前回の嵐山から続く。
昨日の嵐山に続き、大原の里を訪ねる。京都駅から京都バスの三千院・寂光院行きに乗った。約16kmの行程は、京都駅 → 三条京阪前 → 出町柳 → 八瀬駅前 → 花尻橋 → 大原、1時間余りである。このルートは、国道367号線(=若狭街道)であり、鯖街道の一つである。
【鯖街道:若狭・小浜の鯖などの魚介類を京都に運ぶために利用した複数の街道を総称して鯖街道という。鯖街道には、代表的な若狭街道の他に小浜街道、周山街道、九里半越え・西近江路、鞍馬街道などがある。若狭湾の鯖を京都の三大祭に欠かせない鯖寿司と結び付けて、いつしか鯖街道と呼ばれるようになった。ちなみに、若狭街道の開通や鯖寿司の考案は江戸時代といわれている。】
(2)三千院
出町柳から367号線を北上すると比叡山が右手に見えてくる。
比叡山
上の写真は比叡山、写真の左斜面にはふもとの八瀬駅を起点とする叡山ケーブル(所要時間=9分)が中腹まで、その先にはロープウエイ(所要時間=3分)が山頂(848m)に続いている。真夏の山頂は、市街地に比べて気温が6~7℃低く、かなり涼しく感じる。
このまま、比叡山を右手に見て高野川沿いに進むと、道の両脇に山が迫ってくる。下の写真は、367号線の花尻橋近辺の風景である。この辺りは「日本昔話」に出てくるようなのどかな山里である。筆者にとって、下の写真は「日本の原風景」の一つである。
大原への道
下の写真は、花折橋から三千院辺りまでの大原盆地の風景である。この地の桜と紅葉はともに美しい。山に囲まれた大原の里に来ると、なぜかしら都(ミヤコ)からの解放感、同時に、都への憧れを感じる。不思議な場所である。
大原の里
十数年前に、秋の三千院にアメリカ人夫妻を案内したが、この坂道の風物は変わらない。あの時の帰り道、下の写真のような茶店で折詰めの食事をとった。味より、食べ物と器の色・形だけが記憶に残っている。
三千院の茶店
今回は、紅葉シーズン前の静けさで、みやげ物店が並ぶ坂道には人影もちらほらだった。ここで、偶然にことばを交わした一家は、台北の人だった。60歳がらみの父親は水彩画家とか、奥さんと30歳代の息子さんの三人連れで、奥さんの英語が非常にきれいなので、思わず"Are you a professor?"(先生ですか?)と聞いてしまった。(結果は違った。)
下の写真は御殿門、この門の前で親子3連れの記念写真を撮影した。
御殿門
親子のカメラはそれぞれニコンの高級機種、画家のカメラはさすがに本格的で、ズシリと重く操作も難しかった。別れ際に、この三千院から素晴らしい水彩画が生まれることを願うと伝えた。
下の写真は、客殿に面した聚碧園である。参拝者たちは、この客殿でしばしの休憩、庭園を観賞していた。
客殿まえの聚碧園
下の写真は宸殿まえの有清園と往生極楽院である。このお堂には、極楽浄土を表すありがたい天井画が描かれているという。
有清園と往生極楽院
杉木立と苔に覆われた庭園、秋には往生極楽院を取り囲む紅葉が美しい。
(3)寂光院
三千院から寂光院までは、直線距離で約1.2km、散歩にはほどよい距離である。しかし、柴漬けなどのみやげ物店を覗きながら山道を辿ると4、50分の行程になる。
下の写真は、出町柳で鴨川に合流する高野川である。
高野川
高野川に架かる小さな橋を渡ると、右手に杉山が迫り、左手には農家や畑が広がる。柴漬けの材料を作る畑かも知れない。
大原の農家
山際の道を進むと寂光院の入口に行き当たる。寂光院は、聖徳太子により594年(推古2年)に建立された小さな古刹である。下の写真のように、山門への石段は狭く急で、一気には登れない。
寂光院の入口
裏山を背にした本堂は、下の写真のように慎ましいが、明るい陽光に包まれていた。まるで、小さな本堂が日向ぼっこをしているように見えた。健礼門院の隠棲にはもってこいの場所だと思った。
寂光院の本堂
寂光院のような山奥で、ニュージーランドからの観光客たちに出会った。年配の婦人は日本文化と日本語を勉強中とか。帰り道の焼き物(陶器)店で抹茶のサービスを受けていた。
バス停に帰る道、先ほどの農家の辺りで、下の写真にある「朧(オボロ)の清水 平家物語(健礼門院)縁(ユカリ)の泉」を見つけた。立て札の右下奥の石に囲まれた直径50cmほどの泉だった。泉とはいうものの、ただの水溜りに見えた。
朧(オボロ)の清水
京都新聞社の「道ばた史料館、左京区」によると、健礼門院が「おぼろ月夜の時、水面を通して映るやつれた姿を見て、身の上を嘆いた」といわれる泉である。月に照らされた我が身を水面に見ることはムリだと思うが、誰かが健礼門院の思いをこの泉に託して、後の世の人々に伝えようとしたと思われる。
ここで、2回にわたった「京都の散策」を終える。次回は、本筋の「日本の将来---3.日本の人口」に続く。