日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

神経性下痢

2007年10月15日 | Weblog
神経過敏症の私は、仕事の上で溜まったストレスが原因で、神経性下痢をたびたび起こした。

どういうものか、それも習慣性を帯びていて、お腹がちくちく痛み出し、グットと腸内を抑え込むような痛さが走るのは、この満員電車の中である。

ところが乗ったが最後、身動きできないのが、朝夕ラッシュの通勤通学電車のお客である。
 列車のトイレが目の前にあろうが、なかろうが、手は大阪、足は東京の状況ではどうにもならない。

 ぐるぐると、腸内が鳴り出すと待ったなしである。
ビビッと下へ下へと攻めは広がり、かつ深刻になる。
電車が駅に着いて、トイレに飛び込むまでの勝負が始まる。

この時ばかりは私も、にわか信心を起こし、
「神様。なんとかトイレまで持たしてください。たのみます」と必死に祈る。このときばかりは日頃こねている、信じる信じないの理屈はどうでもいい。頭から吹っ飛び、素直に、しかも一心に「神様」と心の中で祈る。いや、助けを求める。

寄せては返す波のように時間が経つにつれて、痛みは波状的に増すばかり。
じっと唇を噛んで、こらえはするが、額は冷汗が一筋二筋と流れてくる。
死ぬような思いをすると言えば、オーバーな表現になるであろうか。

電車が、到着して、漏らさないように、そろりそろり歩いてトイレに行くと、順番待ちが3人ぐらい並んでいるのを見た時の恨めしいこと。
他所を探すが、ここで順番待ちをするか。あの時のいらいら。

 下腹からの圧力に打ち勝って、トイレに飛び込んだ時の嬉しい事。
一気にグッと力を入れると、ぱっと水花が白い陶器1杯に咲く。
あの時の気持ちよさ。
シクシク下腹が痛むが、助け船(トイレ)があるので、悠々たるものである。
。今の今まで神様に助けてくれと心の中で叫んだはずなのに、お礼も申さない。もうケロッと忘れている。身勝手なものだ。

苦しいときの神頼みというじゃないか。なるほど。なるほど。

それにしても、神様も人を救う商売だとはいえ、身勝手な奴を相手にしているものだ。良くぞ辛抱なさる。心中をお察しするに、たまらんだろうな。


「のどもと過ぎれば暑さ忘れる」ということわざを地でいっている。なんとも恩知らずなとは思うが。もう苦しい坂は通り過ぎた。

ある日、私は、この経験を友人に話した.。
彼はまだあるという。[満員電車の中]以外に
[運転している車が、渋滞に巻き込まれた時]
[授業中の生徒.講義している最中の教師」

3~40年間サラリーマンをやっていると、こんな経験は大抵のものがしているのじゃないかと思うが、皆さん。いかが?

[僕は今 何もいらない 紙以外」。実にこの通りだ。経験者語る。かな?

































ポーンは死んだ

2007年10月15日 | Weblog
日本人の、誰もが金持ちだとは限らない。

一時間七百五十円のつつましい、アルバイトをしながら、稼いだ金をためて、海外旅行、それも貧乏旅行している人も大勢いる。

東南アジア、たとえば、ベトナム、カンボジア、中国、ネパール、インド、タイ、ラオス、などを旅してみると、これら日本人貧乏旅行者たちよりもはるかに貧乏な人たちが多いから、その人たちからみると、日本人は、たとえ、バックパックカーであったとしても金持ちだといわれれば、それはそうだと思う。

三度の食事にこと欠く人が、飛行機に乗って、海外までやってこれるわけがないのだから、現地人が日本人は金持ちだと思うのも無理はない。

ところが 元々金がないから慎ましい生活をするために日本人の貧乏旅行者は決まって、安宿街へもぐり込むのだ。

例えば、インド。、カルカッタのサダル・ストリート。タイ・バンコクのカオサン通り。ベトナム・ホーチミンのフオングーラオ通り。
日本でいえば、さしずめ東京の山谷や、大阪のドヤ街などのような雰囲気が漂うところで、普通の日本人なら敬遠したくなるような場所柄である。

