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京都訪問---比叡山

2015-09-25 | 地球の姿と思い出
京都訪問---四条通りの変化から続く。

(2)比叡山
横浜から京都に向かう新幹線が琵琶湖に近づくにつれて、右の車窓に比良と比叡の山々が見えてくる。瀬田川を渡れば、間もなく京都駅に到着する。京都市内では、ビルの端々に見え隠れする比叡山、身近に見るが、なかなか足を運ばない山である。今回は数十年振りに山頂をバスでひとめぐりした。

比叡山といえば、まず出町柳の叡電(エイデン、叡山電鉄)である。出町柳は、賀茂川と高野川が合流して鴨川になる地点、近くに下賀茂神社、御所、同志社女子大、京大、府立医大もあり、この一帯はわりと静かな地域である。下賀茂神社からは葵祭(アオイマツリ)と鯖寿司、さらに鴨長明も連想する。

下の写真は、叡電出町柳駅の鼻先に立つ下賀茂神社の看板である。

            出町柳の駅前交差点
            

下の写真は叡電出町柳駅、車両は小ぎれいだが、駅は100年近も変わらないような佇まいである。この駅を始点に、電車は八瀬と鞍馬に向かうが、今回は八瀬行きに乗った。

            京都の叡電出町柳駅
            

下の写真は、終点の八瀬比叡山口駅である。駅出口の左手に自販機が2、3台と喫茶コーナー付き雑貨店、道端のベンチだけの質素な駅前だが、これで雰囲気と機能ともに十分である。

            八瀬比叡山口の駅前広場
            

ベンチの背後を流れる高野川を渡り、200mほど歩くとケーブル八瀬駅にでる。

下の写真はケーブル・カーからの景色、27°55’の最急勾配は有名と車内放送があった。実際には、もっと急な勾配に見える。

            比叡山ケーブル・カー
            

急勾配を「ガッタン、ゴットン」と登る電車、ケーブル・カーの軌道では珍しいというS字カーブを見ていると、高所恐怖症ではないが足元がゾックとした。

始発のケーブル八瀬駅から高低差561mを約9分で登り、ケーブル比叡駅に着く。駅のすぐ近くの叡山ロープウエイに乗り換え、約3分で比叡山頂駅に着く。ロープウエイは全長500mとあるが、高低差のデータは見当たらない。

            比叡山ロープウエイ
            

始点のケーブル八瀬駅から標高840mの比叡山頂駅までの所要時間は20分足らずである。比叡山頂駅から10分ほど歩くと山頂を巡回するシャトル・バスの発着所にでる。そこは展望台を兼ねた駐車場、比叡山ドライブウエイの終点でもある。

シャトル・バスは、発着所-東塔(坂本ケーブル口)-延暦寺-西塔-峰道-横川を巡り、約50分で発着所に戻ってくる。

下の写真は比叡山回遊ルートである。赤いバス路線がシャトル・バスのルート、青いルートは比叡山ドライブウエイである。

            比叡山回遊ルート
            

下の写真は、展望台から南東方向に見える浜大津(大津港)と瀬田方面の様子である。瀬田の入口を左(東岸)から右(西岸)方向に横切っているのは、全長1290mの近江大橋である。

            比叡山山頂からの浜大津
            

近江大橋の右奥に東海道本線、国道1号線(東海道)、瀬田の唐橋が続く。写真では見えないが、東海道本線の鉄橋あたりから琵琶湖の水は瀬田川になって宇治市に向かう。宇治市では瀬田川は宇治川に名前を変え、京都府と大阪府の境目の大崎に至る。大崎で、宇治川は木津川と桂川に合流、淀川になって大阪湾に流れ込む。

琵琶湖の北側は北陸地方、この地方は古くから大陸交易の玄関口、さまざまな技術と人びとが日本海から渡来した。その人と物の流れは、湖北の塩津、海津、今津から浜大津に向かう水路と西岸の西近江路に沿って南下した。

