福ちゃんの散歩道

コロナ禍で関空での遊びも卒業、栂地区ウオーキングコースを中心に近場の日々の散歩で何か見つけよう。🚶‍♂️🚶‍♂️

大阪城公園 梅園 ❣️ メチャ多くの人・人・人 !....JR森之宮駅下車 玉造口から 早足で 7000歩の成果❗️

2019-03-07 00:10:25 | ★大阪城もメチャ面白い😄
快晴だが、青空ではない
pm2.5 か 花粉か 霞んでいる
暖かい陽気に誘われて大阪城公園梅園へ

JR森之宮駅から

4月は桜が見事な石段

一番櫓を左に玉造口へ



玉造口から進み右下へ

梅園を見下ろす





多くの人・人・人 〜 遊歩道をぶらり
大阪城天守閣絡みのスポットは大人気










ぐるりと











帰りは
青屋門からJR大阪城公園へ

ガーベラに見送られ

駅へ向かう
大阪城ホールトラック ➡︎公演は? Per fume. ???

読売テレビ 新築本社ビル外装はスッカリ出来上がっている


思い出のクリスタル ビル


2019.3.5. 大阪城 梅園 :JR森之宮➡︎玉造口➡︎梅園➡︎青屋門経由 JR大阪城公園駅 ★成果7000歩 。

余談

✳️一番櫓について
特徴等
豊臣秀吉が築いた大阪城は元和元年(1615)の大阪夏の陣ですべて焼失、現存する遺構は元和6年(1620)以降徳川幕府により再建されたものである。
一番櫓は2重2階、本瓦葺で、南外堀に面する二の丸南面の隅櫓7棟のうち一番東に位置しているのでこの名がある。玉造門を側面から防御する役目をもつ。もとは乾櫓と同様の総2階造りであったらしいが、寛文8年(1668)大改造され現在の姿となった。

★森ノ宮駅から大阪城に向かう道中、玉造口の坂の左手の南外堀に「一番櫓」があります。
元々、二ノ丸(現在の豊国神社付近)南側の石垣には、一番櫓から七番櫓までありましたが、戊辰戦争(明治維新)と1945年(昭和20年)の空襲により焼失しています。
現存する大阪城「一番櫓」について




南外堀(南外濠)を挟んだ向こう側に「一番櫓」が見えます。戊辰戦争の大火と太平洋戦争の空襲をなんとか免れたのが一番櫓です
二ノ丸南側の石垣には、二層二階建ての隅櫓(すみやぐら)が、東から西へ一番から七番まで建っていました。この櫓は最も東に位置するため「一番櫓」と呼ばれています。
外側にあたる東面と南面に窓が16個あり、鉄砲や矢を放つための狭間(さま)も多数あり、玉造口に攻め入る敵を側面から一斉に攻撃できます。また東面には石落としも設けられています。
創建は徳川幕府再築工事の最終段階である1628年(寛永5年)で、戦後の解体修復時にわかったことは、1658年~1661年(万治年間)、1668年(寛文8年)、1832年(天保3年)の3度だったと推定されています。
特に1832年(天保3年)は解体も行うほど大規模だったようです。建物の下の栗石(ぐりいし)の間から当時の衣類が見つかっています。
面積は1階が167.98㎡、2階が96.31㎡、高さは約14.3mあります。現存するのは一番櫓と六番櫓のみ

大坂城周辺の晩秋 今も残る秀頼の薩摩落ち伝説とは・・・・

2018-12-03 00:20:00 | ★大阪城もメチャ面白い😄
お昼の飲み会(同窓例会)で高槻へ
折角なので朝早めに出て
JR森ノ宮から
大坂城公園周辺を駆け足で晩秋を味わった!

外周道路をランニング 銀杏 かなり落葉

一歩歩道を中に入ると


森ノ宮方面



野良猫 台風21号の折れた枝 方々に放置

睨まれた


外堀方向へ






写真スポット

青屋門周辺


青屋門

天守閣


山里丸までとしよう
刻印広場


この右奥に
「豊臣秀頼・淀殿らの自刀の地」と刻まれた石碑が立っている




訪れる観光客は少ない


風で舞い落ちる


陽が射してきた

★豊臣秀頼にまつわる伝説がある。下記の諸説 ご参考に


1週間遅かったなあ
晩秋シーンです
さあ森ノ宮へ引き返そう
高槻の集合時間がある
森ノ宮は便利で、大阪メトロもJRもある
大阪メトロ堺筋本町で阪急京都河原町行きだと乗り換えなしでOK
私鉄の乗り入れにより本当に便利になっている

