上善寺の後、相国寺の境内を抜けて塔頭寺院のひとつ光林院に来ました。
2018年の"京の冬の旅"で公開されましたが、以降は全くの非公開寺院です。
藤井涌泉さんの「虎の図」がパンフレットの表紙を飾り話題になりました。
臨済宗大本山相国寺の塔頭である林光院の庭園には、平安朝文化の優雅な時代思想を反映する代表的なエピソードの主人公である「鶯宿梅」という名梅が現存します。
「大鏡」によれば、村上天皇の天暦年間(947―956)、御所の清涼殿の梅の木が枯死したので、それに代わる梅の木を探し求めさせたところ、西の京の紀貫之の娘の屋敷の梅がその選に応える名梅であるというので、天皇の勅令に依り御所に移植されることになったのであるが、別れを惜しんだ娘は短冊に
勅なればいともかしこき鶯の
宿はととはばいかがこたへむ
という一首を詠み、梅の枝に懸けておいたところ、この歌が天皇の目にとまり、その詩情を憐れんで元の庭に植え返されたという。(大鏡・拾遺和歌集)
その時からこの梅が「鶯宿梅」、又は「軒の紅梅」と称せられて、「みやび」や「もののあはれ」と云うことを尊んだ王朝の優雅な時代精神を現す代表的物語として、後生にまで喧伝されるに至ったのています。
応永二十五年(1418年)正月、足利三代将軍義満(相国寺開基)は、二十五歳で早世した第二子の義嗣(林光院殿亜相孝山大居士)の菩提を弔うために、夢窓国師を勧請開山として、京都二条西の京の紀貫之邸の址地に林光院を開創したのがお寺の由緒です。
また、また、前置きが長くなってしまいましたが、相国寺の東門を出て東に進むと北側(左手)に光林院の境外墓地があります。
ここには蛤御門の変や鳥羽伏見の戦いで戦死した薩摩藩士72名を合葬した墓碑が建てられています。
また、近世儒学の祖といわれている藤原惺窩の墓があります。
入口には鉄製の門扉があり、中に入る事は出来ません。
林光院と薩摩藩・島津家との関係は関ケ原の戦いにさかのぼります。
西軍の島津義弘が両陣営の中央を突破し伊賀に隠れ、大阪の豪商田辺屋今井道與が潜伏先から海路護送して無事薩摩に帰国させました。
この功績によって、道與は摩藩秘伝の調薬方の伝授を許され、現在の田辺製薬の始まりとなりました。
さらに、島津義弘は自ら僧形の像を造り道與に送っています。
後に、道與の嫡孫乾崖梵竺が林光院五世住職となり、義弘の像とその位牌が林光院に移され、島津家により遷座供養が行われています。
また、鶯宿梅が咲く頃に公開して欲しいですね。