このルートで広がった技術の一つは製鉄技術だった。琵琶湖周辺には鉄鉱石が分布するので、その鉱石を利用する製鉄所が6世紀から8世紀にかけて湖の南部から瀬田方面に広がった。特に、瀬田丘陵の生産遺跡群は国史跡に指定されている。
【参考:古代の都支えた湖畔の製鉄炉 古きを歩けば(49) 源内峠遺跡(大津市)からの引用文:“木津川経由で大和へ通じる瀬田川が流れる同丘陵は、地の利を生かして飛鳥京や藤原京、平城京をはじめ恭仁京、紫香楽宮、大津宮など宮都造営の現場に必要な鉄や瓦などの物資を供給する古代のコンビナートだった。”】

また、最近の資料によると、滋賀県大津市の上仰木(カミオウギ)製鐵遺跡は、延暦寺造営に必要な金具の製造拠点だったとみられている。

最澄(767 - 822年)が延暦7年(788年)に開いた延暦寺は、比叡山全域を境内にする天台宗の寺院である。東麓の東塔(トウドウ)、西塔(サイトウ)、横川(ヨコガワ)を含む「三塔十六谷」に広がる150ほどの堂塔を総称して延暦寺という。このうち、特に東塔の薬師堂は根本中堂と呼ばれ、延暦寺の中心的な建物である。

最澄の時代は今から1200年ほど前、その時代の日本の人口は500万人程度、平安京の人口は20万人程度と推定されている。延暦寺の造営では人集めと建築資材の調達も大変だったと想像する。

ちなみに、稲荷山全体を境内とする伏見稲荷大社もこの頃、和銅4年(711年)の造営である。東山36峰の北端の第1峰が比叡山(848m)、南端の第36峰が稲荷山(233m)である。

人口が少ない当時は、人手不足という言葉が存在したかは定かでない。重機や電動工具がない建設現場、にもかかわらず今に残る立派な有形・無形の文化財を生み出した人びとのやる気と根気に敬服する。

現代の文明と文化とは何か?また、過去の経験則が人口の減少期に通用するのか?などとあれこれ思案しながら、回遊ルートを一回りしただけで、出町柳に帰ってきた。

下の写真は、賀茂川出町橋たもとの「鯖街道口」の石碑である。

            鯖街道口の石碑
            

言うまでもなくこの辺りは、若狭湾に通じる若狭街道や小浜街道、さらには御所から高浜に到る周山街道などの入口である。近年はグルメ・ブームの影響もあり、鯖街道の若狭街道や小浜海道が脚光を浴びるようになった。また、周山街道も西の鯖街道と名乗りを上げている。上の石碑は、近くの商店街が地域の活性化を願って2001年に建てた碑である。なにやら鯖寿司の広告宣伝の匂いがするが、もともと竹の皮で包む鯖寿司は5月頃の京都の味である。

「鯖街道」や鯖寿司はさることながら、比叡山のあちら側とこちら側に古くから自然に発生した街道筋は、この地の文明・文化を育てた人びとの足跡である。街道という有形の資産を足掛かりに、文化という無形の資産が成長した。

人びとの行き来で始まった街道筋、やがて船、車、列車、飛行機などの輸送機器が加わった。さらに、手紙や書類の持ち運びも電気(デジタル信号)・電波・光波で可能になった。

今や、画面の上で送信を「クリック」すれば、E-mailや添付ファイルが封筒や切手なしで直ちに隣の机や地球の裏側に同時に届くようになった。移動時間の短縮と移動量の大量化が本質的な変化、その変化で街道筋の概念は、田舎道から通信ネットワークにまで多様化した。ネットワークの一部分はローカル(Local)、全体はグローバル(Global)、そこにはローカルとグローバルが共存する。必然的にこれらの変化と進展が今後の社会、経済、政治に与える影響ははかり知れない。

このように科学技術は街道筋の多様化を促進したが、ここでちょっとした変化が、この京都の目抜き通りに起り始めた。それは、目抜き通りの車線を減らして歩道を広げるという工事である。

60年代に始まった道路網の整備で人を押しのけ我が物顔で中心街に進出した車、その車と人の関係の見直しである。そこに何が起こるか?次回(10月)の京都訪問が楽しみである。

ここで「比叡山」は終り、次回は「四条通りの変化(続き)」に続く。

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