久し振りに 🍺🍺🍺🎤🎤🎤

2018,12.1. 大坂城公園周辺にて 本当に久し振りでした

✳️余談

★今も残る秀頼の薩摩落ち伝説
山里丸は豊臣家の最期のエリア 自害の地 として
「豊臣秀頼・淀殿らの自刀の地」と刻まれた石碑が立っている。夏の陣最後の決戦に敗れた秀頼は、慶長20年 1615年5月8日、この付近の櫓で、母 淀殿や近臣らとともに自害し、豊臣は滅亡した。

豊臣宗家滅亡
大坂方を押し返した幕府軍は大坂城内に入城した。城内の浪人たちまでが裏切って略奪を始める中、秀頼親子は天守閣に登って自害しようとするも、家臣に止められる。やがて天守閣が炎上し、秀頼母子は山里丸に逃れるもそこも徳川軍に包囲された。大野治長は千姫の身柄と引き換えに秀頼の助命を嘆願したというが、家康の容れるところとならず、秀頼は淀殿や大野治長らと共に自害した(享年23(満21歳没))と伝えられている。

死後 これで豊臣家の 血が途絶えた訳ではない。
男子の国松は逃亡したものの結局、捕らえられて殺害された。娘の天秀尼は千姫の働きかけもあり仏門に入ることを条件に助命された。また元禄初頭に80歳で没した求厭は臨終の際に、自分は大坂落城時に3歳だった秀頼の次男だと語ったという(『浄土本朝高僧伝』)。求厭の語ったことが事実なら、秀吉の血筋が途絶えたのは天秀尼の死去した正保元年(1645年)ではなく、求猒上人の死去した元禄元年(1688年)ということになる。
墓所は京都市東山区の養源院ほか。また大阪市中央区の豊國神社は、父の秀吉や叔父の秀長と共に秀頼も祭神としている。
昭和55年(1980年)、大坂城三ノ丸跡の発掘調査で人1人の頭蓋骨と別に首のない2人の骨、馬1頭の頭の骨が発見された。骨は人為的に埋葬されたものとみられ、頭蓋骨は20代男性のもので顎に介錯されたとみられる傷や、左耳に障害があった可能性が確認され、年齢や骨から類推する体格から秀頼のものではないかと推測された[9]。骨は昭和58年(1983年)、京都の清凉寺に埋葬された。

平成23年(2011年)10月13日、大坂城三ノ丸に位置する大坂城鎮守社である玉造稲荷神社に秀頼の銅像が建立された。


伝・豊臣秀頼の墓
鹿児島市の谷山という地区に豊臣秀頼の墓と伝えられる宝塔があります。
この宝塔は、新住居表示で「谷山中央4丁目」の木之下川にそった木之下という集落の中にある福元というお宅の庭先に置かれています。

(1)「秀頼の薩摩落ち」の伝説について

「谷山市史」などの文献から、
①秀頼はひそかに大阪城を抜け出して、真田幸村などに守られて、ここ、薩摩の谷山に逃れてきたこと。
 このことは、上田秋成の「胆大小心録」や平戸に来ていた英国商館長コックスの日記、平戸城主松浦静山の書などにもあるそうで、当時のわらべ唄に
「花のようなる秀頼さまを 
鬼のようなる真田が連れて のきものいたり鹿児島へ」
というのがあったといいます。

②秀頼がどうやって大阪城を抜け出すことに成功したか
ざっと見ただけで5つ以上の説があり、特に面白いのは、島津家から豊臣家の恩顧に報い、大阪城内へ兵糧を送りたいとの願いを特別に家康が許し、米を場内に届けて戻る兵士たちに秀頼をまぎれこませて城の外へ出たというものがあります。
 いずれにしても、秀頼は薩摩藩の船に迎えられて薩摩に落ち延び、島津家は幕府をはばかって秀頼を厚くもてなしたということのようです。

③薩摩の谷山での秀頼の暮らしぶり
毎日大酒を飲んで、町の中を暴れまわったり、無銭飲食をくりかえしていたといい、島津の殿様からは、秀頼公に一切無礼なふるまいがあってはならないというお達しがあったので、人々は秀頼を恐れ、逃げかくれしていたということが伝えられています。

 谷山地区に昔からある言い伝えに「谷山犬のくれ逃げ」というのがあり、それは薩摩の谷山に逃げてきた秀頼が城下で無銭飲食を繰り返しているのを、人々がこのように言っていたのではないか、といわれています。

 今でも、「たんにゃまんいんのくれにげ」という言葉は、たとえば、よく知った人の間でのやり取りの中で、谷山在住の人が食事の支払いを忘れて席を立とうとすると、「あのひとは谷山だからね」という言葉を使うこともあるのだと、古い資料に書かれていました。

