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日本の将来---5.展望(1):人類の人口推移と日本

2014-03-25 | 日本の将来

1月10日を最後にこのブログを休止していたが、今回から「日本の将来」を再開する。

休止中の先月、2月9日に「横浜発明振興会---ハマ発明教室」で、「人類の人口推移と日本の将来」とのタイトルでセミナーを実施した。セミナーの内容は、このブログの「1.世界の人口(2013-07-10)」から「2.日本の人口(2013-11-10)」を要約したものである。

セミナーの目的は次のとおりである。
1)ハマ発明教室のメンバーに人類の人口推移を紹介、特に日本の人口問題への認識を深める。
2)高齢化社会のニーズに応じた発明を呼びかけ、同時にハマ発明教室を活性化する。

2月9日は、あいにく50年振りの大雪の翌日、横浜の交通機関も混乱していたが予定通り実施した。出席者は十数名だった。

ちなみに、横浜発明振興会は非営利の市民団体である。筆者はこの団体を「発明による一攫千金を夢みて、少子高齢化の障害に立ち向かう善意の団体」と位置づけて会員として参加している。

以下、2月9日のセミナーの内容を補足しながら3回に分けてこのブログで紹介する。

1.人類の人口推移と日本の将来(1)

約46億年前に誕生したといわれる地球に、およそ650万年前に猿とも人類ともいえる動物が現れた。その動物は、下の図の左端にあるサヘラントロプス・チャデンシス、二足歩行の類人猿だった。頭骨の化石によると脳の容積は、チンパンジーとほぼ同じ約350ccだった(現生人類は約1500cc)。


さらに数百万年の時が過ぎ、図の中ほどに赤い丸印で示したアウストラロピテクス・アファレンシスが現れた。彼らは身長1~1.5m、直立二足歩行、脳の大きさと顔はチンパンジーに似た類人猿だった。

さらに、およそ200万年前にはホモ・エレクトスが現れた。ラテン語学名の「ホモ」は「人」、「エレクトス」は「直立」、したがって「ホモ・エレクトス」は「直立する人」を意味する。学名がホモ(人)に変更されるまでは、彼らはピテカントロプス・エレクトスと呼ばれていた。

なお、よく耳にするジャワ原人の学名はホモ・エレクトス・エレクトス、北京原人はホモ・エレクトス・ペキネンシスである。彼らはホモ・エレクトスの亜種である。

さらに時が過ぎ、およそ17万年前に地球は非常に厳しい氷期に入った。この頃、ヨーロッパのネアンデルタール人や東南アジアのホモ・エレクトスなどの総人口が1万人に落ち込んだ。この厳しい氷期の後、ホモ・エレクトスは少なくとも3万年前まで生存したが、ネアンデルタール人やホモ・エレクトスたちは死滅した。

17万年前の厳しい氷期の後に、上の図の右端に赤い丸印で示すホモ・サピエンスが誕生した。ホモ・サピエンスは現生人類のミトコンドリアDNA上の祖先である。

ちなみに、ホモ・サピエンスとホモ・エレクトスには遺伝子のつながりはないが、ホモ・ヘルメイは遺伝子上の祖父母に当るという。

下のイメージ図は、アウストラロピテクス・アファレンシス、ホモ・エレクトス、ホモ・サピエンスの化石などからの復元像である。


上の図のホモ・サピエンス(現生人類)は、15万年以上前からアフリカに暮らしていた。

彼らのアフリカからユーラシアへの移動、言わば出アフリカはおよそ12万年前と8万5000年前と推定されている。この2回の出アフリカのうち、1回目の移動は失敗したが、2回目の移動は成功した。下の図は、2回目のアフリカから南米チリまでの移動ルートを示している。


現生人類がチリに至るまでの十数万年、その間にも地球の気象は激しく変動した。突然に紅海が割れたのではないが、8万5000年前の氷期には海面は現在より80mも一気に降下、その後上昇したが、ふたたび6万5000年前には水位が104mも降下した。

