前回の続編 ★コメントはパンフレット 等から
パンフ片手に 所用約束時間迄 速歩で
B 豊田家住宅 1662年 建設された 幕末 大名貸など行い藩の蔵元等つとめていた豪商。
進むと
紙半 豊田記念館
館内には美術工芸品が数多く展示されている。
お許し頂き、当時の現物 古文書を撮らせて頂いた。
地図にはビックリしました。江戸の地図は営業上必須だった様です。流石豪商ですね〜
★両国橋や永代橋 など はっきり判ります。
新吉原はどの辺り??写真では右下辺り!
★ありました!一画に 日本堤 新吉原! 時代小説でよく出て来るお決まりの場所。
明暦の大火後に、江戸日本橋辺りから浅草裏 日本堤に移転した。
向かいの紙半 豊田家住宅
260年〜前の建築
梁は松の木らしい
壁も当時のまま
木戸も
この一画?
⬇︎
外周の濠?遺構かなあ
⬇︎
A 今西家住宅 今井町の西端にあり、惣年寄りの筆頭。1650年再建。城郭の様な構造で『八つ棟造り』と呼ばれる豪壮な建物。濠の遺構。
★事前連絡が必要
⬇︎
細い通路が多く、直進できない。
和菓子屋さん
お店
⬇︎
喫茶店
こんな看板が軒下に
⬇︎
上田住宅 惣年寄りの一人 1744年建築とみられる
★事前連絡が必要
⬇︎
こんな姿も
⬇︎
音村住宅 金物問屋だった 17世紀後半母屋建築その後増築している
★事前連絡が必要
⬇︎
こんな路地も
⬇︎
旧米谷住宅 金物屋 18世紀中頃の建物
⬇︎
メチャ 速足で
回りここに出てきました
この度で2度目ですが
タイムスリップ
タマには良いですね!
でも、歴史を紐解いていく方が良い[反省]
又、
事前連絡をして尋ねた方がベストだ。
2018.2.14. 橿原市 今井町
✳️ コピー
●地理
奈良県橿原市の中部に位置する、東西約600m、南北約310mの地区である。北東部の1丁目、南東部の2丁目、南西部の3丁目、北西部の4丁目に分かれている。地形はおおむね平坦で、東を飛鳥川が北流している。北は小綱町、西は五井町、南は四条町、東は兵部町および南八木町1丁目、北東は八木町1丁目(いずれも橿原市)と接している。
●町の構造
中街道 (下ツ道)の延長線上にある今井町本町筋
今井町西環濠跡
条里制の基幹線である中街道 (下ツ道)は八木町の札の辻、井戸の辻、醍醐辻を南北に走り、醍醐辻を西に延長していくと、今井町の本町筋に合致し、今井町を形成計画していく上での中心線となっていて、ほぼ長方形の区域の中に東西南北方向に方眼状に道路を配し、町並みや街路の形状は町造りの始められた頃の区画が今も残っている。街路は町の端から端まで通り抜けのものではなく、入口において道幅だけ屈曲しているか、途中で丁字型に突き当たっていて、見通しのできないように配備されている。今西家住宅北側の道路の本町筋では、住宅建物だけが北側の道路に突出していて、東西両端で道が大きく南に屈曲していて、前方の見通しが悪く、今西家の前を通る道路は、この角で折れ曲がって小さい枡形を形成し、二階の窓は町内の道を真っ直ぐに見通す位置につくられている。その機能も意匠も物見櫓とよく似ているが、この家の性格を示している。町内より外部に通じる通路は、東面に3門、南面に3門、西に1門、乾方向に1門、北に1門の9つの門があり、夜は4つの門のみを開け、外来者が町中にみだりに入ることを拒んでいた。もし外来者が今井町内で宿泊する必要のあるときは、その都度、町年寄へ届出を必要としていた。
今井郷が都市的に発展したのは、中世末期において一向宗本願寺の進出によって一転機がおとずれ、俄然頭角を現すようになり、一向宗の道場を建設して以来のことで、町並の整った寺内町今井が成立した。このとき今井郷の形態は、外敵から郷民の安全を守るために、自衛上武力を養い、郷の周辺に堀を巡らし、土塁を設けた環濠集落で、現在もその濠跡が今井の周辺にその遺構を残している。織田信長に挑戦し、武装解除されてから自治権を委ねられて自治都市として確立した町並みが出来上がり、江戸初期から末期にかけての民家が軒を連ねるようになり、町並の形態が現在まで残されてきた。また、この古い町並の外周には三重の環濠跡を現在に残している。この環濠は巾三間(約5.45m)を有する濠をめぐらし、その内部には同じく環濠を掘り上げた際の土を盛り上げて三間の土塁を築き、雑木藪を植えて外部からの視界を妨げていた。
