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ハノイ旅行(2)---平均年齢29歳の若い国

2014-05-25 | 地球の姿と思い出
ハノイ旅行(1)から続く。

1.ベトナムの基本情報
ベトナム社会主義共和国は、インドシナ半島東岸に広がる南北約1600Kmの細長い国である。国の概要は次のとおりである。

1)国土の大きさと世界順位
 34.6万K㎡ 64位・・・参考:日本 37.8万K㎡ 62位、日本の約9割の広さ

2)都市の人口
 ハノイ    650万人(2009年) 首都
 ホーチミン 740万人(2010年) 商工業都市

3)人口ピラミッド
ハノイの街にでて気付いたことだが、老人が非常に少ない。その日に知ったことだが、国民の平均年齢は今年29歳(日本は45歳、タイは32歳)、旧市街でときたま、店番の老人を見かける程度、老人だらけの日本とは対照的だった。しかし、なぜか子供が少ないように感じた。

そこで、帰国後にベトナムと日本の人口ピラミッドを調べたところ、下のような結果を得たのでここに示しておく。

          
          
図から、ベトナムの65歳以上の人口は日本に比べて少ないことが分かる。それはベトナム戦争の影響、この世代の男女比は1対2弱、男性の犠牲が大きかったことを物語っている。

なお、上に示した人口ピラミッドの掲載場所は、populationpyramid.netである。そのリンク先のデータによれば、ベトナムの人口は2045年に1億400万人、その後は減少する。

人口ピラミッドで本筋を外れたが、ここからハノイの状況を写真で紹介する。

2.ハノイの風景
下の写真は、ハノイ空港に着陸するときの映像である。高速道路の工事があちこちに見え、現在はインフラ整備が進行中と感じた。

            

インフラ整備の一環で国内・国際空港の建屋も建設中、ハノイ市からの高速道路も来年には完成するとのことだった。

街では、バイクが移動手段の主役である。一家4人乗りや大きな荷物を運ぶバイクも時々見かけた。早朝の様子は分らないが、午前中から夜更けの市内では、トラック、商用車はあまり見かけなかった。また、タイではポピュラーなコンビニは見当たらなかった。

下の写真は、旧市街の様子である。

            

この辺りでは、ほとんどの歩道はバイクの駐車場となっており、歩行が困難、仕方なく人は車道を歩くことになる。バイクが歩道を占拠する理由は、旧市街の店の構造にあると考えた。

そこで、お店のおばさんにことわって下の写真を撮らせてもらった。

写真Aは間口4m程のお店の正面、商品を歩道にまで並べている。この辺りの商店は、間口は狭いが奥行は深い。ちょうど、京都の昔の商家と同じ、ウナギの寝床である。

            

写真Bは、お店の真上、2階の商品倉庫である。お客はここでも商品を選べる。
写真Cは、正面左手に幅1m程の通路がある。通路奥10m程に作業場のような空間がある。
写真Dは、作業場である。ここには水道と洗い場や物置があり、簡単な料理も可能である。写真の女性は、中央の小屋(木炭置場)からひどく湿った炭を取り出していた。この場所にバイクを出し入れするのは不便、したがって、歩道がバイクの駐車場になる。
写真Eは、写真Dの位置から表通りを見たものである。

お店をでるとそこは人とバイクと車の同居地帯、慌てず騒がずお互いに相手との距離・タイミングを読みながら悠々とムーズに行き交っていた。それぞれがニアミス状態であるが、接触しない。さすがに若い国、運動神経は抜群である。

            

フランスの植民地(1847-1954)だった影響でロータリーが多い。そこには信号と横断歩道はない。そのロータリーを歩行者が車やバイクの間をすり抜けて渡る。慣れない筆者は見ているだけでも冷や冷やしたが、渋滞はなかった。決して悪い意味ではないが「進め・停まれ」というルール(信号)がない状況で、人も車もルールがないどさくさにまぎれて要領よく行動し、渋滞も起こさない。その姿にハノイのしたたかさを感じた。ベトナムの日本企業もそのしたたかさを身に付けて欲しい。

市内でも、大通りが直交する交差点には信号と横断歩道がある。しかし、タイや日本ではよく見かける歩道橋はハノイでは見ることがなかった。5日間の滞在中、朝から夜遅くまで車での移動だったが、幸いにも一度も事故現場を見なかった。