とにかく、宿泊代が安い。同室に何人か寝起きするドミトリー形式の宿泊所は2,300円で、一晩泊まる事が出来る。
そして、この近くには、不潔だが屋台があり、食べ物はやすい。ほんの少しのお金で寝ることと、食べることには事欠かない。

どいうわけか風に吹かれながらこの屋台で食べると普段ではとうていまずいとしか思えないようなものでもおいしいと思うから不思議である。
僕は最初このようなところへ、足踏みいれたときには思わず
「わっー」と意味不明の、言葉が口をついて出た。

その雰囲気に、到底なじめなかったし、とけ込むにはあまりにも抵抗が大き過ぎたのだ。気分的には高いところから目をつぶってえいやっと、水中へ飛び込むような緊張感を感じたのである。ところが何回も出入りしている内に別に何とも思わなくなった。慣れは怖いものである。

 日本から、タイのバンコック空港につくと、ここから、乗り物に乗って約
一時間かけてバンコク市街まで行くことになる。
渋滞などを考えると、空港のすぐそばから出ている(鉄道)列車を利用するのが確かであり、この終点の駅が、ホアランポーン・中央駅である。日本で言えばさしずめ東京駅と言うところか。

ホアランポーン駅の西横には、真っ黒で悪臭を放つ泥水が流れている運河がある。この運河の橋を渡り、チャイナタウンの方に、向かって歩いていくと、ロータリーがあり、近くにジュライホテルという名のホテルがあったそうだ。
ここの住人は日本人が多く、それも長期滞在の旅行者が住み着いていたようである。

この話は此のジュライホテルを舞台にしてタイ人女性・ポーンとそれを取り巻く日本人旅行者の織りなす人間模様である。聞いたところによると、このホテルは、ぼくがバンコクへ、通い始めたころには、すでに閉鎖され、撤去されていたので、そこで繰り広げられた物語は想像の域を脱することはできない。

谷恒生の小説「バンコク楽宮ホテル」には、このジュライ、ホテルの日本人、貧乏旅行者の生活振りが、描写されている。それとダブるようにして、僕が、バンコクに長期滞在しているバックッパッカーから聞いた話とは、ほぼ、一致しているから多分実話か、それに近いものだろう。

 この、ジュライホテル周辺を舞台に生活していたポーンという名の女が、
エイズのために、今年二月、二十八歳の生涯を閉じた。
死ぬ2,3ヶ月前から下痢や吐き気を繰り返し、体はやせ細り彼女は、間もなく、死ぬだろうというのが、おおかたの見方であった。

身勝手なものでさんざん彼女と遊んでおきながら誰も彼女を助けてやろうとはしなかった。勿論それには訳がある。
彼女は以前、日本人男性と、結婚した経験があり、来日して、名古屋近辺に住んでいたということだ。だから日本語はとても上手で、離婚してバンコクに帰国してから後は、ここに住みつき、何人もの日本人貧乏旅行者を相手にしては、生活していた。
このポーンを相手にした日本人男性の数はかなりにのぼるらしい。

彼女は、身売りのほかに、麻薬をやっていたようだ。人生に絶望していたのだろう。やけのやんぱちで挙げ句の果てには、彼女は日本人男性に、麻薬を勧めては、警察へ密告して、褒賞金を得ていたという噂もたっていた。

この地域で、警察とグルになっていれば、たれ込みによって、金が稼げたのだろう。このことを知らなかった日本人は、かなりの男がカモになったらしい。刑務所へ入るか、それがいやだったら高額のワイロを払って見逃してもらうかどちらかだ。
 犯罪者が罰を受けるのは当然のことだが、こんな目に遭わした張本人として、噂では、これは彼女の仕業に違いないと、ポーンはいつもやり玉に挙げられていた。そういう意味でもしこれが本当だったら、彼女は悪女だったのだ。

