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関西訪問1---近江の沙沙貴神社

2019-08-25 | 地球の姿と思い出
1.病後はじめての関西旅行
2016年秋に脳梗塞を経験、80歳代に入ると身体のあちこちにガタがでてくる。そこで健康指向を心がけ、海外旅行と車の運転とは決別した。飛行機では途中下車(機?)は不可能、また、車で他人の命を奪えば償いようがない。自分で運転するより、タクシーが気楽である。

飛行機だけでなく新幹線での遠出も控えた。体調の改善と悪化に一喜一憂しながら徐々に健康を回復、念願の関西訪問を実現した。口先の掛け声とは関係なく、体は正直である。

今回は、ハノイに住む娘・旦那・孫(男13歳)の一家と関西空港で落ち合い、レンタカ―で関西を移動、姉たちと5年振りに再会した。孫は、3歳頃に姉たちに会わせたきり、今回はハノイで13歳身長170cm靴サイズ28.5cmに成長した姿を久しぶりに紹介した。近年の日本人は大型化している。

ここで思い出したが、若い時から筆者が京都に帰ってくると「天気が晴れる」というジンクスがある。母は「〇〇(筆者の名前)が帰ってくるから晴れる」とよく言ったものだ。

30年も前か、久しぶりに母が待つ自宅に帰ったとき、墓参りに向かう途中で雨が上がり青空になった。帰宅後、屋根瓦が乾いたので大屋根に登って台風で傾いたTVアンテナを直した記憶がある。確かに当ブログに出す京都の写真も、晴れが多い。今回は、母に似た娘からレンタ・カーの中で「お父さんのジンクスは今も有効」と云われた。

いつものことながら、梅雨どきにもかかわらず京都駅前は晴れていた。下の写真は「京都再訪(1)」(2012-11-25)の写真と同じアングルで撮った写真である。今回も「同じ青空」であり、筆者のジンクスも健在と嬉しくなった。

            青空に映える京都タワー(2019-6-25)
            

今回は、稲荷大社前の有名な伏見人形を求めて、創業250年の窯元を訪れた。江戸時代の最盛期には伏見街道には60軒もの窯元があったが、今ではただ一軒だけと店主は言う。伏見人形は日本の土人形の元祖であり、そのルーツは垂仁天皇時代の伏見深草に遡る。(垂仁天皇の実在は?だが、深草の里は方丈記にも出てくる。)

稲荷大社の前を通ったので、千本鳥居を覗いて見ると下の写真のような状態だった。

            稲荷大社の千本鳥居、「芋の子洗い」状態に見える
            

写真の日時は、2019年6月下旬日曜日午後6時半頃だが、正月以上の人出だった。5、6年前は夕刻ともなれば千本鳥居の人影はまれだった。しかし今は違う。外国人だらけの感がある。

異様な光景に驚きながら千本鳥居の先にある「重軽(オモカル)の石」を訪れた。「ある願い」を胸にトライした。石は重かったが持ち上がったので満足した。孫もトライして、石を持ち上げた。

「重軽の石」は少し奥まった場所にあるが、この日はそこもにぎやかだった。しかし、さすがに外国人にはトライする人がいなかった・・・たぶん、「重軽の石」の意味が分からないのだと思う。

今回の旅行目的の一つは、滋賀県安土の沙沙貴神社を訪れることだった。静かな森に囲まれた社、その屋根に宮大工が造り出す曲線には独特の美しさがある。日本の美である。

            沙沙貴神社の本殿
            

人影はないが、本殿の姿は威風堂々、立派である。屋根の銅板は葺き替え中だった。

手入れが行き届いた境内には日本人の参拝者が数人だけ、外国人はゼロ(零)だった。その静寂な境内に「いにしえ」を感じた・・・遠い将来いつの日か、孫がこの神社を思い出し、再訪することを願っている。

            沙沙貴神社の恩頼(ご利益)
            

上の写真にある恩頼(オンライ)とは、恩恵、加護、ご利益の意味である。沙沙貴神社の歴史は古いが、ご利益は意外に幅広い。子宝、安産、育児、学業、衣類、薬、醸造、道具など、現代語に言い換えるとアパレル、バイオケミカル、エンジニアリングなどを含むので、少々大風呂敷の感がある。

排外主義ではないが、外国人ゼロ(零)の静寂な境内に「いにしえ」を感じ、在原業平(825年生)、清少納言(966年)、鴨長明(1155年)たちを想った。世界史上まれなことだが、現代でも彼らとほぼ同じ言語と同じ感性を共有できることがうれしく、こころに安らぎ(Stability=安定感/持続性/復元力)を覚える。

