日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

良い寺 悪い寺

2009年02月26日 | Weblog
良い寺 悪い寺

良い、悪いという概念の中身は、非常にあいまいだが、何かわかったような気がする言葉である。その何か分かってような意味を用いて、 良い寺、悪い寺、を区別するなら、良い寺とは、
仏教本来の教えを、説くだけではなく、教えを実践するところであり、
悪いお寺とは、教えを語ることによって、蓄財に専念する寺のことである。
宗教家は、よく、人を救うというが、私には、人間が人間を、救えるとは思えない。
人間を救えるのは、神仏のみで、人間は、神仏の、手助けをすることぐらいしかできないと思う。それゆえに、人を救うと公言し、それを看板にして、弱みを持つ大衆を集めては、なにがしかの賽銭を、巻き上げるのは、インチキもので、悪い寺ということになる。


青年

2009年02月26日 | Weblog
青年

体中、垢だらけの 髪の毛ぼさぼさ 。ひげは伸び放題。
やせぎすの青年が溝に落ちたたばこを拾って吸うた。 20代の青年だ。顔には少年の面影が残っている。
この人は一体何者だ。いわゆる普通の生活からドロップアウトした怠け者か、それともメシも食えない創作家の卵なのか。

生きるチャンスに生活手段も個人の責任であり個人の自由である。
が、このままでは
長生きはおぼつかないのではないか。しかしこれでは命がもったいない
と言ってもこれも個人の自由か。   
ハッツアンも時々むつかしいことをいう。
「個人の自由と責任というが、社会的存在としての人間はどうなのだ」
「それは哲学的用語だ。現実生活のレールの上を歩かない奴はすべて自己責任をとらされ、同情すべきでない」
とクマさんは現実論をいう。
「それはそうも思うが、社会的にささないと。あるいは反社会的な矢を放つ。
非行に走る恐れもある。
だから救済が必要だと思う。放てからではからでは取り返しがつかないからね。飢えると人間は、どんなルールも、歯止めも通用しない、空腹を満たすために、道徳心も、消えてしまう。「恒産無ければ恒心なしだ」
もっともな現実論だ。
「うーん。」二人はうなっただけだった。世の中にはこの二人だけでは解けない問題があまりにも多い 。