船乗りの航跡

地球の姿と思い出
ことばとコンピュータ
もの造りの歴史と生産管理
日本の将来

日本の将来---2.日本と欧米との比較(3)

2013-08-25 | 日本の将来
前回から続く。

6)2000年代のタイ
2000年からの10年間は、1997年のアジア通貨危機で受けた経済的なダメージの回復期だった。この期間には、2006年のクーデター、08年の空港占拠、10年の流血デモが続き、政治的には不安定だったが、政治は政治、都会にはデモに参加する暇も関心もない人が多かった。また、11年の洪水では、幾つかの工業団地が浸水、操業停止が長引いた。

【参考:タイの日本関係データ】
◇日本企業数 3,133社
 うち、製造業 1,735社、うち、252社は自動車関連企業
    卸売業   739社
 出典:タイ進出企業の実態調査、帝国データバンク、2011年10月
◇タイの工業団地数  62ヶ所
 出典:タイ国工業団地調査報告書、日本貿易振興機構(JETRO)、2011年3月
◇タイの日本人数: 49,983人「在留届」提出者数、2011年10月
 出典: HELLO BANGKOK THAILAND
 旅行者などを含めると6~7万人、または10万人との推定もある。

タイと日本は古くから皇室レベルの付き合い、フレンドリーな関係が続いている。日本は、70年代後半から有償・無償のODA(政府開発援助)でタイのインフラ整備を支援した。そのため、世界的に有名だった「バンコクの渋滞」は、今ではほとんど見られない。しかし、事故による渋滞と週末夜の繁華街の渋滞は、相変わらずである。しかし、ホテルから十数キロ先の新国際空港に離発着する航空機を22階から目視できる日が多いので視界は東京より良好である。

政治は不安定だが、経済発展は順調であり、01年のタイの失業率は1.8%、11年は0.4%と右肩下がりである。世界のデトロイトを目指すタイ政府の願いとおり、自動車生産は盛んである。

一昔前の話であるが、2000年頃は、市バス内の強盗が乗客全員の金品を奪ったという記事をときどき見た。しかし、今ではこのような人騒がせな犯罪は耳にしない。

あの頃は、市内を走る車はポンコツが多かった。日本では見なくなった懐かしい乗用車、荷台が傾き黒煙を吹き上げながら走るトラック、ボロボロの市バスは故障の乗降ドアを開けっ放しで走っていた。

やがて、2000年中頃からポンコツ車が減り始め、高速道路の整備も進んだ。下の写真は、11年のバンコク市内の光景である。

            バンコク市内の高速道路(2011年)
            

昔の交通渋滞への反動か、スピードを出す人が多く、歩行者優先ではないので交差点や路上横断は非常に危険である。「自分の身は自分で守る」という鉄則を忘れると、トラブルに巻き込まれる。とはいえ、人々は大らかで、一般に女性たちの方が堅実で真面目である。見知らぬ女性(老若)の親切を受けることも時々ある。

下の写真は、99年12月に開業したバンコクの高架鉄道BTS(スカイトレイン)のプラットフォームである。通勤時間帯には5両編成の列車はかなり込み合う。

            夕方のBTSプラットフォーム(2011年)
            

初乗り15バーツ(1バーツ=約3円)がバス代(普通5、冷房7バーツ)より高いので、05年頃まで乗客が伸びなかった。しかし、今では乗客数が増え、一部の駅でフォーム・ドアを導入したそうである。04年には地下鉄MRTが開通したが、BTSとMRT共に路線を延長している。

また、05~06年頃から携帯電話とコンビニが増え始めた。ケータイで話しながら歩く人、スーパーには次々と新モデルが現われ、価格が安くなり、一気に携帯社会がやってきた。

日系のコンビニは2000年頃には珍しかったが、しだいにバンコク市内や幹線道路のガソリンスタンドにコンビニが増え始めた。05年頃には、工業団地に隣接する日系コンビニでは、5~6台のレジを備え、公共料金の支払いもOKだった。この頃、幹線道路のガソリンスタンドのコンビニは24時間営業になった。

2000年頃には英国系スーパーがバンコクで出店していたが、後にフランス系スーパーが参戦した。

下の写真はフランス系スーパーの醤油売場、屋台のおばさんが使う日本メーカーの製品である。

            スーパーの醤油売場
            

写真のメーカーのマーク入り醤油差しは、昔からのトレードマークだった。東南アジアではイミテーションもあったが、多量に出回る本物にイミテーションは意味を失い、いつの間にか消えてしまった。

