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京都再訪(1)---山科疎水:消えた手品師

2012-11-25 | 地球の姿と思い出

神戸再訪(2)から続く。

2.京都再訪
久しぶりの京都、今回は懐かしい琵琶湖疏水と稲荷山を散策する。写真で気付いたが今日も相変わらず快晴、「〇〇(筆者)が帰ってくるので晴れる」とよく言った母を思い出す。若いころ墓参りの途中で雨が晴れたこともあった。

(1)山科(ヤマシナ)疏水
1890年(明治23年)に竣工した琵琶湖疏水の3つの目的は、京都への飲料水の供給、琵琶湖と京都間の水運開発、京都市内での発電だった。このうち、水運と発電は文明の発達とともに既にその役割を終えたが、最も大切な飲料水の供給は今も変わりなく続いている。また、京都市山科区の琵琶湖疏水を地元では山科疏水と呼び、その美しい桜並木は有名である。

はじめに、今から散策する山科疏水の概要を説明する。下の図の水色の実線は現在の疏水、赤色の破線は1970年代に埋め立てられた疏水を示している。図の「A:四ノ宮舟溜り」「B:諸羽トンネル西口」「C:洛東高校の西」は、今回の写真を撮影した場所である。なお、「四ノ宮舟溜り」は昔の船着き場である。

 山科疏水の概略図
 

2012年10月の晴れた朝、JR京都駅から東隣のJR山科駅に向かった。京都から東山トンネルを通過、山科までの乗車時間はたったの5分である。

          JR京都駅前の京都タワー(131m)
          

JR山科駅と京阪電車の山科駅は隣同士、JR山科駅で京阪電車に乗り換えて四ノ宮駅に到着した。京阪電車の山科から四ノ宮は見える距離である。

          京阪電車の四宮駅
          

下の写真は、四ノ宮から見た諸羽山、山科疏水はこの山の中腹を流れている。

          四ノ宮の諸羽山
          

ここからは、「山科疏水の概略図」の「A:四ノ宮舟溜り」~「C:洛東高校の西」の写真を紹介する。

1)四ノ宮舟溜り付近(概略図のA参照)
下の写真は現在の「四ノ宮舟溜り」である。1970年5月に諸羽トンネルが完成したとき、舟溜り左奥の水路は埋め立てられた。理由は、東海道線の山側に湖西線を新設するためだった。

          四ノ宮の舟溜り
          

現在の舟溜りに対して1959年の舟溜りを筆者のアルバムから再現すると次のようになる。

          昔の四ノ宮舟溜り(1959年8月撮影)
          

1960年頃は、まだ小中学校に水泳プールがない時代、舟溜りは山科地区の学校の水泳プール代わりに使われていた。それは山科だけでなく、平安神宮近くの「夷川舟溜り」も武徳会(ブトクカイ)遊泳部の水泳訓練場だった。筆者も小学生の頃、武徳会に通った。

夏ごとに、疏水の水を止めて先生や父兄総出で水路の底を清掃し、プール開きを準備した。その作業に筆者の母も教師として参加、後に筆者はこの疎水の存在を母から教わった。

「四ノ宮舟溜り」から諸羽トンネル西口に向かう現在の遊歩道は昔の疏水だった。下の写真のように、道のあちこちに旧疏水の石組が露出している。

          旧疏水の左岸の石組
          

下の写真は、59年の「四ノ宮舟溜り」付近の様子である。そこには鉄柵もなく、橋の欄干から流れに飛び込む姿もあった。子供たちの声と太陽に輝く水しぶき、それは夏ごとに疏水に出現する河童天国だった。自由で伸びやか、鉄柵がなくても事故など皆無だった。

          昔の疏水・・・河童天国(1959年8月撮影)
          

