ハノイ旅行(2)から続く。
3.ベトナムの日系工場
1)基礎情報
ジェトロ(JETRO)のデータによれば、ベトナムに進出している日系企業は1299社(2014/4)である。現在は1299社であるが、日本のベトナム進出には過去があるので、その経緯を示すデータをここに示しておく。
下の図はベトナムに関する論文からコピーしたグラフである。
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出典:対ベトナム直接投資の課題と展望、三浦有史、環太平洋戦略研究情報、2008
注)NIEs=韓国、香港、シンガポール、台湾
ベトナムの政治環境は、80年代の旧ソ連の崩壊にともなう対外解放、ドイモイ(刷新)政策などと大きく変化した。その後、日本のODA再開(1992)とIMF(1993)の援助、ASEANへの加盟(1995)、アメリカとの国交正常化(1995)があった。
このような政治情勢のもと、上のグラフのように95~97年頃に各国のベトナム投資が盛んになった。この流れに乗って日本企業も進出したが、実際には、インフラの未整備や法制度とビジネス習慣の違いなどで少なからぬ日系企業が撤退した。当時はまともな現状分析なしに、ただの蜃気楼を追ってベトナムに飛び出すケースもあった。
前回に記したように筆者がホーチミンを訪れたのは、進出熱が再燃し始めた2002年だった。あれから十数年後の現在、ハノイ着陸の直前に見た赤土の工事現場にインフラ整備の実像がようやく見え始めた。
参考だが、02年当時のバンコク周辺では高速道路網の整備は8割近くが完成していた。その下地があって、05年頃のバンコクにはショッピングセンター、コンビニ、デジカメ、ケータイ、家電、カード支払、高架・地下鉄の時代が開花し、市民の生活水準も大きく向上した。
上のグラフにある投資ブームに先駆けて、94年頃からベトナム各地で工業団地の開発が始まった。現在、その数は289ヶ所(2013)である。これに対してタイでは、ベトナム戦争中の70年代から工業団地の開発が始まり、現在74ヶ所(2014)で中には入居500社以上の大型工業団地もある。【注:ベトナムとタイの工業団地は定義が異なるので、単純に数で比較できない】
筆者は、2000~11年にバンコク周辺の日系工場に出入りしていたので、ベトナムの日系工場と工業団地に関心がる。そこで今回のハノイ旅行を機に、ハノイ歴数年の日系工場を見学させもらい、その足で近郊のタンロン工業団地を見ることにした。
2)日系工場
最初に訪れた工場は従業員650人の中堅企業、ベトナム系の工業団地でビジネスを順調に伸ばしている。現在、この会社は別の団地に第二工場を立ち上げ中である。
厚意に甘えてこの工場の全工程「材料入荷⇒加工⇒完成品出荷」と業務処理を足早に見学した。きめ細かい改善を重ねてきたと工場長がいうとおり、工程にムダはなかった。
見学を終えたとき、本能的にこの工場とタイの日系工場を比較した。もちろん、筆者の限られた知識による判定だが、結果は次のとおりだった。
ベトナムとタイの比較
◇整理整頓と清潔さ:優劣なし(材料、仕掛品、完成品、工程、設備・備品、事務所、外観etc.)
