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コンパクト・シティーの姿(8)---デジタル化とマイナンバー

2020-07-25 | 地球の姿と思い出
「コンパクト・シティーの姿(7)---来るべき変動とデジタル化の遅れ」から続く。

2)マイナンバーの遅れ
マイナンバーの目的は、①国民の利便性の向上、②行政の効率化、③公平・公正な社会の実現の3つである。具体的には社会保障、税、災害対策の分野に適用する。(以上、総務省HPから抜粋) 筆者もこの3つを願う。

マイナンバーの形式は数字NNNN NNNN NNNNの12桁、国民一人ひとりを識別する番号である。

住民基本台帳に登録された人にマイナンバーが付与されたのは2015年10月、写真付きのマイナンバー・カードの交付は2016年1月から始まった。

しかし、デジタル化が遅れた日本社会では、マイナンバーへの関心も薄く、その出遅れに対する国民の危機感はいまひとつである。たとえば、写真付きのマイナンバー・カードの全国交付率は次のとおりである。
 2020年3月1日 15.5%(総務省統計)
 2020年7月1日 17.5%(総務省統計)
せっかくのマイナンバー・カードの交付率は非常に低調である。

しかし、金銭が絡むと国民もにわかに活気づく。特別給付金10万円のオンライン申請にマイナンバー・カードが必要と知った人々は、カードの交付を求めて役所の窓口に殺到した。窓口がパンクするほど混乱したが、交付率は17.5%に向上した。目先の10万円は大切だが、もっと先にある3つの目的にも期待したい。

しかし、思わぬ10万円の給付金も、自治体ごとに開始したオンライン申請にシステム・エラーが多発、43自治体がオンライン申請を停止した(日経2020/6/2)。それらのトラブルは、システムの初期不良、ユーザーの入力ミス、マイナンバーと住民基本台帳のインターフェース・トラブル(実際には法的な制約)などだった。

筆者の目には、ユーザー・テストと本番をごっちゃにしたようなシステム・スタートアップ、運用性の検証が甘かった。結果として、本番中のシステム修正やシステム中止という②行政の効率化と正反対の状態に陥った。長年システムに携わってきた筆者からすれば、それでもシステムのプロか?と叱責したくなる。

振り返ればいろいろなトラブルがあったが、忘れてはいけないことが一つある。それは、③公平・公正な社会の実現の1つにマイナンバーと銀行口座の紐付けがあった。しかし、現在それは手付かずである。

本来、最優先事項の口座開設にマイナンバー必須は第一に達成すべきだった。しかし、6400億円*も使ったが、最優先事項は達成できなかった。おまけに、オンライン申請の混乱だった。踏んだり蹴ったりはこのことである。【*参考:安倍首相、口座ひも付け「しっかり検討」 マイナンバー、普及へ課題も、JIJI COM,2020/6/11】

将来の日本を考えるとき、マイナンバーと金融口座の紐付けは経済犯と遺産相続トラブルの抑止効果があり、死蔵金融資産の解明にも対応できる。また、不動産との紐付けも将来の国土のスポンジ化対策にも役立つ。これらの問題の解明にはバックアップ・データ、特にコンピューターの情報が必要である。

遠い昔の話であるが、1981年に日本の製造会社が8年前の生産記録(磁気テープ)を米国法廷に提出、高額の損害賠償訴訟に勝訴した。当時は珍しい判例だったが、コンピューターの磁気テープのデータが証拠として認められた。・・・2400ftの磁気テープは、調査に必要な膨大な時間と人手を削減した。(コンピューターのデータ・バックアップでは、データの同時更新を避ける排他制御機能が秒以下の時間単位でデータ更新を記録。例:日時=YYMMDDHHMMSS.SS…)

参考だが、筆者が1967年にテキサスで取得したSocial Security Number(SSN:社会保障番号)のカードには、NN-NNN-NNNN(9桁)、氏名、自署だけで現住所の表示はない。おもしろいのは、カードの裏面に"Tell your family to notify the nearest Social Security Office in the event of your death."(本人死亡時に家族は最寄りの事務所に通知下さい)とある。
 現在のSSNカードは昔のフォーマットとほぼ同じ、生体認証はないが身分証明にもなり、米軍と沿岸警備隊は隊員の認識番号としても利用している。なお、子供は出生証明書登録と同時にSSNを取得できる。

次回の現状分析に続く。


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コンパクト・シティーの姿(7)---来るべき変動とデジタル化の遅れ

2020-06-25 | 地球の姿と思い出
コンパクト・シティーの姿(6)から続く。

(2)今、筆者がやりたいこと
少子高齢社会に直行する日本、今、筆者が一番やりたいことは、国と地方自治体の基幹業務システムの現状分析である。

現状分析の目的は、この日本に積もり積もった垢落としにある。積年の垢を落として手枷(カセ)・足枷を取り払い、身軽になって来るべき変動に対処する。

ここで忘れてはいけないことが一つある。それは、“変動”への対処を臨機応変に実施するには、日本が抱える二つの“遅れ”を解消しておかなければならない。

以上の活動方針のもとで、最初に“来るべき変動”、次に二つの“遅れ”を説明する。

(3)来るべき変動
まず来るべき変動、今から30~40年後に日本を襲う大きな変動、すなわち大幅な人口減少を説明する。

下の表1.*注)の左から3つ目の欄「10年前から減少」は、日本に起こると推定される人口減少の数字である。

表1.の説明
①表1.に示す2055年の「10年前から減少(単位1000人)」1027万人は、2055年の総人口ー(マイナス)2045年の総人口の値である。
 この頃から2075年まで年間約100万人ほどのペースで人口が減少する。ちなみに、表1.の2015年から2025年の人口減少は約594万人、年間約59万人程度である。年間約100万人の減少は年間約59万人の減少に比べて2倍近く大きな数字である。
 2055年頃に始まる大幅な人口減少で人心の動揺と混乱が予想される。その混乱を最小に止め、国の管理体制を正常に維持しなければならない。この時、コンピューターの力をフルに活用して少人数の体制で日本の行政実務を補助しなければならない。

②もう一点注目すべきは、2055年から65歳以上の老年人口も減少に転じる。2055年頃の65歳は現役の人も多いと思われる。その現役高齢者が第一線から引退するので、国が受けるダメージは大きい。このダメージもコンピューターの力で補助しなければならない。


ここで補足するが、上の表1.は、出典に示したとおり総務省統計局、2014年3月発行の「2-1人口の推移と将来人口(5年単位の人口)」のデータだった。

しかし、今年3月に最新版(2020年3月版)が発表されたので、表1.と同じ形式で2020年3月版のデータで表2.を作成した。【注意:表1.と表2.のオリジナルは5年単位である。】

下の表2.は表1.を最新のデータ(2020年3月発行)で更新したものである。ただし、2020年3月版では2075~2105年の総人口のデータがないので"No Data"とした。
 

表2.の説明
①表2.は表1.に比べて、人口減少と老年人口の減少が10年ほど早くなっている。

②2035年~65年頃の30年間、10年ごとに約1700万人、1800万人、約1500万人の人口が減少する。この減少から単純に年間減少人口を計算すると、年間170万人、180万人、150万人もの人口が減少する。
 
③この項目の記述は筆者の勝手な推測だが、毎年170万人(2045)、180万人(2055)、150万人(2065)もの人びとが、有形・無形の資産をこの世に残してあの世に旅立つ。また、持ちものだけでなく、仕掛りの仕事を残していくこともあろう。結果として、残った人々の仕事が異常に増えると考えられる。

④人口減少で利用者も減少して利用効率が低下する生活インフラのメンテナンスが国民に大きな負担となってのしかかる。公共と私有を問わず建物の建替え・取壊しが問題になる。また、治安維持上のニーズから国籍を問わず住民の正確なマイナンバーと所在管理が必要になる。

手持ちの仕事を継続する上に、さらに人口減少による後始末が加わるので全体の仕事量が増加する。現状維持プラス後始末に直面して日本のあちこちに混乱が起きる恐れがある。したがって、そのときに備えて日本は、法制度の整備と高効率のコンピューター・システムを用意しておくべきである。

「継ぎはぎだらけ」の「レガシー・システム」では治安・防犯上の空白が生じる恐れもある。故に行政の基幹コンピューター・システムの現状分析と贅肉落としが急務である。

次に日本が抱える二つの「遅れ」を説明する。

(4)二つの遅れ
江戸時代の教育水準は世界最高だったとの説がある。筆者も、若い時から最近まで50年以上も世界各地を見歩いたが、今では日本国紀の“世界最高の教育水準”*注)に同意する。【*注)参考:百田尚樹著「日本国紀」幻冬舎、2018、 pp.180-187】

庶民の寺子屋教育、武士の藩校、庶民の習い事などで民度を高めた日本は、文明開化を機にさらに発展した。しかし、1960年代の日本は、“学園紛争”という訳のわからない熱病に幻惑されてコンピューターという巨大なテクノロジーに乗り遅れた。

1)デジタル化の遅れ
筆者は手元に1冊の参考書を大切に保管している。この本はコンピューター・プログラミングの解説書、(誰でも)読めば分かる平易な参考書である。

この本の素晴らしさは、初めてコンピューターに出会った筆者でも、この解説書を頼りに自力でコンピューターを利用できた点にある。別の学科、線形計画だったが「毎日8時間の手計算で42年もかかる問題が、たった約3分で解ける(数学者の推定)」ことも体験した。もっとも現代のスパコン「富岳」から見れば、42年が約3分で済む程度では子供だましのスピードといわれるかも知れない。

本のタイトルは、当ブログのコンピューターの知識で引用した"A FORTRAN IV PRIMER" by E.I.Organik,  Professor of University of Houston, ADDISON-WESLEY PUBLISHING COPANY, US, London & Ontario, 1966である。レターサイズ版235頁の本である。Dr.オーガニックはコンピューター・センターと化学工学の教授だった。

郵便番号や番地の数字(文字)は計算できない。しかし同じ数字でも数値は計算できる。この違いが分かればOK。まら、数値の整数と実数の違い、実数と虚数の違いを理解すれば、だれでもコンピューターを使えるようになる。しかも、当時の学校でポピュラーなIBMやUNIVACなどの7社21機種の特徴も解説していたので、文系、理系に関係なく高校生や大学生の独学にうってつけ、当時のベストセラーだった。

筆者も1966年秋からセルフサービスで大型コンピューターを使い始め、今日まで「読み書きソロバン」はコンピューターに頼っている。しかしその副作用か、漢字は読めるが手書きはできなくなった。

留学前の四年間は船乗り生活、航海日誌や荷役作業は英語、さらに、船の生活では日本食とはあまり縁がなかった。そもそも、みそ汁やご飯の器はトップ・ヘビー(重心が高く不安定)、揺れに弱い器では食事が落ち着かない。

アメリカの生活では、言葉と食事には全く違和感はなかった。しかし、コンピューターばかりは大きなカルチャー・ショックだった。若い女学生が大型コンピューターを使いこなすのに、30歳近くの筆者はアフリカの学生並み、コンピューターの知識は皆無だった。自分の無知を情けなく思った。

もちろんコンピューターの利用は早朝から深夜まで自由、学生証にIDがあるので"A FORTRAN IV PRIMER"と首っ引き、寝食を忘れてコンピューターに取り組んだ。幸い、この参考書に必要な基礎知識は中学程度の算数と直流電気回路、つまり豆電球の直列接続と並列接続の違いが分かるていどの知識で十分だった。

コンピューターの仕組みを理解すれば後は簡単、必要に応じて数種類のプログラミング言語の文法を覚えればコンピューターの利用はOK、間もなくアメリカ人学生と同じ土俵に立つことができた。

60年代のコンピューターは幼年期、その言語は数学系(FORTRAN)、連続系、離散系(discrete)、電気回路系、ビジネス系(COBOL)など、言語の数は少なかった。当時の言語は自然科学系が中心だったが、機械設計、構造解析、故障診断、文章解釈などの分野は発展途上だった(現在の言語数は300以上)。なお、コンピューター・サイエンス(学部)は7、8割が女性だったと記憶している。

無知への悔しさと猛勉強の結果、自慢ではないが翌年には、工学部に採用されてコンピューターを利用する学生たちをサポートするヘルプ・デスクも務めた。その時、Social Security Account(社会保障番号)も与えられた(マイナンバーの遅れ参照)。

大学卒業後も、仕事の上でコンピューターの利用が続き、その急速な発展を目の当りにした。確か90年代だったが、アメリカ社会ではSTEM能力*参考)の必要性が叫ばれ、筆者もその必要性は当然と思った。

STEM能力へのニーズはSTEMにまつわる個々の知識より、STEM全体を生活の一部と認識する感覚(センス)が大切だと考えられた。まさに、江戸時代の子供が身に付けたと思われる「読み・書き・ソロバン」を身近に思う感覚である。【*参考):ヒューストン再訪(3)---iD Tech Camp:STEM教育(2016-08-10)

