日本人の、誰もが金持ちだとは限らない。
一時間七百五十円のつつましい、アルバイトをしながら、稼いだ金をためて、海外旅行、それも貧乏旅行している人も大勢いる。
東南アジア、たとえば、ベトナム、カンボジア、中国、ネパール、インド、タイ、ラオス、などを旅してみると、これら日本人貧乏旅行者たちよりもはるかに貧乏な人たちが多いから、その人たちからみると、日本人は、たとえ、バックパックカーであったとしても金持ちだといわれれば、それはそうだと思う。
三度の食事にこと欠く人が、飛行機に乗って、海外までやってこれるわけがないのだから、現地人が日本人は金持ちだと思うのも無理はない。
ところが 元々金がないから慎ましい生活をするために日本人の貧乏旅行者は決まって、安宿街へもぐり込むのだ。
例えば、インド。、カルカッタのサダル・ストリート。タイ・バンコクのカオサン通り。ベトナム・ホーチミンのフオングーラオ通り。
日本でいえば、さしずめ東京の山谷や、大阪のドヤ街などのような雰囲気が漂うところで、普通の日本人なら敬遠したくなるような場所柄である。
とにかく、宿泊代が安い。同室に何人か寝起きするドミトリー形式の宿泊所は2,300円で、一晩泊まる事が出来る。
そして、この近くには、不潔だが屋台があり、食べ物はやすい。ほんの少しのお金で寝ることと、食べることには事欠かない。
どいうわけか風に吹かれながらこの屋台で食べると普段ではとうていまずいとしか思えないようなものでもおいしいと思うから不思議である。
僕は最初このようなところへ、足踏みいれたときには思わず
「わっー」と意味不明の、言葉が口をついて出た。
その雰囲気に、到底なじめなかったし、とけ込むにはあまりにも抵抗が大き過ぎたのだ。気分的には高いところから目をつぶってえいやっと、水中へ飛び込むような緊張感を感じたのである。ところが何回も出入りしている内に別に何とも思わなくなった。慣れは怖いものである。
日本から、タイのバンコック空港につくと、ここから、乗り物に乗って約
一時間かけてバンコク市街まで行くことになる。
渋滞などを考えると、空港のすぐそばから出ている(鉄道)列車を利用するのが確かであり、この終点の駅が、ホアランポーン・中央駅である。日本で言えばさしずめ東京駅と言うところか。
ホアランポーン駅の西横には、真っ黒で悪臭を放つ泥水が流れている運河がある。この運河の橋を渡り、チャイナタウンの方に、向かって歩いていくと、ロータリーがあり、近くにジュライホテルという名のホテルがあったそうだ。
ここの住人は日本人が多く、それも長期滞在の旅行者が住み着いていたようである。
この話は此のジュライホテルを舞台にしてタイ人女性・ポーンとそれを取り巻く日本人旅行者の織りなす人間模様である。聞いたところによると、このホテルは、ぼくがバンコクへ、通い始めたころには、すでに閉鎖され、撤去されていたので、そこで繰り広げられた物語は想像の域を脱することはできない。
谷恒生の小説「バンコク楽宮ホテル」には、このジュライ、ホテルの日本人、貧乏旅行者の生活振りが、描写されている。それとダブるようにして、僕が、バンコクに長期滞在しているバックッパッカーから聞いた話とは、ほぼ、一致しているから多分実話か、それに近いものだろう。
この、ジュライホテル周辺を舞台に生活していたポーンという名の女が、
エイズのために、今年二月、二十八歳の生涯を閉じた。
死ぬ2,3ヶ月前から下痢や吐き気を繰り返し、体はやせ細り彼女は、間もなく、死ぬだろうというのが、おおかたの見方であった。
身勝手なものでさんざん彼女と遊んでおきながら誰も彼女を助けてやろうとはしなかった。勿論それには訳がある。
彼女は以前、日本人男性と、結婚した経験があり、来日して、名古屋近辺に住んでいたということだ。だから日本語はとても上手で、離婚してバンコクに帰国してから後は、ここに住みつき、何人もの日本人貧乏旅行者を相手にしては、生活していた。
このポーンを相手にした日本人男性の数はかなりにのぼるらしい。
彼女は、身売りのほかに、麻薬をやっていたようだ。人生に絶望していたのだろう。やけのやんぱちで挙げ句の果てには、彼女は日本人男性に、麻薬を勧めては、警察へ密告して、褒賞金を得ていたという噂もたっていた。
この地域で、警察とグルになっていれば、たれ込みによって、金が稼げたのだろう。このことを知らなかった日本人は、かなりの男がカモになったらしい。刑務所へ入るか、それがいやだったら高額のワイロを払って見逃してもらうかどちらかだ。
