福ちゃんの散歩道

コロナ禍で関空での遊びも卒業、栂地区ウオーキングコースを中心に近場の日々の散歩で何か見つけよう。🚶‍♂️🚶‍♂️

元祖ANA機「安全の守り神」のヘリコプター ‼️移送作戦のニュース& 2レターコード「NH」ルーツ&ANA旧ロゴマーク‼️

2020-07-05 00:10:00 | 飛行機の話題(乗り物ニュース)

ANA 旧ロゴマーク



ANAの前身にあたる日本ヘリコプター輸送で運航されていたヘリコプターが、
2日がかりの移設作業を行いました。
この中心となるのは、同社の整備士のなかでも屈指の経験をもつ、超ベテラン整備士でした。

ANA創業時の記念すべき機材
交通博物館(東京都千代田区)に展示時代
FlyTeam(フライチーム)に登録はこの1枚のみです
詳細
⬇️



ANA「創業時ヘリコプター移送作業」の様子。左側の赤い帽子を被っているのが中心人物の伊藤 剛さん(2020年6月30日、
乗りものニュース編集部撮影)。

ANA創業のシンボルが「自動ドア」をすり抜けて…
 ANA(全日空)が2020年6月29日(月)から30日(火)にかけ、
同社の前身にあたる日本ヘリコプター輸送の、創業時に保有していたヘリコプター(機番:JA7008)を、
ANAトレーニング&エデュケーションセンターから、2019年に新設された、
同グループの複合訓練施設「ANA Blue Base」に移設しました。

日本ヘリコプター輸送は1952(昭和27)年に設立されました。
当初はアメリカのベル・ヘリコプター製のベル47D-1型機を2機保有し、
翌1953(昭和28)年から宣伝飛行や遊覧飛行などの有償飛行を始めました。

この元祖ANA機ともいえるヘリコプター、ベル47D-1型機は3人乗りで、
長さ約13m、幅約2.6m、高さ約2.8m、重さは726kgといいます。
また今回、移設されたJA7008は、日本ヘリコプター輸送の2号機にあたり、
1970(昭和45)年までの18年間で約4830時間の飛行時間を重ねました。
運航終了後は、長いあいだ交通博物館(東京都千代田区)に展示されていましたが、
2008(平成20)年にANAへ「創業の精神、安全の象徴を示すもの」として返還されました。

2日かけて行われた移設作業では、
ヘリコプターのプロペラ「メインローター」やマストなど大きなパーツを外したうえ、
建物の一般的な自動ドアをすり抜け搬出、日本通運のトラックで移送され、
ANA Blue Baseで再度組み立てが行われています。

大がかりな移設作業 中心人物の経歴もすごかった
 今回の移設はANAの整備士、伊藤 剛さんを中心に実施されました。
伊藤さんは1974(昭和49)年に入社以降、YS-11型機や、
「ジャンボ」ことボーイング747シリーズ、ボーイング787型機など
計8モデルで「一等航空整備士」の資格を持つほか、
重整備を中心とする「ドック整備部門」約1000人のうち、
4人だけの社内専門性認定制度の最高位である「グループマイスター」に認定され、
2020年現在、若手整備士の指導にあたるなど、
ANA整備士のなかでも屈指の経験を持つベテラン整備士です。

伊藤さんは入社から3年のあいだ、ヘリコプターの整備部門に在籍したこともあったとか。
そのような経験から、前述した交通博物館からANAへの返還時、
そして今回の移設において、作業の陣頭指揮を執っています。
伊藤さんとチームを組むのは、ANAグループの若手整備士です。

 2日がかりで行われた移設作業について、
伊藤さんは「順調すぎてびっくりしました」といい、
「整備士の基本である聞く、確認をとって、作業に移るという作業内容が、
ひとつひとつ徹底されていたのが印象的です」と、
若手整備士で組まれたチームを高く評価しました。

チームに加わった若手整備士のひとりも「ANAがこの機体から始まったと光栄に思いながら、
初めて一緒に作業する人とも連携をとって、チームワーク良く円滑に作業できました」と話します。

ちなみに、このヘリコプターの前面に貼られた「ダヴィンチマーク」は、
ANA機の尾翼のロゴマークのモデルとなったほか、
2012(平成24)年3月までANAの社章にも用いられていました。
また、ANA機の便名を示す「NH」(2レターコード)も「日本ヘリコプター輸送」の略称とされています。

旧ANAのロゴマーク・・[ダヴィンチマーク]は

全日本空輸の前身は日本ヘリコプター輸送株式会社極東航空株式会社である。
太平洋戦争後、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) の命令によって、全ての日本国籍の航空機は運航を停止していたが、
1952年(昭和27年)に運航禁止期間の解除の決定が下されたことを受けて、同年に両社は設立された。

日本ヘリコプター輸送株式会社のルーツは、
戦前の朝日新聞航空部で上司部下の関係であった美土路昌一(後に全日空社長、朝日新聞社長)と
中野勝義(後に全日空副社長)が中心となり、終戦後の民間航空関係者の失業救済を目的として、
1945年(昭和20年)に設立した社団法人興民社にある。 
これが後々の1952年(昭和27年)12月27日に、興民社の組織や人脈を基盤として設立されたのが
日本ヘリコプター輸送株式会社(通称「日ペリ」、「日ペリ航空」)であった。
設立の際、美土路の呼びかけに応じて永野重雄ら、財界の大物が設立発起人に名を連ねた。
美土路と永野が相談しながら、同社設立の手続きを進めた。
若狭得治は「一切永野さんと美土路さんの手によって全日空が作られた」と述べている。
全日空は、その後もハワイのチャーター便問題や、日本貨物航空の問題など、多くに永野の力を借りた。
 当初は東京を拠点にヘリコプターによる宣伝事業のみを行っていたが、
NHKの報道ヘリコプターの運航や空中散布、やがて飛行機による事業にも参入し、
1953年(昭和28年)12月15日に貨物航空事業を開始し、
1954年(昭和29年)2月1日には旅客航空事業も開始した。

極東航空株式会社は、
日ペリより1日早い1952年(昭和27年)12月26日に、
太平洋戦争前に関西で航空事業を行っていた関係者により大阪で設立。
大阪を拠点として、大阪 - 四国・大阪 - 九州といった西日本方面の航空路線を運営していた。


ANAの前身である「日本ヘリコプター」を
象徴するかのように、
垂直尾翼には
レオナルド・ダ・ヴィンチが
考案したヘリコプターの図柄が
くっきりとマーキングされています。



大空を自由に駆け巡るという壮大な夢を
ロゴとして採用していた全日空。
一見シンプルで美しく見えるANAの
ロゴマークやシンボルカラーには、
大空をかける熱い情熱と、
安全への想いがこめられていたんですね。

*******************

ANA  2レターコード 「NH」















最新の画像もっと見る