彼女自身も、麻薬のために、警察に捕まって、刑務所暮らしをしたことがあるらしいが、その中で、彼女は、日本人の麻薬使用者、をカモにして金を稼ぐことを思いついたのかも知れない。あるいはたちの悪い警官から話を持ちかけられて端役を引き受けていたのかも知れない。おかげで、何人かの日本人が、刑務所に、放りこまれたということである。

彼女はチェンマイに近い郡部の出身で、父は、ビルマ人、母は、タイ人のハーフでバンコクに出てくるまでは、純情な田舎娘であった。ところが都会に、出てきてばかりに、彼女の人生が狂ってしまった。

幸せになるはずの、日本人との結婚もそれぞれの国の生活習慣や国民性の、違いがもとで、長くは、続かなかったようだ。それに彼女に近づいていった日本人は誰ひとりとして、この薄幸で、かわいそうな彼女をを救ってやろうとはしなかった。

よってたかって利用し、ごみのように捨てたのである。それは麻薬の密告者という噂が日本人の間に広まっていたせいでもあるのだろう。
いや、それだけではなく、日本人には、おそらくそのような、精神的なゆとりはなかっただろう。というのは、エイズ患者のポーンの死によって彼らはわが身が、エイズにかかっているかどうかが最大の関心事であったのだ。

だれからも見捨てられて、この薄幸な女性・ポーンは、二十八歳で生涯を閉じることになったのである。一見すると穏やかでマンペライ精神に満ちあふれるこの大都会のど真ん中でも掘り起こせばこのような悲劇が浮かび上がってくる。

僕はこの話を噂話として、聞いただけだから真偽のほどは知らないが、ありうる話だと思った。ポーンのこの話を聞いて僕は善玉も悪玉も作りたくはなかった。

これは人間が究極のところでは如何に孤独であるかと言うことを教えてくれる、いや感じさせてくれる話であった。つまり旅先のみならず人間は誰でもどこでも独りぼっちであるという人間の基底部分に横たわる一つの真実を思い知らせてくれた話だった。

穴場はどこだ

2007年10月15日 | Weblog
 毎年のことではあるが、相変わらず、初詣は大勢の人出だ。初詣が多い神社を見ると、いつものように、明治神宮の355万人を筆頭に、川崎大師が317万。住吉大社が283万。ラストが、京都の伏見稲荷で、223万人。
全国では、7742万人の人々が初詣に行ったと新聞、テレビが報じている。それでも去年に比べて、216万人減ったそうである。理由は、
3ケ日に降った雨のせいみたいである。

いったい何を求めて、こんなに大勢の人々が、初詣に出かけるのだろうか。生まれてこのかた、こうすることが、慣習となって、ただ何となく出かけるのか、。それとも御利益を求めて初詣するのか。

人々は、濃淡の違いこそあれ、現世利益を求めて初詣するのだと私は推測している。
現世利益。あの世ではなく、今生きて生活しているこの世で、御利益を授かり、日々の生活を安穏なものにするということは、人々共通の願いである。私も人後に落ちず、1日から3日までの間に、現世利益を求めて何カ所かに初詣に行った。

 我が国には、神無月というのがある。その神無月には、神さま方は、みな、出雲に集まり、全国の神社は空っぽになる。この時ばかりは
出雲は別にして、全国津々浦々どこの神社に参っても、御利益はなさそうだ。ご当人の神様がお留守だからである。

ところで、私は近頃とみに出雲に集まる神々の会議の様子が知りたくなった。というのは、会議の内容を知ってこれにうまく、対応すれば、御利益がたくさんもらえるような気がしてきたからである。つまり、穴場を知りたいのである。

推測するに会議のメインテーマは民衆の欲望に、どうこたえていくか。如何に満たしていくか。その辺のことだろうと思われる。

そしてこのテーマに関しての役割分担を決め、御利益の配分の仕方について、いかに万人に公平に、行き渡ら出せるか、について協議されているように思われる。
 と言うのは、人々の初詣を見れば分かるように、人間の神さん詣では、現世利益が中心だからである。神様としても、これを無視するわけにはいかない。人々の要求にこたえていかなければ、誰も初詣にこなくなるからである。