一方、ここ数十年の日本社会を振り返ると、60年代にコンピューターの知識もなくゲバ棒を振るうヘルメット姿の学生たちが奇異に見えた。日本の教育界と政治家たちはコンピューターの潜在能力を読み違えた。コンピューターの活用はさておき、あの頃のアメリカ人学生は、通学のバスを待つ時間もテキストを広げていた(成績が悪いとベトナム行きと聞いた)。彼らは卒業に向かって真剣に勉強した。

他方、日本の学生、兄や姉たちを見ていると、入試は熾烈、しかし入学すれば期末試験以外はあまり勉強しない、それでも卒業できた。たとえてみれば、日本の大学は遊園地のプール(泳げなくても溺れない)、アメリカの大学は競走用のプール(泳げなければプールからつまみだされる)に見えた。

あれから2010年になっても小学生一人にパソコン一台が進まない現実、社会のデジタル化がすっかり遅れてしまった。ハノイの孫が通うインターのDistance Learningはアメリカ並みであるが、日本はいまだに相当遅れている。その遅れは、最新ハードを買う「予算が不十分」ではなく、日本社会を覆う「STEM感覚の欠落」にある。・・・1960年代に「読み・書き・ソロバン」のソロバン(コンピューター)を忘れた日本教育のツケは大きい。

いつからかは忘れたが、STEMと聞くとなぜか学生時代に耳にした「サソリの毒は後で効くのよ」が聞こえてくる。【参考:日本の将来---5.展望(24):日本の工業製品:素材の底力(2016-04-25)、1.製品設計の最後部を参照

今回の新型コロナウイルス騒ぎでまたも「サソリの毒=デジタル化の遅れ」を感じた。その一つは、東京都の新型コロナ感染者数の情報収集システムである。

東京の各医療機関から保健所経由で毎日の感染者数をFaxで報告するシステム、5月中旬に感染者数のダブリ、漏れなどが明らかになった。

度を越した多忙さに見舞われている医療機関を考えるとき、システムの運用ミスを非難するつもりはない。しかし、前時代的な発想に落胆する。筆者は、Faxと聞くと、天気図や水路通報、新聞を受信していた半世紀前の「ほのるる丸」を思い出す。

医療機関が作成した報告書を毎日Faxで都庁まで送信する。それは確かに報告書の郵送よりは早いが、「データ発生現場でのデータ入力=ペーパーレスの原則」からはほど遠い。ペーパーレスを実現するためにオンライン・リアルタイム・システムや全世界をリアルタイムで網羅するインターネットが90年代から普及した。

ペーパーレスの手近な例はスパーやコンビニのバーコード・スキャナーである。すなわち、POS端末(Point of Salesデータ入力機器=売上げデータ発生現場でのデータ入力)、つまり[お店のカウンターで売上伝票作成→本社に郵送またはFax→本社でコンピューター入力]という一連の作業を短縮したのがPOS端末(例:オンライン・バーコード・スキャナー)である。

ペーパー(紙)を前提にする厚労省&都庁発案のFax情報収集システムには、見た目は分かり易いが紙のハンドリング・ミスや紙情報固有のタイミング・エラーが隠れている。紙の量が増えると、ミスやエラーが重なり、相乗効果で現場は混乱、トラブル回復に思わぬ作業が発生する。その危険性を指摘する人がいなかったのは残念である。当ブログで紹介したが、システム設計に必須のOperational Feasibility Study(運用性の検討)に抜けがあった。・・・新聞記事には「集計ミスがあった。」、読者「あっ、そうだったか」で終わり。しかし、日本の「デジタル化の遅れ」はかなり重症である。

次回は「2)マイナンバーの遅れ」に続く。


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コンパクト・シティーの姿(6)---右肩下がりの日本人口:サプライ・チェーンの現状

2020-05-25 | 地球の姿と思い出
コンパクト・シティーの姿(5)から続く。

1.日本人口の右肩下がり
「世に在るものには寿命がある。生き物はもちろん、身の回りの品物や食べ物にも寿命がある。」(日本の将来---5.展望(23):日本の工業製品:ものの寿命、2016-03-25より) たぶん、「盛者必衰の理・・・」は国家やこの地球にも当てはまると思う。

過去には戦争、疫病、気候変動などで消滅した国も多い中、日本はこの地球に現れてすでに久しい。しかし、その人口は2008年に1億2800万人のピークを記録、その後は人口減少に転じた。つまり、右肩上がりの人口は2008年に右肩下がりの時代に変化した。

思えば日本の歴史は人類史上ではユニークな存在だと思う。人類史に根強い男尊女卑を尻目に、平安の女流文学はこの地球に今も優雅に輝いている。また、日本建築、刃物、工芸品、衣類や食品の加工技術は、多様な道具で独特の「美」と「文化」を生み出す存在、インバウンドの外国人たちにもファンが多い。

また、教育面では国民の向学心は高く、江戸時代の寺子屋は現代アメリカのSTEM教育に匹敵する児童教育だった。さらに、近年は自然科学系のノーベル賞で日本人は人類に貢献している。最後になるが、正直でまじめな国民性は大昔から変わりない。この国民性を育てたのは、金(カネ)や地位でなく好奇心や探究心に根ざす向学心である。

参考だが、平安京の推定人口は12~13万人、平安時代(900年)の日本の人口は約550万人*との説がある。頭数(アタマカズ:Head-count)は少ないが、その存在価値は大きい。【参考*:「第1節 日本の 人口 の変化 - 内閣府ホーム」

ここで観点を変えるが、組織論にみる企業のライフ・サイクルは幼年期→成長期→成熟期→衰退期という。このサイクルでは、衰退期の次に来るのは消滅と思われるが、実際には、衰退期で業務体制を革新、新たな成長期に進んでいくケースも多い。しかし、PA001(西回り)とPA002(東回り)の世界一周便で有名だった大手航空会社パンナム(Pan Am,US)は65年弱で消滅した:1927設立-1991倒産。

参考だが、世界の長寿企業ランキング(周年事業ラボ)によれば、日本には創業100年企業が33,075社、200年企業が1,340社である。100年と200年企業数はそれぞれ世界1位、100年と200年の2位から10位は欧米企業である。また、別資料(10MTV)によると日本には創業1000年超えの企業が7社ある。もちろん、世界最古で業種は建築、華道、旅館、宗教用具製造業である。7社のうち2社は聖徳太子関係である。

話しを戻すが、すでに紹介した「タスク・フォース:日米3つのケース」では、成長期と成熟期を通じて「継ぎはぎだらけ」になった「レガシー・システム」を「タスク・フォース」でコンピューター・システムと業務を改革した。その改革を突破口に、新しい世界に進んでいったが、そこには全責任を背負う社長の一貫したリーダーシップがあった。

その改革には、社長の優れたSTEM感覚、最新IT技術の導入と業務改革、次世代を担う人材育成、物流ネットワークの再編成もあった。物流ネットワーク、つまりサプライ・チェーンは製品受注、生産、倉庫、顧客をカバーする24時間ノンストップのグローバルな物流ネットワークだった。

アメリカの2ケースでは、物流だけでなく、財務諸表もコーポレート(全社ベース、国際会計基準ベース)とローカル(現地ベース=現地公用語⇒現地国商法ベース)を2本立てで一元管理、各国の事業所の財務状況も透明になった。月末の財務諸表(月末締めから4~5日遅れの一山の書類)がオンライン画面で閲覧できるようになった。「経営視界の改善(Improvement of Management Visibility)」は社長が持ち歩くパソコンの画面で実現した。

(1)医療品のサプライ・チェーン
ふたたび話題を変えるが、この先の議論にも関係するのであえてここで日本の医療品のサプライ・チェーンに触れておく。

現在の新型コロナウイルスでは、サプライ・チェーンの欠陥で基本的な医療品が欠品している。

下の表は日経新聞文(電子版)を引用した医療品の海外依存度である。信じられないことだが、70%から100%も外国に依存する医療品も存在する。わが国の防疫は無防備すぎる。

            

上の表を見たとき、筆者は戦慄を覚えた。なぜならば、緊急時にはいかなる国も、自国民の守ることを優先する。これは人間社会の原則である。

上の表は、政府が医療品の調達を民間企業に丸投げした結果である。「国民の生命と安全を守る」ための医療品だが、民間企業は有事の供給リスクより、ビジネスの黒字幅が大きいサプライヤーとの取引を増加する。

そこで、医療品のような重要品目については政府が内製率(国産率)と備蓄量を見て、仕入れ量をコントロールする。それが国家戦略であり、そのために国民は税金を払っている。国民の生命にかかわる場合のコントロールは、”要請”でなく”強制”が当然である。

今回は新型コロナウイルスでマスク、消毒用アルコール、防護服から体温計のボタン電池、スプレー・ボトルまでも品切れ、医療現場は窮地に陥った。武器弾薬やミサイルでなく、たかが不繊布マスクさえ何か月も品切れ、社会的なストレスも大きい。

緊急事態に直面してさまざまな不備と盲点が明らかになった。たとえば、予算と人材の関係らしいが地震や台風の災害が多発する日本だが、病院船が1隻もないと知り驚いた。この他、軍事、食料、国境・沿岸、宇宙衛星、コンピューターなどの防衛は大丈夫かと次々と疑問が出てくる。(衛星守備は約20人の「宇宙作戦隊」が2020/5/18に発足)

産業経済のグローバル化で”内製率”も死語になったが、国家のあり方を再チェックする時代を迎えた。衰退期特有の無気力には自信をもってノー!(No!)である。

筆者の記憶に新しいサプライ・チェーンのトラブルは、バンコクの大規模洪水(2011年)である。幸い筆者はバンコクで足止めされなかったが、チャオプラヤー川の洪水では日系企業451社*の工場が浸水した。東西200km南北数百kmの浸水は、今回の新型コロナ禍に比べ非常に限定的だったが、上流の降雨が1~2週間後に音もなくじわじわと田畑や街に迫ってくる。防御のすべがない危機には誰でも恐怖を感じる。【参考:2011年タイ洪水とその被害

あの時、ある会社のタイ工場が浸水した。浸水した工場の製品の一つは、その工場限定の特殊品、そのために業界のサプライ・チェーンが窮地に陥った。対策として、タイ工場から数十人のタイ人社員が日本の本社工場に駆けつけ、問題製品の組み立て方法を日本人に伝授、窮地を脱した。その工程は高度な熟練が必要な作業だったと聞いた。窮地を救ったのは、手先が器用なタイ人女性社員だったと記憶している。

もう一つの記憶は、日本のある家電工場で体育館ほどの広さの建物に機械がずらりと並んでいるのを見た。ひと気も照明もない廃墟のようだったが、機械だけでなく、工具、金型、検査具も備えていた。わざわざ案内された訳ではなかったが、通りかかりの一角、緊急事態に備えていつでも稼働できる代替工場だった。50年も昔の話、しかし幻のような工場が強く記憶に残っている。あの幻の工場は、事あるごとに覆いを取り払うとFS映画の怪物のように直ちにフルスケールで稼働し始める。

「(2)今、筆者がやりたいこと」に続く。


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コンパクト・シティーの姿(5)---明日への備え:シンガポール、ウィーン、外航船

2020-04-25 | 地球の姿と思い出
コンパクト・シティーの姿(4)---から続く。

1.明日への備え
何が起こるか分からない世の中とは云うものの、日本の人口構成は確実に高齢化と少子化に向かっている。日本を含むアジア全体の人口は現在41億人だが、2050年の51億人をピークに減少が始まる。2050年以降も人口が増えるのはアフリカだけである。【参考:日本の将来---1.世界の人口(2013-07-10) 】

この問題を考えるとき、現在を生きるわれわれがこの世を去る前になすべきことがある。当然、そのなすべきことは自分たちのためでなく、われわれの子供や孫のためである。それは彼らへの“希望”である。

将来に”希望”を望むとき、筆者は決まって3つの光景を思い出す。それは、ゴミがないシンガポールの街並み、ウィーンの家庭で見た食品備蓄棚、それに「ほのるる丸」の出港準備である。その3つは次のような光景だった。

1)シンガポール:公衆ルールと罰則
筆者が初めてシンガポールを訪れたのは50年以上も昔、そこは欧米のように清潔な街だった。反面、街なかでゴミやタバコの吸い殻、チューインガムのポイ捨ては日本円で2~3千円の罰金(Fine)だったと記憶する。英語のFineは、“晴れ/素晴らしい”の他に“罰金”を意味することを初めて知った。

あれから現在まで、シンガポールの人びとは街の美観と罰則が両立させる生活を守っている。一方、当時の日本では吸い殻のポイ捨ては当たり前だったが、「個人の自由」より「清潔な都市環境」を選択したシンガポールを立派だ(Fine)と思っている。

また、あの時は石油会社の研修でシャングリラに滞在していたが、強烈なにおいを発するドリアンも、屋内持込みは「ノー」だった。仕方なく、われわれ外国人グループはホテルの屋外プール横で初めてのドリアンを試食した。日本なら、個人の自由などといって文句がでそうだが、それをはねのけるホテルも立派だと思った。あれから半世紀も経った今、罰金はシンガポール名物、世界の人びとにも受け入れられている。

