福ちゃんの散歩道

コロナ禍で関空での遊びも卒業、栂地区ウオーキングコースを中心に近場の日々の散歩で何か見つけよう。🚶‍♂️🚶‍♂️

12月2日(日)のつぶやき

2018-12-03 02:13:20 | 0 話題& ひろい読み &つぶやき

大坂城周辺の晩秋 今も残る秀頼の薩摩落ち伝説とは・・・・

2018-12-03 00:20:00 | ★大阪城もメチャ面白い😄
お昼の飲み会(同窓例会)で高槻へ
折角なので朝早めに出て
JR森ノ宮から
大坂城公園周辺を駆け足で晩秋を味わった!

外周道路をランニング 銀杏 かなり落葉

一歩歩道を中に入ると


森ノ宮方面



野良猫 台風21号の折れた枝 方々に放置

睨まれた


外堀方向へ






写真スポット

青屋門周辺


青屋門

天守閣


山里丸までとしよう
刻印広場


この右奥に
「豊臣秀頼・淀殿らの自刀の地」と刻まれた石碑が立っている




訪れる観光客は少ない


風で舞い落ちる


陽が射してきた

★豊臣秀頼にまつわる伝説がある。下記の諸説 ご参考に


1週間遅かったなあ
晩秋シーンです
さあ森ノ宮へ引き返そう
高槻の集合時間がある
森ノ宮は便利で、大阪メトロもJRもある
大阪メトロ堺筋本町で阪急京都河原町行きだと乗り換えなしでOK
私鉄の乗り入れにより本当に便利になっている

久し振りに 🍺🍺🍺🎤🎤🎤

2018,12.1. 大坂城公園周辺にて 本当に久し振りでした

✳️余談

★今も残る秀頼の薩摩落ち伝説
山里丸は豊臣家の最期のエリア 自害の地 として
「豊臣秀頼・淀殿らの自刀の地」と刻まれた石碑が立っている。夏の陣最後の決戦に敗れた秀頼は、慶長20年 1615年5月8日、この付近の櫓で、母 淀殿や近臣らとともに自害し、豊臣は滅亡した。

豊臣宗家滅亡
大坂方を押し返した幕府軍は大坂城内に入城した。城内の浪人たちまでが裏切って略奪を始める中、秀頼親子は天守閣に登って自害しようとするも、家臣に止められる。やがて天守閣が炎上し、秀頼母子は山里丸に逃れるもそこも徳川軍に包囲された。大野治長は千姫の身柄と引き換えに秀頼の助命を嘆願したというが、家康の容れるところとならず、秀頼は淀殿や大野治長らと共に自害した(享年23(満21歳没))と伝えられている。

死後 これで豊臣家の 血が途絶えた訳ではない。
男子の国松は逃亡したものの結局、捕らえられて殺害された。娘の天秀尼は千姫の働きかけもあり仏門に入ることを条件に助命された。また元禄初頭に80歳で没した求厭は臨終の際に、自分は大坂落城時に3歳だった秀頼の次男だと語ったという(『浄土本朝高僧伝』)。求厭の語ったことが事実なら、秀吉の血筋が途絶えたのは天秀尼の死去した正保元年(1645年)ではなく、求猒上人の死去した元禄元年(1688年)ということになる。
墓所は京都市東山区の養源院ほか。また大阪市中央区の豊國神社は、父の秀吉や叔父の秀長と共に秀頼も祭神としている。
昭和55年(1980年)、大坂城三ノ丸跡の発掘調査で人1人の頭蓋骨と別に首のない2人の骨、馬1頭の頭の骨が発見された。骨は人為的に埋葬されたものとみられ、頭蓋骨は20代男性のもので顎に介錯されたとみられる傷や、左耳に障害があった可能性が確認され、年齢や骨から類推する体格から秀頼のものではないかと推測された[9]。骨は昭和58年(1983年)、京都の清凉寺に埋葬された。

