日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

車いす遍路

2009年02月13日 | Weblog
                 車いす遍路

何事であれはじめて出会うものは新鮮で、興味をそそるものである。
観光バスに乗ってやってくる人たち、マイカーでやってくる人たち、数こそ少ないが歩き遍路。そのどれもが新鮮に見えたし、私の興味を誘った。

どういう目的で、人々は遍路するのか、それが知りたかった。
病気を治すのには、本人を連れて遍路するのが、いちばん効果的とものの本には書いてある。

そうだ。脳こうそくで倒れた母を連れて、四国巡礼をすれば悔いは、残らなかったのかもしれないと後悔したが、次の瞬間、母には特に迷惑をかけたという自覚がないと言い訳をした。が、それは、僕自身の思いで母はどう思っていたか分からない。
このことに関しては、母は何も言わなかった。いつも黙っていた。本心どう思っていたのだろう。今となっては自分が推測する以外に、方法は無い。

母が倒れた時、車いす遍路はまったく思いつかなかった。医学的治療法が完璧だとは、思っていなかったから、神仏の加護を求めて、車いす遍路をすべきだったかもしれない。

僕は今日遍路姿で、車いすを使って巡礼している人に出会った。年のころは50歳前後で、男は車いすを押し、女性は車いすに乗っていた。たぶん、二人は夫婦じゃないか。いや、夫婦に違いないと勝手に決めた。

それにしても身軽な一人遍路でも大変なことを、身障者を車いすにのせ、巡拝することは、大変な作業と、大変な思いが付きまとう。
外面的なことを言えば、僕は明らかに楽で遊びのようなお参りをしている。僕は今回の遍路の目的が、たった一つの目的「お礼参り」ということで来ていることを強く意識していた。

巡礼する寺は平地に多いということは無い。どちらかといえば、階段のある山際などに多い。石段の多い本堂まで、どのようにして登ろうというのか、僕は興味を持った。気の毒だとは思うが、それは僕の責任でしたことではないと割り切っているので、気持ちはかるい。

山の中腹にあるあの第10番。切幡寺の境内で、ちらっと姿を見た。この寺も石段で333段あると石柱に書いてある。
大変な思いをしてここまで登ってきたことだろう。

第十一番藤井寺では挨拶を交わして行き違った。
車いすに乗っている身障者の女性は微笑みながら、言葉を交わした。不自由な体はコロコロ太っていたし、顔は赤ら顔である。これはきっと、血圧系やられたのだろうと思った。

次の焼山寺では僕が早く到着し、寺を去るときに山道の坂道を二人は登ってきた。
見知らぬ遍路が、主人と思われる男性に加勢して、二人で車いすを押していた。軽く会釈を交わしすれ違ったが、僕は表面はともかくとして、心の中では、もっとこの人たちと話をしたかった。
車いすで遍路をしている夫婦、これをビデオ撮影して家に持って帰りたかった。撮影することが、なんだか後ろめたい気がして、かなり離れたところから撮影しようとしたが。あっという間に杉の大木の影に姿が消えた。

夫人の様子をちらっと見たが、左手が内側に巻いている。僕が推量するところによると、たぶんこの人は、脳こうそくを患い、体にマヒでが起こっている。片方か、あるいは両方の手足にマヒが起こり、そのために歩行の自由が奪われている。
17年間寝たきりになったぼくの母と同じような状況にある。どんな形で生きて来てきた夫婦が、その人間模様は一切分からないが、母の状況とだぶらせて、この夫婦に興味と関心を抱いていた。
こういうことが可能なら、僕も母を車いすに乗せてお参りすれば良かったと悔やんだが、すべては後の祭り。
母は特にこの世を去っている。同時に、母の家を言えば、こんな大変なことが僕にできるだろうかと疑う疑問も頭をよぎった。
夫が病妻を車いすに、乗せてお参りする。この世にそのような情熱があればできることだ。母に対してその情熱がないと言うのなら、真の意味で母の心を深く受け止めていないことだ。僕は自分にそう聞かせた。

要は、やる気の問題で、それはひとえに、僕自身の問題であると、自問自答したが、心はむなしかった。
母に孝養をつくしたいと思えば、このぐらいのことはしても当たり前じゃないか。と心の声が響く。
しかしこんな形で、車いすを使って88カ所巡礼をすれば必ず良くなるという保証があるならば、それは報いられる話であるが、保証は、何もないわけで、ただあるとすればお大師さんに助けてもらって、元の体、少なくとも自分の見繕いが自力でできる程度までの体を取り戻すしかない。いくら一生懸命になったところで、そこには限界があるように、僕には思えてならない。

もし目を見張るような刺激的な回復があったら、それは軌跡である。そんな奇跡を期待して車いす遍路をして、期待はずれだったらしゃれにもなら無いだけでなく、おそらく不信感いっぱいで、2度と四国遍路はしないだろうと思う。それだけではない。お大師さんにも失望することだろう。
僕はマイナスイメージばかり思い浮かべた。心の底にこんなマイナス感情をひそめていたら、奇跡が起こったら、それこそ不思議である。絶対に起こらない。当たり前だ。行動を起こす前に可能性をすべて打ち消しようなことを考えているのだから。

起こりっこない。僕は自分にそう言い聞かせた。ここまで思ったときに僕は急にお大師さんの声を聞いたような気がした

「疑う前に信じろとは言わないが、行動する前にマイナス感情ですべてを否定してしまう考えは、捨てなさい。まず行動すべきだ。そのあとでなんと理屈をつけようが、それはお前の自由だ。」そんな声だった。
人生は、あらゆるものを肯定するところから始まるのだ。たしかこんな意味の声だった。

実際に行動も動かさないで、否定的な答え出すなんて最低だ。そんなマイナス感情を使うから何事も成就しないのだ。
一文の得にもならないことを考えたり思ったりして。どうする。僕は心の底に潜み、前向きの邪魔をするこの悪魔を心の中から追い出したかった。何事につけて、本心からやる気のない僕は、愚にもつかない理屈をつけて自分を正当化しようとする。わびしい限りだ。

考えただけでも気の重くなるようなことを実際に目の前でやってる人がいる。理屈ではなくて、行動で、目に見せてくれている。しかもこの夫婦は、二人とも表情が非常に明るい。僕にはそれが不思議でならない。たぶんお大師さんが見せてくれているのだろうけれども、分かるような分からないような複雑な気持ちだ。

ただ、一つだけ言える事がある。
もし僕が変だしなかったら、おそらく、この車いす遍路に会うこともなかっただろうし、又色々考えることもなかったように思う。これだけは断言できる。僕は急に思い立ったように、発心の道場を駆け巡ったのはお大師さんの招きだったんだ、僕はそう感じた。

今回の旅で、色々考えるチャンスを与えてくれたあの人たちと、次はどこで出会いのだろうか。ひそかに待たれる。