津山駅周辺の整備事業もほぼ終了した感じだ
久し振りに帰省
勿論、大阪⇄津山 高速バスだ
車で帰ることを止めて数年、楽ちんでもう車で帰る気がしない
津山の歴史的には
森忠政が築城した城下町
県北の中心だけど
時代の流れで、寂しくなった商店街
JR津山駅 バスターミナルの整備に随分と時間を費やしてやっと終了の感じだ
駅の目隠し外壁に
B’z
津山出身の最大の有名人だ
そして
蒸気機関車展示ゾーンには
旧国鉄時代の津山機関区は知名度があった。現、津山まなびの鉄道館 に保存。
●随分前にアップしているのですが 箕作像は移転していなかった
前回に少し詳しくアップしているのでご覧下さい
チョット 早朝 所用で立ち寄る
津山 唯一の百貨店 天満屋津山店の入り口にある巨大なパイプオルガン
開店直後に自動演奏 どうも 10時10分から5分の様だ
極短時間だけど響き渡る音色
演奏終了
演奏サイクルは?
2月25日 カメラは持参していないので、iPad で 撮った。
バス乗り場周辺 城下町風です
4月 津山城の桜🌸 多くの人が訪れるだろう(鶴山公園)
昨年ですが
チョット、ふるさと自慢の巻でした・・・・・笑い🤣
余談ですが
津山(岡山県津山市)の地名の由来は、津山城が築かれた丘陵が「鶴山(つるやま)」と呼ばれていたからだ。南北朝時代から戦国時代初期にかけて、守護大名・山名氏の一族が赤松氏との勢力争いのさなかに築いたのがはじまりという。1603(慶長8)年に美作国主となった森忠政は、鎌倉時代から守護所が置かれていたとされ当時の中心地であった院庄に入った。しかし、新たな地に拠点を移すことを決意。吉井川と宮川の合流点を見下ろす鶴山が選ばれ、翌年から築城が開始された。
城は13年の歳月をかけて1616(元和2)年に完成したと伝えられる。しかし、実際には1615(元和元)年の江戸幕府による武家諸法度により途中で終了したようだ。冠木門から三の丸へ上がるところには通常であれば櫓門が建つはずだが、建物の基礎らしきものはあるものの絵図には櫓は描かれていない。冠木門から厩堀のほうへ石垣に沿って向かうと石垣が途中から土塁に変わるのだが、これも築城が頓挫した痕跡と思われる。
津山城を築いた森忠政は、織田信長に仕えた森可成の六男だ。父・可成と長兄の可隆は浅井・朝倉氏との攻防戦で戦死。跡を継いだ次兄の長可も小牧・長久手の戦いで落命し、これに先立つ本能寺の変では長定(蘭丸)、長隆(坊丸)、長氏(力丸)の3人の兄もこの世を去った。そのため、末子の忠政が森家を相続した。7万石で美濃金山城(岐阜県可児市)を居城として豊臣秀吉に仕え、秀吉が没すると徳川家康に仕えて信州川中島を領有。関ケ原合戦後、戦功が認められ美作18万石余を拝領したのだった。
さて、津山城といえば、何度訪れても圧倒される全国屈指の壮大な石垣が最大の魅力だ。城は小高い丘陵の上に数段の石垣をめぐらせて配置し、重要な施設のほか城主一族や重臣の屋敷を山麓に建て並べ、周囲を土塁と堀で囲む構造だ。高い石垣が幾重にも重なり、西洋の城塞(じょうさい)を連想させるような趣もある。
断崖に守られた東側以外の三方には、細長く平らな土地を階段状に配置。それらを二の丸・三の丸とし、まわりはすべて石垣でがっちりと囲んである。山頂部のL字型に削平されたところが本丸で、西には壮麗な五重天守が建てられた。東端に壁のように高い石塁が築かれているのは、宮川を隔てて東に連なる丹後山からの攻撃に備えるためと考えられる。
「扇の勾配」と呼ばれる、天に向かって反り返る石垣がとにかく美しい。とくに2005(平成17)年に復元された備中櫓下の石垣は、高さも曲線も見事で、誰もが思わず足を止める。しなやかな曲線はどこかなまめかしく、女性のボディーラインのような妖艶さも感じる。
石垣の積み方は自然石を積んだもの、表面を平らに整形して石と石の間を間詰石という小石で調整したもの、間詰石をほとんど使うことなく仕上げたものへと変化する。津山城の築城時期は、一大築城ブームの最中だ。よって、新たな技術が次々に開発され、取り入れられていったのだろう。この頃は幕命によって全国の諸大名が築城を請け負う「天下普請」で、江戸城(東京千代田区)や駿府城(静岡県静岡市)が築かれたときでもある。忠政も江戸城、丹波篠山城(兵庫県篠山市)、丹波亀山城(京都府亀岡市)、駿府城などの築城に駆り出されている。その現場で腕を磨き、最高峰の技術を習得したのかもしれない。