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道路-304(サムスンシー)---タイの運命の道

2010-09-30 | 地球の姿と思い出
この世には、存在するが手に取ることができないものが多い。地球の引力や重力、電気、音楽や愛情など、数え上げればきりがない。また、熱帯無風地帯の海の色(参照:海の色/10-09-03)は深い濃紺、その美しい色が欲しいと思う。しかし、手で掬い取っても、手のひらにはただ透明な水が残るだけである。実在するが何も見えないものは、凡人の筆者には当然の結果、まだまだ修行が足りないと思っている。

ここで、伝道者の言葉を思い出す。「空(クウ)の空(クウ)、空の空、いっさいは空である」(伝道の書、旧約聖書)。さらに、「みな空であって風を捕らえるようである」と。

この世は空であって何もない、とはいうものの、時には目に見えないが、その存在を実感することがある。バンコクの304号線(サムスンシー)は、筆者にとっては不思議な国道、何かの力が働く運命の道である。

この道は、バンコクのドンムアン空港(旧国際空港)近くのノーンタブリから東北を目指してナコーンラチャシマ(コラート)に至る約250kmの国道である。タイではありふれた国道で、特に変わった道ではない。

             304号線 右手の大木が気に入っている。
            

このサムスンシー沿線には、304工業団地(304 Industrial Park)やカビンブリ工業団地(Kabinburi Industrial Zone)などの大規模な工業団地が開けている。バンコクから304工業団地、写真の大木までは120km程、2時間足らずの道のりである。

この道をもっと先に進むと、徐々に電柱がなくなり、人家も少なくなる。さらに、道は細くなり、やがて裸足の世界、けもの道だけの山野に続いていく。国境に関係なく、どこから言葉や食べ物が変化するのか?どのように風俗習慣やことばが変化しながら、タイ語とは全く違うフランス語やドイツ語の世界につながって行くのか、興味が尽きない。

この道は、年間約10回、五年ほど通った懐かしい道である。その間、新空港の開設、クーデタや空港占拠事件を経験した。この道は、タイの景気と関連が深く、景気がよければトラックの通行量が多く、景気が悪くなると閑散とする。

5年のうち、半年ほどの間、常宿を変更して別のホテルに滞在した。そのホテルは墓地をブルドーザーで更地にして建てたとか。時には、宿泊者の飛び降り自殺もあるとの噂を耳にしたが、筆者はきにしなかった。

しかし、その半年ほどの間にいろいろな不思議な出来事が起こったのは事実、ここに参考事例としてそれらの不思議な出来事を紹介する。

一つは、交通事故。304号線で、河畔に立派な寺院がある大きな河を渡ったときのことである。後部座席に座ると居眠る癖があると言って、左隣の同僚(女性)がシートベルトを掛けた。それを聞いて、それでは筆者もとシートベルトを掛けた。(後部座席でシートベルトを掛けるのは、生れてはじめと思いながら掛けた)

それから、2~3分後、事故が起きた。突然、轟音と同時に車内のエアーバックが開き、暫し車内は煙のようなガスで視界が利かなくなった。直前に、ヘルメットを付けた大柄なタイ人男性が、宇宙遊泳の形で、フロントグラスに飛び込んでくる姿が今も頭に残っている。今もこころから冥福を祈るのみ、120km位のスピードで中央分離帯から飛び出したバイクを跳ねたのである。車内はパニックになったものの、4人の同乗者に怪我はなく、不幸中の幸いであった。後の事故処理につては読者のご想像に任せる。

あの時は、お寺と女性とシートベルトとエアバッグに守られた。また、この事故の前日、自宅居間(日本)の壁から大きな額縁が落下して、廃物になった。本格的な固定具のある額縁の落下は考えられないが、事実として起こった。筆者は偶然というが、家族は偶然とは信じない。---その空間は、304号線の不思議を実証するものとして、今も空白にしている。(写真のテレビ上の位置は、現在空白)

             テレビ上正面に画面と同じ大きさの絵画を飾っていた。
            

この事故以外に、2~3回の追突事故があったが、それらは、ホテルの地底の霊のイタズラかも知れない。

もう一件は2004年8月9日の心筋梗塞。その日(月)の朝4時ごろから胸が痛み始めた。耐え切れない痛みが続いたが、無知とは恐ろしいもの、心筋梗塞などとは思わなかった。9時頃、病院で心筋梗塞と分かり、即刻カテーテルとステントでの処置となった。画面上の冠動脈の血栓が、カテーテルで除去され血流が回復したとき、助かったと思った。あの血流回復は「筆者の余命が減算から加算に転じた」瞬間だった。

