カメラが対象を写し取る仕組みは人の眼がものを見るそれを模倣したものです。
両者が映像として記録する仕組みは、基本的には同じなのです。
ですが詳しくみると微妙に異なっているものもあります。
今回はそれらのことについて調べてみました。
「目はどうして物が見えるのか」ということを簡単に説明してみましょう。まず、「物を見る」ということは、物にあたって反射された光を見ているのです。いくら物があっても暗闇の中では何も見えません。
さて、物に反射した光が、途中で遮るものが無く、目に達すると、その光は湾曲した角膜で内側に屈折され、眼房水を通って、水晶体に届きます。その後、水晶体で屈折され硝子体を通過して、網膜の表面にピントのあった倒立像が結ばれます。これを正しい立体像として認識できるのは全て大脳のはたらきによるものです。物を3次元の立体として見ることができるのも、脳が目から送られてくる情報を正しく判断しているからです。
レンズを通した光を記録する点では眼とカメラが対象を写しだす仕組みには構造的には大きな違いはありません。
ですが、カメラと人の眼には記録の仕方では大きな違いがあります。
人の眼とカメラとの違いは次の2点に集約されます。
その第一は、人の眼は3次元を見ているが、カメラは3次元を見ることはできない、という事である。
第二点は、人の眼は見たいものを見ることが出来る、言葉を変えれば見たくないものは見ないのである。
これに対して、カメラは見たいか見たくないかにかかわらず、そこにあるものを全部見てしまう、ということです。
ここで人の眼の「視野角」について考えてみましょう。
研究者によれば人の眼の「視野角は」3度程度と言われています。
わずか3度?と思われるかもしれませんね。そんなことはないだろう、人の眼は両眼だと百数十度もの視野を見渡せるじゃないかと思われるかもしれません。
事実そうなのです。わずか3度の視野角しかないのなら、危なくて歩くことや車の運転などできやしないよ、と言われるかもしれませんね。
ですが、人の眼が「一度にみる事の出来る視野角」は3度ぐらいなのです。
3度の視角はカメラレンズでいえばかなりの長焦点の望遠レンズに匹敵します。
それじゃなぜ、人は交通事故も起こさず、車の運転に支障の出ないぐらいの視野を持っているのか、という疑問が出てきますね。
それは次のことを目(と脳)がしているからだとされています。
眼は3度と言う狭い視角の映像を次から次へと見てそれを脳に送ります。脳は送られた細切れな画像を合成して、一つの大きな画像として認識させるのです。
眼と脳との共同作業によって、人は3度と言う狭い視角でみた映像であっても普段は何の支障もなく全体を見渡すことが出来るのです。
この合成の作業をする過程で脳はちゃんとした仕事をしない時があります。それは見ているものを「見落とす」ことです。横断している人が見えなくて事故に巻き込んでしまうことなどがそれに当たります。
視野の中に入っているものを「見えてこない」ことが人の脳にはあるわけです。
このことは何を意味するのでしょうか。
人は物を「選択して見ている」のです。見たくないものは見ない、のです。当然「みたくないもの」は脳に記憶されることもありません。「見えなかった、記憶にありません」という事があり得るのです。
「見たくないものは見ない」の逆も当然あります。
今、眼の前に着物姿の美しい女性がいたとしましょう。その女性の全身像が見えているものとします。
そして、その女性が見ている人に微笑みかけたとしましょう。見ている人にはその女性の瞳の美しさが第一に脳内に記録されてしまい、その美人が着ている着物の柄などは「眼中にない」ことになってしまうのです。このように人は「見たいもの」だけを見てしまうのです。
その点、カメラが「見落とし」をすることはありません。レンズを通した光景は必ず画像として記録しています。
写真を写した時に「見た通りに写っていない」と思うことがあります。プリントした画像と撮影した時との印象が大きく違っていると感じることがあります。
これはカメラマンの腕が悪いのではありません。
人の眼が「見たいものだけを見る」のにたいして、カメラは入ってくる光景をすべて見ているからなのです。
これらのことを考えると、映像を作る作家は映画であれ、写真であれ、大変な作業をしているのだなと思います。