●近代以降
幕末になると、いろいろな名目で金銀の取立てや重税により町は衰退に向かい、明治維新によって富豪は消滅した。しかし依然、今井町は南大和の中心地であり、明治初年には奈良県出張所が置かれた。奈良県再設置問題がおこった時もその庁舎の位置について現在の奈良市を外し、今井町に設置しようとする有力な動きがあったが、実現しなかった。また、明治時代の鉄道開通の際、今井町近隣に持ち上がった鉄道駅建設計画に市中取締役の任にあった今西逸郎らが反対した。これにより乱開発が阻止され、町の保存に貢献した[3]。
民家建築が文化財として着目されるようになったのは、第二次世界大戦後で1955年(昭和30年)、関野克・太田博太郎・伊藤ていじ・渡邉定夫ら東京大学工学部建築学科による町屋調査を経て、倒壊寸前の今西家が1957年(昭和32年)6月18日に棟札とともに国の重要文化財に指定されたことに端を発し、「町並み保存運動」が鼓動をあげることになる。当初、保存に熱心だったのは当時の市長や研究者の方で、町並み・生活環境の近代化を求める住民の間には反対が強かったが、長年の交渉を経て次第に保存運動が地元にも浸透していった。
現在も町の大半が江戸時代の姿を残しており、大部分は実際に住居としても使用されているが、中には廃屋同然に放置された建物も存在する。自治体と共に空き家対策が早急に必要であると認識し、全国に先駆けてNPOなどを立ち上げ懸命に取り組んでいる。また今後、今井町が観光地としてだけでなく、いかにして293年もの間「自治都市」[4]として存続しえたかを後世に伝えていくことは、地方分権を考えていかねばならない現代において、重要な使命であると保存に取り組む人々の中には考える人もいる。
重要文化財9件12棟、奈良県指定有形文化財3件11棟、橿原市指定文化財5件6棟[5]。今井町は1993年(平成5年)5月、橿原市の条例に基づき伝統的建造物群保存地区となり、同年12月、国の重要伝統的建造物群保存地区として選定された。
1.今西家、2.豊田家、3.中橋家、4.上田家、5.音村家、6.旧米谷家、7.河合家、8.高木家、
A.八幡神社、B.順明寺、C.蓮妙寺、D.西光寺、E.春日神社、F.称念寺、
W.西町、S.南町、N.北町、O.東町、I.今町、Ne.新町
パンフ片手に 所用約束時間迄 速歩で
B 豊田家住宅 1662年 建設された 幕末 大名貸など行い藩の蔵元等つとめていた豪商。
進むと
紙半 豊田記念館
館内には美術工芸品が数多く展示されている。
お許し頂き、当時の現物 古文書を撮らせて頂いた。
地図にはビックリしました。江戸の地図は営業上必須だった様です。流石豪商ですね〜
★両国橋や永代橋 など はっきり判ります。
新吉原はどの辺り??写真では右下辺り!
★ありました!一画に 日本堤 新吉原! 時代小説でよく出て来るお決まりの場所。
明暦の大火後に、江戸日本橋辺りから浅草裏 日本堤に移転した。
向かいの紙半 豊田家住宅
260年〜前の建築
梁は松の木らしい
壁も当時のまま
木戸も
この一画?
⬇︎
外周の濠?遺構かなあ
⬇︎
A 今西家住宅 今井町の西端にあり、惣年寄りの筆頭。1650年再建。城郭の様な構造で『八つ棟造り』と呼ばれる豪壮な建物。濠の遺構。
★事前連絡が必要
⬇︎
細い通路が多く、直進できない。
和菓子屋さん
お店
⬇︎
喫茶店
こんな看板が軒下に
⬇︎
上田住宅 惣年寄りの一人 1744年建築とみられる
★事前連絡が必要
⬇︎
こんな姿も
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音村住宅 金物問屋だった 17世紀後半母屋建築その後増築している
★事前連絡が必要
⬇︎
こんな路地も
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旧米谷住宅 金物屋 18世紀中頃の建物
⬇︎
メチャ 速足で
回りここに出てきました
この度で2度目ですが
タイムスリップ
タマには良いですね!