参考だが、Fineという言葉は、シンガポールだけではない。バンコクの旧空港(ドンムアン)の通路などでもよく目にする言葉だった。また、新型コロナウイルス騒ぎの現在、ハノイでも罰金が多い。街なかのマスクなし、3人連れ以上やSocial Distancing(約2m)違反も罰金、濃厚接触者の調査と隔離も厳格である(ハノイ在住の娘談)。状況にもよるが、要請より罰金で一本筋が通る。

2)ウィーン:食品備蓄と家族の安全
70年代初頭、筆者はウィーンに住んでいた。すぐ近くの市電停留所前に大家さんの家があったのでときどきお邪魔した。

今でも忘れなのは台所脇の収納ロッカー、高さ約2m幅1m余の棚には食品がビッシリと詰まっていた。大小の缶詰、瓶詰、飲料、チーズ、ソーセージなどの保存食、瓶詰は自家製だった。大家(女性)さんとOLの娘さんの二人暮らしにしては、備蓄食品の量は多かった。

その背景には、ヨーロッパという歴史と土地柄があった。歴史的には市街戦も経験、非常事態を耐え忍ぶにはつね日ごろの食品や日用品の備蓄が必要だった。

旬の果物や木の実を加工して瓶詰にするのはヨーロッパやロシアでよく見る光景である。たとえば、自家製の苺ジャムにはその家庭独特の味がある。日本家庭の自家製梅干しや漬物、アメリカの感謝祭に欠かせないクランベリー・ソース、それらにも各家庭が誇る味がある。

その味には、「一家団欒の記憶と喜び」「家族の安全への願い」がある。知事や首相のTV放送をみてにわかにスーパーで買い集める缶詰や瓶詰とはわけが違う。

戦乱の経験豊かなヨーロッパ人の緊急事態への認識は島国の日本人とは大きく違っている。1973年のオイル・ショックでは、“(日本で)石鹸がない”、“コメがない”と独り騒いだのはウィーンの日本人たちだけ、非常に奇異で印象的だった。筆者もウィーンで化粧石鹸を買って日本に郵送した。

3)外航船:自分の身は自分で守ると自助
筆者が3等航海士として乗船した「ほのるる丸」は欧州航路の貨物船だった。往航は、室蘭-横浜-清水-名古屋-神戸-香港-シンガポール-紅海諸港-スエズ運河-地中海諸港-欧州諸港、復航はハンブルグから同じ航路で神戸に帰港した---1航海4ケ月の航程だった。

神戸出港に当たりまず、スエズ運河経由の日本-ヨーロッパ間の最新海図一式と喜望峰回り航路の海図一式を母港(神戸)で積み込んだ。喜望峰回りはスエズ有事への備えだった。航海ごとにスエズ経由も喜望峰回りも1式を最新版と交換した(航海中に、沈船や危険海域の位置を伝える水路通報を受信、その情報を海図にペン字で記入、海図下部に反映した水路通報No.を列記・・・喜望峰周りの海図にも同様に最新情報を反映)。

燃料、清水、食料、医薬品&医療器具、船内設備の補修部品や消耗品、日用雑貨を積み込み出港準備は完了、欧州に向け神戸を出港した。参考だが、50数人が乗り組む「ほのるる丸」は航海中、1日当り燃料+清水+食料合わせて11tonを消費した。

航海中の出来事、たとえば機器の故障や事故・海難には、まず自分たちで対処する。もし補修部品がなければ自作する。また、傷病の応急処置は資格保有者が担当する。もちろん、傷病の程度に応じて陸上の医療機関と無線電話で相談するが、幸いにも緊急止血処置など深刻な怪我には遭遇しなかった(筆者は大学在学中に運輸省資格を取得した。)

大型船は船舶法第2条(国旗掲揚義務)で日章旗を船尾に掲揚する。毎日、日出から日没までの国旗掲揚は天候に関わらないルーチン業務、他に大洋航海中は毎日正午ころに太陽の南中(ナンチュウ:太陽位置が真南=太陽高度最大)を観測して船内時計の正午を決める。キャプテンと一等航海士~三等航海士の4人の観測値を平均して正午の船位(置)と船内時間を決め、サロンに降りて昼食をとる。

そこは、日本国憲法、民法、刑法、船員法、船舶職員法、海商法、共同海損(ヨークアントワープルール、国際法)などの世界である。航行中の誕生、死亡、犯罪にも対処する(筆者は経験なかったが備えは常備)。たとえば「船長の職務権限」は船員法、商法第三編などで決められている。その指揮命令系統は、もし船長不在の場合は、一等航海士、次は二等航海士、三等航海士、機関長、一等機関士、、、の順で指揮を代行する。(遭難した救命艇内の指揮権も同じ)

航海中にはさまざまなことが起こるが、乗組員全員のチーム・ワークで問題に対処した。紛争海域では戦時国際法により縦横10mX15mほどの日章旗をデッキに広げて航海した。また、時にはアフリカなどで僚船(リョウセン)と出会うこともあった。その時は、メイン・マストに旗旒(キリュウ)信号*のU旗+W旗=安航を祈る(安全な航海を祈る)を掲げてすれ違った。【*注:国際信号旗の組み合わせで船と船、船と陸の信号所間との交信、戦時中では電波を発信しないので敵に傍受されない⇒手旗信号、発光信号も同じ。】

ともあれ海上の挨拶は商船、軍艦を問わず、また、平時、緊急時、戦時を問わず”安航を祈る”がキーワードである。それは、船の安全、乗組員の安全への祈り、突き詰めれば、どのような状況でも「人の安全」を第一に考える。海に投げ出された敵の乗組員も救助するのが海の掟である。そのとき“ちょっと待て”でなく、躊躇なく救う。

“どのような状況でも”を“日本の高齢社会や少子社会”に置き換えると、外航船の世界は、今なにをなすべきかの参考になる。

続く。



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コンパクト・シティーの姿(4)---日本政府の動き:打てば響く動きを求む

2020-03-25 | 地球の姿と思い出
コンパクト・シティーの姿(3)から続く。

前回までの「コンパクト・シティーの姿(1)、(2)、(3)」では、少子高齢化社会への問題意識、Feasibility Study(実現可能性の検討)、タスク・フォースの例を紹介した。(2)と(3)は中堅の多国籍企業の事例だった。

一般に、人間活動に由来する大きな社会変動は突然に起こるものではない。戦争といえども、ある程度はその可能性を予測できる。また、多くの予測の基礎となる人口の予測そのものは、予測誤差が少ないと分野だと一般に云われている。もちろん、戦争、疫病、飢饉、移民、政情不安などで予測が狂うこともある。

余談になるが、昔のアメリカで食品メーカーが人口予測をたった1%ほど過小に評価したために、工場建設計画と実需が乖離、窮地に陥った。その話は、マーケティングの授業で学んだが、長期計画の修正の難しさを物語る話だった。また、この講義のケース・スタディーでは、予測ではデータの蓄積量が多ければ多いほど精度が向上すると教わった。もちろん、AIも然り、コンピューターの性能が決め手になる。

ここで言いたいことは、政府は、日本が近い将来に確実に遭遇する少子高齢化社会への対策を、タスク・フォースを立ち上げて本気で検討すべきであると。

その規模は、筆者が経験した中堅企業の数十億円ていどのプロジェクトではなく、遙かにスケールが大きな研究・開発(R&D)型のプロジェクトである。そのプロジェクト・メンバーは、国内外の英知を集めた多国籍チームである---高齢化の問題は独り日本だけでなく人類の問題でもある。

ここで、日本の危機に立ち向かうタスク・フォースが存在するかどうかをインターネットで検索した。

5.日本の動き
少子高齢化社会に深く関連しそうな省庁の一つ、国土交通省のHP(Home Page)を検索した。検索の結果は下の表に示すとおりである。

(1)国土のグランドデザイン2050(表の黄色い部分=全国計画と広域地方計画を含む)
理由:
①2050年の人口は約9700万人(総務省統計局 平成24(2012)年1月推計)である。9700万人は
 日本の人口減少の入口に過ぎない。
 その後、さらに人口は減少、2100年頃には約4600万人、それは2008年の人口1億2800万人
 の約3分の1の人口である。この意味で2050年を目標にするプロジェクトは的外れである。
②「グランドデザイン2050」では、人口6000万人のスーパー・メガリージョン(東京・名古屋・大阪の
 都市経済圏)を目標にしている。しかし、筆者の目には、せっかくのスーパー・メガリージョンも完成と
 同時にゴースト・タウン化が始まると見える。
 移民を検討する案もあろうが、人口の過半数が移民の日本は、もはや日本とはいえない。
 ・・・当ブログの検討範囲外。
 

(2)国づくりの100年デザインの提案」(上の表の緑色部分)
この提案は、国交省各部門から選出された36名からなるタスク・フォース・チームが平成15年4月に公表した21のアイデアである。ただし、この提案には次のような国交省のコメントが付いているので注意したい。
本編の記述内容はすべて、36名のタスク・フォース・チームが「21世紀の100年間にわたって日本の国土はどうあるべきか」について、自由な意思・発想に基づいて様々なアイデアを出したものであり、国土交通省はじめ政府の公式見解ではありません。】・・・国交省各部門の職員36名が提言する21のアイデア(提言)には国交省と政府は責任を持ちません。⇒この国交省の見解は理解に苦しむ。

参考のため21のアイデアに目を通したが、Technical & Operational Feasibilityにさまざまな疑問を感じた。またアイデア間の整合性を欠くものもあり、36名のタスク・フォースは「船頭多くして・・・」の轍を踏んでいるように見えた。36名に「丸投げ」だけで、彼らの成果物に目を通すことすらしなかった国交省には、日本のために仕事をする役所か?との疑問をもった。

さらに念のため、次の二つの白書をチェックしたが、注目すべき記事は見当たらなかった。
1.高齢社会白書(令和元年版)
2.令和元年版介護白書
「高齢化の推移と将来推計」1950~2065年(介護p.95)は興味深いが、2100年頃の推計は存在しない。これらの白書には無理な要望かも知れない。

---◇◇◇---◇◇◇---

残念ながら、現在の日本は「その日暮らし」の状態である。国会は「桜」「モリカケ」で時間を浪費、「新型コロナ」への後手々々の対応、国会議員も頭数が多すぎて「船頭多くして・・・」の弊害が出ている。

たとえば、「マスク不足」も「新型コロナ」への対応の遅れの結果である。適切に対応策を打った台湾はスマートである。下の資料に含まれないが、この番組では医療機関の専用マスク備蓄は2ケ月分あるとキャスターが説明していた。台湾の管理体制は良き参考になる。IQ180+の台湾38歳閣僚タン氏の仕事らしい。

    テレビ朝日の資料
    
    出典:テレビ朝日、羽鳥モーニングショー2020/3/5 8am~の画面

筆者の娘一家が在住するベトナムもアクションが速い国である。孫が通うインター全校はテト(旧正月)明けから現在もDistance Learning(遠隔教育)を実施している。コンピューターの活用には学校・生徒・家庭の経験は豊富、アメリカ本土と変わらない。また、検疫、入出国管理、濃厚接触者隔離などの防疫管理は厳格、平和ボケの日本とは違っている(Facetime筆者の娘談)。

今回のコロナ騒動で諸外国の動きを見るにつけ、最近の日本は磨耗期(Wear-out期)に入ったのか、反応が緩慢である。政府には打てば響く素早い動きを求める。

続く。


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コンパクト・シティーの姿(1)---問題意識:少子高齢社会

2019-12-25 | 地球の姿と思い出
再会の旅---関西再訪4から続く。

1.記憶の中身
年を重ねるにつれて昔の記憶はぼやけてくる。自分自身の見聞や言ったことは忘れないが、50~60年も昔の記憶は、だいたいの数字などは覚えているものの、いつ頃まで続いたかは覚えていない。たとえば、「5、60年前の定年退職年齢は?」との疑問には、「55歳だった」と記憶するが、いつ頃まで55歳だったかは定かではない。

実際には「高年齢者等の雇用の安定等に関する法律」、通称「高年齢者雇用安定法」の第8条(定年を定める場合の年齢)は、「当該定年は、60歳を下回ることはできない。」としている(1998施行)。・・・この条文からは1998年までは55歳定年が存在したと思われる。

ちなみに、高年齢者雇用安定法は、AllAboutマネーによると次のように改定を繰り返している。
1986年 「高年齢者雇用安定法」で60歳定年を努力義務化
1994年 60歳未満定年制を禁止(1998年施行)
2000年 65歳までの雇用確保措置を努力義務化
2004年 65歳までの雇用確保措置の段階的義務化(2006年施行)
2012年 希望者全員の65歳までの雇用を義務化(2013年施行)

定年退職の年齢と同じく、当時の日本人の「平均寿命はいくつ位だったか?」の疑問には、「60~65歳ぐらい」という記憶がある。その根拠は、「人は定年退職後、5年~10年ほどで亡くなるケースが多い。」という筆者の記憶にもとづいている。

しかし、あやふやな記憶では気が済まないので、厚生労働省のデータを調べた。その結果は、下に示すとおりである。表2の昭和35年(1960年)は筆者が若かった「あの頃」、やはり当時の平均寿命は65歳だった。
        

