




自給自足でそれなりに平和に暮らしている森の近くにある村。しかし、この村の住人は森に近づいてはいけないのだっだ。なぜなら、森に棲む怪物を怒らせることになるから、、、。
とくれば、まあ、この森をいかにして抜けるオハナシか、ってことになりますね。タイトルは、どっちかというと、“イントゥ・ザ・ウッズ”の方が内容に近いんじゃない?
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◆ほとんど虚仮威し。
『シックス・センス』が嫌いなので、本作はちょっと見るのをためらいましたけど、まあ、ブロディが出演しているので見てみることにしました。
『シックス・センス』は、映画としてそれなりに楽しめるということでエンタメにはなっており、決してヒドイ作品だとは思わないけど、何にせよ、所詮は夢オチであり、クリエイターとしての志が感じられないので嫌いだ。『サードパーソン』でも書いたけれども、こういう、観客を欺くことに血道を上げた作品は、感心しない。心地良く裏切ってほしいとは思うが、最初から騙す気満々なストーリーテリングは、物語ではなく、ただの“間違い探し”であるとしか思えない。つまり、クイズである。ラストで答え合わせ。答えられない客を見てしめしめと思うなんて、何とも質の悪い根性だ。
本作は、しかし、割と早いうちに展開が読めてしまう。19世紀の話と思わせておいて、実は現代だった、とまでは読めなかったが(だからといってそれがラストの大どんでん返しと言うには弱すぎる)、怪物の存在がヤラセなのとか、あの盲目のお姉ちゃんが無事に森を抜けるんだろうとか、手の内が丸見えなのは、こういう作風においては致命的ですらある。ここまで来ると、言葉は悪いがもはや“虚仮威し”である。
これも、『サードパーソン』に書いたが、どうしてもっと正攻法で描かないのか。本作は、盲目のアイヴィー(ブライス・ダラス・ハワード)が、村のタブーを犯してまで愛する人のために命を懸けた行動に出る、という、ベタだけれども描きようによっては面白い作品になる縦糸のストーリーがあるのだ。そしてストーリーの横糸となる、村のタブーが実は村の長老たちによる自作自演であること(村の成り立ち)は、序盤から明かして行ったって別に良いと思うのだが、、、。縦糸と横糸をきちんと正攻法で織り込むことで、意義深いストーリーは編み上げることができるはずである。
正攻法で見せては面白さが半減する、と考えているのであれば、そもそも監督は自身の能力を信用していないことになる。ただ、こういう騙し系が好きなだけ、というのなら、それはそれでアリだろうが、だったらもっと手の内が見えない様にやれ、と思う。
◆ユートピアはカルト村。
この村は、まあ、現代日本でいえば、○マ○シ会みたいなもんで、イカレた思考に支配された人たちが運営しているカルト集団。
しかも、そのカルト集団を結成した理由が、自分たちが犯罪被害者(の遺族)だから。犯罪のない世界を作るために、自分たちから世俗を離れて村を作った。言ってみれば、大がかりな集団引きこもりだわね。
この手の話はよくあるし、今公開されている、ヴィゴ・モーテンセン主演の『はじまりへの旅』なんかも(未見だけど)同じ。現代社会は病んでいる、だから、健全な世界で生きるために自然の中に閉じた社会を作るんだ、、、。そして、結果的に、どっちが病んでんだか、って話になる。
化け物の話を自作自演しなきゃいけないような空間が、そもそも病んでいる。そこに気付かない村の長老たち。……いや、気付いているのかもしれないけど、外界を死ぬほど嫌悪しているから、これくらいの病理はまだ健全だ、と思い込もうとしている。
こういう、カルト集団を作ろう、という人って、どうして自分たちだけ、あるいは1人だけでやらないんですかね。自分たちだけで運営し、子孫なんか作らないで、自己完結していたらいいのに。あるいは、『はじまりへの旅』みたいに家族を巻き込まずに、たった1人で仙人みたいに暮らしたら? 自分の子どもらを巻き込むのは、結局、子どもへの虐待に等しいのでは。
本作の村の長老たちも、結局、村を第二世代に渡って維持していくことを決めるけれど、森を抜けようとする若者は必ず次々に現れる。
これは、言ってみれば、家族が抱える問題と同じかも。抑圧する親と、自己解放しようとする子の葛藤が、外からは見えないという構造。
アイヴィーが盲目なのに森を抜けるなんて危険な行動に出るのを、彼女の父親であるエドワード・ウォーカー(ウィリアム・ハート)が許したのはなぜ? と思ったんだけど、盲目だったから許したんだねぇ、とラストで納得。
森を抜けて、現代社会に出ても、アイヴィーには見えない。自分たちの村との違いが分からない。だから、お父さんは行くことを許したわけだ。
知能に問題がありそうなノア(エイドリアン・ブロディ)も、森に近づくことが許されたのは、真実を目の当たりにしても意味が分からないから、と思われたのだろう。
なんと恐ろしい大人たちのエゴだろうか。
◆その他モロモロ
何で正攻法で描かないんだ、と文句を書いたけれど、まあ、確かに、ストーリーと言い、ネタと言い、既視感バリバリで、全うに勝負していたら、もっと駄作になった可能性は高い。特に、この監督の腕ならなおのこと。
ブロディは、しかし、本作でも異彩を放っていたなぁ、、、。彼はホントに素晴らしい役者です。冒頭から、知的問題のあるキャラを一目で分かるように演じているあたり、さすが。何度も書くけど、あんな特徴のあるルックスなのに、毎回、ゼンゼン違う人物像に見えるところは俳優として見習うべき人が多いんじゃないですかねぇ。特に、日本の俳優さんたちは。
アイヴィーは盲目にしては、全速力で足下の悪い野山を駆けまわり、森を駆け抜けと、とうてい見えない人とは思えない行動がイマイチですね。森の中で、穴に落ちかけた後、杖を捨てますが、あんなことの後だからこそ、普通は杖は手放せなくなるはずでは? だって、他にもどこにあんな穴があるか分からないじゃないの。もう少し、演出を考えていただきたかったところですな。
ウィリアム・ハート、久しぶりに見た気がする(そうでもないか、、、)。シガニー・ウィーバーはすんごいガタイがよくて、衣装がパツパツだったのが印象的。
アイヴィーを演じたブライス・ダラス・ハワードが、あのロン・ハワードの娘さんと知って、……ということは、つまりあのクリント・ハワードの姪御さんってことよね? いや、その割にずいぶんお美しくて驚きました。『デビルスピーク』のクリント・ハワードの印象が強いもので、、、。
黄色頭巾ちゃんは、割とあっさり森を抜けました。
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