手術当日のリアルタイム動画を日本の病院への引継ぎデータとして受取ったが、その動画の一部始終をコピー、記念品として保管、今もときどき再生している。

当日は、遠方の工場に出かける直前、運び込まれた病院が、偶然、心臓病では東南アジア有数の病院(知らなかった)、経験の深いベテラン医師、魔法の指先を持つ若い医師、最新の医薬品や設備などで一命を取り止めた。その朝、幾つかの偶然が重なり、その歯車が少しでもかみ合わなかったら、今の自分は存在しないと確信している。

3ヶ月後、帰国に当たり、ベテラン医師に心筋梗塞で信頼できる日本の病院を訪ねたところ、4~5病院があるとのこと、その内の一つが、幸い自宅から直近の病院であった。その病院で今も定期検診を受けている。現在の海外活動にも支障は出ていない。

その後、日本の病院で判明したことを追記する。
1) バンコクで心臓に挿入したステントは、2004年当時の日本では一般的でない最新型であった。日本の病院に提出したバンコクの処置の動画(CD)やデータにも漏れはなかった。
2) バンコクでもらっていた薬は、世界で通用するものであったが、日本では認可されていなかった。
日本の大病院が出した薬を信用して、バンコクの薬をゴミ箱に捨てた。しかし、数時間後に病院から、日本では入手できないとの電話であわてて捨てた薬を回収した。このため、病院の許可のもと、数年間はその薬をバンコクの病院で入手していた。(当時の日本の薬では危険性と使用上の制約があり、海外活動が困難だったため。現在は、その薬も不要になるまで快復した)
3) 日本の病院で複数回のカテーテル検査とステント処置を受けたが、バンコクの処置方法、診断と今後への指示は完全であった(日本の病院談)。発病当時は時間的には手遅れであったが、高度な初期医療で救われた。

さらに、補足したい点は、次ぎのとおりである。
1) ゴールドカード一枚で、病院とカード会社の取引となり本人の現金支払はなかった。(旅行代理店がだめと言うゴールドカードの保険でも問題はなかった。逆に、損保会社の保険でも心筋梗塞の処置が失敗に終わったケースを今月9月にバンコクで耳にした)
2) 日本の雑誌などで取り上げる、たとえば、心筋梗塞に強い病院100選などの特集、眉唾ものである。世界の目から見ると、子供だまし程度の情報も多い。このブログでは、そのような世界の常識を伝聞でなく体験談の形で随時紹介する。

心筋梗塞でも命拾い、その他、写真を撮っても取れないホテルの私の部屋担当の気がきくメードさん(最後には撮れた)も不思議であった。

304号線の交通事故や心筋梗塞は、ホテルの悪霊の仕業かどうかは分からない。もし悪霊の仕業としても、これらの出来事を神からの警告と受け止める。警告を発する元は分からない。それは、悪霊、慈悲ある仏、あるいは自分の亡き母かも知れない。しかし、警告元が誰であろうが、善悪の概念を超えて、筆者は相手にこころから感謝する。

そんなに無理をすると心臓病で死ぬぞ、一般道路をそんなに飛ばすと事故で死ぬぞとの神の警告だった。それは、単なる言葉でなく本人を死と紙一重の状態に追い込む本物の警告だった。その警告で、タバコはスッパリと止めた、野菜も食べる、食事に気を配り体重も抑えた。

人は過去を振り返って、今は年を取ってしまったと言う。しかし、数年後に、ふたたびあの頃は若かったが、今は年を取ってしまったと言う。さらに、その数年後にふたたびあの頃は若かったと言う。

では、一体いつが若いのか?・・・それは、今である。あなたも、筆者も、90歳のおばあさんも、今が一番若いときである。明日になれば、今の若さは戻ってこない。老若に関係なく、今が一番若く、今こそ力一杯生きるときである。それが人生の謳歌である。月の女神、ダイアナに愛された美少年も年をとって身動きができなくなった。不憫に思ったダイアナは、彼をバッタ(Grasshopper)に変えた。バッタになった彼は嬉々として大空に向かって跳ねた。(ギリシャ神話)