上の表2で見逃してはいけないデータは、次の数字である。
昭和22年(1947年) 平均寿命 男性50歳 女性54歳(少数以下四捨五入)
平成29年(2017年) 平均寿命 男性81歳 女性87歳
昭和22年から平成29年の70年間で男性は31歳、女性は33歳も平均寿命が増加した。

結果として、日本人男性の平均寿命81歳は香港、スイスに次ぐ世界3位(2018)、女性の平均寿命87歳は香港に次ぐ世界2位(2018年)になった。

また、健康寿命もWHO2018年データによれば1位がシンガポールの76.2歳(男女2016年)、2位が日本の74.8歳だった。

さらに参考だが、厚生労働省のデータも忘れてはいけない。
厚生労働省は2019年12月13日、全国で100歳以上の高齢者が7万1238人に上ると発表した。2018年から1453人増え、49年連続で過去最高を更新。

2.人類の平均寿命の推移と日本
ここで、日本人の平均寿命を人類史上の観点でチェックしておきたい。

人類の平均寿命をインターネットで調べた結果、下のような表を得たのでここに紹介する。推計者はAngus Maddison(1926-2010)、英国の経済学者である。
   

上のグラフをExcelの表に再整理すると次のようになる。

  

上の表では、西暦1000~1900年頃までの人類の平均寿命は24歳から40歳ぐらい、意外に短命だった。その理由は幼児死亡率が大きく、危険な出産と乳幼児期を生き延びても、事故、病気、天災、戦乱などの影響で平均寿命が短かったと思われる。

しかし、昔にも長寿でかつ頭脳明晰な人も多い。たとえば、紀元前の有名人の死亡年齢は次のとおりである。
ソクラテス:BC399年70歳ぐらい(自死)
プラトン:BC347年80歳

ソクラテスとプラトンの死亡年齢はかなりの高齢だった。二つの例で推定するのは危険だが、人間の生体としての耐久性は当時と現代人には大差がないと考えた。現代人の平均寿命が急速に80歳近辺にまで延びたのは、生体の進化でなく、医学・医療ならびにテクノロジーの発展に負うところ多いと考える。

たとえば、ハート・ペーサー(heart pacer:心臓のペースメーカー)、透析、冠動脈のステントもテクノロジーの産物である。ちなみに、筆者も2004年にバンコクで心筋梗塞、2016年に脳梗塞を発症したがいずれも医学・医療で救われた。

・・・今も鮮明に思い出すが、2004年夏のある朝、発症6時間後に病院に到着、ニトログリセリン吸入、数枚の書類へのサインを終えて、すぐに処置が始まった。

ベッド頭上の画面に映る複数の梗塞箇所に67年の人生もこれで幕かと独り静かに覚悟した。しかし、カテーテルが最大の梗塞に届いたとき、血流が噴流になって開通した。あれは、生命の残り時間の減算が加算に変わった瞬間、今も加算が続き生きている。・・・命拾いの瞬間は百人百様、筆者のケースも平均寿命延長の一例だった。

参考だがバンコクの心筋梗塞で受けた治療は:
 ①再発防止型ステント(人造血管)・・・当時の日本では珍しかった。
 ②医薬・・・世界では一般的だった薬が当時の日本では不認可(数年後に認可)
 ③完全看護の満足度・・・高級ホテル並みのケアーで良好

以上の点で心臓病ではバンコクの方が日本より上と判断した。タイ王国を途上国と思っていた筆者の認識は誤り、バンコク病院の心臓医療は世界の一流レベルだと知った。おまけに、治療費も病院とシンガポール・ビザ・センターの直接決済で無料だった。出費は数千円の証明書作成代だけだった。

話しをAngus Maddisonのデータ「平均寿命の歴史的推移(日本と世界)」に戻すが、MaddisonのデータをExcelに展開すると次のことが見えてくる。

Excelに破線枠で示すとおり、1900年以降に平均寿命が40歳を超えて、1950年には英国、フランス、米国の平均寿命が65歳~69歳に急速に延びた。日本はやや出遅れたが、1999年には英国、フランス、米国を抜いて81歳に至った。

ここで突然、話は現生人類のDNA上の祖先に飛ぶが、15万年以上も昔にアフリカに生まれたホモ・サピエンスは進化を遂げながら今日に至っている。その長い歴史を、一つのグラフに描こうと試みた。・・・下の図は、人口の推移を手掛かりに、筆者が手作業の曲線近似で描いた「人類の人口推移」である。
    

    注:図の左上の表は「国立社会保障・人口問題研究所2013年度版人口統計の表 世界人口
    の推移と推計:紀元前~2100年を引用 

上の曲線には二つの大きな進歩が隠れている。一つは18世紀後半の産業革命、もう一つは1950年代からアメリカで始まったコンピューターの実用化だった。これら二つの進歩で人類の長寿化と人口の増加が顕著になった。

アフリカで誕生して以来、十数万年にわたり低迷していた平均寿命が1900年頃に40歳の壁を突破した。その後うなぎ上りの長寿化、100年程度のうちに、80歳近辺に延びた国もある。これは人類史上の未曾有の変化である。

この長寿化を日本社会に限って考えると次のことが云える。

先に述べたように、1994年に「高年齢者雇用安定法」が60歳未満定年制を禁止(1998年施行)した。たった20年ほど前までは、55歳の定年退職が存在した。

筆者が若い頃の記憶では、定年退職=鉄道線路の車止め。人生を鉄道に例えれば車止めに止った機関車は用済み、すぐに本線から引き込み線に移動、10年前後で人知れず消えていく。この記憶が「人は定年退職後、5年~10年ほどで亡くなるケースが多い。」に結びついていた。

しかし、今は違う。日本人の平均寿命は男女ともに80歳超えの時代になった。定年退職後の人生も長く、いろいろな生き方がある。

現代の日本には、長寿化に起因する課題が山積する。平均寿命と健康寿命とのギャップ、急激な少子化と高齢化と総人口の減少、社会インフラの老朽化は待ったなしの課題である。これらの課題への備えは?

昨今の日本を見ていると、国家の存亡にかかわる危機にはわれわれ国民は無頓着、明日へのアクションが見えない。これでは日本の未来があぶない。

続く。


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関西訪問4---四条通りとヒューストン・メイン通り

2019-11-26 | 地球の姿と思い出
「再会の旅---関西訪問3」から続く。

3.四条通り
平安神宮の参拝を終え、東大路を八坂まで南下、四条通りを目指した。今の「東大路」は昔の「東山通り」、「東大路」はなんだか平安京の響きがあり、「京都」には違和感がある。駅名も昔は「四条」や「五条」をいつのまにか「祇園四条」や「清水五条」に変更、観光京都を強調し過ぎた改名に見える。

四条に向かう途中、東大路三条近くの模型店を覗いたが、店の中はプラモデル中心の商品棚に変わっていた。模型電車の手造りは時代遅れ、少年たちの関心はプラモデルやNintendo Switchなどに変化した。自分が生み出すオリジナル品より、金型で多量に生産される完成品を求める・・・子供たちの「もの造り」離れが気になる。

また、かつては東山通りにも市電が走っていたが、1978年秋にあっさりと全廃した。その歴史は、琵琶湖疏水の発電で1895年に実現した世界有数の路面電車だった。いつか京都市も街並みに似合う路面電車を復活して、世界の著名都市への仲間入りをして欲しいと思った。

八坂から南座前と四条大橋を渡り、四条河原町の交差点にでた。レンタ・カーはここまで、後は三条と四条を中心に街並みを散策した。

まず、錦市場の天満宮でご朱印をもらった。

下の写真は錦市場の東端にある錦天満宮の鳥居である。錦にも外国人好みの色鮮やかな京菓子もちらほら、狭い商店街を行き交う人にはタイ語を話す人びとも見られた。

            錦小路通から見た錦天満宮
            

長年タイに出入りしたので、タイ人とおぼしき人々にはつい近親感を覚える。彼等には日本人の考え方に近いところがあり、若い男女の敬老の念や仏への信仰心は日本人以上である。乗り合いバスで白髪の筆者が足の不自由な若い女性に席を譲られたのを忘れない。ただ、高温多湿のタイでは食品市場の匂いは強烈、錦市場の匂いは淡泊で物足りないかも知れない。言葉に困るタイ人に出会うと、つい助けたくなり相手も非常に喜ぶ。タイで受けた親切へのちょっとした恩返しである。

ここで、以前から気掛かりだった四条通りの歩道を様子見がてら歩いてみた。

下の写真は四条小橋(高瀬川)から南座の方角を見た写真である。この日は火曜日昼ごろ、歩道は広々としており、車道にも渋滞は見られなかった。

               四条通(高瀬川四条小橋)から南座を望む
             

下の写真は、同じ日の午後、大丸近くから河原町方面に向かう四条通りである。

            河原町方向の四条通り(渋滞はない)
            

四条通りが片道2車線から1車線に縮小+歩道の拡幅に変更されてから既に4年以上も経った。4年の歳月で人びとは突然の車線縮小に慣れたのか、昼の時間帯には深刻な交通渋滞は見なかったので一安心した。

「車の1車線を歩道に譲った」京都市には強い反対があったと思うが、あの変更は勇気ある英断だったと高く評価している・・・高度な未来都市では、旧式の歩道は拡幅を避けられないと思っていた。歩道の幅が広いテキサスのヒューストンでもメイン通り(ダウンタウンのMain Street:中央道り)の片道2車線の1車線をLRT(路面電車)に譲った。全米で車社会最右翼都市ヒューストンの将来への布石である。

なつかしいヒューストンを思い出しながら、ここで「再会の旅---関西訪問」を終える。身近な人びとや風景と再会した貴重な旅だった。

---◇◇◇---

筆者は、「道路の主役を車から人へ」を大いに歓迎する。しかし、その考えは、筆者たちが京都駅に向かうタクシー・ドライバーさんの一言「1車線化は失敗した」を、ただの苦情と無視するわけではない。それはバスやタクシー、現代の公共交通機関への苦情でもある。

下の2枚は、工事直後の四条通りを筆者が4年前に撮影した写真である。これらの映像は、1車線を歩道に譲った代償として、今も筆者の脳裏に鮮明に残っている。

            4年前の停車スペースのタクシー(2015/10/19)
            
            出典:当ブログ、京都訪問---四条通りの変化(続き)2015-10-25

            4年前の平日午後3時頃、バスの行列(2015/10/15)
            
            出典:当ブログ、京都訪問---四条通りの変化(続き)2015-10-25

上の2枚以外に、もう1件の図表も筆者の頭から離れない。それは当ブログに示した下の図である。この図では、「日本の人口」は2008年をピークに減少を続ける。大規模な戦争や移民がない限り、一般に人口予測はブレが少ないと云われる。筆者もこの説に同感である。


上の図では西暦2105年の総人口は4,600万人である。特に、子供の人口420万人は深刻な数字である。

2020年を起算日にすると2105年までたったの85年、人生100年時代の現代では、直近の将来である。長寿社会の健康人口は?移民人口は?公共サービスは?などの未知数も多い。準備すべきことは多い。

次回から「コンパクト・シティーの姿」を仮想ベースで考えたい。

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関西訪問3---アメリカで学んだCan Do精神

2019-10-25 | 地球の姿と思い出
「再会の旅---関西訪問2」から続く。

京阪山科駅から三条通りを西進、御陵(ミササギ)を経て、蹴上(ケアゲ)の浄水場に出た。御陵と蹴上は共に懐かしい地名、蹴上の浄水場はつつじの花で有名だった。5月には斜面を覆う赤いつつじと右隣の都ホテルは京都らしい華やかな光景だった。しかし時代は移り変わり、かつての都ホテルはウェスティン都ホテル京都に変わった。

(1)平安神宮と浪人時代
三条通りは蹴上から左に大きく曲がり三条大橋に続くが、左に曲がらずそのまま直進、南禅寺を右に見て疎水沿いの仁王門通りに出た。疎水に出るとすぐ右手に平安神宮の大鳥居が見える。

下の写真は、平安神宮前から見た大鳥居、写真右側には府立図書館と国立近代美術館、左側には京都市美術館と動物園が続いている。鳥居の高さは24m、鳥居のまっすぐ先500mほどに知恩院がある。

まず平安神宮に参拝し、御朱印をもらった。孫が列に並び御朱印帳に毛筆の美しい御朱印を書いてもらった。巫女さんの繊細な筆使いを孫がシッカリと記憶したと信じている。

            平安神宮から正面の大鳥居を望む
            

上の写真右方向に筆者が通った予備校があったので、かつてはこの辺りを行き来した。末っ子だったためか、のんびりと2年間も浪人した。ヨットで言えば「観音開き」の帆走、風任せの浪人生活だった。

ここで、上の写真を見ると予備校横の道路にいつも駐車していたスチュードベーカーを思い出す。

下の写真はインターネットでコピーしたスチュードベーカー、アメリカの馬車メーカーが作った車とか。1950年代の車にしてはリア・ウインドウがカッコよく、どこかテキサスの駅馬車を思わせるこの後ろ姿にあこがれた。車体の色も下の写真と同じだった。人生にはあこがれが付きもの、この姿には今も憧れている。