下の写真は、ハノイ大教会(セント ジョセフ教会)である。このゴシック様式の教会は1888年に完成した。亜熱帯性気候で雨期(5~9月)は高温多湿、特にハノイは湿度が高いので建物表面のコンクリートはカビで汚れている。この教会の化粧直しは大変だと思った。

            

この日は日曜日、大教会では昼のミサが始まっていた。教会の内部は意外にきれいだった。

            

下の写真は大教会近くの街路、人々は歩道に腰掛けを並べて思い思いの昼食を取っていた。バンコクと違って、ハノイでは食べ物の屋台は見当たらなかった。

            

この歩道の腰掛けは、昼は昼食の場、夕刻の食事、さらには夕涼みで遅くまで人々が絶えることがない。

昼下がりの歩道からふと空を見上げると、下の写真の光景が目に入った。

            

古い配線が蜘蛛の巣のように電柱の上から地面近くまで垂れ下がっている。生きたままの電線で非常に危険だが、変圧器がある電柱にはこのような蜘蛛の巣がかかっていた。この複雑な配線は人体に例えれば動脈瘤であり、停電や事故の原因になる。

インターネットの情報によれば、ハノイの電線地中化計画は現在進行中である。日本のODAも道路、電力、水、空港、鉄道、気候変動など、多くの分野にわたるインフラ整備に有償・無償で支援している。しかし、根深い課題が多く気長な対応が必要である。

旧市街から少し離れたオフィス街を訪れた。下の写真はオフィス・ビルからの風景である。車道は片道3~4車線、広い歩道があるオフィス街である。2~30年前に高齢化が進むアメリカで、一回の信号で老人が渡りきれないと問題になった道幅である。この風景を見て一瞬「近くて遠いは隣のビル」と思った。今は若い国、3~40年後の課題がここにある。

            

これらの建設が進む新興オフィス街は上の写真のとおりだが、その中身たるビジネスがどのように発展するか、その点に興味がある。現在、ハノイ国際空港の人の出入りはローカル空港並み、しかし、今後は人と物の流れが盛んになるは確かである。

下の写真は夕方の光景、勤めを終えた人々のバイク群である。

            

朝夕の通勤時間帯にはオフィス勤めの女性がバイクやスクーターで走っている。乗用車を尻目に堂々と走る女性、消え入りそうな風情で路肩を走る女性、走り方はいろいろ、見ていて飽きることはない。

下の写真は夕方の公園でウォーキングする人々である。この写真の右手に根元に白い防虫剤を塗った並木が見える。この白い防虫剤は熱帯でよく見る風景である。

            

ここはハノイ、四季があり熱帯ではない。しかし、今日は40°近くの暑さだった。インドシナ半島の最も暑い時期は4月と5月、この時期は日本の夏に該当する。このハノイでもセミの抜け殻をあちこちで見付けた。この暑さと白い防虫剤で、ここは熱帯の公園と錯覚した。

熱帯に魅せられたのは船乗りの頃、シンガポールに入港待ちで午前2時ごろ、小さな島影で投錨、仮泊した。あのとき「ほのるる丸」は濃厚な花の香りに包まれた。信じられなかったがその小さな島が香りの発生源だった。以来、熱帯といえばあの島の生暖かく悩ましい花の香りを思い出す。

筆者は飛行機を降りて、生暖かい空気に当たると「あゝ、ここは熱帯だ」と心が緩む。逆に、冷たい空気に当たると身も心も委縮する。

熱帯では宵の明星が輝く頃、風がピタリと止まる。薄暗い芝生に浮かび上がる根元が白い木々、甘い花の香りが漂っている。それは、サント・ドミンゴ(ドミニカ)、ジャカルタ、シンガポール、バンコクなど、熱帯の公園の風景と香りである。

「これは変な花で、年に1度しか咲かない」と熱帯の人が言ったが、花は年中咲くのが当たり前、熱帯の公園はいつでも花と香りに包まれている。また、サント・ドミンゴの野ネズミは子猫ほど、プラチンブリ(タイ)のカタツムリは握りこぶしほど、すべての生命力は旺盛で明るい陽光のもとで大きく育つ。

白い防虫剤を見て熱帯の公園と勘違いしたが、あの公園には花の香りはなかった。花の香りどころか、ハノイ名物はバイク用の防塵マスクである。

            

上の写真は1個約50円(定価25,000ドン、125円)のマスク、記念に買った。素材と縫製ともにしっかりしている。いつの日か、ハノイではこのマスクは不要とこのブログで伝える日がくるのを待っている。

次回のハノイ旅行(3)「工業団地」に続く。

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ハノイ旅行(1)---ホーチミンの思い出

2014-05-10 | 地球の姿と思い出

1.ハノイ訪問(1)
一つの街を思うとき、建物、空の色、食べ物などの記憶がよみがえる。ロンドンは灰色の空にそびえ立つビッグ・ベン、アムステルダムは運河に面したアンネのレンガ造りの家、アントワープは紫色に暮ゆく空と遠くに林立するクレーンがキリンの首のように見えた。なぜか、この光景はチョコレートの香りがする。

ミュンヘンの広場でロマ(ジプシー)の祭、焚き火の周りに立てた串刺しのサバ、丸焼きのいい匂いにつられて買おうと近づいたら同行のドイツ人に、あたるかも知れないと制止された。ベニスはサンマルコ広場のドーナツ屋台、煮えたつ油の中に小麦粉の団子を入れて、4~50cmの棒で中心に穴をあけてドーナツに仕上げる、巧みな棒さばが手品のように見えた。もちろん味はグッドだった。

アメリカの雰囲気は、ヨーロッパと大きく変わる。サンフランシスコのケーブル・カー通りの行列ができるステーキ・ハウス、入口でオーダー、出来上がりをカウンターで受け取るセルフサービス、各テーブルのキッコーマンの醤油差しが印象的だった。また、アリゾナの大きな野外ステーキ・ハウス、ステーキはやはりティー・ボーン(T-bone Steak)が最高・・・と思い出は尽きない。

今年3月30日から羽田からハノイに直行便が飛ぶようになった。ハノイは、昨年夏に娘一家が転勤した所、一度は行きたいと思っていたので、夫婦で航空券を手配した。この機会に今と昔のベトナムを比較したい。

2002年にバンコクからホーチミンに出張した。初めての出張、仕事の合い間に旧大統領官邸を訪れた。そこは、75年4月30日のサイゴン陥落の舞台だった。

陥落直前に官邸2階のヘリ・ポートに群がる人々、米軍の艦艇に向かって飛び立つ機体からこぼれ落ちる人々、4月30日の午前中に官邸の正門を突破して前庭に侵入する数台の戦車、街を走り回る戦車と赤い鉢巻の兵士、サイゴン陥落の生々しいビデオを映写室で見た。

庭園の戦車は突入した当時のまま、官邸地下壕の暗い通信室、監獄と拷問の図解・・・人はどのような権限で罪のない人々を殺すのか?また、殺される人々の無念さを思った。街の名前が、サイゴンからホーチミンに変わったことにも抵抗がある。ホーチミンは北側の英雄かも知れないが、筆者にとってはそうではない。

ホーチミンと聞くたびに南北数百万の犠牲者を思い出す。サイゴン陥落後にアメリカやカナダに逃れた百万人を超える難民、アメリカの難民受入れキャンプの一つを2003年にヒューストンでみた。またあの頃、数百万人を虐殺したといわれるカンボジアのポルポトとボート・ピープルも思い出す。

南北の戦いに明け暮れたベトナムの代償は大きく、サイゴン陥落から27年後の2002年でも経済は低迷していた。特に、人的な損失は短期間で回復しない。

ホーチミンの朝夕はバイクの大群、布を顔に巻きつけ眼だけ出し、腕には長い手袋、異様な光景だった。その理由は、道路が未整備、車よりバイクの方が安上がりで便利とのことだった。この点で、タイと比較すると、道路網の整備に20年は必要と思った。

この頃のタイは、戦乱もなく賢明な国王のもと、外資の導入で着々と産業の近代化を進めていた。街には食べ物や衣類・雑貨が豊富、深夜まで開店するスーパーやコンビニが現れた。繁華街の店などに物を忘れても返ってくるバンコク、油断禁物のホーチミン、二つの都会の人心には違いがあった。しかも、唯の「微笑みの国」でなく、バンコクの心臓病センターは知る人ぞ知る世界のトップクラス、2004年夏に心筋梗塞発症後5時間の筆者はセンターの医療チームに救われた。【参照:道路-304(サムスンシー)---タイの運命の道(2010-09-30)】

2002年からすでに12年の歳月が流れたが、今回のベトナム再訪、そこに何を見るか?楽しみである。

次回のハノイ紹介に続く。

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