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現在進めている、「生産管理の理論と実践」(参照:今日からブログを始めます。/10-08-26)の英語版の作成は、タイ語版の前準備である。ここには、自分の知識と経験を伝えたい、第三者の翻訳でなく自分のことばでとの思いがある。

日本語⇒タイ語は困難、しかし、日本語⇒英語⇒タイ語には目途がある。これは、日本語の認知度と辞書の問題である。この経路で「生産管理の理論と実践」のタイ語版が完成すれば、私の命を救ってくれたタイの人たちへの恩返しが実現する。

次回は、ハワイのタクシーにまつわる感激を再現する。

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道路-RAMA 4(パラムシー)---タイの親切

2010-09-19 | 地球の姿と思い出
バンコクにRAMA 4(ラマ4:地元の呼び名はパラムシー)という通りがある。中心地の国鉄のファランポーン(バンコク中央駅)から南東約8kmのプラカノンを結ぶ通りである。このパラムシーは、片道2車線往復4車線、所々に中央分離帯がある忙しい道である。

2000年以来、私が拠点とするサービスアパートメントは、パラムシーに面した24階コンクリート建てのガッチリとした建物である。近くにバンコク大学があるので、時どき北欧系の女子短期留学生で賑やかになる。別棟には日系企業、アパートには日本人も住み、24時間のセキュリティーはシッカリしている。むろん、駐車場やプールは完備している。ただし、ここでは日本人旅行者や観客は見かけない。

           サービスアパートメントのスタッフ (2010年9月10日撮影)
           

      近くのスーパーには果物が豊富。ドリアン69バーツ/Kg、マンゴ-99バーツ/Kgなど。
      1バーツ=2.8円 (2010年9月5日撮影)
      
      例:上右端のマンゴー1パック:2個で約1,200g、約120バーツ
        1個約600g 約170円で蜜が染み出し非常に甘い。

アパートから500mほど先には、ロータス(英系)とカルフール(仏系)という大きなスーパーマーケットがパラムシーを挟んで向いあっている。アパートの隣は、屋台の果物屋、食堂、ファミリーマートやドラグストアーなどの通りで、その横にエッソ石油と3チャンネルTV局の高層ビルが聳えている。

皆が知合いで、変なことをすると、近所に顔向けができなくなるという下町らしい地域である。治安は良いが、今年4月のデモでは、TV局は焼討ちに遭い現在修復中である。一部の人々を除き、全体的には豊かな自然の恵みと温厚な人々、金銭や損得に汲々としない点もありがたい。

過去10年の経験だが、ボールペン1本を含む6件の忘れ物をしたが、すべて手元に返っている。これは、私だけでなく一般的な話である。嫌な思いは一度もない。ただし、中心街は、各国と同様、油断は禁物である。特に、欲張る人は被害者になり易い。先ずは、自分自身にご注意を。

アパートメント前のパラムシーを徒歩で横断するのは危険である。以前に2回、渡ろうとしたとき若い女性に「危ない」と制止され、車の途切れを見計らってその女性に先導された。仏教国で老人を大事にする国柄である。たぶん、自分のお爺ちゃんを思い出したのだろう。

ある時、カルフールで夕食を終えた帰り道、突然のスコールに見舞われた。丁度バスが来たので飛び乗った。次のバス停(約500m先)で降りるので、出口横のつり革に摑まった。その時、目の前の若い女性に席を譲られた。乗り物では、老人に席を譲るのはよく見かけるので素直に好意を受けて腰を下ろした。

次のバス停で、私は下車したが、私の前を先ほどの女性が傘をさして歩いていた。その後姿から、彼女の右足に大きな障害があることを察した。思わず、知らなかった、申し訳ないと思った。私は彼女の前に走り出て、胸の位置で合掌(これは正式な合掌)、コップン カッ(有難う)!とお辞儀をした。