(2)秀頼の墓について
①秀頼の墓へのアクセス
 木之下という集落は、近年の住居表示の変更によって「鹿児島市谷山中央4丁目」の中にあり、周囲に広がる新興住宅地に取り囲まれています。



薩摩ではなく肥後説
★秀頼は薩摩ではなく肥後に落ち、そこで妻を娶って一男一女をなし、弟が薩摩に移ったのに対し、姉はのちの肥後領主となったと伝え、細川家の家老有吉家の室になったと伝え、熊本市の有吉家墓所には、秀頼息女の墓がある。彼女の生んだ男児が有吉家の家督を継ぎ、同家は今も秀頼以来の血の継承を確信する。
マア
各地で多くの人々が豊臣家の存続を願い、語り継いできた。

豊臣秀頼の墓はどこにあるの?
豊臣秀頼は大阪夏の陣にて、大阪城で自害したとされています。
その秀頼の墓所は複数あるのですが、仲でも特に有名なのは京都にある養源院です。
この養源院は、秀頼の母である淀殿が実家の浅井家の人々のために創建したとされ、秀頼と共に淀殿も眠っている場所として知られています。
また、淀殿の妹であり、秀頼の義母にあたるお江の方がこの二人の菩提を弔ったことから、秀頼と非常に深い縁のある場所でもあります。
この他にも、大阪城三の丸から出た遺骨が埋葬された京都の清涼寺や、和歌山の高野山奥の院も豊臣秀頼の墓所だと言われています。

9月26日(水)のつぶやき

2018-09-27 02:12:00 | ★大阪城もメチャ面白い😄

太融寺 境内にある淀殿の墓

2017-12-17 06:00:00 | ★大阪城もメチャ面白い😄
昼の太融寺界隈は初めて、14日 最後に尋ねた#太融寺
地下鉄谷町線 扇町から歩いたのでチョットしんどかったですね

大阪駅から至近距離の“大融寺 “

淀殿に纏わる話は余談ですが・・・面白い❣️

その境内に
#淀殿の墓がある


西門から入った。直ぐ左の奥になる

一番奥の隅にひっそりと






余談

✳️家康と淀殿の結婚話➡︎実現しなかった秀吉の奇策!! ある本より!

●奈良、興福寺の『多聞院日記』に記述があるらしい
★注目の記述
【大阪にて去る十日秀頼母、家康と祝言これあり候、太閤の書き置きある由に候】
とある事で、秀吉の遺言により、慶長四年九月十日に淀殿は徳川家康と結婚する事になっていたと言うのだ。しかし、淀殿はこれを嫌がって、大野治長が結婚式を妨害したらしい。
秀吉は
【家康には、秀頼の母淀殿を室として政事を後見して、秀頼の成人を待ってのち、政権を返すように仕組んだ】
●1599年9月9日 家康が大阪で秀頼に拝謁した。家康は、秀吉の遺命を盾に秀頼の母淀殿を室にしようとした。秀頼の母淀殿は、すでに大野修理亮治長を通じて妊娠していたので拒絶従わなかった。家康は激怒、修理を捉えて関東に流した。・・・別の書に記されている。との事。
“密通” “妊娠”は兎も角、秀吉の遺言は事実だった可能性がある。・・・と述べている。

●秀吉は、家康の孫娘千姫を秀頼の妻にする事で、秀頼の安全を図ったが、それでもなを秀吉は徳川家康の不安を解消されなかった。その秀吉が最後に思いついた妙案が淀殿を家康と結婚させる奇策ではなかったか!!

●淀殿は、この結婚をよしとはしなかった。もし、結婚が実現していたら、その後の歴史はどの様な展開をみせたのであろうか!!!

✳️さて、淀殿のお墓ですが、西門の近くにひっそりと!ここより以前は、大阪夏の陣で亡くなられたあと、 遺骨を大阪城外に集め、ほこらにして祀られていました。
ほこらが明治時代になって移祀されることとなり、 その時に遺骨は大融寺さんに埋められ塔が建てられました。・・・何故、大融寺になったか?
淀殿(茶々)は近江の武将、浅井長政(あざいながまさ)の長女として生まれました。 母は織田信長の妹、絶世の美女として名高いお市の方(おいちのかた)です。 お市の方の娘3人は浅井三姉妹(あざいさんしまい)として有名ですね。