平成23年(2011年)10月13日、大坂城三ノ丸に位置する大坂城鎮守社である玉造稲荷神社に秀頼の銅像が建立された。


伝・豊臣秀頼の墓
鹿児島市の谷山という地区に豊臣秀頼の墓と伝えられる宝塔があります。
この宝塔は、新住居表示で「谷山中央4丁目」の木之下川にそった木之下という集落の中にある福元というお宅の庭先に置かれています。

(1)「秀頼の薩摩落ち」の伝説について

「谷山市史」などの文献から、
①秀頼はひそかに大阪城を抜け出して、真田幸村などに守られて、ここ、薩摩の谷山に逃れてきたこと。
 このことは、上田秋成の「胆大小心録」や平戸に来ていた英国商館長コックスの日記、平戸城主松浦静山の書などにもあるそうで、当時のわらべ唄に
「花のようなる秀頼さまを 
鬼のようなる真田が連れて のきものいたり鹿児島へ」
というのがあったといいます。

②秀頼がどうやって大阪城を抜け出すことに成功したか
ざっと見ただけで5つ以上の説があり、特に面白いのは、島津家から豊臣家の恩顧に報い、大阪城内へ兵糧を送りたいとの願いを特別に家康が許し、米を場内に届けて戻る兵士たちに秀頼をまぎれこませて城の外へ出たというものがあります。
 いずれにしても、秀頼は薩摩藩の船に迎えられて薩摩に落ち延び、島津家は幕府をはばかって秀頼を厚くもてなしたということのようです。

③薩摩の谷山での秀頼の暮らしぶり
毎日大酒を飲んで、町の中を暴れまわったり、無銭飲食をくりかえしていたといい、島津の殿様からは、秀頼公に一切無礼なふるまいがあってはならないというお達しがあったので、人々は秀頼を恐れ、逃げかくれしていたということが伝えられています。

 谷山地区に昔からある言い伝えに「谷山犬のくれ逃げ」というのがあり、それは薩摩の谷山に逃げてきた秀頼が城下で無銭飲食を繰り返しているのを、人々がこのように言っていたのではないか、といわれています。

 今でも、「たんにゃまんいんのくれにげ」という言葉は、たとえば、よく知った人の間でのやり取りの中で、谷山在住の人が食事の支払いを忘れて席を立とうとすると、「あのひとは谷山だからね」という言葉を使うこともあるのだと、古い資料に書かれていました。

(2)秀頼の墓について
①秀頼の墓へのアクセス
 木之下という集落は、近年の住居表示の変更によって「鹿児島市谷山中央4丁目」の中にあり、周囲に広がる新興住宅地に取り囲まれています。



薩摩ではなく肥後説
★秀頼は薩摩ではなく肥後に落ち、そこで妻を娶って一男一女をなし、弟が薩摩に移ったのに対し、姉はのちの肥後領主となったと伝え、細川家の家老有吉家の室になったと伝え、熊本市の有吉家墓所には、秀頼息女の墓がある。彼女の生んだ男児が有吉家の家督を継ぎ、同家は今も秀頼以来の血の継承を確信する。
マア
各地で多くの人々が豊臣家の存続を願い、語り継いできた。

豊臣秀頼の墓はどこにあるの?
豊臣秀頼は大阪夏の陣にて、大阪城で自害したとされています。
その秀頼の墓所は複数あるのですが、仲でも特に有名なのは京都にある養源院です。
この養源院は、秀頼の母である淀殿が実家の浅井家の人々のために創建したとされ、秀頼と共に淀殿も眠っている場所として知られています。
また、淀殿の妹であり、秀頼の義母にあたるお江の方がこの二人の菩提を弔ったことから、秀頼と非常に深い縁のある場所でもあります。
この他にも、大阪城三の丸から出た遺骨が埋葬された京都の清涼寺や、和歌山の高野山奥の院も豊臣秀頼の墓所だと言われています。