英語と他の言語(12)から続く。
(3)アメリカの大学へのチャレンジ
夢には二つの夢がある・・・「夢を実現しようと自分なりに努力するとき、その夢は理想になる。しかし、ただ夢を描くだけでその夢を実現しようと行動を起こさなければ、その夢は白昼夢に終わる。(倫理説)」 また、「金があっても意志がなければ何もできない。しかし、金がなかっても意志があれば何かをなせる・・・びんぼう男爵のことばだったか?(バルザック、従妹ベット:La Cousine Bette,仏文学)」と大学で学んだ。
いま思えば、大学は理系だったが、これらの言葉は筆者の人生に大きく影響した。
四年にわたる船乗り生活で“感じるところがあって”国連の途上国支援にチャレンジしようと決意した。その夢を達成するためには、アメリカの修士号取得、次に実務経験、その上で国連に応募が必要、かなりタフ(tough)な目標だった・・・これは大きな夢、しかし、同じ夢でも白昼夢と理想は別物、理想には本人の努力で近づくことができると信じて夢に向かった。
1960年代の中頃、日本からの海外留学は稀な時代だった。母校、神戸商船大学の成績証明書と推薦状を始め、多くの人々の支援を受けて憧れのヒューストン大学から入学許可を受け取った:Congratulations on having been accepted to the University of Houston. April 25, 1966
あの頃、母校からNew York大学に留学した井上篤次郎先輩(NY大学、海洋学、Ph.D., 後の神戸商船大学長)は筆者の励みだった・・・後ほどの話だが、井上博士の波浪解析理論はInoue’s Formula(井上方式)として世に知られ、海底油田開発のプラットホーム建設などに必要とヨーロッパで知った。もちろん、筆者は畑違いだが先輩の功績を今も誇りに思っている。
ヒューストン大学の新学期は9月スタート、その前にオリエンテーションに参加するようにと連絡を受けた。そのオリエンテーションは、ホテルに泊まり込みで1週間、ヒューストン大学の紹介とアメリカ生活の説明が主な内容だった。また、オリエンテーションにはMichigan Test*と本人の英語力チェックが含まれるとあった。
【参考*:アメリカ留学には、TOEFLまたはMichigan Testの成績が必要だった。TOFELは留学希望者が住む国で受けるテスト、Michigan Testはアメリカ国内で受けるテスト。】
◇Michigan Test:
学部(Undergraduate)と大学院(Graduate)への入学希望者併せて約230人は一斉テストを受けた。
◇Sudden Test(突然のテスト):
オリエンテーションのトピック、たとえば「アメリカの大学生活」の説明の途中で予告なしのテストが時々あった。説明の途中で「今説明した内容を英文で記し、あなたの意見を書きなさい。」といった内容のテストだった。一日に数回の時もあったが、本人の英語力と人物評価**が目的にみえた。
【参考**:Depth of Extemporaneous Resource=即座の対応に本人の素養/人柄がでる】
◇オリエンテーションの終了と入学条件の決定
1週間のオリエンテーションを終えたとき、各学生の入学条件が本人に伝えられた。
大学院入学希望者の場合:(学部生の場合は不明)
1.大学院への入学OK、新学期の受講科目数に制限なし
2.大学院OK、ただし受講科目数は2科目まで(この場合、2年間で大学院を卒業するのは難しい)
3.大学院OK、ただし新学期の受講科目数は1科目だけ
4.四年制からやり直して、成績が良ければ大学院への入学OK(大学院入学は容易ではない)
オリエンテーションの最終日にInternational Student Adviser(留学生相談役)の紹介があった。筆者のAdviserは50代の非常に温厚な女性、たとえば受講科目の選定や個人的な問題へのアドバイスなど、卒業まで大変お世話になった。彼女の筆者への口癖は“Take it easy(落ち着いて)”だった。