            スチュードベーカーのリアー(後部)
             
            出典:2009年秋中古車広告(インターネット)より

このスチュードベーカーの姿は予備校につながり、予備校にも数々の懐かしい思い出がある。

今から65年も前のことだが、予備校の記憶は「ヒューストン」である。それは、人文地理の授業で、茶色の三つ揃いを着たチョビ髭の先生から「ヒューストンは綿花の積出港」と教わった。その先生は欧米を漫遊したらしく、風貌は山高帽とステッキが似合うロンドン紳士のように見えた。あの授業以来、予備校といえばいつもあの先生と「ヒューストンは綿花の積出港」、同時にスチュードベーカーを思い出す。

 後年、ヒューストン大学に学ぶとは夢にも思わなかった。

では、なぜヒューストン大学か?それは、筆者が「ほのるる丸」で初めて寄港した紅海のある港に話はさかのぼる。

(2)アメリカの大学と国連へのチャレンジ
海のない京都市に生まれ育った筆者は、子供のころから船乗りに憧れた。その結果、2浪までして商船大学を卒業、1963年に大阪商船の「ほのるる丸」に乗り組んだ。その「ほのるる丸」はスエズ運河に向かう途中、アフリカのある港で欧州向けの綿花を積み込んだ。

当時、日本は一応文明国、「ほのるる丸」も毎日、天気図、水路通報、日本語新聞をFaxで受信していた。

日本とアフリカの生活水準には大きな差があった。詳しい説明は省くが、岸壁に並べた原綿をデリック(船内クレーン)で吊り上げ船倉に積み込んだ。背丈ほどに圧縮した原綿は非常に重い。その原綿を船倉に吊り下ろすとき、待ち受ける作業員たちが原綿に群がり、飛び乗る様子は猿人のように見えた。重い原綿をすき間なく船倉に積載するのは危険な重労働だった。

泥で頭髪を固めた作業員たちは独特の汗の臭い、だれから聞いたかは忘れたが、彼らは生涯で二度だけ入浴する。一度目は生まれた時、次は死んだ時だと(多分フェークFake)。重い原綿の積込み作業で歌うような単調な掛け声は、哀歌のように聞こえた。

寄港のたびに目にする原綿の積込み作業と独特の汗の臭いに“感じるところがあって”、同じ人間として、発展途上国を支援しようと決意した。しかし、国連の専門職員には修士号と実務経験が必要と知り、科学技術の最先端をいくNASAに近いヒューストン大学を目指した。

あの時、神戸商船大学のフランス文学で学んだ“従妹ベット”(バルザック)の一節がこころのより所だった:金があっても意志がなければ何もできない、しかし、金がなかっても意志があれば何かを為せる・・・そこで私費留学を決意、まず寄港地で余暇をみて欧米の文化センターなどで大学に関する情報収集を始めた。

さまざまな人たちの支援を受けて、大学を絞り込み、憧れのヒューストン大学に入学した・・・そこは典型的なアメリカ・・・神戸商船大学と同様、強い願望と夢をもって入学した。

予想通りだったが、アメリカの大学生活は日本のように甘くはなかった。当然、アルバイトと自炊なし、寸暇も惜しむ猛勉強で卒業、さらに転職しながらいろいろな実務経験を重ねた。数次の試験・面接を受けて、国連専門機関のIndustrial Development Officer(工業開発官)としてウィーン本部に勤務した。

最後の面接官はメルボルン大学の経済学教授、試験の内容は忘れたが、先生は巨体だが非常に穏やかな紳士だった。またNY本部の人事面接官とは面談後に雑談、互いにタバコを勧め合い筆者が相手のタバコに点火する時、まさかの大きな炎、面接官の眉毛を焼いてしまった・・・次の瞬間、恐縮と爆笑が起こった。あの頃は、話のきっかけに互いに自分のタバコを勧め合う時代だった。そのような時代はいつの間にか山科疎水を鉄柵(サク)で固めるような時代に暗転した・・・筆者はあの鉄柵を人間をダメにする過保護の産物だと感じた。反面、柵のない世界では、自分で夢を描き、その夢を追う決意と行動する人がその世界の住人になる。そこには自尊心があるが、うぬぼれはない。

船乗りはチャート(海図)にコースライン(針路)を引いて目的地を目指す。変針点で針路を変えながらの航海、途中で荒天に出会っても針路を守る。こんな具合でアフリカの「綿花の積出港」から独り丸腰でウィーンを目指した。その航海は6年間、時には3%の成功率や7,800人の競争相手などの試練を乗り越えた・・・これらの数字は今も忘れない:「途切れない糸」の客観的な数値データである。

人生にはあこがれと絶望があり、努力の次には感動がある。日本では2浪、「デキのいい子」ではなかったがアメリカで学んだCan Do精神が役立った。

82歳の今でも、筆者のこころには2つヒューストンが生きている。一つは「綿花のヒューストン」、もう一つは「ヒューストン大学」である。

はじめのヒューストンは予備校で教わった「綿花のヒューストン」、その思い出は:
 人文地理の三つ揃えのチョビ髭先生、同じく予備校の英語テキストだったA.J.トインビーやH.G.ウェルズのエッセー、絵画を目指す同級の美人浪人や流し目の二枚目浪人、スチュードベーカーの後ろ姿、アメリカへのあこがれ、いつも図書館の閲覧室で新聞を読む今で言うホームレスのような人、青空に聳える赤い大鳥居、山科疎水の不言実行、逢坂山の心臓破りの坂道、白いベンチがただ一つの展望台、風まかせで穏やかな予備校時代・・・

もう一つのヒューストンは「ヒューストン大学」、その思い出は:
 目的は修士号だけ、図書館での猛勉強、試験成績発表の工学部ロビー、助手としての給料と授業料減額、最新型のコンピューター(複数)、ホスト・ファミリーや同僚たち、大学からNASAへの推薦&身元保証(やはり国連への就職が第一志望と辞退)、メモリアル・パークの素晴らしい紅葉、高級住宅街の教会と慈善活動、思い出のR10とR45(HWY)、余裕がない緊張の日々・・・

実際のヒューストンは「綿花の積出港」のイメージではなかった。むしろ、石油産業(メジャー)、臓器移植(メディカル・センター)、NASA、アストロドーム(巨大ドーム型球技場)を身近に感じる先進的な都会だった。日本の教科書には「井の中のカワズ」的な面があり、現実とは異なる情報もあると思った。(チョビ髭先生の責任ではない。また、筆者が足で収集した情報は正しかった。)

さらに、「ヒューストン大学」を思うとき、日本とアメリカの学校教育の違いが浮かび上がってくる。

(3)日米の教育格差
筆者はその違いを、日本の「叱咤激励」とアメリカの「個性尊重」として明確に記憶している。

筆者が受けた日本の教育は1940~50年代、アメリカは60年代後半と2003年秋(聴講2ケ月)である。また、筆者の言う「アメリカ」には、現在 孫が通うハノイのインター(ナショナル スクール)も含んでいる。記憶には時間差があるが、次のように要約できる。

1)日本の教育
①1クラス50人
 小、中、高校のクラス編成は1クラス50人ほどで、1学年6~8クラスだった。学校は、標準品の多量生産のように大勢の卒業生を送り出した。
②記憶中心の試験
 歴史年表、数式、法律の条文などの暗記、教科書や先生の教えをよく覚えておくことが試験勉強だった。試験前日の一夜漬けや丸暗記、経験はないがカンニングする生徒もいた。
 後年アメリカで、コンピューターの計算能力と記憶容量は人間の比ではないと知った。
③叱咤激励
 先生が生徒あるいは生徒同士が叱咤激励、一つの目標に向かった。部活などでは「チームワーク」や「人の和」のための叱咤激励、全員が同じ(画一的な)価値観で頑張った。叱咤激励は職業訓練に適しているように思った。
 「叱咤激励」に「いじめ」が隠れることがあった。
④教科書
 教科書の内容が、効率よく生徒の頭に刷り込まれた。教科書は一種の金型、工場の金型や鋳型は同じ形状の部品を多量に造り出す。また、小学校入口の二宮金次郎像に“勤勉”を学んだ。
 50年前の記憶だが、小学校から大学まで日本語の教科書で勉強できる日本人は恵まれていると思った。当時は、自国語の教科書がない国もあった。専門書の海賊版(英語)が教科書という大学もあった。         

2)アメリカの教育
①1クラス20人
  大学のクラス編成は1クラス20人以下、20人を超えるとその講座は閉鎖された(Closed)。理由は、20人を超えるときめ細かな指導が困難とのことだった。孫のインターも同じ。多品種少量生産のように先生は学生の長所を大切にした。
②Originality(独創性)とPresentation(発表)
 宿題、小論文、試験、Presentation (発表)では先生や学生は、Original Thought(独創的な考え)を高く評価した。
 試験は参考書やメモの持ち込みOK。筆者はアメリカの大学で、暗記が勉強でないことに気付いた。
 独創的な考えは、相手に理解してもらわないと意味がない。したがって、自分の考えを相手に伝えるPresentationはOriginal Thoughtと同様に大切だった。
 筆者の体験だけでなく、孫のインターでも小1から発表を重視している。高学年になると自分の考えをPCの動画で表現、クラスで発表する。また、学期末には、自分が受けた1学期の授業内容を先生と父兄に説明する。
③個性尊重
 生徒の個性を尊重する。個性からOriginal Thoughtが生まれる。もちろん、生徒が知らない新しい概念は一から教えるが、生徒の個性を生かしながら、その概念を理解するように指導する。
 孫のインターでは、先生は生徒の得意とすることを褒めて、生徒に自信を持たせて次への意欲を引き出す。ソクラテスの“好きこそ物の上手なれ”**と符合する。【**参考想像の旅---アレクサンドリアの図書館(2)2017-08-25
 さらに父兄面談でも、先生が生徒の長所を褒めるので父兄はHappyになり、次回が楽しみになる。しかし、日本は逆、父兄も先生に「叱咤激励」されて落ち込むことが多いと云う。(筆者の娘や他の父兄談)
④教科書
 大学の初回講義で、先生が教本(複数)を指定、試験や宿題などの配点と日程の説明があった。教本は試験の範囲、もし授業内容が自分に合わないと思えば、1ヶ月以内にWithdrawalが可能だった(受講キャンセㇽと授業料返金)。
 成績が悪いと学位を取れなくなるので、自信がない科目はWithdrawalで授業から撤退できるルールがあった。
 孫のインターでは教本がないこともあるが、父兄はデータベースで授業方針と内容をPCで閲覧できる。

以上、筆者が体験した日本とアメリカの教育である。日本の「叱咤激励」とアメリカの「個性尊重」ともに、それぞれの教育が人生の一部になったと思っている。

筆者はなぜか暗記が不得意、それも自分の特性の一つ、たぶんそのせいで日本の大学入試では2浪した。しかし、2浪で視野も広がりアメリカにつながった。アメリカの大学は努力に報いてくれるので、勉強がおもしろかった。また、いろいろな形で先生たちに助けられた。

たとえば、期末試験中、勉強のし過ぎで必須科目の試験を寝過ごした。しかし、先生からの電話で慌てて登校、その日の午後に先生の部屋で特別試験を受け、助かった。今もあの先生と電話の呼び出しベルを思い出す。当然、成績はCだった。しかしそれは先生の思いやりと懐かしさに結びつくC、今も先生に感謝している・・・他にも命拾いが2回あった。学部長はじめ、先生や職員は家族的だった。先生たちにこころから感謝している。

日米大学の違いを簡単な言葉に変えると、
◇学生評価:日=点数重視/〇X式(Yes or No) 米=努力重視、柔軟な学則運用
◇教職員と学生の距離:日=「遠」 米=「近」(1クラス20名以下のため?)
◇大学生の印象:日=遊びとアルバイトに多忙(受験後の開放感?) 米=よく本を読む
◇出席点:日=重視しない 米=重視

アメリカの大学で自分に目覚め、自分の道を見付けて歩き始めた。

筆者はアメリカの大学でヘルプ・デスクとして不特定多数のコンピューター利用者を支援した。学部を問わずさまざまな学生や留学生の相談に乗った。ほとんどが数学の問題だったが、そのアプローチは十人十色どころか、千差万別だった。いろいろな考え方と共存する生き方を学んだ。

ただ一つの手法の紹介だけでなく、ヘルプ・デスクとして、できるだけ学生の考え方を尊重しながらコンピューターが作動するように指導した。その時、別の新しい回答を見付けることもあった。この経験で筆者の人への接し方も変化した。

相手がだれであろうが、YouはYouである。相手をみて言葉使いを変えることもない。丁寧語や敬語のある日本、或いは東南アジアの田舎でも言葉使いは変わらない。そこに相手との会話も生まれる。

ときには、相手に教えることで自分も教えられた。まさに、When the right hand washes the left hand, the right hand becomes clean also. Ibo proverb.(右手が左手を洗うとき、右手もまたきれいになる。アフリカのイボ族諺)のとおりである。