写真中段の価格は手ごろな122~169バーツであり、世界が認める日本の味である。

下の写真は、同じスーパーの日本食材の売場である。一般に、日本の品物は少し高いが安心とのイメージがある。

            スーパーの日本食材売場
            

もともと、街角の屋台で食事を済ます人が多いタイでは、食材を買い、自分で調理することは少なかった。しかし、スーパーで手に入る食材、炊飯器や冷蔵庫で人々は調理を始めた。結果として食の安全への関心が高まった。野菜の残留農薬、飼料のホルモン剤や抗生物質、食品添加物への不安である。「あの地区は農薬を多用しているらしい」とケータイで噂が流れると、その地区の野菜は敬遠されるという。

下の写真は、日系スーパーの無農薬野菜の売場である。

            日本直輸入の無農薬野菜
            

この店の商品は、日本またはタイの日系メーカーからの仕入れ品だけである。生卵を食べる日本人のために、鶏卵は航空会社から届くという。逆に、バンコクから日本に毎日空輸され、全国のスーパーに並ぶ農産物が2000年には存在していた。製造業のグローバル・サプライ・チェーンと同様、農産物の流れにもすでにグローバル化が深く浸透している。

今、日本の農産物はTPPで揺れているが、Made in Japanの食材が外国で高く評価されるケースは多い。味と安全性に優れた日本の農産物を世界に供給すれば、試算はないが、双方に莫大な直接的/間接的なメリットが期待できる。そこでは、日本が得意とする生産技術・保存技術・物流技術とそれらを統合するIT技術が決め手になる。それは、単なる利益追求でなく、日本と日本人にできる次世代人類への貢献である。

なお、この問題では「日本での収穫」がキーワードであり、工業製品のように工場進出では解決できない。したがって、タイのスーパーが売るタイで収穫した「コシヒカリ」は正解ではない。

ここで、筆者なりに人類の歩みを振り返ると、石器から農耕までは十数万年、古代文明は数千年、欧州の近代化は数百年、日本の復興は5~60年、タイの近代化は2~30年だった。そのテンポは、万・千・百・十の年単位へと幾何級数的に短くなっている。その行き先はグローバル化という名の画一的な世界である。さらに、そこではすべてが平等に"Wear-out Failure"(擦り切れてダメになること)を迎える、と同時に新陳代謝が始まる。そのとき、人類は脱皮する。

次回に続く。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本の将来---2.日本と欧米との比較(2)

2013-08-10 | 日本の将来
前回から続く。

4)70~80年代の日本
69年の東名高速開通に続き、72年の列島改造論でインフラと交通網の整備に拍車がかかった。

この波に乗って、新宿西口に70年代の10年間で高さ200メートル以上のビルが5棟も建てられた。その後も高層ビルは増え続け、雨後の竹の子のような新宿高層ビル群が出現した。それは、玉石混交のビル群、たとえば、東京都庁(243m)は90年末に総工費1650億円で完成したが、2006年頃から雨漏りに悩みだしたと朝日新聞にある。【参考:朝日新聞 2006年2月21日夕刊:都庁雨漏りに泣く。完成僅か15年、修繕試算1000億円】

80年代後半はバブル景気の最盛期、公共事業は費用対効果を無視した箱物行政に進んでいった。民間でも、大規模な集合住宅や郊外型のスーパーマーケットが次々と誕生した。

他方、昔からの商店街がシャッター街に変り始めた。この頃、製造業の「空洞化」に商店街の「空洞化」が加わった。次に来るのは人口の「空洞化」、しかし、次々と表れる「空洞化」は衰退と同時に脱皮のチャンスでもある。それは「盛者必衰の理(コトワリ)」であり、また日本列島の新陳代謝でもある。冷静に対応すれば、新陳代謝の先には希望もある。

この時代には、東京と京都の路面電車が次々と撤去された。72年の第七次都電撤去で荒川線以外のすべての都電が撤去された、また、琵琶湖疏水の水力発電で1895年に実現した日本最初の路面電車も、利用者の減少との理由で78年にすべての京都市電が撤去された。特に京都の場合は、当時、欧米が試行していたLRT(ライトレール:Light Rail Transit=軽量軌道交通)に新たな可能性があったが、京都市はあっさりと撤去に踏み切った。

5)90年代のアメリカ
この年代には、企業のコンピューターシステムに重要な変革があった。それは80年代頃までに開発された古いシステム(=その時点の現行システム)の統廃合とグローバル化への脱皮だった。