つまり、人々の素朴な願いを無視すると、人気が落ち、神社の存立そのものが、危なくなるからである。無限に近いと思われるう御利益を袋に一杯つめておられる神様でも、対応を誤ると、人気にかかわってくるから気を使われることおびただしい。


私は先ほど出雲に、集まる神々たちの会議の様子を知りたいと書いた。じつをいうと、この欲望はは抽象的な願望をいうのではなく、もう少し現実味を帯びたものなのである。すなわちテープレコーダーを使って、神々の話を盗聴して、記録しておきたいのである。

どの神がどれだけの御利益の詰まった福袋を持っておられるのか、
どこの神社に参れば、余計に福がもらえるのか、もし平等に福が詰まっていると言うのなら、あまり大勢人がお参りする神社を避けた方が良い。また逆に、お参りは少ないが、福袋の中身はぎっしりという。つまり一人当たりにすると福の配分が多い神社ならば、それこそ、穴場だし。それなりの目見当をつけるために、いろいろ予備知識として,頭の中にインプットしておきたいのである。それに加えて人々が実感している御利益話しにも、聞き耳を立てて情報を整理してみて、穴場をあらかじめ推定しておくと、たとえ、どこの神社に参るにしても、心構えが違うから、人より余計に福をもらえる確率が群を抜いて高くなると計算しているのである。


例年通り、我が家も家族全員、初もうでに行った。誰がどういう福を頼んだが、そんなことは知らないが、私が手を合わせてね一生懸命に御利益を頼んでいる最中に、
神が現れて次のようなことを申された。
 「いつものことながら、欲を道連れに初詣に来たのだな。それはそれで良い。今年も、それなりの福は、授けてやろう。だが、お前は自分の足元をじっくり見たら、神のすばらしいプレゼントに気づくだろう。
お前をこの日本に生まれさせたのは、ほかならぬ神のなせる業なのだ。いま日本で何か困ったことが起きているか。何もないだろうが。
国民はウサギ小屋に住んでいても、経済は世界1で、治安も医療水準も世界の中でもトップレベル。この後半の半世紀には国民が互いに殺し合う戦争も一切なかった。平和そのものの社会じゃないか。しかもその平和を背景にして、国民生活は中流意識に彩られて、ほかのどの国よりも暮らしやすい国であろうが。

神がお前ら人間特に日本人にこたえている最大の御利益とは、人生が大過なく過ごせるような平和を与えていることだ。そのことに目をつぶって、自分の目先だけの御利益を願うと言うのは、ある意味では神に対する侮辱だとおもわないか。

特にお前は、こすずるく福袋の中身さえも探ろうとして、テープレコーダーで神々の会議の様子を盗聴しようとしているではないか。熱心なのはそれは、それでよい。しかし、行き過ぎたのは困る。己の限度というものをわきまえて、神と付き合うというのが、人間と神の正しいあり方ではないか。

これは決してお前に説教しているわけではない。神と人間の関係のあり方の常識を申しているだけである。そこのところをよく理解して、その上に立って、盗聴するのは、まあまあだがねぇ」

神様は以上のようなことを話された。目を覚まして考えてみると、神様の言われる通りである。

それを超えて己一人の現世利益を願うのは、やはり厚かましいというほかはない。言われるまでもなく、やはり自分でも、これは行き過ぎたと、思わざるを得なかった。

先ほどまで、あれほど盗聴したいと、思っていた気分は、神様のこの一言によって、どこかへ引っ込んでしまった。

穴場、それは、神の福袋の中身分配の事ではなく、実際に足元に、転がっている神の恵みを知るということ。それが現実の穴場であると、僕は考えた。

盗聴など不遜なことを事を考えはしたが、これでひとつかしこくなったような気がした。