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新緑の京都(2)

2013-06-25 | 地球の姿と思い出
2.新緑の京都

4)清水寺
清水道のバス停で下車、清水坂を赤門に向かった。レンタルの和服姿の若い男女は東南アジア系、みやげ物を品定めする団体客はヨーロッパ系などと道行く人々を眺めているだけでも面白い。

めったに来ないが、この坂道を登るとき、昔の人々の姿を空想する。

突然、槍や薙刀を手にした比叡山の荒くれ法師の一団がこの坂道を駆け上がってくる。その鬨(トキ)の声に驚いて左右に道を空ける観光客たち。そんな光景を想像するのは楽しいが、現実の赤門までの坂は案外きつい。

下の写真は赤門からの光景、正面の西山の山並みは今も昔も変わらない。

          赤門(仁王門)からの眺望
          

下の写真中央の瓦屋根は本堂手前の門、拝観料の徴収所である。赤門から本堂に向かう人波の向こうには、薄緑や薄茶の若葉に覆われた清水山が見える。

          赤門から本堂に向かう観光客
          

枕草子256段は「さわがしきもの」として清水寺の縁日を挙げている。その具体的な場所は分らないが、当時の建物の姿や庶民はどの辺まで立ち入りができたのか、また、どのようなみやげ物だったかに興味が湧く。

下の写真は檜舞台である。ここは能や狂言を観音様に奉納する舞台だが、観光客にとっては京の街を見渡す展望台である。写真右手が展望台でアメリカからの観光客で賑やかだった。写真正面奥に絵馬の奉納棚がある。

          賑やかな檜舞台
          

下の写真は「清水の檜舞台」からの眺めである。

          檜舞台からの眺め
          

下の写真は、舞台脇にある絵馬の奉納棚である。「家内安全」「合格祈願」「シンガーソングライターになりたい」「念願成就の感謝」などに交じって、外国語もある。

          檜舞台の絵馬
          

山の彼方に夢を描き、その夢を絵馬に託してこの舞台から歩き始める。それぞれの夢が叶うようにと安航を祈る(Bon Voyage)。日本の絵馬は、トレビの泉に通じる:Three coins in the fountain, each one seeking happiness, by Frank Sinatra, 映画「愛の泉」 1954。この歌詞は今も覚えている。

下の写真は檜舞台とそれを支える柱を写している。139本のケヤキの柱でできていると観光案内にある。柱の数はさることながら、400年も持ちこたえる柔構造(flexible structure)の建築物とそのメンテナンス技術は、伝統ある日本文化そのものだと誇りに思う。(清水寺=世界文化遺産 since 1995)

          「清水の舞台」(檜舞台)
          

下の図は、舞台の略図である。この図は「第37回「清水の舞台」は倒壊してしまうのか」細野透、2008年3月12日から引用した。

          檜舞台の耐震性能(出典:細野透氏の記事の図3)
          

専門家の構造解析によると、もしM7.5の花折地震【補足1】が清水寺を襲っても、「建物の変形は損傷限界を超えるが、安全限界以内であり、倒壊にいたる危険性は低いと考えられる」と学者らしい表現になっている。さらに、支柱のX線検査でも、倒壊はしないが大がかりな補修が必要とのことである。

細野氏は“つまりは、「清水の舞台」は花折地震では倒壊しないのである。”と記事を締めくくっている。詳しくは、第37回の記事参照

舞台からの眺望と清水寺が、地震などの天災で倒壊しないのは幸いである。しかし、日本の技術力の低下や人手不足による人災をいかに回避するかが今後の課題になる。細野氏も、地震雷火事親父のオヤジ=人災(焼打ちや戦乱)が最も厄介だと指摘している。

【補足1:花折地震】
 花折断層帯に起因する地震を意味する。花折断層帯は、滋賀県高島郡今津町から京都市を経て京都府宇治市に至る約58kmの断層帯である。断層帯の中間に花折峠【補足2】があるので、花折断層帯という。
【補足2:花折峠】
 花折峠は、若狭街道(現在の国道367号)の標高591mの峠である。若狭街道は鯖街道の一つで花折峠は難所だった。1975年に、花折トンネル(標高500m)が開通した。
 峠の名は葛川の明王院への参詣者が、この峠で仏に供える花・樒(シキミ)を手折ったことに由来すると大津の歴史事典にある。
 なお、一般には花折をハナオレと読むがハナオリと読むのが正しいと南海地震の記事が指摘している。
 また、筆者の京都では樒をシキミではなくシキビといい、墓に供える。スーパーの花屋でも売っている。

話は変わるが、2010年の1億2,805万人をピークとして日本の人口は減少に転じた。総務省統計局のデータでは、今から約90年後、2105年の日本の総人口を約4,600万人と推定している。非常に近い将来に、日本の人口が半減どころか約3分の1になる。

次回から、人口減少の中身を理解するとともに日本に何が起こるかを考える。特に、筆者は有形/無形資産(建物/ソフトウェアなど)のメンテナンスに関心がある。

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新緑の京都(1)

