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想像の旅---カサブランカ(3)

2018-10-25 | 地球の姿と思い出
想像の旅---カサブランカ(2)から続く。

次に、商品の置場を設定して、置場データを登録する。店内のストック・ルーム、店外の倉庫や借り倉庫、仕入れ先の仮置場、大口顧客の敷地内の仮置場など、すべての商品置場に置場コードを付けて商品の在庫場所が分るようにする。

たとえば、2階ストック・ルームの置場コードを次のように決める。
入口右側=2F-1
正面右隅=2F-2
真正面=2F-3
・・・
といった具合に場所コードを決めて、床にペンキで区画線を書くなり、立て看板などに表示する。もし棚があれば、棚番号でも良い。商品の荷姿にもよるが初めは大ざっぱ、次第に細かく位置を決めればよい。

店外の借り倉庫や駐車場の留め置き(仮置)などについては、倉庫Aとか駐車場Pとか、場所名称だけを登録する。

ここで、置場への商品の置き方を決めておく。商品の置き方(格納方法)には、大きく2つの方法がある。コンピューターで在庫を管理する場合は、フリー・ロケーション方式が有利である。もう一つ方法は、固定ロケーション方式と云い、人手で在庫を管理する場合はこの方法を使用する。フリー・ロケーションと固定ロケーションの説明は専門的になるのでここでは省略するが、コンピューターはどちらの方式にも対応できるので問題はない。エクセルのような表計算ソフトでも、簡単な関数で在庫を管理できる。

実際には、フリー・ロケーション方式と固定ロケーション方式を併用する。一般に、化学薬品、可燃物、液体、反物、重量物などの置場は固定ロケーション方式で管理する。油類や危険物の収納は消防法などが定める設備要件を満たさねばならない。

今回のプロタイプ(試作システム)の開発にはパソコンを使用するが、そのシステムに必要なデータをデータベースに登録して将来の無人店舗や無人倉庫に備える。商品コード、仕様、仕入れ先、仕入れ価格、販売価格、仕入れ先側コードは自動発注への備え、倉庫コード、置場コード、商品の容積と重さは無人倉庫への備えである。

次に、プロトタイプで使用するテスト商品として約50品目と店舗内のストック・ルームの位置コードを設定する。

試作システムの要件を決めると共に、システムに必要なデータベースを定義する。商品、置場、仕入れ先のコードは数字コード、商品名称と仕入れ先名称は英語と現地語で登録する。データベースの構造、データ項目と桁数(文字数)などを詳細に決めて、システム仕様書として文書化する。データ項目と桁数は、仕事の実態をよく知る従業員と共同で設定する。

ここで、商品置場の場所コード設定するためにハムディーと一緒に2階のストック・ルームを見に行った。そこで目にしたのは、あの読みづらいアラビア・インド文字の数字だった。

下の図に示す数字は、一文字ずつ見ると単純だが数字が続くと文字列が交錯して、一種の錯視で読取りが難しくなる。(イランではペルシア数字、モロッコではアラビア・インド数字を使用する。)

    アラビア数字(算用数字)とペルシア数字とアラビア・インド数字
    

モロッコのアラビア・インド数字はイランのペルシア数字に重なり、これらの数字が引き金になって、急に遠い昔の記憶が次つぎと筆者の頭の中に蘇ってきた。

5.夢のような記憶
1970年代中頃、筆者は日本の輸送機器メーカーのシステム部門を担当していた。当時、世界各地の工場や販売会社からコンピューター関係の要請や相談があり、できるだけ支援した。

最初の海外支援は、日本/イラン間の物流管理システムの整備だった。テヘランの販売会社とカズビンの工場をたびたび訪れた。

街にあふれる読みづらい数字やラマダンなど、風俗習慣の違いにカルチャー・ショックを覚えた。砂嵐で針路を失ったためだろうか、砂漠に不時着した大型旅客機の残骸、寝苦しい夏の夜に屋上に寝てガード・レールがない屋上から路面に落下する死亡事故もよく耳にした。交通信号も故障が多く、大通りでは車線を守らない車の群れに辟易した。

