先日、学生時代の友人たちの会合に出席するために上京しました。
東京の街は相変わらず人の波で、人混みに酔ってしまいそうになります。
日曜日の夜の会合なので、午前中は東京都美術館の「バベルの塔」展を観て、午後からは東横線に乗り学生時代に下宿したことのある学芸大学駅に向かいました。
学生の時に数か月の間、下宿していたのが目黒区五本木だったのです。
学芸大学駅の近くには「碑文谷公園」というのがあります。当時、下宿していた親類の家からは10分ほどの距離なので、たびたびその公園には行きました。。
碑文谷公園には「弁天池」と言う池があります。
そこを訪れた日は、気温が30度にもなって、暑さに参りましたが公園の日陰から弁天池を見ていると、50年も前の記憶がよみがえってきます。
学校に行きもせずぼんやりと時間を過ごしたり、親戚の子と散歩したりしていました。
あの時、お世話になった親戚も代替わりとなってからは、行き来はありませんので、一緒に散歩に行ったあの子は今はどうしてるのだろうか、などと考えてしまいます。
さて、一時ぼくは友人がやってた演劇活動を手伝ったことがありまして、今回はその時の仲間との会合でした。
その時に公演したパンフレットが、いま手元に残っています。
これです。
今思えば、ずいぶんと難しい出し物でした。
不条理劇と言われているサミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」です。
ぼくの役割は裏方でしたが、当時キャストとして出演した友人に、尋ねました。
この劇の内容を理解して、演じていたのかと。
彼は、次のように答えました。「劇の意味を理解しないままに、演じていた」との事でした。
多分、そうでしょうね。この劇は、いかようにもとれるような内容なのです。
二人の男が来もしないゴドーを、ただおしゃべりしながら待っているという劇でした。
ついに来ることのなかったゴドーという人物とは一体何者なのでしょうか?
いや、そもそもゴドーは人物なのでしょうか?
ゴドーが何であるかを明らかにしないままに、この劇は幕を下ろすのです。
ゴドーは永遠に来ない「あした」とも言えます。
きょうの次に来る日を、私たちは「あした」と呼びますが、「あした」になった時には、私たちは「きょう」の日にいるので、永遠に「あした」を手に入れる事が出来ません。
ゴドーというのはそんな「あした」なのかもしれません。
さて、東京での会合を終わり、翌日は新幹線で帰ってきました。
秋田までは4時間もかかるのです。東京ー青森間より時間が多くかかるのです。
ですが、この4時間という時間は、何かを考えたり、持って行った本を読んだりするにはちょうど良い長さの時間なのです。
帰りの電車の中で、持って行ったこの本を読んできました。
これは岩波版ですが、50年前には現代思潮社から出ていたものです。
「ゴドーを待ちながら」よりはこの本の内容はぼんくらな頭にも、すうーと入ってきます。
<追記>
芝居でも小説でも何かが起こり、それに対して登場人物たちが取る態度や行動が普通では叙述されていきます。
そこには「何かが存在」すると言えます。
ところがこの「ゴドーを待ちながら」では、待っていても何も起こらないのです。
主演の二人の浮浪者はゴドーをただひたすら待っているのです。
そしてその劇を見ている観客も舞台の上で起こる何かを待っているのです。
この劇はなにも起こらないまま終わっていきます。
この劇では何も起こらないという「不在」があるのみです。
ですから「不条理劇」と呼ばれるのでしょう。
東京の街は相変わらず人の波で、人混みに酔ってしまいそうになります。
日曜日の夜の会合なので、午前中は東京都美術館の「バベルの塔」展を観て、午後からは東横線に乗り学生時代に下宿したことのある学芸大学駅に向かいました。
学生の時に数か月の間、下宿していたのが目黒区五本木だったのです。
学芸大学駅の近くには「碑文谷公園」というのがあります。当時、下宿していた親類の家からは10分ほどの距離なので、たびたびその公園には行きました。。
碑文谷公園には「弁天池」と言う池があります。
そこを訪れた日は、気温が30度にもなって、暑さに参りましたが公園の日陰から弁天池を見ていると、50年も前の記憶がよみがえってきます。
学校に行きもせずぼんやりと時間を過ごしたり、親戚の子と散歩したりしていました。
あの時、お世話になった親戚も代替わりとなってからは、行き来はありませんので、一緒に散歩に行ったあの子は今はどうしてるのだろうか、などと考えてしまいます。
さて、一時ぼくは友人がやってた演劇活動を手伝ったことがありまして、今回はその時の仲間との会合でした。
その時に公演したパンフレットが、いま手元に残っています。
これです。
今思えば、ずいぶんと難しい出し物でした。
不条理劇と言われているサミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」です。
ぼくの役割は裏方でしたが、当時キャストとして出演した友人に、尋ねました。
この劇の内容を理解して、演じていたのかと。
彼は、次のように答えました。「劇の意味を理解しないままに、演じていた」との事でした。
多分、そうでしょうね。この劇は、いかようにもとれるような内容なのです。
二人の男が来もしないゴドーを、ただおしゃべりしながら待っているという劇でした。
ついに来ることのなかったゴドーという人物とは一体何者なのでしょうか?
いや、そもそもゴドーは人物なのでしょうか?
ゴドーが何であるかを明らかにしないままに、この劇は幕を下ろすのです。
ゴドーは永遠に来ない「あした」とも言えます。
きょうの次に来る日を、私たちは「あした」と呼びますが、「あした」になった時には、私たちは「きょう」の日にいるので、永遠に「あした」を手に入れる事が出来ません。
ゴドーというのはそんな「あした」なのかもしれません。
さて、東京での会合を終わり、翌日は新幹線で帰ってきました。
秋田までは4時間もかかるのです。東京ー青森間より時間が多くかかるのです。
ですが、この4時間という時間は、何かを考えたり、持って行った本を読んだりするにはちょうど良い長さの時間なのです。
帰りの電車の中で、持って行ったこの本を読んできました。
これは岩波版ですが、50年前には現代思潮社から出ていたものです。
「ゴドーを待ちながら」よりはこの本の内容はぼんくらな頭にも、すうーと入ってきます。
<追記>
芝居でも小説でも何かが起こり、それに対して登場人物たちが取る態度や行動が普通では叙述されていきます。
そこには「何かが存在」すると言えます。
ところがこの「ゴドーを待ちながら」では、待っていても何も起こらないのです。
主演の二人の浮浪者はゴドーをただひたすら待っているのです。
そしてその劇を見ている観客も舞台の上で起こる何かを待っているのです。
この劇はなにも起こらないまま終わっていきます。
この劇では何も起こらないという「不在」があるのみです。
ですから「不条理劇」と呼ばれるのでしょう。
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