






以下、wikiよりストーリーのコピペです。
=====ここから。
時代は南北戦争の末期、南部のとある森の中で深い傷を負い、友軍とも逸れてしまった北軍の兵士ジョン・マクバニーは、意識を失う間際に民間人の女たちに助け出される。
彼女たちは森の中で自給自足の暮らしを営みつつ戦火を逃れていた女学院の教師や生徒たちであった。マクバニーはそこで手厚い看病を受けるが、やがてその傷も癒えたころ男子禁制の女の園の中に紛れ込んだ敵軍の兵士である彼を巡り、女たちの葛藤に火がついていく。
男を恐れ、疑いながらも、次第に惹かれていく女達。女たちの魅力に囚われ、その嫉妬や憎悪に翻弄されたマクバニーは単独で脱出を試みる。
=====ここまで。
「単独で脱出を試みる」……ってのは、そうだっけ?? てな感じですが、まあ、こんなオハナシです。なかなかこえぇ~~、です。
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ただいま公開中の『The Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめ』があんまりにもつまらなかったので感想を書く気も起きず、元ネタとなった本作を再見。ウン十年ぶりに見たけど、ソフィア・コッポラはかなり元ネタの展開をなぞってリメイクしたんだなぁ、と分かった。……が、それだけに、同じストーリーでも、こんなにも映画作品として差がつくということは、いかに、監督・演出が映像作品ではモノを言うかということを改めて物語る格好の比較対象作品である。
◆マッチョな地で行くイーストウッド
イーストウッドは、代表作で演じたキャラのせいか男臭いイメージが強いように思うが、実生活での彼は複数の女性との間に何人も子を作り(ぶっちゃけて言えば、女好きの種蒔き男)、政治思想的には右寄りのマッチョなので、私が彼の監督作品の多くをあまり好きになれないのは、こういう彼の人間性が監督作には滲み出ている部分があるからかも知れないなぁ、、、などと時々思う。俳優イーストウッドは愛しているけど、監督イーストウッドは好きじゃないのよ。
俳優イーストウッド作品の中で、私が最も愛しているのは、『ダーティハリー』(2以降じゃなくて最初の“1”ね)であり、その次が『アルカトラズからの脱出』であり、他にも好きなのはあるけど、まあ、“アウトローの漢”を演じている彼が好きなわけ。
でも、本来のイーストウッドに近いのは、本作であったり、 『恐怖のメロディ』であったり、『愛のそよ風』なんかで演じていたキャラなんじゃないかな~、と思う。つまり、女難系。
だから、あんまし彼のインタビューとか、見たり読んだりしないことにしている。実際、彼の過去の発言には???となるものも結構あり、それが彼の人間性を表わすものかと思うと、正直、俳優イーストウッドだけでなく、ハリー・キャラハンまで嫌いになってしまいそうなのよねぇ。ハリー・キャラハンを嫌いになりたくないのだ。
……という、私のイーストウッドへの思い入れなどはどーでも良いのだが、とにかく、本作でのイーストウッドは、ただのアホなスケベ男を実にナチュラルかつ楽しそうに演じている、ということであります。
◆飢えた雌ライオンの群れが暮らす館へようこそ。。。
『ビガイルド』が何であんなに面白くなかったのか、、、。それは、結局、“抑圧された女たち”を描けていなかった、ということに尽きると思う。全編ほとんど、コッポラの趣味の押し付けでしかなく、プロの映画監督としての志が感じられないのがイタい。少女趣味な世界観は別に構わないが、肝心の人間ドラマがスカスカでは、面白い映画になるわけがない。
それに比べて本作はどーよ。女たちのエゴを、醜さを、エロさを、これでもか、といわんばかりに容赦なく描くその演出を見ると、監督のドン・シーゲルは非常に優れた観察眼を持った人なんだろうと分かる(あるいは、女が嫌いか憎いか、、、。でもそんな単純でもないと思うのよね、本作を見る限り)。
コッポラ版をピンク色とすれば、本作はどす黒さの中に赤やら青やらがマーブル状に混じっている、って感じ(ウルトラセブンのオープニングみたいな)。人間とは、単色ではないのです、複雑怪奇なのです。
女にも当然、性欲はあります。このような、“男子禁制”の不自然な環境に押し込められ、性欲を過度に押さえ付けられれば、反動で過激になるのは火を見るよりも明らかです。性欲・性の快楽=邪悪、というカトリック独特の教えの影響が本作でも全開に、、、。
41歳のイーストウッドみたいな、男汁の滴る超イケメン負傷兵なんかは、言ってみれば、飢えた雌ライオンの群れに放り込まれた怪我したガゼルみたいなもんです。よってたかって貪り食われるのは、まあ、自然の摂理ですな。
この、よってたかってマクバニーを貪る女たちの浅ましさよ、、、。下は10歳の少女から、上は40歳を超えると思しき校長まで。
冒頭の森の中で10歳の少女エミーに助けられる場面で、南軍に見つからないよう少女の口を塞ぐために、マクバニーはためらわずに彼女にキスをする(今なら犯罪)。この長~いキスで、エミーは陥落してしまったんだわね。この子はこの後、展開上キーマンになるんだけど、なんか、いちいち言動が癇に障るというか、“ヤバいコ”なんである。コッポラ版には、そもそもそんなキスはないし、エミーのキャラも割とフツー。