✳️太融寺 高野山 真言宗
当寺は弘仁12年(821年)にこの地に弘法大師が嵯峨天皇の勅願により、創建されました。ご本尊の千手観世音菩薩は、嵯峨天皇の念持仏を下賜され、天皇の皇子河原左大臣源融(みなもとのとおる)公が、この地に八町四面を画して、七堂伽藍を建立され、浪華の名刹として参詣者でにぎわいました。当時を偲ぶ境内地の名称は今に伝えて、太融寺町、堂山町、神山町、扇町公園、野崎町、兎我野町等として残って居ります。
 元和元年(1615年)5月、大阪城落城のとき兵火で全焼しましたが、元禄年間に太堂、南大門など諸堂25棟が復興して、“北野の太融寺”と市民に親しまれ大いに栄えました。
 昭和20年(1945年)6月戦災で堂塔伽藍一切が灰燼に帰しましたが、ご本尊千手観世音菩薩は無事難をまぬがれました。戦後再建に着手、本堂、大師堂、不動堂、宝塔、客殿、本坊、庫裡、鐘楼、東・西・南・北門、御供所20余棟が復興しました。

★境内の一隅には、大坂夏の陣で自刃した淀君の墓も。明治13年(1880)には当寺で国会期成同盟が結ばれ、自由民権運動はここから全国へ広がったと言われている。


西の丸公園からの今の風景➡︎櫨の木の紅葉は??

2017-12-10 05:00:37 | ★大阪城もメチャ面白い😄
豊国神社の帰りに西の丸庭園に立ち寄ってみた
隠し曲輪の櫨の木が赤くなってるのがどうかなぁ〜
このシーズン見るものはないけど200円、ブラリと入ってみた。(高齢者は無料と今知ったけどね?)
桜の開花宣言 標準木辺り


奥に進んで濠を見下す

石垣の上辺りが隠し曲輪ゾーンの櫨の木。まだ残っていた

OBP方面

1番奥辺りから




数少ない観光客


煙硝蔵へ 櫨の木もピークアウト


シーズンオフで中の見学は出来ない

茶室 豊松庵 入る事は出来ない

京橋口の櫨の木はどうかなぁ


煙硝蔵をグルリと周った


西の丸公園から天守閣 来春の桜シーズンには訪ねよう


シーズンオフは昼は閑散としている

夜は、現在イベント開催している。



2017.12.7. 大阪城周辺散策

●西の丸公園
昭和6年(1931)、市民による浄財・約150万円(現在の約750億円に相当)を費やして建て替えられた大阪城天守閣。その天守閣を中心に広がる大阪城公園には大手門、千貫櫓、火硝蔵など13棟の重要文化財や、梅林、西の丸庭園などがある。
★豊臣秀吉の正室・北政所の屋敷があった場所とされている西の丸庭園は、昭和40年(1965)、総面積約64,000平方メートルの芝生庭園として開園。周囲を樹木に囲まれ、天守閣や掘の石垣が美しく眺められる。春はソメイヨシノを中心に約300本のサクラが咲き競い、花見の名所としても有名。開花期間は観桜ナイターも開催され、大勢の花見客が訪れる。西の丸庭園の東北隅には昭和44年(1969)、松下幸之助氏から寄贈された茶室「豊松庵」もある。

●焔硝蔵(えんしょうぐら)とは火薬庫のこと。徳川時代の大坂城では当初、土蔵製のものが本丸隠し曲輪と青屋口の出角内の二カ所にあったが、その内の一つ、青屋口の火薬庫に万治元年(1660)六月、雷が直撃し大爆発を起こした。貯蔵中の82tの黒色火薬、鉛玉43万個、火縄36000筋が焼失したとの記録があるが、城内はもちろん城外でも多数の死傷者を出すとともに市街家屋が1481戸倒壊するなど大地震並みの大惨事を引き起こしている。その爆発の凄まじさは青屋口城門の扉の一部が14km離れた暗峠(くらがりとうげ)まで飛来したという話があるほどである。
 これに懲りた幕府が工夫を凝らして作り上げたのが貞享二年(1685)竣工のこの焔硝倉。床、壁、天井すべてが分厚い花崗岩で覆われ頑丈なことこのうえない上、東西の出入り口とも三重の金属製の扉で密封されるなど防火、盗難に対する備えは万全。さらに空気穴を巧みに配するなど防湿対策も施されている。火薬庫としては比類のない出来で、明治以降も陸軍が引き続き使用していたという。
 なお、大坂城内には同じ石造焔硝倉が伏見櫓内側(現在の極楽橋北側売店横の仕切門西側あたり)にもあり、明治時代以降も残っていた事が地図や写真で確認出来るが、昭和初期あたりに姿を消している。