犯罪者が罰を受けるのは当然のことだが、こんな目に遭わした張本人として、噂では、これは彼女の仕業に違いないと、ポーンはいつもやり玉に挙げられていた。そういう意味でもしこれが本当だったら、彼女は悪女だったのだ。
彼女自身も、麻薬のために、警察に捕まって、刑務所暮らしをしたことがあるらしいが、その中で、彼女は、日本人の麻薬使用者、をカモにして金を稼ぐことを思いついたのかも知れない。あるいはたちの悪い警官から話を持ちかけられて端役を引き受けていたのかも知れない。おかげで、何人かの日本人が、刑務所に、放りこまれたということである。
彼女はチェンマイに近い郡部の出身で、父は、ビルマ人、母は、タイ人のハーフでバンコクに出てくるまでは、純情な田舎娘であった。ところが都会に、出てきてばかりに、彼女の人生が狂ってしまった。
幸せになるはずの、日本人との結婚もそれぞれの国の生活習慣や国民性の、違いがもとで、長くは、続かなかったようだ。それに彼女に近づいていった日本人は誰ひとりとして、この薄幸で、かわいそうな彼女をを救ってやろうとはしなかった。
よってたかって利用し、ごみのように捨てたのである。それは麻薬の密告者という噂が日本人の間に広まっていたせいでもあるのだろう。
いや、それだけではなく、日本人には、おそらくそのような、精神的なゆとりはなかっただろう。というのは、エイズ患者のポーンの死によって彼らはわが身が、エイズにかかっているかどうかが最大の関心事であったのだ。
だれからも見捨てられて、この薄幸な女性・ポーンは、二十八歳で生涯を閉じることになったのである。一見すると穏やかでマンペライ精神に満ちあふれるこの大都会のど真ん中でも掘り起こせばこのような悲劇が浮かび上がってくる。
僕はこの話を噂話として、聞いただけだから真偽のほどは知らないが、ありうる話だと思った。ポーンのこの話を聞いて僕は善玉も悪玉も作りたくはなかった。
これは人間が究極のところでは如何に孤独であるかと言うことを教えてくれる、いや感じさせてくれる話であった。つまり旅先のみならず人間は誰でもどこでも独りぼっちであるという人間の基底部分に横たわる一つの真実を思い知らせてくれた話だった。
一時間七百五十円のつつましい、アルバイトをしながら、稼いだ金をためて、海外旅行、それも貧乏旅行している人も大勢いる。
東南アジア、たとえば、ベトナム、カンボジア、中国、ネパール、インド、タイ、ラオス、などを旅してみると、これら日本人貧乏旅行者たちよりもはるかに貧乏な人たちが多いから、その人たちからみると、日本人は、たとえ、バックパックカーであったとしても金持ちだといわれれば、それはそうだと思う。
三度の食事にこと欠く人が、飛行機に乗って、海外までやってこれるわけがないのだから、現地人が日本人は金持ちだと思うのも無理はない。
ところが 元々金がないから慎ましい生活をするために日本人の貧乏旅行者は決まって、安宿街へもぐり込むのだ。
例えば、インド。、カルカッタのサダル・ストリート。タイ・バンコクのカオサン通り。ベトナム・ホーチミンのフオングーラオ通り。
日本でいえば、さしずめ東京の山谷や、大阪のドヤ街などのような雰囲気が漂うところで、普通の日本人なら敬遠したくなるような場所柄である。
とにかく、宿泊代が安い。同室に何人か寝起きするドミトリー形式の宿泊所は2,300円で、一晩泊まる事が出来る。
そして、この近くには、不潔だが屋台があり、食べ物はやすい。ほんの少しのお金で寝ることと、食べることには事欠かない。
どいうわけか風に吹かれながらこの屋台で食べると普段ではとうていまずいとしか思えないようなものでもおいしいと思うから不思議である。
僕は最初このようなところへ、足踏みいれたときには思わず
「わっー」と意味不明の、言葉が口をついて出た。
その雰囲気に、到底なじめなかったし、とけ込むにはあまりにも抵抗が大き過ぎたのだ。気分的には高いところから目をつぶってえいやっと、水中へ飛び込むような緊張感を感じたのである。ところが何回も出入りしている内に別に何とも思わなくなった。慣れは怖いものである。
日本から、タイのバンコック空港につくと、ここから、乗り物に乗って約
一時間かけてバンコク市街まで行くことになる。
渋滞などを考えると、空港のすぐそばから出ている(鉄道)列車を利用するのが確かであり、この終点の駅が、ホアランポーン・中央駅である。日本で言えばさしずめ東京駅と言うところか。