2013-06-10 | 地球の姿と思い出
1.新緑の京都

五月下旬、久し振りに京都タワーの展望台に登った。地上100メートルから眺める山並みは昔と変わらないが、市街のあちこちを水平方向に横切る高速道路に時の流れを感じた。

(1)京都タワーからの眺望
下の写真は展望台北側の比叡山(No.1=848m)、東山三十六峰の第1峰である。この山から南端の稲荷山(No.36=233m)まで三十六の峰々が続いている。以下()内に三十六峰の番号と標高を示す。

          比叡山と銀閣寺方面の眺望
          

上の写真の中央に赤く小さな平安神宮の大鳥居が見えるが、大鳥居までの距離は約3.5㎞である。大鳥居のやや右奥に京都大学の吉田山(No.12=121m)、その奥に銀閣寺の月待山(No.10=194m)がある。

次に、視界を展望台の東方向に移すと、八坂神社や清水寺が見える。また、この方角には知恩院、円山公園、三十三間堂など、多くの名所旧跡がある。

          八坂神社・清水寺の眺望
          

上の写真では、八坂神社と清水寺は同じ画面に収まる程の距離にある。しかし、平安時代のこの場所は、南都北嶺の対立の最前線だった。南都=奈良の興福寺で清水寺はその末寺、北嶺=比叡山の延暦寺で八坂神社(当時の祇園社)はその配下にあった。

当時、南都と北嶺は互いに反目し、やがて抗争が始まった。それは境界線を巡るトラブルだけでなく、1165年の比叡山僧兵による清水寺の焼打ちは有名な話である。しかし、このような抗争は遠い昔の話、現在のこの辺りは観光を兼ねた散歩道になっている。

上の写真の右側に清水寺の赤門と本堂が見えるが、この辺りを清水山(No.29=242m)、別名は音羽山という。

金閣寺は西日の逆光で撮影できなかったが、明日は金閣寺と銀閣寺と清水寺を訪ねようと思う。

さらに、展望台の右方向に目を移すと下の写真のように東福寺と稲荷山が見える。

          稲荷山と東福寺の眺望
          

東福寺の背後の山は恵日山(No.34=192m)、稲荷山(No.36=233m)は三十六峰の最南端の山である。画面の下に見える高速道路は稲荷山を貫通しており、2、3年前に完成した。

東福寺の通天橋は紅葉が美しいので、秋には訪ねたい。

(2)金閣寺(鹿苑寺:ロクオンジ)
門前の駐車場は観光バスで賑わい、境内では多くの外国人を見かけた。見た目が華やかな金閣寺は外国の観光客に人気があるらしい。

          金閣寺の参道
          

下の写真のように、観光案内でお馴染みの金閣寺を撮影できる場所は“場所待ち”が必要な程立て込んでいた。ビデオを手に長々と“場所”を独り占めする人や待つ人を気にして早々に済ます人など、次々と入れ替わる記念撮影のショットはそれぞれ個性的で面白い。

          金閣と鏡湖池
          

流れ作業を連想するような庭園、その写真を撮り終えて早々に北大路回りの市バスで銀閣寺に向かった。

(3)銀閣寺(慈照寺:ジショウジ)
叡山電車の踏切を渡った銀閣寺の周辺は、道行く人もまばらで京都らしく閑静な佇まいだった。

下の写真は、金閣寺と同様に観光案内などで見かける定番の構図である。ここでは、中学生の団体と一緒になった。

          銀閣と庭園
          

この写真を撮った場所は本堂(方丈)の軒先、その縁側に腰を下ろし静かに銀閣を眺める初老のアメリカ人夫妻を見た。この夫妻一行の他には、外国の観光客を見かけなかった。しっとりした静かな庭園を一回りして境内を出た。

          銀閣寺背後の大文字火床
          

清水寺行きのバス停から、ふと振り返ると大文字の火床が間近に迫っていた。この道の脇を流れる小川には、体長12、3センチのヤマメが川底の砂地に溶け込んでいた(下の写真)。この写真でヤマメの縞模様が保護色になるのを納得した。

          清流のヤマメ
          

銀閣寺のヤマメを見て、鴨川が気になった。さっそく、三条大橋近くの鴨川を歩いた。その河原でゴミを拾う学生ボランティアの一行に出会った。ときどき見回っているという。

          鴨川と三条大橋
          

下の写真は、三条大橋の中ほどから川底を撮影しものである。30年ほど前から鴨川もきれいになり、橋の上からも肉眼で魚影を見ることができた。しかし、今度は魚影を見ることができなかった、また写真にも写らなかった。

          鴨川の川底
          

三条大橋下流で小魚がいない淀みに大きな鯉の群れを見つけた。浅瀬の清流と魚影を期待したが、鯉には悪いが期待はずれだった。

          淀みの鯉
          

次は、清水寺を訪れる。

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