両者が映像として記録する仕組みは、基本的には同じなのです。
ですが詳しくみると微妙に異なっているものもあります。
今回はそれらのことについて調べてみました。
「目はどうして物が見えるのか」ということを簡単に説明してみましょう。まず、「物を見る」ということは、物にあたって反射された光を見ているのです。いくら物があっても暗闇の中では何も見えません。
さて、物に反射した光が、途中で遮るものが無く、目に達すると、その光は湾曲した角膜で内側に屈折され、眼房水を通って、水晶体に届きます。その後、水晶体で屈折され硝子体を通過して、網膜の表面にピントのあった倒立像が結ばれます。これを正しい立体像として認識できるのは全て大脳のはたらきによるものです。物を3次元の立体として見ることができるのも、脳が目から送られてくる情報を正しく判断しているからです。
レンズを通した光を記録する点では眼とカメラが対象を写しだす仕組みには構造的には大きな違いはありません。
ですが、カメラと人の眼には記録の仕方では大きな違いがあります。
人の眼とカメラとの違いは次の2点に集約されます。
その第一は、人の眼は3次元を見ているが、カメラは3次元を見ることはできない、という事である。
第二点は、人の眼は見たいものを見ることが出来る、言葉を変えれば見たくないものは見ないのである。
これに対して、カメラは見たいか見たくないかにかかわらず、そこにあるものを全部見てしまう、ということです。
ここで人の眼の「視野角」について考えてみましょう。
研究者によれば人の眼の「視野角は」3度程度と言われています。
わずか3度?と思われるかもしれませんね。そんなことはないだろう、人の眼は両眼だと百数十度もの視野を見渡せるじゃないかと思われるかもしれません。
事実そうなのです。わずか3度の視野角しかないのなら、危なくて歩くことや車の運転などできやしないよ、と言われるかもしれませんね。
ですが、人の眼が「一度にみる事の出来る視野角」は3度ぐらいなのです。
3度の視角はカメラレンズでいえばかなりの長焦点の望遠レンズに匹敵します。
それじゃなぜ、人は交通事故も起こさず、車の運転に支障の出ないぐらいの視野を持っているのか、という疑問が出てきますね。
それは次のことを目(と脳)がしているからだとされています。
眼は3度と言う狭い視角の映像を次から次へと見てそれを脳に送ります。脳は送られた細切れな画像を合成して、一つの大きな画像として認識させるのです。
眼と脳との共同作業によって、人は3度と言う狭い視角でみた映像であっても普段は何の支障もなく全体を見渡すことが出来るのです。
この合成の作業をする過程で脳はちゃんとした仕事をしない時があります。それは見ているものを「見落とす」ことです。横断している人が見えなくて事故に巻き込んでしまうことなどがそれに当たります。
視野の中に入っているものを「見えてこない」ことが人の脳にはあるわけです。
このことは何を意味するのでしょうか。
人は物を「選択して見ている」のです。見たくないものは見ない、のです。当然「みたくないもの」は脳に記憶されることもありません。「見えなかった、記憶にありません」という事があり得るのです。
「見たくないものは見ない」の逆も当然あります。
今、眼の前に着物姿の美しい女性がいたとしましょう。その女性の全身像が見えているものとします。
そして、その女性が見ている人に微笑みかけたとしましょう。見ている人にはその女性の瞳の美しさが第一に脳内に記録されてしまい、その美人が着ている着物の柄などは「眼中にない」ことになってしまうのです。このように人は「見たいもの」だけを見てしまうのです。
その点、カメラが「見落とし」をすることはありません。レンズを通した光景は必ず画像として記録しています。
写真を写した時に「見た通りに写っていない」と思うことがあります。プリントした画像と撮影した時との印象が大きく違っていると感じることがあります。
これはカメラマンの腕が悪いのではありません。
人の眼が「見たいものだけを見る」のにたいして、カメラは入ってくる光景をすべて見ているからなのです。
これらのことを考えると、映像を作る作家は映画であれ、写真であれ、大変な作業をしているのだなと思います。
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