化に対してどのような対策を講じて、社会の安全を守るか、庶民の暮らしを守るかという観点から、現状を何とかしてほしいという庶民の願いがわからないのであろうか。

この国のなにが一体緩んだのだろうか。
不良外人が日本は犯罪を起こしやすい国だという。国も国民もガードがゆるいかららしい。つまり国も国民も不良外人になめてかかれるている、組しやすいところなんだ。

これは不良外人の犯罪者に限らず国内の犯罪者もそう考えている。つまり犯罪を起こすにはさして抵抗がないという感覚だ。果たしてこれでよいのだろうか。

法律の基本は犯罪を犯したのもは、犯した犯罪に見合う罰をうけるのが、バランスの取れた法律だと思う。

法律の名の下に、責任を免除して将来ある子供だから教育刑によって更生させるというのは、あまりにも加害者優先ではないか。

殺される理由が何もなかった子供の、人権は一体どうなるのだ。
被害者の無念さや惨状にどうして目をつぶろうとするのか、かるんじようとするのか。それが再犯の大きな原因になっているとすら思える。

そこには責任感や罪の意識が希薄になる一因になっているように思われて仕様が無い。たとえば逮捕されたら顔写真や手錠姿をどうどうと公開すべきである。
何が犯人の人権だ。犯人の人権尊重を言うのなら罪のない被害者の人権を犯罪者の十倍も保障してほしい。

少年教護施設を訪問して現実の話を聞く機会があったが、3,4割はまた罪を犯してここに舞い戻ってくるという話だ。

つまりこの世には社会に出すると、犯罪を犯さずには暮らせない性悪な人間も存在するのだ。彼らに対しては社会防衛の上からも人権を制限してもよいのではないか。

弁護側がよく使う言葉に犯罪者の人権という言葉があるが、これは基本を忘れたとんでもない考え方である。
加害者には徹底的に責任を取らせる。それは社会を、犯罪から守り治安のよい社会をつくる第一歩である。

本来だったら、こういうことは各自の道徳心に期待していいことなのだが、道徳心が希薄になった今では現実的な対応には役立たずである。

庶民一人一人が安穏に暮らすには、犯罪者を自分たちの社会から追放することだ。隔離することだ。

そこで僕からの提案。

自分の欲望のために人に危害を加えたものに対しては被害者以上の苦しみを与え、特に殺人においては自分の命で殺した命をあがなえ。つまり問答無用で死刑に処することだ。

アカデミズム

2007年10月21日 | Weblog
アカデミズムというと何かしら権威があって、その重みには無条件に従わなければならないような錯覚を持つが人が多い。

何も考えない連中はこれをうまく利用することだけを考えて、もの本質とか、あるべき姿などさについては、自分なりの考察を加えたりはしない。
そのくせ、アカデミズムを前面に押し出して出て、これをこけら落としに使い、その権威の前に大衆をひざまづかせようとする。

一方、大衆もこの言葉や考え方に弱く、両手をあげて、無条件に権威を認めて、ひれ伏してしまうようなところがある。

アカデミックな風を吹かせるする連中はそこへつけこむわけである
アカデミズムそのものが悪いわけではない。
それに対する人間のアプローチの仕方が悪いのである。このことはアカデミズムをかつぐ側もアカデミズムにひれ伏す側もはっきり知っておくべきことである。
アカデミズムをかついで飯を食っている連中が多く、辟易している昨今である。