ホアランポーン駅の西横には、真っ黒で悪臭を放つ泥水が流れている運河がある。この運河の橋を渡り、チャイナタウンの方に、向かって歩いていくと、ロータリーがあり、近くにジュライホテルという名のホテルがあったそうだ。
ここの住人は日本人が多く、それも長期滞在の旅行者が住み着いていたようである。
この話は此のジュライホテルを舞台にしてタイ人女性・ポーンとそれを取り巻く日本人旅行者の織りなす人間模様である。聞いたところによると、このホテルは、ぼくがバンコクへ、通い始めたころには、すでに閉鎖され、撤去されていたので、そこで繰り広げられた物語は想像の域を脱することはできない。
谷恒生の小説「バンコク楽宮ホテル」には、このジュライ、ホテルの日本人、貧乏旅行者の生活振りが、描写されている。それとダブるようにして、僕が、バンコクに長期滞在しているバックッパッカーから聞いた話とは、ほぼ、一致しているから多分実話か、それに近いものだろう。
この、ジュライホテル周辺を舞台に生活していたポーンという名の女が、
エイズのために、今年二月、二十八歳の生涯を閉じた。
死ぬ2,3ヶ月前から下痢や吐き気を繰り返し、体はやせ細り彼女は、間もなく、死ぬだろうというのが、おおかたの見方であった。
身勝手なものでさんざん彼女と遊んでおきながら誰も彼女を助けてやろうとはしなかった。勿論それには訳がある。
彼女は以前、日本人男性と、結婚した経験があり、来日して、名古屋近辺に住んでいたということだ。だから日本語はとても上手で、離婚してバンコクに帰国してから後は、ここに住みつき、何人もの日本人貧乏旅行者を相手にしては、生活していた。
このポーンを相手にした日本人男性の数はかなりにのぼるらしい。
彼女は、身売りのほかに、麻薬をやっていたようだ。人生に絶望していたのだろう。やけのやんぱちで挙げ句の果てには、彼女は日本人男性に、麻薬を勧めては、警察へ密告して、褒賞金を得ていたという噂もたっていた。
この地域で、警察とグルになっていれば、たれ込みによって、金が稼げたのだろう。このことを知らなかった日本人は、かなりの男がカモになったらしい。刑務所へ入るか、それがいやだったら高額のワイロを払って見逃してもらうかどちらかだ。
犯罪者が罰を受けるのは当然のことだが、こんな目に遭わした張本人として、噂では、これは彼女の仕業に違いないと、ポーンはいつもやり玉に挙げられていた。そういう意味でもしこれが本当だったら、彼女は悪女だったのだ。
彼女自身も、麻薬のために、警察に捕まって、刑務所暮らしをしたことがあるらしいが、その中で、彼女は、日本人の麻薬使用者、をカモにして金を稼ぐことを思いついたのかも知れない。あるいはたちの悪い警官から話を持ちかけられて端役を引き受けていたのかも知れない。おかげで、何人かの日本人が、刑務所に、放りこまれたということである。
彼女はチェンマイに近い郡部の出身で、父は、ビルマ人、母は、タイ人のハーフでバンコクに出てくるまでは、純情な田舎娘であった。ところが都会に、出てきてばかりに、彼女の人生が狂ってしまった。
幸せになるはずの、日本人との結婚もそれぞれの国の生活習慣や国民性の、違いがもとで、長くは、続かなかったようだ。それに彼女に近づいていった日本人は誰ひとりとして、この薄幸で、かわいそうな彼女をを救ってやろうとはしなかった。
よってたかって利用し、ごみのように捨てたのである。それは麻薬の密告者という噂が日本人の間に広まっていたせいでもあるのだろう。
いや、それだけではなく、日本人には、おそらくそのような、精神的なゆとりはなかっただろう。というのは、エイズ患者のポーンの死によって彼らはわが身が、エイズにかかっているかどうかが最大の関心事であったのだ。
だれからも見捨てられて、この薄幸な女性・ポーンは、二十八歳で生涯を閉じることになったのである。一見すると穏やかでマンペライ精神に満ちあふれるこの大都会のど真ん中でも掘り起こせばこのような悲劇が浮かび上がってくる。
僕はこの話を噂話として、聞いただけだから真偽のほどは知らないが、ありうる話だと思った。ポーンのこの話を聞いて僕は善玉も悪玉も作りたくはなかった。
これは人間が究極のところでは如何に孤独であるかと言うことを教えてくれる、いや感じさせてくれる話であった。つまり旅先のみならず人間は誰でもどこでも独りぼっちであるという人間の基底部分に横たわる一つの真実を思い知らせてくれた話だった。