回想は長くなるのでここまで、次回は、4年ぶりに四条通りを再訪して、その現状と将来を考えたい。


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関西訪問2---不言実行の山科疏水

2019-09-25 | 地球の姿と思い出
「再会の旅---関西訪問1」から続く。

2.浜大津から京都への旧東海道:1号線&三条通り
高校時代から大学卒業までの約10年間、筆者にとっては、三条大橋から浜大津に至る国道1号線は最も慣れ親しんだ道である。その後も折に触れよく訪れた道、この旅でぜひ再訪したいと思った。

今回はレンタ・カーで浜大津から三条に向かって思い出の道を逆走した。レンタ・カーでは痒いところに手が届くように移動は非常に効率的だった。

浜大津を出て1号線の逢坂山検問所跡を通過、逢坂山の坂道にさしかかった。懐かしい坂道である。

下の写真は逢坂山側から山科(京都市)に向かう1号線の下り坂である。写真右端は名神高速の高架、高架の左下は京阪電車大津線(現在の京津線)である。

60年も昔、たびたびこの坂を自転車で登ったが、この辺りは心臓破りの難所だった。当時の自転車には変速器もなく、四ノ宮から逢坂山検問所までの約1.5kmはキツかった。しかしあの頃は心身ともに若く、飲料水の用意などは念頭になかった。いま思うと、大学一年の時に腎臓結石で入院したが、その一因は水分なしで長時間にわたる自転車漕ぎだったかも知れない。

            逢坂山の坂道(旧東海道)
            

上の写真右に見えるのは京津線、昔は路面電車が走っていた。その電車の台車(ボギー)には車輪が2つ、一つは通常サイズの車輪、もう一つは直径が小さな車輪だった。小径の車輪は登坂力が強いからだと自分なりに解釈した。

今もこの坂を通るたびに、大小2輪のボギーで走るチンチン電車を思い出す。あの頃は東山三条の模型店ユニバーサルに通い、電気機関車の模型などをハンダ鏝で作っていたので、ボギーと云う言葉も懐かしい。

ちなみに国鉄車両の記号、EFXXのE=電気、F=6輪(動輪)、XX=数字:6動輪電気機関車の意味(Code)は今も変わりない。帰り道でユニバーサルを覗いたが、今はプラモデル中心の店になっていた。

この逢坂山は平安時代でも有名、蝉丸(生没不明)と清少納言(966年生)の和歌が百人一首に載っているのは子供でも知っている。もちろん平安時代に限らず、この峠は有史以前から人とものの重要な通り道、現在では、東海道線や新幹線のトンネル、1号線や名神高速、京阪京津線が通っている。

興味あるのは、この坂道に敷石があったことである。それは江戸時代のこと、写真資料によると大津~京都の約12kmには車石(北畑都市設計)の舗装があったという。

車石は、荷車の動きを助ける敷石、長年の使用で石が溝(ミゾ)のように削られている。(株)北畑都市設計の記事は写真中心で分かり易いが、京都伏見の車石・車道研究会の活動報告も参考になる。資料の絵で分かるように、①車輪の幅に合わせた敷石を並べる、②その敷石の列から外れないように牛車を操作する、この2点に日本人のきめ細かな運用を感じる。どこか、正確な鉄道時刻に通じるところがある。

敷石に関する参考だが、紀元前312年に建設が始まったローマ街道の一つ、アッピア街道の石畳*は現代ヨーロッパの敷石道路に遜色ないレベルである。紀元前のローマ街道は軍用道路だったが、東海道、竹田街道、鳥羽街道の車石は物流の効率化が目的だった。【*参考:p.77の写真、塩野七生著「痛快ローマ学」集英社、2002年】

人やものの移動を効率化する搬送技術は、ローマ時代の石畳や江戸時代の車石からスタート、軍事、産業、宇宙航空の分野で大きく発展した。次は、たとえば介護の分野で人の個体移動技術がさらに発展しそうである。

1号線をさらに西に向かって進むと山科の市街地にでる。1号線は名神のICと交わり左に曲がり五条坂から京都市街に向かう。一方、旧1号線は名神ICで「三条通り」に名前を変えて、昔とおり蹴上(ケアゲ)から三条大橋に向かう。

三条通りを名神ICから西に向かって少し進むと、京阪電車&JRの山科駅前の商店街と交差する。その交差点北西角に、昔は小さな時計店があった。

あの頃、母は山科の小学校教師、その店は教え子の店だった。筆者が高校生になった時、その店でエルジンの自動巻きを母に買ってもらった。初めての腕時計が大変嬉しかった。当時、エルジンは軍用腕時計で有名だった。山科駅と聞くと、今でもあの店のオジサンとエルジンを思い出す。交差点を通過するとき思わずオジサンに黙祷した。(エルジンのアメリカ工場は69年に消滅したが、ブランド名は今も存在する。)

駅前商店街を通過して少し先の交差点で右折、すぐにまた右折、山科駅に戻る。駅から山に向かって約500m北上すると山科疎水に出る。

その疎水は小学校のプール代わりに、夏休みの子供たちに開放された。もちろん、子供たちの安全は先生たちが輪番で見守った。筆者は見回り役だった母から教えられ、春夏秋冬の折に触れこの美しい疎水を訪れるようになった。

下の写真は山科疎水(正式名称:琵琶湖疏水)である。京都市のデータを参考に計算すると、毎分約500トンの水が蹴上の浄水場に向かって流れている。毎分500トンもの水が流れているにもかかわらず、せせらぎの音すら聞こえない。静寂そのものである。

            山科疎水---山科駅の北側
            

よく聞く表現に「騒音にかき消される」というのがある。しかし、ここでは逆に「すべての音が流れに吸収される」ように思える。毎分500トンという大きな動きにもかかわらず、その動きに音がない。足元の流れに耳を澄ましてもやはり音がない、不思議な空間である。

この疎水は、当初「京都市の飲料水供給」「発電と京都市電開通」「琵琶湖と淀川を結ぶ水運」を実現した。やがて「水運」は新しいテクノロジーに引継がれたが、一番大切な「水の供給」は今も変わりなくこの疎水が果している。春夏秋冬この疎水を訪れるうちに、その静な動きから「不言実行」を学んだ。その後、アメリカで「Can-Do精神」を学び、修士号(MS)も取得した。自然から学ぶことも多い。

また、この疎水はさくらの名所である。さらに、さくらの次は新緑、その次は夏の河童天国、次に秋の紅葉、そしてやがて誰もいない冬の静寂、この疎水は次々と変身する。その様子を、筆者は季節ごとに衣装を替えて舞台に登場する手品師に見立てている。その手品師が披露する鮮やかなマジックは一巻の絵巻物、筆者は長年その絵巻物に見入ってきた。

---◇◇◇---

さくらの頃には「世の中に絶えてさくらが・・・」、あるいは「散ればこそいとど桜はめでたけれ・・・」との思いがこころに浮かぶ。それは「春はあけぼの・・・」で始まる「たのしく悩ましき春の夢・・・」の季節である。

ついでながら、上の写真から500mほど山に向かって歩くと桜で有名な毘沙門堂に突き当たる。境内のあちこちに咲く大きなシダレさくらが見事である。さくらに囲まれた幻想的なお堂は今も変わりないと信じている。

さらに、花の記憶はタイの花々に続いてゆく。

プラチンブリの日系工場正門横の植木、幹はツルツルに枯れているが枝にはピンク色のブーゲンビリアが花盛り、いつ見ても同じ、不思議だった。バンコクから南にかけて年中絶えることなく花が咲き誇る。ホテルのプールサイドに咲く白い花に「この花は不思議な花で年に一度しか咲かない」と言う庭番のオバサンにエッ!と思った。開花期は年に一度という筆者の常識が通じない国である。

とは言うものの、タイにも緩やかな四季がある。蝉が鳴き目まいがするほど熱い4月、一陣の風と共にやって来る猛烈なスコールに雨傘は役に立たない6月、青空にトンボの群れが飛ぶ8月、焼き畑の煙があちこちに立ちのぼる10月、クリスマス・セールの12月、ホテルの池にうようよと泳ぐ小魚がどこかに隠れていなくなる2月・・・タイの自然は、絶えず花を咲かせながらこれらの変化を繰り返す。もちろん、絶えず花が咲くので果実も豊富である。

疎水に話を戻すと、さくらの次は新緑、みずみずしくあふれるような生命力と五月晴れが続く。生命の躍動とは対照的に年中変わりなく淡々と流れる疎水に安定感を覚える。年がら年中せかせかと新製品を繰り出す製造業とは別世界である。

また、新緑の5月は祭りの季節でもある。地味なお寺でなく、色鮮やかで賑やかな神社の出番である。

祭りには鯖寿司がつきもの、そこには母と鯖を酢で締める大きな絵皿が出てくる。高級店の鯖寿司は品よく形は整っているが上品すぎて筆者の味覚には合わない。やはり母が竹の皮で作る鯖寿司が一番、それに添える色鮮やかな紅ショウガも自家製、鯖寿司と紅ショウガの仕切りは庭石わきに生えるバラン(葉蘭)だった。なぜか鯖寿司を3本、ピラミッドのように床の間脇の戸棚に並べるのが習わしだった。

夏は水しぶきと太陽、子供たちの歓声の世界だった。小橋からふざけて流れに飛び込む子供たち、しかし学校プールの普及で往時の「河童天国」は消滅、おまけに転落防護柵で疎水はがんじがらめの管理社会に変化した。・・・今ではあの「河童天国」は幻だったと思っている。【参考:「河童天国」(京都再訪1)

転落防護柵は目障りだが、秋晴れに映える紅葉が美しい。実り豊かな山がすぐ横にあり、松茸が取れそうな松林もある。子供の頃、松林で松茸狩りとすき焼きをしたのが懐かしくなる。食欲の秋である。

紅葉が散り始めると、この疎水を訪れる人もいなくなる。時たま出会うのはウォーキングをする人だけである。誰もいない桜並木は静まりかえっている。夏の思い出に浸るのも良し、また桜の季節を待ちわびるのも良し、黙々と流れる疎水に「不変」「一貫性」「ぶれない」「チャラチャラしない」などとあれこれと思い、何かと騒々しい現世を冷静に分析するのも良い。

懐かしい山科疎水との久しぶりの再会、娘夫婦と孫4人で訪ねたことに満足、次の目的地、平安神宮を目指した。

続く。

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関西訪問1---近江の沙沙貴神社

2019-08-25 | 地球の姿と思い出
1.病後はじめての関西旅行
2016年秋に脳梗塞を経験、80歳代に入ると身体のあちこちにガタがでてくる。そこで健康指向を心がけ、海外旅行と車の運転とは決別した。飛行機では途中下車(機?)は不可能、また、車で他人の命を奪えば償いようがない。自分で運転するより、タクシーが気楽である。

飛行機だけでなく新幹線での遠出も控えた。体調の改善と悪化に一喜一憂しながら徐々に健康を回復、念願の関西訪問を実現した。口先の掛け声とは関係なく、体は正直である。

今回は、ハノイに住む娘・旦那・孫(男13歳)の一家と関西空港で落ち合い、レンタカ―で関西を移動、姉たちと5年振りに再会した。孫は、3歳頃に姉たちに会わせたきり、今回はハノイで13歳身長170cm靴サイズ28.5cmに成長した姿を久しぶりに紹介した。近年の日本人は大型化している。

ここで思い出したが、若い時から筆者が京都に帰ってくると「天気が晴れる」というジンクスがある。母は「〇〇(筆者の名前)が帰ってくるから晴れる」とよく言ったものだ。

30年も前か、久しぶりに母が待つ自宅に帰ったとき、墓参りに向かう途中で雨が上がり青空になった。帰宅後、屋根瓦が乾いたので大屋根に登って台風で傾いたTVアンテナを直した記憶がある。確かに当ブログに出す京都の写真も、晴れが多い。今回は、母に似た娘からレンタ・カーの中で「お父さんのジンクスは今も有効」と云われた。

いつものことながら、梅雨どきにもかかわらず京都駅前は晴れていた。下の写真は「京都再訪(1)」(2012-11-25)の写真と同じアングルで撮った写真である。今回も「同じ青空」であり、筆者のジンクスも健在と嬉しくなった。

            青空に映える京都タワー(2019-6-25)
            

今回は、稲荷大社前の有名な伏見人形を求めて、創業250年の窯元を訪れた。江戸時代の最盛期には伏見街道には60軒もの窯元があったが、今ではただ一軒だけと店主は言う。伏見人形は日本の土人形の元祖であり、そのルーツは垂仁天皇時代の伏見深草に遡る。(垂仁天皇の実在は?だが、深草の里は方丈記にも出てくる。)

稲荷大社の前を通ったので、千本鳥居を覗いて見ると下の写真のような状態だった。

            稲荷大社の千本鳥居、「芋の子洗い」状態に見える
            

写真の日時は、2019年6月下旬日曜日午後6時半頃だが、正月以上の人出だった。5、6年前は夕刻ともなれば千本鳥居の人影はまれだった。しかし今は違う。外国人だらけの感がある。

異様な光景に驚きながら千本鳥居の先にある「重軽(オモカル)の石」を訪れた。「ある願い」を胸にトライした。石は重かったが持ち上がったので満足した。孫もトライして、石を持ち上げた。