数日後、成田に到着した。たまたまその日はゲートでなく、タラップだった。私たちは、迎えのバスに前後の入口から乗車した。前の入口から乗車した私の直ぐそばに空席があった。丁度その時、別の入口から乗車してきた私と同年配のアメリカ女性と空席を挟んで鉢合わせになった。一瞬、私も彼女も互いに譲り合う形で立ち止まった。とその瞬間に、若い日本人女性にその空席を奪われた。その彼女の涼しい顔に、アメリカ人婦人も私も唖然とした。0.5秒ほどの見事な早業、それは人間業と云うより動物の素早さだった。

日本では、経済の発展と共に人間として大切なものを失い始めている。人間から弱肉強食の動物への逆戻り、高等動物としての思考の放棄、これが日本の実態と認識した。この認識で、また心が少し日本から離れた。
          

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道路-R10---アメリカの親切

2010-09-16 | 地球の姿と思い出
この地球には、けもの道や人間の街道などいろいろな道がある。ローマ街道やシルクロードは有名だが、世界には無名でも深い来歴を秘める道もある。ヨーロッパのとある一本道、その道を挟む両側の住民は中世から現在も犬猿の仲という。過去には血で血を洗う争いが繰り返され、今も社員の採用では、社内での対立を避けるため出身地がその道の右か左かに気を使うらしい。

この様な歴史的な道は別として、普通の道でも人の人生観に影響することがある。ここではそのような道、R10(アメリカ)、RAMA 4(タイ)や304号線(タイ)を紹介する。いずれも、そこでの出来事に感銘し、その国が好きになった道である。

まずは、R10の話から始める。アメリカの幹線道路は、大まかだが東西に走る道は偶数、南北の道は奇数の番号と云われている。R10(Route 10:10号線)は、フロリダ州ジャクソンビルからカリフォルニア州サンタモニカまでアメリカ南部を横断するインターステート高速道路である。全長4,000kmのこの道は、場所によってはI-10と表示されるが、10号線には変わりない。ちなみに、稚内から鹿児島までの直線距離は約2,000kmである。

ヒューストンのような大都会の中心部では、片道5車線往復10車線の道幅になる。市内のR10とR45、幹線同士のインターチェンジでは道幅は広大になる。遠くから見ると、まるで大河の合流点のように見える。しかし、少し郊外にでるとR10も片道2車線のやや心細いハイウエーになる。テキサスやアリゾナの郊外では、左手の向車線は、広いグリーンベルトを隔てて見え隠れするので、田舎の一本道を走っているように錯覚する。

高原の一本道を走るとき、遙か彼方の地平線にまず山頂が現れる。次に山頂に続く山腹が現われ、やがて裾野が地平線と一体になる。航海中のランドフォール(Landfall:陸地初見)と同じ、水平線と地平線の違いはあるが、地球は球体であると分かる。対向車もなく、船のオートパイロットより簡単な装置で自動運転が可能と思った。このような自然の中では、なぜか人恋しくなり、出会った人とはだれとでもまず握手をしたくなる。

30歳の頃、大学の期末試験を終えて友人と2人、中古車でR10をヒューストンから隣のサンアントニオに遠出した。途中、猛烈なスコールに見舞われた。ワイパーは役立たずボンネットの先すら見えない状況で、走行車線から脱線するように路肩に停車した(路上で停車すると後続車に追突される)。

スコールが去った後、エンジンを始動したが掛からない。エンストは、ディストゥリビューターのひび割れと内部への浸水が原因と分かった。・・・だれに助けを求めるか?幸い、遠くにガスステーションの看板が見えた。もちろん、他には建物は見当たらない。

友人を車に残し、筆者はディストゥリビューターのキャップと部品をもって、そのガスステーションを目指した。ガラガラ蛇を避けるブーツがないので、足の素肌を露出しないように気をつけた。荒野を30分以上も歩いて、ようやくガスステーションにたどり着いた。まさに、清少納言の「近こうて遠きもの(166段)」のテキサス版だった。

50歳ぐらいの赤毛のオヤジさんに事情を話したところ、部品を調べて自分の乗用車と同じものだと言った。しかし、その部品は手元になく、町に行かないと手に入らないとのことだった。

しばらく考えたオヤジさんは、自分の車の部品を外すと言った。自分にはピックアップがあるので、明日にでも町で部品が手に入るとのことだった。「地獄に仏」とはこのこと、その親切が身にしみた。