すでに、このブログの「グローバル化への準備---コンピューターの知識(1)、(2)、(3)」で説明したが、60~70年代に飛躍的に進歩したコンピューターは、技術計算だけでなく事務処理にも使われるようになった。さまざまな分野に利用できるコンピューターは、汎用機と呼ばれ、80年代には大型汎用機が全盛期を迎えた。

当時、日進月歩の技術革新は次々と新しい機能を生み、その度に現行システムの修正を繰り返した。結果として、継ぎはぎだらけで効率の悪い事務処理システムが出現した。この状況は、日米欧の国々で同じだった。高価な汎用機と継ぎはぎだらけの古いシステム(現行システム)、このため企業のシステム担当部門は「金食い虫」といわれていた。

ちなみに、汎用機1台の大雑把なレンタル費は3~5000万円/月、大手の製造業では3~5台の汎用機を設置していた。このコストは、国により多少の違いがあったが、似たり寄ったりだった。

技術開発はさらに進み、80年代後半には安価なサーバーが現れた。サーバーは買取りベースで5~7000万円程度、汎用機に比べて非常に安かった。

この頃、汎用機からサーバーへの乗換え、いわゆる「ダウンサイジング(Downsizing)」が流行語になった。しかし、ダウンサイジングには、古いシステムをサーバー用に変更すると同時に継ぎはぎの機能を統廃合することも必要だった。これは現行システムの作り直しであり、時間とコストのかかる作業だった。

この頃アメリカでは、60~80年代の技術で開発した古いシステムをレガシー・システム(Legacy Systems:遺産システム)と呼んでいた。レガシー・システムは、早く切り捨てたいが簡単に切り捨てることができない負の遺産、厄介者だった。ちなみに、先に述べた東京都庁は一種のレガシー・システムであり、1000億円の修繕費は、負の遺産から発生するレガシー・コストである。

もちろん、古いシステムをサーバー用に変換すれば運用コストを削減できる。しかし、多くの企業は、この機会に最新技術による次期システムの構築を選んだ。

小回りが利かない巨大企業は別として、コンピューターに明るい中堅企業の経営者は、次期システムの開発に積極的だった。彼らは、開発に必要な人・物・金の支援、システム仕様への具体的な要求ならびに職権による現状改革の陣頭に立った。【事例紹介:工場管理8月号2012年、PP.113~119、日刊工業新聞社・・・経営者の考え方も紹介した】

たとえば、ある半導体メーカーが開発した戦略的な次期システムは、次のようなものだった。
目標:アメリカ、ヨーロッパ、アジア/太平洋の拠点業務をアメリカ本社で一元管理(集中データ処理)
◇英、独、仏、西、日本語の多言語データベースの構築と一元管理
◇会計・販売・物流・購買・生産業務のグローバル・スタンダード化と多言語・多通貨処理
◇2000年代のEU(欧州連合)への対応
◇各国官庁への現地語決算書とアメリカ本社の連結決算書の同時作成
◇アメリカ本社でのシステム開発と運用の一元管理:各国独自のシステム開発と運用の禁止
この例では、92年に開発を開始、アメリカ本社に5~6台のサーバーを設置、98年ごろに全面的に稼働した。【事例紹介:生産管理の理論と実践

ここでコンピューターを離れて90年代の市民生活に目を移すと、そこにも変化が表れていた。

郊外の華やかなショッピングモールとは裏腹に、ダウンタウンの過疎化と治安の悪化、かつては整然としていた住宅街の芝生には雑草が目立ち、窓ガラスが割れたままの住宅も見られた。大きな車をご高齢の婦人が独りで運転、田舎の横断歩道を1回の青信号[Walk]で渡りきれない老人、地区のご老人たちをホテルに招いて日常の困り事を支援するNPO、金網で守られた住宅街など、さまざまな光景があった。

このような車社会の弊害を想定して、70年頃から連邦交通省都市大量輸送局(Urban Mass Transit Administration)は、ライトレール車両の研究を始めた。ここで生まれたLRTの概念は、80年にはサンフランシスコのLRTで実現した。

その後、欧米の都市で改良が進み90年代中頃のウィーンの市電は段差18cmの低床車になった。典型的な車社会のヒューストン(テキサス州)でさえも遅ればせながら、2004年に12kmのLRTを開業した。このLRTは、78年の構想から何度も住民投票で否決されたが、99年の住民投票で可決され26年目に実現した。人口が第4位のヒューストン、LRTによるダウンタウンの活性化と高齢化社会への対応には興味がある。

次回、「6)2000年代のタイ」に続く。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする