2.新緑の京都
4)清水寺
清水道のバス停で下車、清水坂を赤門に向かった。レンタルの和服姿の若い男女は東南アジア系、みやげ物を品定めする団体客はヨーロッパ系などと道行く人々を眺めているだけでも面白い。
めったに来ないが、この坂道を登るとき、昔の人々の姿を空想する。
突然、槍や薙刀を手にした比叡山の荒くれ法師の一団がこの坂道を駆け上がってくる。その鬨(トキ)の声に驚いて左右に道を空ける観光客たち。そんな光景を想像するのは楽しいが、現実の赤門までの坂は案外きつい。
下の写真は赤門からの光景、正面の西山の山並みは今も昔も変わらない。
赤門(仁王門)からの眺望
下の写真中央の瓦屋根は本堂手前の門、拝観料の徴収所である。赤門から本堂に向かう人波の向こうには、薄緑や薄茶の若葉に覆われた清水山が見える。
赤門から本堂に向かう観光客
枕草子256段は「さわがしきもの」として清水寺の縁日を挙げている。その具体的な場所は分らないが、当時の建物の姿や庶民はどの辺まで立ち入りができたのか、また、どのようなみやげ物だったかに興味が湧く。
下の写真は檜舞台である。ここは能や狂言を観音様に奉納する舞台だが、観光客にとっては京の街を見渡す展望台である。写真右手が展望台でアメリカからの観光客で賑やかだった。写真正面奥に絵馬の奉納棚がある。
賑やかな檜舞台
下の写真は「清水の檜舞台」からの眺めである。
檜舞台からの眺め
下の写真は、舞台脇にある絵馬の奉納棚である。「家内安全」「合格祈願」「シンガーソングライターになりたい」「念願成就の感謝」などに交じって、外国語もある。
檜舞台の絵馬
山の彼方に夢を描き、その夢を絵馬に託してこの舞台から歩き始める。それぞれの夢が叶うようにと安航を祈る(Bon Voyage)。日本の絵馬は、トレビの泉に通じる:Three coins in the fountain, each one seeking happiness, by Frank Sinatra, 映画「愛の泉」 1954。この歌詞は今も覚えている。
下の写真は檜舞台とそれを支える柱を写している。139本のケヤキの柱でできていると観光案内にある。柱の数はさることながら、400年も持ちこたえる柔構造(flexible structure)の建築物とそのメンテナンス技術は、伝統ある日本文化そのものだと誇りに思う。(清水寺=世界文化遺産 since 1995)
「清水の舞台」(檜舞台)
下の図は、舞台の略図である。この図は「第37回「清水の舞台」は倒壊してしまうのか」細野透、2008年3月12日から引用した。
檜舞台の耐震性能(出典:細野透氏の記事の図3)
専門家の構造解析によると、もしM7.5の花折地震【補足1】が清水寺を襲っても、「建物の変形は損傷限界を超えるが、安全限界以内であり、倒壊にいたる危険性は低いと考えられる」と学者らしい表現になっている。さらに、支柱のX線検査でも、倒壊はしないが大がかりな補修が必要とのことである。
細野氏は“つまりは、「清水の舞台」は花折地震では倒壊しないのである。”と記事を締めくくっている。詳しくは、第37回の記事参照
舞台からの眺望と清水寺が、地震などの天災で倒壊しないのは幸いである。しかし、日本の技術力の低下や人手不足による人災をいかに回避するかが今後の課題になる。細野氏も、地震雷火事親父のオヤジ=人災(焼打ちや戦乱)が最も厄介だと指摘している。
【補足1:花折地震】
花折断層帯に起因する地震を意味する。花折断層帯は、滋賀県高島郡今津町から京都市を経て京都府宇治市に至る約58kmの断層帯である。断層帯の中間に花折峠【補足2】があるので、花折断層帯という。
【補足2:花折峠】
花折峠は、若狭街道(現在の国道367号)の標高591mの峠である。若狭街道は鯖街道の一つで花折峠は難所だった。1975年に、花折トンネル(標高500m)が開通した。
峠の名は葛川の明王院への参詣者が、この峠で仏に供える花・樒(シキミ)を手折ったことに由来すると大津の歴史事典にある。
なお、一般には花折をハナオレと読むがハナオリと読むのが正しいと南海地震の記事が指摘している。
また、筆者の京都では樒をシキミではなくシキビといい、墓に供える。スーパーの花屋でも売っている。
話は変わるが、2010年の1億2,805万人をピークとして日本の人口は減少に転じた。総務省統計局のデータでは、今から約90年後、2105年の日本の総人口を約4,600万人と推定している。非常に近い将来に、日本の人口が半減どころか約3分の1になる。
次回から、人口減少の中身を理解するとともに日本に何が起こるかを考える。特に、筆者は有形/無形資産(建物/ソフトウェアなど)のメンテナンスに関心がある。
4)清水寺
清水道のバス停で下車、清水坂を赤門に向かった。レンタルの和服姿の若い男女は東南アジア系、みやげ物を品定めする団体客はヨーロッパ系などと道行く人々を眺めているだけでも面白い。
めったに来ないが、この坂道を登るとき、昔の人々の姿を空想する。
突然、槍や薙刀を手にした比叡山の荒くれ法師の一団がこの坂道を駆け上がってくる。その鬨(トキ)の声に驚いて左右に道を空ける観光客たち。そんな光景を想像するのは楽しいが、現実の赤門までの坂は案外きつい。
下の写真は赤門からの光景、正面の西山の山並みは今も昔も変わらない。
赤門(仁王門)からの眺望
下の写真中央の瓦屋根は本堂手前の門、拝観料の徴収所である。赤門から本堂に向かう人波の向こうには、薄緑や薄茶の若葉に覆われた清水山が見える。
赤門から本堂に向かう観光客
枕草子256段は「さわがしきもの」として清水寺の縁日を挙げている。その具体的な場所は分らないが、当時の建物の姿や庶民はどの辺まで立ち入りができたのか、また、どのようなみやげ物だったかに興味が湧く。
下の写真は檜舞台である。ここは能や狂言を観音様に奉納する舞台だが、観光客にとっては京の街を見渡す展望台である。写真右手が展望台でアメリカからの観光客で賑やかだった。写真正面奥に絵馬の奉納棚がある。
賑やかな檜舞台
下の写真は「清水の檜舞台」からの眺めである。
檜舞台からの眺め
下の写真は、舞台脇にある絵馬の奉納棚である。「家内安全」「合格祈願」「シンガーソングライターになりたい」「念願成就の感謝」などに交じって、外国語もある。
檜舞台の絵馬
山の彼方に夢を描き、その夢を絵馬に託してこの舞台から歩き始める。それぞれの夢が叶うようにと安航を祈る(Bon Voyage)。日本の絵馬は、トレビの泉に通じる:Three coins in the fountain, each one seeking happiness, by Frank Sinatra, 映画「愛の泉」 1954。この歌詞は今も覚えている。
下の写真は檜舞台とそれを支える柱を写している。139本のケヤキの柱でできていると観光案内にある。柱の数はさることながら、400年も持ちこたえる柔構造(flexible structure)の建築物とそのメンテナンス技術は、伝統ある日本文化そのものだと誇りに思う。(清水寺=世界文化遺産 since 1995)
「清水の舞台」(檜舞台)
下の図は、舞台の略図である。この図は「第37回「清水の舞台」は倒壊してしまうのか」細野透、2008年3月12日から引用した。
檜舞台の耐震性能(出典:細野透氏の記事の図3)
専門家の構造解析によると、もしM7.5の花折地震【補足1】が清水寺を襲っても、「建物の変形は損傷限界を超えるが、安全限界以内であり、倒壊にいたる危険性は低いと考えられる」と学者らしい表現になっている。さらに、支柱のX線検査でも、倒壊はしないが大がかりな補修が必要とのことである。
細野氏は“つまりは、「清水の舞台」は花折地震では倒壊しないのである。”と記事を締めくくっている。詳しくは、第37回の記事参照
舞台からの眺望と清水寺が、地震などの天災で倒壊しないのは幸いである。しかし、日本の技術力の低下や人手不足による人災をいかに回避するかが今後の課題になる。細野氏も、地震雷火事親父のオヤジ=人災(焼打ちや戦乱)が最も厄介だと指摘している。
【補足1:花折地震】
花折断層帯に起因する地震を意味する。花折断層帯は、滋賀県高島郡今津町から京都市を経て京都府宇治市に至る約58kmの断層帯である。断層帯の中間に花折峠【補足2】があるので、花折断層帯という。
【補足2:花折峠】
花折峠は、若狭街道(現在の国道367号)の標高591mの峠である。若狭街道は鯖街道の一つで花折峠は難所だった。1975年に、花折トンネル(標高500m)が開通した。
峠の名は葛川の明王院への参詣者が、この峠で仏に供える花・樒(シキミ)を手折ったことに由来すると大津の歴史事典にある。
なお、一般には花折をハナオレと読むがハナオリと読むのが正しいと南海地震の記事が指摘している。
また、筆者の京都では樒をシキミではなくシキビといい、墓に供える。スーパーの花屋でも売っている。
話は変わるが、2010年の1億2,805万人をピークとして日本の人口は減少に転じた。総務省統計局のデータでは、今から約90年後、2105年の日本の総人口を約4,600万人と推定している。非常に近い将来に、日本の人口が半減どころか約3分の1になる。
次回から、人口減少の中身を理解するとともに日本に何が起こるかを考える。特に、筆者は有形/無形資産(建物/ソフトウェアなど)のメンテナンスに関心がある。