高校の哲学教師、ナタリー(イザベル・ユペール)は、時間を問わずに電話してくる老母の通い介護をしているとはいえ、家庭にも仕事にも恵まれ、そこそこ幸せな日々を過ごしていた。
が、ある日、夫は「好きな人ができた」と言って家を出て行く。仕事では、手がけていた哲学書が廃版になることが決まるし、家庭では子どもは独立、老母は遂に亡くなる。
そして、気がつけば、ナタリーは独りになっていた、、、。
☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜☆゜'・:*:.。。.:*:・'☆゜'・:*:.。。.:*:・'゜
◆哲学者ならではの熟年離婚
熟年離婚、、、て言葉、一時流行りましたよねぇ。渡哲也&松坂慶子のその名もまんまの「熟年離婚」なんてドラマも作られたりして、、、。正直なところ、夫がサラリーマンの専業主婦で熟年離婚に踏み切るなんて、ものすごく無謀だなぁ、という気がしたものです。そして、熟年離婚ブームで離婚を切り出すのは、大抵妻側だったような。今まで無神経で横暴な夫にガマンしてきたのよ、アタシ!! みたいな感じでしょーか。
離婚ってのは、ものすごくエネルギーがいるもので、私の様に、実態のまったくない結婚生活がたった半年足らずだったケースでさえ、離婚はかなり消耗したわけで、何十年も一緒に暮らして子どもまでいる夫婦が離婚、なんて、考えただけでも卒倒しそうなくらいのパワーが要求されるはず。それでも敢えて離婚しようという妻は、ある意味、スゴイ。生きることに貪欲というか。夫は夫、アタシはアタシで、老後はそれぞれの生活を楽しめば良いじゃん、離婚なんかしなくてもさ~、、、という選択肢がない、ってことでしょ? どんだけ消耗しようが、アタシは自分の幸せを追求するのよ!! というのは、むしろ、夫に対してそこまでのある種の情熱があるからこそできることなんじゃない? 夫婦なんて何十年もやってりゃ、情熱の熱なんて自然冷却していて、情という欠片が残っているモンじゃない?
……というのはさておき。
本作のナタリーは、しかし、夫に別れを告げられるのです。「好きな人ができた」という理由で。
そして、この事態に直面したナタリーが冷静に対処することが、特筆事項の様に本作の紹介でも感想でも書かれているものが多くて、私はそれが結構意外でした。
なぜか。
前述したとおり、情はあれども、もめるだけの熱は残っていないのが長年一緒にいた夫婦だと思うから。情があるからこそもめる、というのは、……そうでもないと思う。私がナタリーなら、やっぱり、いろんな感情が湧いては来るだろうけど、「あ、そう。さよなら」だろうな、と思う。もちろん、哀しいし、寂しいし、オイオイ泣くとは思うけれども、「ほかに好きな人がいる」に勝る別れの理由はないもんね。今さら、また私を好きになって、なんていう熱が私自身に残っていない。
それに、ナタリーくらいの歳になると、現代人は若いとは言え、やっぱり嫌でも“死”を考える。残された時間を思えば、情のある男と泥沼を演じているのはもったいない、という気もするし、そもそも人は最期は独りで死んでいくのだ、とも思う。そうすると、何十年と連れ添った夫とは言え、所詮は他人、お互い好きな様に生きましょう、、、という選択は、私にはとっても共感できる。
人の心は、本来自由なわけで、夫が他に誰かを好きになるのも、自分が夫以外の誰かを好きになるのも、自由なのよね。ナタリーが、ああいう対応になったのは、彼女が哲学者であることも大きいと思う。
ナタリーが終盤、授業で朗読するルソーの一節が、本作のテーマでもあると思う。長いけれど引用しておく。
「欲望する限り、幸福でなくても済ませられます。幸福になるという期待があるから。幸福が来なければ希望は延び、幻想の魅力はその原因である情熱と同じだけ続きます。こうしてこの状態はそれだけで自足し、それがもたらす不安は現実を補う一種の享楽となります。現実以上の価値を持つかも知れません。もう何も欲望すべきもののない人は不幸ですよ。持っているものをいわば全て失っているのです。手に入れたものより期待するものの方が楽しく、幸福になる前だけが幸福なのです」
◆気になるシーンあれこれ
印象的だったのは、ナタリーや、娘のクロエが、突然、泣き出すシーンがあったこと。どちらも、どうして急に涙したのか、直接的には描かれていない。
でも、ナタリーの場合は、きっと、どこか寂しさやむなしさを感じたからだろうと、想像できる。猫アレルギーだったはずなのに、母親の可愛がっていた黒猫・パンドラを抱きながら号泣するのである。
一方のクロエは、、、ナタリーが別れた夫、つまりクロエの父親のことを冗談でけなしたからだろうか。ナタリーは、クロエが突然泣き出したことに狼狽して、「冗談よ」と言って詫びていたけれど、、、。私には、あのクロエの涙の理由が今一つよく分からなかった。
また、ナタリーと、元教え子のファビアン(ロマン・コリンカ)のやりとりもスパイスになっている。ナタリーは、元教え子という以上の感情をファビアンに抱いていたようだけど、そのファビアンに「あなたたちのやり方は甘かった」などと批判される。この後、ナタリーは理由をつけて自宅に帰ったりして、ちょっと我に返った感じになったように思ったが、どうだろうか、、、。
確か、ナタリーの母親の葬儀が終わって、バスに乗っているとき、ナタリーは車窓から、元夫が若い現妻と歩いているところを目撃するシーンがあったんだけど、そのとき、ナタリーは笑うのね。こんなときに、こんなもん目撃するのかよ! みたいな感じだったのが、妙にリアルだったなぁ。
◆イザベル・ユペール
それにしても、イザベル・ユペールはイイ歳の取り方をしている女優です。アンチエイジングなんてくそ食らえ、がごとく、しかし醜くなっておらず、経年変化を受け入れながらもカッコイイ。60代になっても、これだけ精力的に仕事をしているからこそ、なせる業なのかも知れないけれど、こんな風に凛として歳を重ねられたら理想的だなぁ、、、と溜息。
ファビアンの山荘を訪れたときに、散策していたナタリーのワンピースがステキだった。かなり派手な感じなのに、彼女が着るとゼンゼン違和感がない。川で水遊びするシーンでも、水着になって岩場で寝転んでいたけど、あれも画になっていたなぁ、、、。
彼女が途中でストーカーされることになる男の隣で見ていた映画は、多分、キアロスタミの『トスカーナの贋作』だと思う。一瞬だったから確証はないけど、多分間違いない。あの映画は私はイマイチだったけれど、なんだか、それをナタリーが独りで見ていたのがイイなぁ、、、と思った次第。何故イイなぁ、と思ったのか、自分でもよく分からないけど、、、。
ミア・ハンセン=ラブ監督作品は、これが初めてだけど、30代で、こういう熟年女性の話を書いて撮れるってのが驚き。彼女の両親も哲学教師で、少なからず、ナタリーには彼女の母親像が投影されているそうだし、作中にも哲学者の名前がふんだんに登場するのは、そういう彼女の生育環境が大きく影響しているわけですね。末恐ろしいお方です。
黒猫に助演賞!!
★★ランキング参加中★★