その河童天国の右岸には草地が続いていた。下の写真は、草地で出会った子供たち、筆者も夏休み明けの試験に備えてこの木陰でノートを広げたものだ。なぜか、天文学の数式が、この写真と共に今も頭に残っている。この子供たちのその後は知らないが、写真を見るたびに彼らの健康を祈っている。

          昔の疏水・・・河童たち(1959年8月撮影)
          

埋め立て前の疏水は、四ノ宮舟溜りから諸羽トンネル西口にかけて大きく右に湾曲する美しい遊歩道だった。満開の桜、新緑、カッパ天国、紅葉、人影のない冬の日々と季節の移り変わりを映す疏水は、季節々々の衣装を身に付けた手品師のように見えた。

筆者が思い描く遊歩道(プロムナード)は、美しい自然とそこを行き交う人々の絵巻物である。あの疏水はまさにプロムナードの名にふさわしい絵巻物だった。しかし、埋め立て工事で貴重なプロムナードは失われ、あの手品師も身を隠した。人生は出会いと別れの繰り返し、その美しい物語は時の流れのように止まるところを知らない。

余談だが、筆者のこころには2つの素晴らしいプロムナードがある。一つはあの疏水、一つはマドローダム近くの白樺並木である(Madurodam, Den Haag)。現存するあの白樺並木をときどきGoogleの航空写真で眺めている。

2)諸羽トンネルの西口付近(概略図のB参照)
埋め立てられた旧疏水を西に向かって600m程進むと諸羽トンネルの西口に出る。ここから山科疏水は昔と変わりなく京都に向かって流れていく。

          諸羽トンネルの西口(流れの出口)
          

トンネル出口の水面に小さな動く物体を見つけ、ピントが合った瞬間にシャッターを押した。上の写真を拡大するとカメだった(下の写真)。最近の手のひらサイズのデジカメの性能は飛躍的に進歩した。

          出口のカメ
          

3)洛東高校の西付近(概略図のC参照)
流れに沿ってさらに進むと、京都府立洛東高校の前に出る。下の写真は、洛東高校前の橋を振り返ったスナップである。この辺りの桜は、山科疏水の紹介によく出てくる場面である。

          昔から変わらない疏水の流れ
          

下の写真は、上の写真の50年前(1959年)の様子である。洛東高校の白い校舎は建て替えで見えなくなった。この写真では、点検か補修のために疏水の水は止まっている。当時、鉄柵はなかったがそれが当たり前だった。

          送水を止めた疏水(1959年頃撮影)
          

この辺りから東の山並みに目を移すと、音羽山や牛尾山が見える。音羽山の向こうは琵琶湖の瀬田、牛尾山とその右の山並みは醍醐と日野に続いている。醍醐の桜は秀吉の花見(1598年)で有名になった。また、日野といえば長明の草庵(1211年頃)を思い出す。ひっそりと紅葉に囲まれた草庵を想像する。

          音羽山・牛尾山から醍醐・日野方面の眺め
          

この辺りに立つとき、いつも不思議に思うことがある。すぐ横の疏水の流量は毎秒8.35立方メートル、毎分約500トンもの水が幅10メートル程の水路を流れている。その大きな動きにもかかわらず、全く音がしない。

多量の水を京都に送り続けることは大役、しかし、その大役を静寂のうちに果たす。ドタバタと騒がず、ただ黙々と使命を果たすこの疏水から「不言実行」という言葉を学んだ。

人は遠くの山を見つめてこころに何かを思い描く。筆者も、山々の彼方に夢を描き、その度に稲荷山の「おもかる石」の空輪を持ち上げ、不言実行をこころに決めた。

洛東高校の辺りに、山側から疏水の底を潜り抜けて平地に向かう小さな渓流がある。足元から十数メートル下の流れに淀みを見付けた。試しにその淀みをデジカメでズームアップすると、ハヤかウグイのような魚が群れていた。住宅地にもかかわらず、汚染が無いことに安堵した。