このような海面の変化は、氷期の海水凍結が原因だったとサザンプトン大学の海洋学者、イルコ・ローリングがサンゴ礁の調査で明らかにした。

そのメカニズムは次のとおりである:
氷期の海水凍結⇒海面の降下⇒紅海とインド洋の遮断(悲しみの門辺り)⇒紅海の水分蒸発と塩分濃度上昇⇒プランクトンの激減(not 死滅)⇒気温の上昇と海面の上昇⇒インド洋と紅海の結合⇒紅海の塩分濃度低下⇒紅海の生命活動再開・・・

天変地異が続く生活環境、そこを生き抜くために人類はどのような道具を発明し、改善してきたか。それは、横浜発明振興会にとっても大きな関心事である。

下の図は道具の歴史を示している。この図の石刃、石うす、顔料の加工、尖頭器の4つは、現生人類の出現前から存在していた。先に説明したホモ・エレクトスは、100万年以上前から肉の解体に小さな石刃を使っていたことが分かっている。


また、図にある顔料は絵画、ボディー・ペインティング、埋葬、皮の保存に使われたという。また、長距離の交換は遠隔地との物々交換の意味である。

ここまでの内容は、主にS. Oppenheimer著の「人類の足跡10万年史」から引用した。

ここで人類の歩みを振り返ると、人類が絶滅しそうになった厳しい氷期の後に現在の間氷期がやってきた。この僅かな間氷期に人類は急速に進歩した。下のリストから分かるように、時代が進むにつれて進歩のペースが速くなっている。


長く続いた狩猟・採取の生活から農耕・牧畜の生活への移行はおよそ1万~9000年前の間氷期とともに始まった。その後、生活の安定とゆとりはBC4000~3500年頃のヒエログリフ(絵文字)を生み、文明の夜明けを迎えた。

古代文明の栄えたBC3000年頃には青銅器が出回り、BC2500年頃はピラミッドの建設、BC1400年頃はヒッタイト帝国の軍事秘密だった製鉄技術も帝国の滅亡で世に広がった。

その後、ギリシャ・ローマをへて1760年代のイギリスの産業革命、1960年代のアメリカのコンピューター革命、1990年代には地球を覆う通信ネットワークと共に社会・経済のグローバル化が実現した。

石器からコンピューターまで、人類は新しい道具の発明と共に進展してきた。道具と技術を身に付けた人類は圧倒的な自然の脅威を克服して今も存続している。その事実は、人類の生命力と英知の賜物といえる。

ここで、最も興味深い問題、人類の人口に目を向ける。

下の表は、国立社会保障・人口問題研究所のデータである。右端の「増分(100万人)」は筆者が付加した数字である。


下の図は、上の表の平均値をプロットした曲線を示している。手作業でのスムージングだが、この曲線は成長曲線の特徴を表している。【参考:成長曲線=ゴンペルツ曲線やロジスティック曲線などが有名】


曲線を見ると、2100年の後に人口は頂点(=成長曲線の累積値の変曲点)を迎えるが、その先が問題である。

過去には氷期や天災が人類にとって最大の試練だった。しかし、現代では天災ばかりではない。天災に人間に起因する紛争や人災が加わる。それらを克服するのもやはり人類の生命力と英知である。原因は別として、歯止めのかからない人口の減少と絶滅か、均衡と安定か、その答えは、今から数百年後、数万年後の人類だけが知るところである。

答えのないまま地球の人口は、間もなく(2100年頃)ほぼ確実に100億人を越えて、その後は減少に転じると思われる。これは推定ではなく、すでに日本の人口が減少し始めたのは周知の事実である。

下のグラフは、世界の地域別人口である。


日本の人口減少ばかりでなく、アジア諸国の高齢化も著しく、ほぼ確実に2050年頃にはその人口が減少に転じる。アジアの人口減少は日本より遥かに大きく、それに広域にわたる社会インフラの老朽化が重なると何が起こるか。前人未踏の問題である。

続く。

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