幸い、筆者の入学条件は1.の“受講科目に制限なし”だった。当然、すべての時間を卒業に集中しようと、自炊とアルバイトなしの短期決戦を心に決めた。
決意から24ヶ月目になんとか目標を達成した。それは荒れる北太平洋のような激動の2年間だった。しかし、学ぶべきことが多く寝る間も惜しむ生活、一種の火事場の馬鹿力で乗り切った・・・独り者が命を賭けるときその決意は固かった。
日常生活で最大のカルチャー・ショックは、英語による授業やアメリカ生活でなく、コンピューターを利用する教育だった。それは理論(数式など)だけでなく、数値解や振動などを実際に見たり触れたりできる現実的な教育だった。コンピューターの知識ゼロからのスタートは大きなハンディキャップだったが、商船大学で学んだ電子・電波・制御の基礎知識と「ほのるる丸」の航海計器実務が役立った。
あっと言う間に流れ去った2年間、しかし、いつの間にか奨学金と学費減額(テキサス州税納税者になったから)、学内のブックセンターで購入する書籍の教職員割引、おまけに研究室も与えられた。当然、英語も身に付いていた。当初の目標=修士号を取得したので、博士課程に進みさらに学びたい教科(コンピューター関係)を履修しながら余裕あるアメリカ生活をエンジョイした。
ここで忘れてはいけないことだが、大学の教職員、留学生相談役、ホスト・ファミリーたちの役割は大きかった。彼らの存在でアメリカ社会との交流(地域イベント、音楽;ルイ・アームストロング、芸術、ボランティア活動、テキサス魂、メキシコ旅行etc.)が深まり、貴重な経験に今も感謝している・・・学問以外の学びも大きかった。
UH卒業のもう一つの副産物は「日本食離れ」だった。自炊をしなかったので日本食への未練がなくなった。その後、世界のどこに行ってもその地の食べ物をエンジョイできるようになった。ただし、納豆とパクチー(香菜)だけは今も受け付けない。
◇UHの卒業式風景
下の写真は、日本から参列した義兄が撮影したヒューストン大学(University of Houston 略称UH)の卒業式である。8月の卒業生は大勢になるため、式典は屋外で夕方から遅くまで続いた。ちなみに、ガウンの襟幅と色は昔からの決まり、水色は教育学、筆者のオレンジ色は工学の色だと教えられた。後方の学士たちは襟飾りなしのガウンだった。【参考:UHのアカデミック・ドレス⇒Academic Dress in the United States、ENCYCLOPEDIA】
卒業直前の筆者(右端)
(筆者の義兄撮影、1968/8)
この写真を見るたびに思い出すが当時は$1=¥360の時代、日本はある意味では途上国だった。そのため、学費と生活費に必要なドルの送金には申請が必要だった。大学が在学証明を発行→日本に郵送→母がドル送金申請書に在学証明書を添付→都市銀行→審査&ドル送金というプロセスだった。
大学の事務局女性は筆者の顔を見るといつも“Letter of Good Standing?”と声を掛けてくれた。To Whom It May Concern(関係各位殿)で始まるLetter of Good Standing(順調な状態を証明する書状=在学証明書)が必要か?という意味だった。ちなみに、この大学で“Good Standing”は“学業を続けるにふさわしい良好な状態(学業成績だけではなく私生活と交友関係も含む状態が健全)”を意味することだと教えられた。
UHTV(ジャーナリズム学部のTV局)から卒業式を市内にLive放映
(筆者の義兄撮影、1968/8)
現在、UHTV(ヒューストン大学テレビ)はいろいろな授業を一般視聴者向けに放送している。筆者もUHキャンパス内のヒルトン・ホテル(ホテル・レストラン管理学部、UH直営)に泊まる時は、深夜まで文学や歴史の授業放送を楽しんでいる。
この夜、新しい世界がスタートした(1968/8/23)
(筆者の義兄撮影、1968/8)
今回で「グローバル化への準備---英語と他の言語」を終了。次回は、京都旅行でブログは休み、6月から「新緑の京都」に続く。