「重軽の石」は少し奥まった場所にあるが、この日はそこもにぎやかだった。しかし、さすがに外国人にはトライする人がいなかった・・・たぶん、「重軽の石」の意味が分からないのだと思う。

今回の旅行目的の一つは、滋賀県安土の沙沙貴神社を訪れることだった。静かな森に囲まれた社、その屋根に宮大工が造り出す曲線には独特の美しさがある。日本の美である。

            沙沙貴神社の本殿
            

人影はないが、本殿の姿は威風堂々、立派である。屋根の銅板は葺き替え中だった。

手入れが行き届いた境内には日本人の参拝者が数人だけ、外国人はゼロ(零)だった。その静寂な境内に「いにしえ」を感じた・・・遠い将来いつの日か、孫がこの神社を思い出し、再訪することを願っている。

            沙沙貴神社の恩頼(ご利益)
            

上の写真にある恩頼(オンライ)とは、恩恵、加護、ご利益の意味である。沙沙貴神社の歴史は古いが、ご利益は意外に幅広い。子宝、安産、育児、学業、衣類、薬、醸造、道具など、現代語に言い換えるとアパレル、バイオケミカル、エンジニアリングなどを含むので、少々大風呂敷の感がある。

排外主義ではないが、外国人ゼロ(零)の静寂な境内に「いにしえ」を感じ、在原業平(825年生)、清少納言(966年)、鴨長明(1155年)たちを想った。世界史上まれなことだが、現代でも彼らとほぼ同じ言語と同じ感性を共有できることがうれしく、こころに安らぎ(Stability=安定感/持続性/復元力)を覚える。

もちろん、先人たちと現代人には、大きな違いがある。それはテクノロジーの知識・経験である。しかし、このギャップはある程度の知性と順応性があれば埋めることができるので大した問題ではない。筆者の勝手な想像だが、パソコンやスマホを使いこなす在原業平や清少納言には違和感を覚えない。

沙沙貴神社を出て8号線を西に進むと、大ムカデ退治の伝説で有名な三上山、通称 近江富士を通過する。遠くから見ると、三上山は美しく、近江富士という名にふさわしい。

            近江富士=三上山(432m)
            

筆者はこのようなこぢんまりとした三角山を見ると、カチカチ山のような昔ばなしを思い出す。昔ばなしを連想させるこの山は、また、先ほど見た沙沙貴神社本殿屋根の曲線美に重なる。

新幹線でこの山を通過すると、あと数分で瀬田川、すぐに逢坂山トンネル、つぎに山科と東山トンネルに続く。東山トンネル辺りで減速が始まり、トンネル出口の京都駅に到着する。瀬田の唐橋は京都の入口、この辺りの透明な流れにたなびく水藻、その水藻の間を泳ぐ小魚の群れを思い出す。その思い出に、故郷日本に帰ったと実感する。

琵琶湖沿いに西進する8号線は、近江富士を通過すると栗東あたりで鈴鹿峠を越えて西進してきた1号線と合流する。いよいよ懐かしい浜大津がすぐ近くになる。この辺りで昼どき、沿道のラーメン店もまた楽しい。

            浜大津のマリーナ
            

上の写真は、京阪浜大津駅前の浜大津のマリーナである。今はすっかり様変わりした。

写真の背景は比叡山、昔は手前にある高層ビルはなかった。埋立て地に出現したこのヨットハーバーに方向感を失った。

筆者の記憶にある浜大津は、木造の旅籠や食堂などが並ぶ通りと琵琶湖汽船の船着き場である。

記憶を辿ると、食堂と船着き場の間を左に入ると木造の桟橋が数本、沖に向かって伸びていた。桟橋は板敷き、桟橋を支える柱は丸太、その丸太に救命浮き輪などが掛っていた。桟橋と桟橋の間は、コンクリートのスロープが湖面からヨット置場に続いていた。スロープの左隣りは芝生のような草地、波打ち際には白い砂浜が見えた。

ヨット置場にはディンギーやスナイプといった貸しヨットがならんでいた。当時、船外機付きモーター・ボ-トはめったに見なかったが、時には桟橋から発進するボートを見た。エンジンがかかった瞬間、船尾が沈み、同時に船首を上げて白い航跡と共に桟橋を離れる様子はかっこう良く、その姿に憧れた。なぜか、走り去るボートを追って桟橋を走る少年を想像した。このブログのタイトルにも「航跡」という文字が入っている。

中学生ほどの筆者は、兄、兄の友達3、4人に連れられてよくこのスロープを訪れた。時間貸しのヨットで琵琶湖ホテルがある柳が崎あたりまで帆走した。(琵琶湖ホテルは1998年に浜大津に移転、跡地は公園)

スロープから艇体を水に下ろし、セールを張って沖に出る。一人前にこれらの作業を手伝った。帆走では、風上への切り上がりやターンの方法などを見よう見まねで覚えた。あの頃はスモッグもなく、湖面にはまぶしい直射日光と水平線に傾く白いセール、まさに太陽がいっぱいの世界だった。

帆走を終え、食堂の店先で食べるアイス・キャンディーは格別だった。かき氷やアイス・キャンディーの売り場にはいつもオジサン、オバサンがいたが、それは昔の話。今ではたぶん、オジサン、オバサンは外国人のお姉さんと選手交代、日本の外国人化は、まず小売店やコンビニのカウンターから始まる。いわば外堀からの外国人化といえる。

浜大津の駅を背に、京阪電車大津線(路面軌道)に沿って約1km逢坂山峠方向に進むと、京阪電車大津線の踏切がある。その踏切を逢坂山峠方向に渡った右脇に幅3mほどの坂道がある。その山肌に沿った急坂を500mほど上ると約300坪の広場に出る。(昔のことだが)そこに、琵琶湖に向かって白いコンクリートのベンチが一つポツンとあった。広場の奥は山道、山肌に沿って大きく左に回ると桜の名所、三井寺に続いていた。

白いベンチの眼下には浜大津の家々と青い琵琶湖が広がる。その展望に高校生の頃から魅せられ、自転車や京阪バス、京阪電車大津線でよくこのベンチを訪れた。春にはピンク色に染まる幻想的なこの丘で、“いつか船乗りになって未知の世界に乗り出し冒険を重ね、やがてブーメランのようにこの丘に戻ってくる”と夢を描いた・・・レンタカーでベンチに続く坂道の入口を通過したが、今回はその坂を登らなかった:まだ早い。

続く。

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想像の旅---カサブランカ(7)

2019-06-25 | 地球の姿と思い出
想像の旅---カサブランカ(6)から続く。

今は観光客が好みのメディナは、カサポート駅(Gare de Casa Port)に近い縦横それぞれ500mほどの古びた街である。入り江に面したこの辺りは大昔の交易の拠点だったように見える。人が集まって交易は栄える。人の集まりには食が付きもの、食材と加工技術(調理)が付随する。テクノロジーが先行して文化が生まれる。

カサブランカのメディナに限らず、地球上の町や村には“ソクラテスの対話(Dialog)”に出てくるように、生活の基本的なニーズを満たす機能を備えていた。交通機関が未発達の昔では、メディナは昨今話題のコンパクト・シティーだったと考えられる。【参考:)"Specialization Within the City (都市内での専門化)"・・・ソクラテスの問答で都市の最少限の機能を議論している・・・コンパクト・シティーの参考になる。】






7世紀ごろには独立国家に発展した。しかし、15世紀の中ごろからスペイン・ポルトガルとのトラブが発生、1468年にポルトガル人が街を焼き払った。その後、1515年にポルトガル人が街を再開発、その街をカサブランカ(Casa=家 blanca=白い)と名付けた。



平安京 延暦13年(794年)~文治元年(1185年) 伏見稲荷大社=和銅4年(711年)、音羽山清水寺=宝亀9年(778年)、延暦寺=延暦25年(806年)

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「日本国紀」の感想2

2019-05-25 | 地球の姿と思い出
「日本国紀」の感想1から続く。

3)歴史年表
筆者は、歴史と聞けばすぐに年表が頭に浮かんでくる。高校の日本史で、ただひとつ記憶に残るのは「以後予算よろしく」(1543年鉄砲伝来)だけである。「以後予算よろしく」より先に先生の名前と顔を懐かしく思う。たぶん、先生の話がおもしろかったからだと思うが、暗記が苦手、そのせいで高校時代に「歴史離れ」してしまった。

しかし、「日本国紀」と「副読本」を読むうちに、歴史年表にない史実、あっても話が違う史実、さらに教科書には「疑問符付きの史実(ウソ?)」の他にもいろいろあることを知った。今まで偏向という言葉は抽象的だったが、今回はその具体例を見た。

特に、1270年から80年にかけての蒙古襲来には背筋が寒くなる戦慄を覚えた。16歳の北条時宗と武士団に、よくぞこの日本を守ってくれたとこころから感謝する。

「神風」という「昔ばなし」風の言葉が蒙古襲来には付きまとっていたが、とんでもない誤解だった。あれは、近年日本に押し寄せたサンゴ密漁の中国漁船団と同然、現実の生々しい話だった。あのサンゴ事件は、初期対応で失敗したが、北条時宗は適切に対処した。

彼が16歳だったことに、年功序列ではない若者の姿に新鮮さを感じた。打てば響く素早い初動、相手もこれは手ごわいと直感したに違いない。その効果は大きく、その対処で勝負は決まったのかも知れない。とにかく、当時は、年功序列はダメという後世の近代経営学より進んでいた。教科書に関わる歴史学のセンセイたちもこの辺のことを日本の若者に教えて欲しい。

時宗がフビライの使者を斬首したのは正解だった。使者の斬首は国際法に反するとの学説があるようだが、服従を要求する相手に国際法などあったものではない、斬首のなにが悪い。それは理不尽な要求への明確な回答である。重要な問題はイエスかノーではっきりさせる。特に異文化がぶつかる国際交渉ではYes/Noの区別は大切である。笑って答を曖昧にするのは日本人の悪い癖とアメリカ人の仕事仲間がぼやいていた。

得体の知れない敵との対峙だったが、北条時宗と武士団には気骨があった。彼らの「国を守る」という固い決意と実行力を誇りに思う。「自分の身は自分で守る」は現在の外務省安全情報ばかりでなく、古来、人類共通の鉄則だと改めて認識した。

ここでイザヤ書を思い出した・・・「(木を林で育て、たきぎとし肉を煮て食べ、また身を暖める。)そしてその余りをもって神を造って偶像とし、その前にひれ伏して拝み、これに祈って、『あなたはわが神だ、わたしを救え』と言う。」第44章(17)・・・「自分の身は自分で守る」を忘れ、たとえば「憲法9条」にひれ伏してなにになる?

半世紀以上も世界を渡り歩いた筆者も、本能的に「自分の身は自分で守る」を身に付けた。言葉も法律も違う外国では、まず自分の身を守るのが鉄則、また「守る」は受け身だが、同時に「開く」でもあると知った。

たとえば、七十歳過ぎまでタイで働いたが、「好きな南の国」で「好きな仕事」を、人材会社でなく、自分で見付けた。心臓病(心筋梗塞)を抱える身にとっては、日本より進んでいたバンコクで働く方が安心と云う事情もあった。
【2004年頃の心臓医療では、薬品やステントはタイの方が進んでいた。救急処置のベッドで、画面に映る心臓が生命の減算から加算に変わる瞬間を見た。その瞬間は血流がパット開通する映像だった・・・今も時々その動画をPCで眺めて、生命とは何ぞやと考える。】

脳梗塞では、はじめは自立歩行を断念した。しかし、どうしても歩きたい、その執念でベッドの中でペットボトルと水で手指のリハビリを始めた。生きようとする強い意欲はリハビリの効果を高める。生きることの中身は、意欲(精神力)50と体力50と理解した。時間が足りなくなれば長生きして時間を稼ぐ。

蒙古襲来の詳細の他にも「日本の誇り」はまだまだある。それは、年表で軽く扱われた史実、あるいは年表にでなかった重要な史実だったと「日本国紀」と「副読本」で理解した。咸臨丸の簪(カンザシ)は江戸の小話に出てきそうな粋な計らい、世界中の人々が解する“一流のユーモア”だったと思う。とっさの対応でなく、日本で簪を用意した深謀遠慮が心憎い。アメリカ女性たちが派手に喜ぶ姿が目に浮かび、こちらまでhappyになる。この話にアルセーヌ・ルパンを思い出す。

女性がらみの話になるが、「日本は、女性の社会進出が遅れている」とよく聞く。確かにビジネスでは、女性の社会進出は欧米タイに比べて遅れている。特に海外の日系企業では殆ど日本人女性社員(現地採用も含む)を見かけなかった。

しかし、平安時代の女流作家は輝いていた。その作品は、千年の月日を超えて今も世界で輝いている。当時は「女性の社会進出が遅れた国」どころか、人類史上珍しい「女性が輝く国」だった。

平安時代の小説や随筆だけでなく、万葉集の和歌をはじめ俳句や川柳は、今も日本人の頭に生きている価値観だと思う。たとえば、業平の「世の中に絶えてさくらの・・・」に筆者は今もその通りだと思う。短文で簡潔に状況を表現する日本の和歌や俳句は言葉の整理学でもある。ビジネスでも求められる文章力・口頭表現力そのものである。

無駄のない洗練された単文(歌)を男女がやり取りする伊勢物語は、今のツイッター(twitter)に似ている。広く庶民の教養を高める流れは、後世の寺子屋教育に発展した。富裕層でなく男女共学と庶民教育がキー・ポイントである。男女平等と教育の機会均等は非常に先進的だった。こんなに先進的な国は世界史上、日本だけだったと思う。

日本史にあまり関心がなかった筆者だが、「日本国紀」と「副読本」は読み易く頭の中にスルスルと入った気がする。しかし、まだまだ知りたいこともある。書物という限られた紙面では物理的に無理なので、これらの本をインデックスとして、機会があれば史実の深堀も試みたい。

緊急入院は幸い一週間で退院、かねて計画していた6月下旬の関西旅行を実現する予定である。

歴史問題もさることながら、日本は今、人類未踏の少子高齢化に直面している。日本の先に何が起きるのか?

