7月12日はJR東海「そうだ 京都、行こう。」の企画で表題のイベントに参加しました
この椅子は木製の臼から掘り出した作品で底には駒が付けられていて前後の移動が楽なように考えられています。
こちらで学芸員をされていて、また、河井寛次郎のお孫さんでもある鷺珠江さんに案内頂きました。
「暮らしが仕事 仕事が暮らし」を旨とし、「土と炎の詩人」と言われる河井寛次郎の世界が拡がっています。
河井寛次郎の作品は多くの美術館で見る事が出来ますが、寛次郎自身が設計し、ご家族と共に暮され、作陶に励んだこちらの記念館は、寛次郎の生活感を肌身に感じることが出来る記念館です。
島根県安来の実家(大工の棟梁)の方々が泊り込み建設されました。
京都の町中に合った民家風の建物には寛次郎のデザインによる家具や調度品、作品が随所に置かれています。
この椅子は木製の臼から掘り出した作品で底には駒が付けられていて前後の移動が楽なように考えられています。
こちらの神棚も寛次郎のデザインです。
寛次郎の作品は大きく三期に分かれます。
大正期の初期は、中国古陶磁に倣った作品で、その完成度の高さが早くから評価されました。
戦前昭和期は、大正末期から中心メンバーとして活躍した民藝運動の影響を受けて作風がガラリと変化して行きます。
「用の美」と言われる暮らしに溶け込む作品が中心になります。
そして、戦後の昭和期。戦中に作陶出来なかった鬱憤を晴らすかのように大胆なデザイン、生命感、躍動感溢れた作品が多くなります。
また、作陶と同時に木彫にも取組み動物や人、人面の作品を100点近く残しています。
初期の作品には名が入れられていましたが、以降の作品には意図的に名を入れなかったそうです。
作品そのものを見て感じて欲しい、、、そんな心意気を感じます。
二階にも生活感ある空間と作品の世界が拡がっていています。
寛次郎の机、椅子です。椅子の底には 滑車が付いていて工夫を感じます。当時のままに残されていて、デザインやモチーフを考えている寛次郎が居るかのようです。
中庭には丸石が。
建物の完成祝いに郷里安来の知人達から贈られた物だそうで寛次郎の大のお気に入りだったようです。
住居棟を離れ、仕事場に来ました。
素焼窯です。
寛次郎が譲り受けた登り窯です。この窯を手に入れたことからこの地を生活、仕事の拠点に定めました。
釉薬を入れる壺が並んでいます。
寛次郎の仕事場です。
足で廻すろくろがそのまま残されています。
戦中は窯に火を入れる事が出来ず、作陶が出来ませんでした。その間に、多くの言葉や書を残しています。
鷺さんによると、言葉の読み方や意味などの説明は一切なかったそうです。
"見たままに読み、感じたままに解釈してくれ"とのメッセージが込められているようです。
入口の"河井寛次郎記念館"の看板は棟方志功による筆、黒田辰秋による彫刻作品です。
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