乗用車からディストゥリビューターを外し、その足で現場にピックアアプで送ってもらった。ディストゥリビューターを取り換えてスタートするとエンジンは一発で威勢よく始動した。不思議なことに、どのように金銭処理をしたかは全く記憶にない。ただ、遠くにそびえるガスステーションの巨大な看板、道路脇の傾いたR10の標識、自分の車から部品を外すオヤジさんの後ろ姿、これらの場面が一体になって、昨日のことのように思い出される。

あれから数十年、ときどきロサンゼルスやツーソン(アリゾナ)で偶然にR10に出会うことがある。出会うたびに、懐かしさと喜びがわいてくる。しかし、同時に自分はあのオヤジさんのようになれるだろかとあれこれと考える。自分の車の部品を外して見知らぬ外国の若者を助ける度量があるだろうかと。

筆者もときには見知らぬ人を助けることがある。そのとき、心の底ではあのオヤジさんへのお礼の気持ちと懐かしいR10の標識が目に浮かぶ。同時に、もう一度あのオヤジさんに向かって改めてお礼のことばを伝えたいが、それは不可能、これが人生だと考える。

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海の色---世界の美しさ

2010-09-03 | 地球の姿と思い出
成田を離陸して約15分、水平飛行に入ったとき、私はグレープフルーツ程の球体を思い浮かべる。地球を1億分の1に縮小すると、ちょうどグレープフルーツ程度になるからである。

1億分の1の世界では、地球は半径 6.37cmの球、飛行高度 12,000mは、僅か 0.12mm。富士山の高さは 約0.04mm。背丈 160cm 程度の人間は、0.000016mm(1.6mmの十万分の1)になる。

500枚コピー用紙のパッケージから紙の厚さを推定すると、A4コピー用紙の厚さは約0.086mm程度である。地球を、1億分の1の球体に置き換えると、富士山はコピー用紙の厚さの半分ぐらいの厚さに等しい突起になる。

多くの宇宙飛行士は、地球は美しい天体だという。美しさに加えて、その表面の滑らかさは鏡面仕上げに近い非常に完成度の高い球体と考える。

その美しい球体の表面は、いろいろな表情と姿をもっている。たとえば、海。

このブログの背景は南国の「ビーチ」である。ベージュの砂浜は、緑色の渚から紺碧の水平線に続いてゆく。空には白い雲と心地よい風が吹くサンゴ礁の海である。半ズボンとサンダル履きが似合う風景である。

また、北国の海、北海は暗い雲に覆われた鉛色の海面を思い出す。霧に包まれた灰色の海は陰気だが、そこから立派なロブスターが陸揚げされる。蒸しロブスターを前に骨太な男女が談笑するレストランを思い出す。外は寒いが、暖炉の火は絶えることなく夜は静かに更け行く。

さらに、赤道無風帯では、大きな太陽、まったくの無風に海面は鏡のように静まり返る。その静けさに時が止まったと錯覚する。唯一つの動きは、本船(自船)が広げる白いレースのような波である。しかし、その白さはたちまち濃紺の海に吸い込まれて、鏡の表面のように静止する。水深とともに濃くなっていく海の青さは、神秘的としか云いようがない。赤道無風帯の海は、深さのある3次元の青さ。如何なる画家も表現できない“自然”そのものである。その波に見入っていると、動と静が混在して時を忘れる。

最後にもう一つ、ほのるる丸の船尾で見た夜光虫のトンネルが印象的だった。星明りの紅海を航海したとき、スクリューに巻き込まれた夜光虫が緑色に輝いていた。その輝きは水面下3、4メートルに直径4、5メートルの緑色のトンネルになって、3、40メートル後方の黒い海まで続いていた。まぼろしのように 海中遠くまで続く緑色のトンネルは、今も鮮明に頭に残っている。

まだまだ話は尽きないが、さまざまな表情を持つ海は化粧なしの地球の素顔である。このブログは素顔の世界、大きな指輪に派手なイアリングおまけに付けまつ毛、まるで満艦飾でペンキ塗りたてのような厚化粧とは別の世界である。私は、海の素顔が汚染されることなく、いつまでも美しくあって欲しいと願うものである。

ここまでは、自然な地球の姿に触れてきた。次回は、各地で出会った人々を含む話に進んでいく。

なお、9月4日から11日まで、「生産管理の理論と実践」の英語版の話でバンコクに出張、その間にラヨーンの工場を見学する予定である。

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