次回に続く。

6月下旬のブログは関西旅行で中止、7月25日に旅行記などで再開します。

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「日本国紀」の感想1

2019-04-25 | 地球の姿と思い出
人生、年齢に関係なく突然に思いがけないことが起こる。80歳代に入ったので静かに暮らそうと思うのは、自分だけの思い込み、現実はそう甘くはない。

(1)即刻入院
少し体調が悪いので、定期検診を二日繰り上げて病院に行ったら、主治医から即刻入院と告げられた。突然の話に驚いたが、まずはそのまま入院した。歩いて検診に訪れた病院で、即刻入院とは、明日は何が起こるか分からない。

(2)入院と百田尚樹
レンタルの寝間着に着替えて病床につくと早速点滴が始まった。今回は幸い、命に別状はないらしく、緊張がほぐれるにつれて、前回の入院生活(2016/秋)を思い出した。

あの時は、小脳の梗塞でバランス感覚を失い、二度と歩けないと絶望の入院だった。

起き上がろうとすると目が回る状態での入院、すべてが絶望的、海外旅行はもちろん運転も断念した。しかし、やがてうら若き女性療法士さんから「永遠の0」を勧められて一気に読破した。続いて、別の女性看護師さんから「海賊とよばれた男」も勧められた。これら二つの作品から、生きていることへの感謝とさらに生きることへの希望が湧いてきた。百田尚樹作品に出会ったお陰と今も思っている。

今回は突然の入院だが、偶然にも「日本国紀」(百田著)とその「副読本」(百田・有本 香著)を読み始めた直後、「入院=百田」という図式が成立した。

(3)「日本国紀」(百田直樹著)と「副読本」(百田・有本香共著)への感想
1)誇り(pride)
「日本国紀」起稿の一つのキッカケは、「アメリカの歴史教育は、それを学ぶと、子供たちの誰もがアメリカを好きになります。アメリカに生まれたことを誇りに思う、喜びに思う、そういう歴史教育です(副読本、ケント・ギルバート談)。」だったという。

いま思い出すと、アメリカ人は身の周りに起こることをよく「誇りに」思う人たちだった。自分の家族、友人、学校、社会、アスリートの記録などに、活き活きとした顔で「誇りに思う」という話し手に、聞く方のこちらも話しに引き込まれて相手と同じように嬉しくなる・・・「誇りに思う」は「自慢」ではない。

一方、日本人は、たとえば立食パーティーなどでは、小さなグループをつくりがち、礼儀正しく控えめで目立たない。例外はあるが、海外で見る日本人はたいがい控えめ、欧米の空港のカウンターなどで口角泡を飛ばして自己主張をする日本人などはいまだかつて見たことがない。反面、「すみません」と訳もなく一歩引く人が多いのには歯がゆい思いがする。

英語とケンカは不得意な筆者だが、頑固な面があるので、仕事の上ではいつの間にか「ジジイの暴走族(日本語)」と陰口を聞かれたこともあった。しかし、頑固ジジイでもなんでもいいが、多種多様な人間が混在する外国では、時には「べらんめー!こちとらは、、、」と威勢よく日本語で啖呵を切りたくなることもある・・・訳もなく妥協すると信用が傷つく。

2)日本人のプレセンテーション能力
控えめで引っ込み思案のせいか、外国で接する日本人ビジネスマン*は概してプレゼンテーション下手である。その理由は、筆者の独断と偏見だが、他国と比べると「プレゼンテーションを重視しない」日本の学校教育にあると思っている。
【参考*:筆者の経験(1970年代~2012)だが、欧米東南アジアで接する日本人は99%以上が男性ビジネスマンだった。もし、近い将来に日本女性のビジネス参加が増えれば、“控えめで引っ込み思案”がそうでない方向に変化するかも知れない。なお、余計な話だが、観光地では日本人の男女比は反転する。特に、団体旅行では老若女性が圧倒的に多い・・・筆者の目には約8割以上が女性、中でも5~60代女性の服装は登山帽+リュック姿が定番、遠目でも直ぐに“ニッポン人様ご一行”と判別できる。】

アメリカで営業マンなどが「立て板に水」のように製品を売り込むのを見ていると、(アメリカの)大学時代のプレゼンテーションを思い出す。

ビジネス・スーツにネクタイ姿、階段教室でプレゼンテーションの実地訓練**だった。それは、ターム・ペーパー(term paper:小論文)などの発表の時間、聴衆は同級生や先生たちだった。プレゼンテーションの点数評価とコメントはターム・ペーパーの評価になる。
【参考**:プレゼンテーションの実地訓練では、発表内容、補助具の使用(例.OHP)、言葉使い、質問への即座の対応、発表の身のこなし、服装などが評価項目だった。
 アメリカの大学がプレゼンテーションを重視する理由について、筆者が1960年後半に耳にしたことだが、今も覚えている:昔、カーネギーメロン大学の理工系学生が研究結果を発表するとき、聴衆に背を向け黒板に張り付いてのプレゼンテーションだった。これでは、聴衆を引き付ける(hold attention)ことができない。そこで、理工系の学生に対して、プレゼンテーション能力を身につけさせる教育に力を入れ始めたと聞かされた。】

グローバル化が進む日本社会の学校教育に望むことは、まず日本語力(文章力と口頭表現力)ならびにプレゼンテーション力の強化である。

自分の思うことを自分の言葉でまとめ、人前で堂々と相手に伝える。時には型破りの考えがあっても良し、自由で伸びやかな話の中の一言が社会を大きく変えることもある。その一言はイノベーション(innovation)の源泉である。

「日本国紀」の感想2に続く。

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想像の旅---カサブランカ(6)

2019-03-25 | 地球の姿と思い出
想像の旅---カサブランカ(5)から続く。

地域密着型の店舗
ハムディーは、今までとおり自分の店を旧市街地(メディナ)に密着した店として運営したいと考えている。取り扱う品物は地域の人びとの必需品、在庫量も地域の需要に沿って安全在庫を調整すれば品切れも起こらない。予測が難しい観光客や近所の工事で発生する突発的な需要には、今のシステムには特需を見分ける機能を組み込める。

ハムディーの店の歴史は古いが、店で働く人びとも何代にも亘るメディナの人たちである。この地域がメディナと呼ばれるもっと昔からの住人である。数百年をはるかに超える歴史は、人びとの生活習慣の一部である。たとえば、食生活における古くからの食材、料理法、食器、マナーも生活習慣の一つである。その食生活は彼らの食文化、いわばアセット(asset:持ちもの・身に付けた資産)である。ハムディーは、このような文化をメディナの有形・無形資産(tangible・intangible assets)として大切に守りたいと思っている。

ここで、メディナの過去を振り返ると、その歴史はかなり古い。

カサブランカ(白い家)と云う名前は、ポルトガル人による街の焼き討ちと再開発に由来する。それは1468年のこと、ベルベル人とのトラブルに怒ったポルトガル人によるカサブランカの焼き討ちと1515年の再開発である。再開発された白い街をCasa Blanca(白い家)と呼んだのが名前の由来である。沖合から見た白い街並みが思い浮かぶ。

しかし、カサブランカの歴史はもっと古く、紀元前10世紀頃にベルベル人がこの地に定住し始めたころに遡る。大西洋に面した地中海性気候に恵まれた小さな漁港は、やがて港町に発展した。紀元前7世紀にはフェニキアと交易、前5世紀にはローマとの交易で栄えた。筆者の想像だが、ベルベル人の勢力が強くなるにつれて、イベリア半島のポルトガルとのトラブルもエスカレート、15世紀ころの焼き討ちに至った。

ここで注意したいのは、500年程度昔の焼き討ちではなく、紀元前7世紀から始まったフェニキアとの交易とそれに続くローマとの交易である。

参考だが、カサブランカのベルベル人が交易したフェニキア人はフェニキア文字を発明した(紀元前1500年頃)。彼らは、水に強いレバノン杉の船に乗ってフェニキア文字とともに紀元前10世紀頃にレバノン地方から地中海に進出した。地中海交易の発展とともに22の子音文字から成るフェニキア文字は地中海沿岸と北アフリカ各地に広がった。

ジブラルタル海峡に続くカサブランカもフェニキアの商圏だったので、そこはフェニキア人はもちろん、周辺諸国の人びとで賑わったと想像できる。なお、フェニキア人は航海術にすぐれ、地中海西部から大西洋までの各地に植民都市を建てたが、紀元前一世紀ころからローマに併合されていった(大辞林 第三版)。

下の図は22のフェニキア文字(すべて子音)である。このフェニキア文字は、後にギリシア人が母音を加えて現在のアルファベットに発展したが、もとのフェニキア文字は消滅した。

           

別の参考資料だが、氷河期のヨーロッパに分布した368の洞窟に残された幾何学記号をカナダ人女性科学者(G. von Petzinger)がデータベースで整理した。その結果は、下の図に示す32個の幾何学記号である・・・32個のなかには、2400kmも離れた2つの洞窟に残された記号やパターンが一致すると云う謎もある(イベリア半島(2.2万年前の洞窟)とシチリア島(1.2万年前の洞窟):約2400km、記号には1万年の時差がある)。

           ヨーロッパ氷河期の368洞窟に残された32個の幾何学記号
           
           出典:G. von Petzinger著櫻井裕子訳「最古の文字なのか?」文芸春秋、2016

氷河期の幾何学記号と文字、たとえばフェニキア文字との関係は現段階では不明である。しかし、32個の壁画に描かれた記号と22個のフェニキア文字を比較すると、赤〇(丸印)で示すように5個の文字(記号)が一致する。ただし、5個のうちの△は向きが違うので一致とは言えないかも知れない。また、フェニキア文字には意味と発音(子音のみ)があったが、記号に普遍的な意味と発音があったかは明らかでない。

定説によると文字は文明とともに生まれてきた。世界最古の文明は紀元前4000年頃にチグリスとユーフラテス川の間に住んでいたシュメール人のメソポタミア文明である。シュメール人は楔形文字を発明(紀元前3300年頃)、交易に使用した。ちなみに、あの「目には目を」のハンムバル法典(バビロンで発見、282条、紀元前1790年頃)は、アッカド人の日常語と楔形文字で書かれている。

他方、ナイル川においては、紀元前3000年頃から古王国が繁栄した。有名なヒエログリフ(象形文字:紀元前3000年)に続き、ギザには、クフ王、カフラー王、メンカウラー王の三大ピラミッド(建造;紀元前2500年代)がある。

さらに、地中海においては、紀元前2000年頃に航海術に長けたクレタ島のミノア人がエーゲ海と東地中海の交易を制した。その後、彼らはエジプトや北アフリカ沿岸との交易にも手を広げた。しかし、紀元前1600年頃にミケーネ人がバルカン半島を南下し、ギリシア半島を占拠し、ミノア人を制圧した。さらに、紀元前1000年頃にはミケーネ人はフェニキア人にとって替わられた。

紀元前800年頃にはギリシア文明がフェニキアのライバルとして頭角を現し、次第にフェニキア人はギリシア・ローマに吸収されていった。この頃、カサブランカのベルベル人はフェニキアと交易を始めた。

古代の地中海は、城壁で固めた都市王国と植民都市を拠点にさまざまな民族が興亡した。筆者の単純な発想だが、さまざまな民族が興亡した地中海の海底や地中には、今も多くの文明の遺品がひっそりと眠っていそうに思われる。特に、15世紀頃のカサブランカの焼き討ちでは、多量の食器やタイルが瓦礫として処理されたのでその可能性は大きい。

ハムディーの店のシステム化で出た大量のデッド・ストック(死蔵品)は、帳簿に記録がないガラクタである。観光地の土産物店に並ぶピカピカの量産品でなく、いつ仕入れたかも分からない品々である。それらのガラクタに、もし古代人が描いたフェニキア文字、絵文字や楔形文字があれば、骨董品として価値がある。

まずは、システム開発を優先して、後でゆっくりとガラクタを整理する。

続く。

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想像の旅---スキップ

2019-02-25 | 地球の姿と思い出
今回は風邪でダウン、投稿をスキップ、カサブランカ(6)を来月に延期します。以上


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