◇製品の品質と生産性:ベトナムがやや上(タイの同業他社には製品開発と営業部門があった)
◇コンピューター・システム:同等(日本企業共通の問題がある・・・根源は日本本社)
◇従業員の規律と雰囲気:優劣なし(ベトナム人も真面目)
◇昼食の質と食堂の衛生状態:優劣なし(タイでは日系工場の評判が良い・・・風評&事実)
大局的に見ると、日系工場はどこの国でも「よくやっている」と思う。しかし、タイで経験したケースは多く、例外もあった。
また、世界の中のアメリカ系と日系工場の違いもある。一言でいうと、アメリカ系はシステムへの依存度が高く、日系はシステムと“運用の妙”で例外を処理する。また、アメリカ系は時々大きな改革を断行、日系は常に小さな改善を重ねる。これを良く言うと、大多数の日本人は臨機応変に問題を解決し、諦めずに営々と今日まで歩んできた。これは日本の歴史であり、日本への信用にもなっている。
今後の健闘を祈りつつ、昼過ぎにこの工場からタンロン工業団地に向かった。
3)日系工業団地
タンロン工業団地は2001~07年にかけて完工した住友商事系の団地、入居107社のうち、99社が日系工場である。この日本村(ムラ)の面積は約273ha、ハノイ空港には14km、ハイフォン港には130kmの距離である。
下の写真は、ハノイ市からタンロン工業団地に向かう一般道路である。古びた軍用車のようなトラックが走っていた。
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この道路を進むとホンダの事業所があった。この国ではホンダのマーケット・シェアは約8割、シェアが8割になると他社製のバイクを見ることは難しい。
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さらに、進むとタンロン工業団地手前で道幅が急に広くなった。下の写真の左手が工業団地、中央が歩道橋、右手の2棟の建物は団地で働く人の寮とのことだった。ハノイで初めて歩道橋を見た。
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業種と自動化率にもよるが、入居107社から従業員数を推定すると、少なくとも4~5万人と考える。4~5万人が朝の7時頃に出勤すると、バイク、送迎バス、乗用車で混雑するだろうと思う。タイでは警官が手信号で交通を整理していた・・・信号機ではさばけない。
下の写真は寮の外観である。道をまたぐ歩道橋は一本だけ、朝夕にこの橋を歩いて渡る人がいるのだろうかと疑問に思った。
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ついタイとの比較になるが、タイの工業団地では隣にプラザがあり、銀行、バス会社、スーパー、コンビニ、食堂、居酒屋、カラオケ、ゲーセンなどが軒を並べる。出張者用の大型ホテル、サービス・アパート、戸建て住宅、安アパートなどもプラザを取り囲む。
プラザの日系大衆食堂では、メニューが壁一面に張ってある。定食類、丼類、麺類、鉄板焼き、カレー、寿司、魚、串焼き、一品料理、飲み物・・・数えると120以上だった。定番は日本と同じ外観と味だが、この片田舎で本当に作れるのか疑わしいメニューも多々あった。しかし、皆に免疫があるためか、食中毒は聞いたことがなかった。
プラザの駐車場は夜になれば夜店に変身、工場の制服姿の人々で賑わっていた。8割は若い女性、衣類、化粧品、服飾品、袋物、履物、メガネ、本、郷土食(イーサン系、食用蛙、昆虫など)、果物、家庭雑貨、工具、バイク部品、小物家電、玩具などの夜店だった。そこは故郷を離れた人々の憩いの場、時には、空き地で盆栽展や見世物小屋もでた。プラザでは、人目が多くスリやイカサマは成り立たないと思った。
もしかして、このタンロン工業団地周辺にもタイのような別世界が夜毎に出現するのではないかと想像したが、確かめる時間はなかった。
下の写真はタンロン工業団地のやや大げさな正門である。
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下の写真は団地内部の道路、午後1時過ぎの様子である。外部との境界が鉄柵で明確なため、内部の整備は行き届いていた。
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下の写真は日系工場、日章旗、社旗、ベトナム国旗を掲揚している。各企業の境界も鉄柵である。
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下の写真はハノイに向かう道路である。下の高架は鉄道とバイク、上の高架は一般道路で、すぐ先は二階建ての鉄橋である。この高架道路のコンクリートが劣化しているように見えた。
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上の写真の前方を走るようなトラックも、この街の姿もやがて次の時代に備えて脱皮する。車や道路や設備の近代化の次に、それらを使いこなす新しい知識を身に付けた人々の時代がやってくる。
次回は、UNIS, Hanoi(国連ハノイ校)に続く。昨年夏、小1の孫がいきなりUNISに入学した。その実際を紹介したい。