百寿まで7年 阪堺電車「モ161形」が見てきた風景
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「チン電」の愛称で親しまれる阪堺電気軌道は、大阪府内に残る唯一の路面電車。その最古参車両「モ161形」があと7年で百寿(100歳)を迎える。同社が修繕費用をクラウドファンディング(CF)で募ったところ、目標の約750万円の2倍近い約1400万円の寄付が集まった。沿線住民からは数世代にわたる思い出や感謝のメッセージも寄せられている。
同社によると、修繕する車両は「モ161号」。同社に4両残る1928年(昭和3年)製造のモ161形の一つで、車体は鉄板と木材を合わせた構造だ。
10年前に約1000万円かけ65年(昭和40年)ごろの姿に復元。車体は濃緑色、屋根は赤色に塗装し、ニス塗りした木製窓枠など内装も整えたが、木製扉などが傷み修繕が必要になった。
モ161形は製造当時の最新の制御装置を備え、連結運転で後ろの車両のモーターを制御できた。
現在、同社の路線は阪堺線(大阪市浪速区―堺市西区)、上町線(大阪市阿倍野区―住吉区)の2線だが、14~80年の期間は平野線(同市西成区―平野区)もあった。平野線は一部を除き専用軌道を通り、路面電車というより田園風景の郊外を走る電車だった。モ161形が誕生した昭和初期は沿線の宅地化が進み、乗客が急増した時期だ。
モ161形は輸送力増強の旗手として28年から計16両配備され、連結運転の勇姿が沿線で人気だった。
第2次大戦中に1両が焼失したが、残りの車両は戦前戦後を通じて活躍。21世紀に入ってから順次廃車となったが、今も4両が通常の営業運転を行う現役だ。
長寿の理由について同社業務部の向山敏成部長は「車体が頑丈で制御器の構造もシンプル。丁寧に保守を重ねてきた」と語る。また、製造された当時は経営的にも時代背景的にも「鋼材や資金を潤沢に使えた良き時代」だったという。
戦後は50年代初めまでフル回転で復興を支えたが、地下鉄の延伸、路線バスの台頭で徐々に乗客が減り、沿線の自動車も増加。平野線での連結運転は60年に終了し、モ161形の働き場も他線に移っていった。
「連結運転の話は先輩たちによく聞いた」と語るのは平山寿永春さん(73)。68年に南海電気鉄道に入社し、80年に分社した阪堺電気軌道で定年後も嘱託として働く。50歳まで約30年間、車掌、運転士として軌道線に乗務した。
駆け出しの頃、軌道線の最盛期は過ぎていたが「まだ活気があった」という。天王寺に向かう上町線は通勤・通学客が多く、朝は数分間隔で電車が運行。モ161形には車両中央に扉があり、「車掌時代は駅に着くと、急いで降りて外側から扉を開閉した。遅いと運転士から怒られた」。
モ161形は扇風機も冷房もない。「その頃の車内は混んでいて、梅雨時に窓を閉めたらまるで蒸し風呂。でも誰も文句を言わなかった」と懐かしげに語る。
沿線の風景は今もあまり変わらないが、時代の変化は車内から感じていた。「車が増えて路面電車が邪魔者扱いされ、合理化でワンマン運転に。スーパーが増えると沿線の商店街がさびれてきて、買い物に出かける昼間の利用客が減った」
ただ、今も残るのが「乗客との距離の近さ」だ。運転席をのぞく子ども、アメをくれるおばあちゃん。「生活の足だから身内みたいな雰囲気だった」と語る。
阪堺沿線の活性化を目指すNPO法人「RACDA大阪・堺」の理事、工藤寛之さん(55)も沿線で育った。「チン電」の写真を撮り続けてきたファンの一人で「昔と今が地続きの空間。電車に乗ると様々な光景を思い出す」と語る。
21世紀に入り、阪堺線の堺市内の区間は廃線の危機に直面。堺市が2011年度から10年間で総額50億円を支援することで、存続が決まった。「そういう苦しい時代を乗り越え、モ161号が残っていることにも価値がある」と工藤さん。
同社は新型コロナウイルスの影響で20年度の業績が悪化。修繕費用を捻出できず、窮余の策として今回のCFを企画した。6月末までの約3カ月間で、878人から総額約1400万円の支援が寄せられたのは想定以上。業務部の向山部長は「親子3代の利用者などから思い出の詰まったコメントが寄せられ、あらためて多くの人に愛された電車だと分かった」と語る。
同社はCF実施にあたり「モ161号は将来も残す」という意思を社内で確認した。ファンの思いを乗せて百寿を目指すモ161号は、9月中旬に修繕を終える予定だ。(影井幹夫)
CF実施計画ニュース