で、本作では、先生のエドウィナ(エリザベス・ハートマン)が良い。いかにも男性に免疫のない真面目そうな女性で、なおかつ確かに清楚な美しさもある。だから、百戦錬磨のマクバニーの「あなたのように美しい女性は初めて見た」などという甘言にあっさり騙され、簡単に性欲に支配されてしまうシーンを見ていても説得力がある。一方、コッポラ版でこの役を演じたのが、キルスティン・ダンストなんだよねぇ、、、。そして、コリン・ファレル演じるマクバニーは同じセリフを彼女に言うんだよ、これが。しかし、言われているこっちのエドウィナは、あのキルスティン・ダンスト。彼女の斜め横顔アップのロングショットが映るスクリーンを見ながらマクバニーのセリフを聞いているのは、ものすごい違和感しかないんだけど、これ、どーすれば良いのさ。キルスティン・ダンストを美しいと認識すべきのか、あるいは、マクバニーの見え見えの詐言と捉えるのか。……ううむ、分からん。
そしてなんと言っても、コッポラ版では、ニコール・キッドマン演じる校長がゼンゼンつまんないキャラの女性だったのが致命的だ。本作のジェラルディン・ペイジの醸し出す恐ろしさなど、微塵もない。ただの厳格な先生。ちょこっと色っぽい葛藤をしている風な描写もあるけど、あれじゃなんだかさっぱり分からん。夫のいる妻が不倫願望と闘っているレベル。もっと悶々として校長自らが苦悩するからこそ、ドラマになるのに。本作のジェラルディン・ペイジは露骨ではないものの、マクバニーにだけは分かるように色目を使い、実にイヤらしい。ニコ姐の演技力なら、ジェラルディン・ペイジにひけをとらないヤバさを演じられたはずなのに、実にもったいない。あれじゃぁ、ただのオバサンだよ。
しかも、マクバニーの脚を切断するに至るのも、本作は、校長がマクバニーに振られた八つ当たりという感じで、狂っているけど、コッポラ版のニコ姐は、冷静に医学的な見地から大真面目に切断する感じで、そこに意外さも怖ろしさもない。この話において、このシーンは最大の山場であり、いかにこのシーンを描くかで作品の善し悪しを左右するわけだから、コッポラ版はここでも愚かな選択をしたことになる。
本作の校長先生は、おまけに過去にも何やら怪しい歴史(実の兄との近親相姦)をお持ちらしい描写がチラリチラリと挿入される。しかし、あれはホントに実の兄なのか? 私は違うような印象を抱いたんだけど、、、。まあ、これは分からない。
あと気になったのは、コッポラ版では黒人の下女を配役から省いていたこと。本作ではハリーとしてかなり重要な役どころである。校長の兄に暴行されかけたことがあるような描写もあったし、マクバニーも彼女に食指を延ばそうとしていたのだ。この役は、南北戦争という背景があれば、結構重要だと思うんだけどなぁ。
◆イーストウッド vs コリン
で、イーストウッドですが。
ちょうど、ハリー・キャラハンを演じたのと同時期の作品なのだと思うと、感慨深い。精力的にお仕事していたのね。やっぱり、この頃のイーストウッドが一番カッコイイと思う。もっと若い頃は、カッコイイけどちょっと軽薄な感じがするし、もっと年取っちゃうと、カッコイイ爺さんではあるけど、やっぱしねぇ、、、。というわけで、この辺りが一番脂ののっていた年代と言ってもよいのでは。
コッポラ版でマクバニーを演じたのは、コリン・ファレルだけど、私が女学生なら、コリンよりイーストウッドに闖入してきてほしいわ。コリンはイケメンには違いないけど、眉毛が濃すぎて暑苦しい。長く見ていたい顔じゃないのよねぇ、、、。ファンの方々、すみません。それに、コリンは、イーストウッドほど憎たらしくないから、脚切られちゃってものすごく気の毒に感じたのよ。ちょっとイイ気になっちゃったけど、イーストウッドほど悪党でもなかったもんね。
本作のマクバニーは、女性たちの前では、自分のことを“気骨ある兵士”みたいに喋っていたけど、そこで彼が実際に兵士として何をしていたかという映像が流れて、ただのセコい一兵卒でしかなかったわけだ。そして、脚を切断された後の荒れ狂い様を見ていると(まあ、勝手に脚切られちゃ荒れ狂うのもムリはないと思うものの)、粗暴な一面もあったと思われる。さらに、あの女学園での見事な女たちの間の立ち回りを見れば、あの女たらしは彼の性質そのものと言える。おまけに、頭も悪そう。
つまり、マクバニーは、セコくて粗暴で女たらしで頭の悪い、イケメンであることを除けば良いとこナシのろくでなし男なわけだよ。だから、エドウィナ先生は、あんなのと結婚しなくて正解だったわけ。
そう、コッポラ版で唯一、本作より良かった点は、マクバニーが毒茸料理を食べるシーンで、エドウィナ先生がその茸料理を口にするところの描き方かな。本作では、エドウィナ先生が食べそうになったところで、校長先生が「ダメ~~~ッ!!」と絶叫するんだけど、コッポラ版では、女子生徒の1人が「先生、茸あんまり好きじゃないでしょ」とさりげなく彼女に食べさせないようにしていた。そして、女子生徒たちは、茸料理の入った大皿を黙々と回すシーンが、ほんの少しだけ緊張感を出せていた。……でも、ほとんどそれだけ、と言っても良いくらい。
というわけで、コッポラ版をこき下ろすために本作の感想を書いたみたいになっちゃったけれど、イーストウッドが他人に殺される唯一の映画ということでも、一見の価値はあると思います。
ゲスの極みイーストウッド(マクバニー)。
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