もちろん、先人たちと現代人には、大きな違いがある。それはテクノロジーの知識・経験である。しかし、このギャップはある程度の知性と順応性があれば埋めることができるので大した問題ではない。筆者の勝手な想像だが、パソコンやスマホを使いこなす在原業平や清少納言には違和感を覚えない。

沙沙貴神社を出て8号線を西に進むと、大ムカデ退治の伝説で有名な三上山、通称 近江富士を通過する。遠くから見ると、三上山は美しく、近江富士という名にふさわしい。

            近江富士=三上山(432m)
            

筆者はこのようなこぢんまりとした三角山を見ると、カチカチ山のような昔ばなしを思い出す。昔ばなしを連想させるこの山は、また、先ほど見た沙沙貴神社本殿屋根の曲線美に重なる。

新幹線でこの山を通過すると、あと数分で瀬田川、すぐに逢坂山トンネル、つぎに山科と東山トンネルに続く。東山トンネル辺りで減速が始まり、トンネル出口の京都駅に到着する。瀬田の唐橋は京都の入口、この辺りの透明な流れにたなびく水藻、その水藻の間を泳ぐ小魚の群れを思い出す。その思い出に、故郷日本に帰ったと実感する。

琵琶湖沿いに西進する8号線は、近江富士を通過すると栗東あたりで鈴鹿峠を越えて西進してきた1号線と合流する。いよいよ懐かしい浜大津がすぐ近くになる。この辺りで昼どき、沿道のラーメン店もまた楽しい。

            浜大津のマリーナ
            

上の写真は、京阪浜大津駅前の浜大津のマリーナである。今はすっかり様変わりした。

写真の背景は比叡山、昔は手前にある高層ビルはなかった。埋立て地に出現したこのヨットハーバーに方向感を失った。

筆者の記憶にある浜大津は、木造の旅籠や食堂などが並ぶ通りと琵琶湖汽船の船着き場である。

記憶を辿ると、食堂と船着き場の間を左に入ると木造の桟橋が数本、沖に向かって伸びていた。桟橋は板敷き、桟橋を支える柱は丸太、その丸太に救命浮き輪などが掛っていた。桟橋と桟橋の間は、コンクリートのスロープが湖面からヨット置場に続いていた。スロープの左隣りは芝生のような草地、波打ち際には白い砂浜が見えた。

ヨット置場にはディンギーやスナイプといった貸しヨットがならんでいた。当時、船外機付きモーター・ボ-トはめったに見なかったが、時には桟橋から発進するボートを見た。エンジンがかかった瞬間、船尾が沈み、同時に船首を上げて白い航跡と共に桟橋を離れる様子はかっこう良く、その姿に憧れた。なぜか、走り去るボートを追って桟橋を走る少年を想像した。このブログのタイトルにも「航跡」という文字が入っている。

中学生ほどの筆者は、兄、兄の友達3、4人に連れられてよくこのスロープを訪れた。時間貸しのヨットで琵琶湖ホテルがある柳が崎あたりまで帆走した。(琵琶湖ホテルは1998年に浜大津に移転、跡地は公園)

スロープから艇体を水に下ろし、セールを張って沖に出る。一人前にこれらの作業を手伝った。帆走では、風上への切り上がりやターンの方法などを見よう見まねで覚えた。あの頃はスモッグもなく、湖面にはまぶしい直射日光と水平線に傾く白いセール、まさに太陽がいっぱいの世界だった。

帆走を終え、食堂の店先で食べるアイス・キャンディーは格別だった。かき氷やアイス・キャンディーの売り場にはいつもオジサン、オバサンがいたが、それは昔の話。今ではたぶん、オジサン、オバサンは外国人のお姉さんと選手交代、日本の外国人化は、まず小売店やコンビニのカウンターから始まる。いわば外堀からの外国人化といえる。

浜大津の駅を背に、京阪電車大津線(路面軌道)に沿って約1km逢坂山峠方向に進むと、京阪電車大津線の踏切がある。その踏切を逢坂山峠方向に渡った右脇に幅3mほどの坂道がある。その山肌に沿った急坂を500mほど上ると約300坪の広場に出る。(昔のことだが)そこに、琵琶湖に向かって白いコンクリートのベンチが一つポツンとあった。広場の奥は山道、山肌に沿って大きく左に回ると桜の名所、三井寺に続いていた。

白いベンチの眼下には浜大津の家々と青い琵琶湖が広がる。その展望に高校生の頃から魅せられ、自転車や京阪バス、京阪電車大津線でよくこのベンチを訪れた。春にはピンク色に染まる幻想的なこの丘で、“いつか船乗りになって未知の世界に乗り出し冒険を重ね、やがてブーメランのようにこの丘に戻ってくる”と夢を描いた・・・レンタカーでベンチに続く坂道の入口を通過したが、今回はその坂を登らなかった:まだ早い。

続く。

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