でも、歴史を紐解いていく方が良い[反省]
又、
事前連絡をして尋ねた方がベストだ。
2018.2.14. 橿原市 今井町
✳️ コピー
●地理
奈良県橿原市の中部に位置する、東西約600m、南北約310mの地区である。北東部の1丁目、南東部の2丁目、南西部の3丁目、北西部の4丁目に分かれている。地形はおおむね平坦で、東を飛鳥川が北流している。北は小綱町、西は五井町、南は四条町、東は兵部町および南八木町1丁目、北東は八木町1丁目(いずれも橿原市)と接している。
●町の構造
中街道 (下ツ道)の延長線上にある今井町本町筋
今井町西環濠跡
条里制の基幹線である中街道 (下ツ道)は八木町の札の辻、井戸の辻、醍醐辻を南北に走り、醍醐辻を西に延長していくと、今井町の本町筋に合致し、今井町を形成計画していく上での中心線となっていて、ほぼ長方形の区域の中に東西南北方向に方眼状に道路を配し、町並みや街路の形状は町造りの始められた頃の区画が今も残っている。街路は町の端から端まで通り抜けのものではなく、入口において道幅だけ屈曲しているか、途中で丁字型に突き当たっていて、見通しのできないように配備されている。今西家住宅北側の道路の本町筋では、住宅建物だけが北側の道路に突出していて、東西両端で道が大きく南に屈曲していて、前方の見通しが悪く、今西家の前を通る道路は、この角で折れ曲がって小さい枡形を形成し、二階の窓は町内の道を真っ直ぐに見通す位置につくられている。その機能も意匠も物見櫓とよく似ているが、この家の性格を示している。町内より外部に通じる通路は、東面に3門、南面に3門、西に1門、乾方向に1門、北に1門の9つの門があり、夜は4つの門のみを開け、外来者が町中にみだりに入ることを拒んでいた。もし外来者が今井町内で宿泊する必要のあるときは、その都度、町年寄へ届出を必要としていた。
今井郷が都市的に発展したのは、中世末期において一向宗本願寺の進出によって一転機がおとずれ、俄然頭角を現すようになり、一向宗の道場を建設して以来のことで、町並の整った寺内町今井が成立した。このとき今井郷の形態は、外敵から郷民の安全を守るために、自衛上武力を養い、郷の周辺に堀を巡らし、土塁を設けた環濠集落で、現在もその濠跡が今井の周辺にその遺構を残している。織田信長に挑戦し、武装解除されてから自治権を委ねられて自治都市として確立した町並みが出来上がり、江戸初期から末期にかけての民家が軒を連ねるようになり、町並の形態が現在まで残されてきた。また、この古い町並の外周には三重の環濠跡を現在に残している。この環濠は巾三間(約5.45m)を有する濠をめぐらし、その内部には同じく環濠を掘り上げた際の土を盛り上げて三間の土塁を築き、雑木藪を植えて外部からの視界を妨げていた。
●近代以降
幕末になると、いろいろな名目で金銀の取立てや重税により町は衰退に向かい、明治維新によって富豪は消滅した。しかし依然、今井町は南大和の中心地であり、明治初年には奈良県出張所が置かれた。奈良県再設置問題がおこった時もその庁舎の位置について現在の奈良市を外し、今井町に設置しようとする有力な動きがあったが、実現しなかった。また、明治時代の鉄道開通の際、今井町近隣に持ち上がった鉄道駅建設計画に市中取締役の任にあった今西逸郎らが反対した。これにより乱開発が阻止され、町の保存に貢献した[3]。
民家建築が文化財として着目されるようになったのは、第二次世界大戦後で1955年(昭和30年)、関野克・太田博太郎・伊藤ていじ・渡邉定夫ら東京大学工学部建築学科による町屋調査を経て、倒壊寸前の今西家が1957年(昭和32年)6月18日に棟札とともに国の重要文化財に指定されたことに端を発し、「町並み保存運動」が鼓動をあげることになる。当初、保存に熱心だったのは当時の市長や研究者の方で、町並み・生活環境の近代化を求める住民の間には反対が強かったが、長年の交渉を経て次第に保存運動が地元にも浸透していった。
現在も町の大半が江戸時代の姿を残しており、大部分は実際に住居としても使用されているが、中には廃屋同然に放置された建物も存在する。自治体と共に空き家対策が早急に必要であると認識し、全国に先駆けてNPOなどを立ち上げ懸命に取り組んでいる。また今後、今井町が観光地としてだけでなく、いかにして293年もの間「自治都市」[4]として存続しえたかを後世に伝えていくことは、地方分権を考えていかねばならない現代において、重要な使命であると保存に取り組む人々の中には考える人もいる。
重要文化財9件12棟、奈良県指定有形文化財3件11棟、橿原市指定文化財5件6棟[5]。今井町は1993年(平成5年)5月、橿原市の条例に基づき伝統的建造物群保存地区となり、同年12月、国の重要伝統的建造物群保存地区として選定された。
1.今西家、2.豊田家、3.中橋家、4.上田家、5.音村家、6.旧米谷家、7.河合家、8.高木家、
A.八幡神社、B.順明寺、C.蓮妙寺、D.西光寺、E.春日神社、F.称念寺、
W.西町、S.南町、N.北町、O.東町、I.今町、Ne.新町