テヘラン訪問のついでに、バンコクの販売会社、さらにはバンコクからジャカルタの工場やマランの販売会社にも足を延ばした。ジャカルタの工場には日本本社のシステム要員を常駐させて対処した。

東京-テヘラン-バンコクの思い出は、そのままパンナム(Pan American Airways)の有名なPA001(西回り)とPA002(東回り)の世界一周便につながった。

パンナム社はすでに消滅したが、当時のPA001とPA002は世界一周便、多くのビジネスマンがこの便に乗って世界を駆け巡った。偶然にもPA001とPA002に関するブログ、JPB Transportation. The Blog and Website of James Patrick Baldwinを見付けたのでここに紹介する。

以下、Website、JPB Transportationから写真を引用しながら記憶を辿る。

パン・アメリカン航空(後にパン アメリカン ワールド航空に社名変更)は、1947年-1982年に亘り世界一周便を運航した。下の図は、1947年6月29日にサンフランシスコに帰ってきた最初の世界一周便クリッパー・アメリカ号をJohn T. McCoyが描いた絵である、(クリッパ:Clipper=高速帆船)

    サンフランシスコに帰ってきた最初の世界一周便:1947年6月29日    
    

下の写真は1952まで世界一周便で使用されたボーイング377"Strato Clipper"。この写真は1952年の時刻表に掲載されていたものである。

B377は4発プロペラ機、豪華な2階建ての内装は空飛ぶホテルと呼ばれた。ずんぐり・むっくり機体だが時速600km、しかし風貌はお伽話に出てくるような飛行機である。

B377は旅客機というより飛行船のようにゆっくりと下界を眺めながら世界を漫遊するのにふさわしい。世界は今より未知な部分が多く、気に入った土地や街があれば、錨を下ろしてその地に降り立つ。危険があれば、速やかに上空の母船に避難する。80日間世界一周(Around the World in 80 Days…1956年アメリカ映画)を先取りする夢のような路線だった。

実際にPA001便でニューデリーからテヘランに向かうとき、離陸後しばらくすると緑色の禿山の上を通過する。銅鉱かも知れない。三蔵法師一行が旅したような荒野が広がる下界を眺めながら、この地球にはまだまだ未知の部分が多いと思った。想像を絶する未知を秘める山岳や平原、珍しい風俗習慣やことばを話す小さな村や町がゆっくりと後方に流れていく。

    世界一周便に配備されたボーイング377"Strato Clipper":1952年
    

次の写真は、1982年10月27日にロサンゼルスを飛び立つ最後の世界一周便である。

    ロサンゼルスを飛び立つ最後の世界一周便:1982年10月27日
    

パンナムの設立は1927年3月、世界一周便は1947年に開設、1982年に終了、1991年12月に倒産した。多くの機材と人材が支えた世界有数の航空会社も、わずか65年で消滅した。万年単位で数える人類の歴史では、65年は一瞬、まさに「よどみに浮かぶうたかた」の感がある。

世の儚さを感じさせるパンナムだが、個人としての筆者には、PA001とPA002にまつわる記憶は今も消えない。

テラン-バンコクはPA002便、バンコクからジャカルタ、さらにボロボロの国内線でマランへ、マランで見た漢字の「山」の形にそっくりの山も今も記憶する。からだ全身が感じる懐かしさは、故郷に帰った時に感じるであろう不思議な懐かしさだった。

あのとき、バスの右真横の窓に「山」の形の山を見た。同時に、左横の窓に道路に並行して流れる小さな水路で水浴びをする子供たちを見た。その光景に強い懐かしさを感じた。からだ全身が感じる懐かしさは、故郷に帰った時に感じるであろう不思議な懐かしさだった。きっと数万年前の昔に、あの辺りの人びとのDNAが筆者のDNAに混じったと今も固く信じている。京都の歴史は1200年と云われるが、1200年程度の歳月は騒ぎ立てるほど長い歴史とは感じない。

あの時に乗っていたバスは路線バスか、マイクロバスか、誰と一緒でどこに向かっていたか、どうしても思い出せない。しかし、あの山の形と裸の子供たちへの懐かしさ、PA002の機内食で出たジューシーなロースト・チキン、これら3つが一体になって今も脳裏に焼き付いている。

続く。

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