          洛東高校前の渓流の魚
          

ここ5、60年のうちに、この疏水にはいろいろな変化があった。河童天国と美しい遊歩道は消え去り、水路は鉄柵で囲われた。しかし、小さな渓流の小魚は昔と変わりなく群れている。また、小さなデジカメの性能は信じ難いほど向上した。

さらにこの先5、60年のうちにこの疏水はどのように変化するのだろうか。その頃には、人口は1億人割れでしかもその4割以上は高齢者になる。その頃、どのような人々がどのような思いでこの疏水を散策するのか。さらに、テクノロジーの進歩にも興味は尽きない。

人口が少なく贅肉のない高度な社会、筋肉労働の仕事量+頭脳労働の仕事量のバランス、高齢者と正味労働力の再定義などといった観点と選択肢は多く、古い概念では見えない可能性もある。すぐ近くの5、60年先を明るくするか暗くするかは、今のわれわれにかかっている。

次回は京都再訪(2)の蹴上・南禅寺の疏水と錦市場に続く。

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神戸再訪(2)---回想

2012-11-10 | 地球の姿と思い出

神戸再訪(1)から続く。

その後:
 卒業後、大阪商船の船乗り生活は4年間だった。欧州航路や東回り世界一周航路で世界の国々を見て、感ずるところがあって人生の針路を陸に向けて変更した。
 1966年夏にヒューストン大学に入学、・・・中略・・・ヒューストン港に入港する級友や先輩に励まされ、船尾の日章旗に「あゝ、ここは日本の領土だ」と感激した。今でも海外で日章旗を見ると、「我が日本」との気持ちが湧いてくる。
 ・・・中略・・・

近年:
 近年、と言ってもここ20年の話だが、1992年から1999年にかけて、アメリカの多国籍企業のシステム開発に参加した。・・・中略・・・目的は、「経営視界の改善」であり、典型的な「中央集権型」のシステムだった。このプロジェクトが終わる頃、わが身(日本)は今後どうあるべきかとの疑問が湧いてきた。
 そこで、日本を知るためにアメリカから東南アジアの日系工場に目を向けた。2000年から最近まで日系工場5、6社のコンサルタントとして日本とバンコクを往復した。
 安い人件費を求めて海外に進出した日本の製造業は、「郷に入りては郷に従え」との考え方で各国の工場を管理する、いわば「地方分権型」のシステムだった。日本の本社は、月々の決算報告を厳しくチェックするが、工場運営にはあまり口出しをしない姿勢だった。しかし、実際には日本本社をはじめ、各国の工場は自分のことで手一杯、他の工場に口出しする余裕がないというのが本音である。人材不足の結果である。
 ・・・中略・・・
 海外の工場で働く日本人、とりわけ若い世代は、産業展示会や日本語のセミナーで体系的な基礎知識を得る機会も少ない。
 そこで、2007年ころからソフトハウスの協力を得て、生産管理セミナーを5回シリーズ、1回4時間、年5回のペースで開催した。Pan-Pacific Hotel Bangkokのセミナー室でコーヒー付きの無料講義には、毎回3、40名の参加者があり、その内訳は製造業だけでなく業種も多彩だった。

現在:
 記憶から消え失せない内にと、2009年からセミナーの内容を「生産管理の理論と実践」と題してまとめ始めた。2010年7月にCOMM BANGKOK社から日本語版、2011年6月に「生産管理の理論と実践(英語版)」をそれぞれ出版、同時に日本語版と英語版の電子書籍(PDF版)もリリースした。
 今後の日本の製造業にとっては、英語は避けて通れない言語である。日系工場に働く人々に、世界に通用する生産管理用語を覚えて欲しいと、標準語(英語)も解説した。
 昨今の大手企業では、日本人ばかりでなく外国人を採用するケースも増えてきた。このようなケースでは、新入社員教育は日本語版と英語版を活用できる。また、海外に進出した工場では日本人スタッフとローカルスタッフの教育にも利用できる。
 ・・・中略・・・
 「同じことを百回言ってもタイ人は理解しない」「近代工業の経験がないタイ人に理解できる筈がない」と相手を非難しても前進はない。独り日本人スタッフだけでなく、ローカルスタッフも同じ知識を共有すれば、そこに相互理解、協調、創意工夫や「ヤル気」が生れる。国籍を問わず若い世代が、基本的な知識を体系的に学び、それを応用して大きく伸びて欲しいとの願いを込めて、日本語版と英語版を書き上げた。
 ・・・中略・・・
 私費出版は別として、日本国内では同じ内容の日本語版と英語版を出版することは採算性の上で不可能である。しかし、バンコクのCOMM BANGKOK社はそれを実現した。バンコク伊勢丹やエンポリアム百貨店の紀伊国屋や東京堂などの書店に日本語版と英語版を並べている。COMM BANGKOK社の英断を賞賛するとともに、こころから感謝している。
 遠い将来、日本企業のグローバル化が進み、日本で働くビジネスマンの人種も多様化するだろう。その頃、日本の書店でも同じ著者の日本語版と英語版のビジネス書を並べる時代になると信じている。その時代では、日本語しかできないビジネスマンやコンサルタントは第一線から淘汰されているだろう。同時に、日本の社会も大きく変化しなければならない。その社会を「住みよい社会」とするか否かは、現在の私たちの行動と国の政策で決まってくる。
 繰り返すまでもないが、生き残りをかけた企業のグローバル化と英語化は加速する。航海日誌が英語だったように、日本企業の業務報告やe-mailは英語になるだろう。
 さらに、政治の世界もビジネスの変化に足並みを揃えなければならない。ビジネスをバックアップすべき政治家には、通訳抜きで自分のことば(英語)で世界のリーダーたちと堂々と渡り合う能力と気魄が求められる。さもなければ、日本は世界政治の蚊帳の外、国益や領土を守ることは覚束ない。

今後:
 人は6、70歳にもなると、「あゝ、年を取ってしまった」という。さらに数年後に「あの頃は若かったが、今は年を取ってしまった」という。さらに数年後にまた「あの頃は若かった」と。
 では、いつが若いのか?と自問するまでもなく、「今」が一番若い時である。あなたも、私も、90歳のお婆さんも、すべての人々は「今」が一番若い。胸を張って「今」を生きる。その結果、世の中が元気になる。
 元気になれば、あれもこれもしたいと欲が出る。欲が出ると、時間が足りなくなる。時間の不足を補うためには、少し長生きして時間を稼ぐ。しかし、時間があってもなかなか達成できないこともある。
 私にとっては、いまだに達成できないことが多い。その一つは紳士になることである。国際法の西島先生から「君たちもいつかは紳士になりなさい」とフランス語の紳士という言葉をあの階段教室で教わった。【下の写真参照】以来、先生のお顔とこのフランス語(Homme comme il faut: 世に必要な人)が時々頭に浮かんでくる。しかし、紳士への道はまだ遠い。
 人はトラブルに出会いながら生きてゆく。・・・中略・・・しかし、それでも明日に向かって生き続ける。時には、合理的に説明できない事象で命を救われることもある。それは神の警告と受け止め、身を慎み、さらに生き続ける。
 幸い、次のステップでなすべきことが見え始めた。それは日本の製造業のグローバル化に少しでも役立ちたいとの願いである。微力は承知の上、あきらめずに少しずつ前進したい。Feb/2012記

以上で投稿文からの引用は終り。

かつて西島先生の講義を受けた階段教室は、下の写真のように新しい校舎に建て替えられていた。

          階段教室は3階建ての校舎に替わっていた(2012/10/12)。
          

あの階段教室は消え去ったが、西島先生のお顔とことばは今も筆者の頭に生きている。ここは関西、明日から懐かしい琵琶湖疏水と伏見稲荷の「おもかる石」を訪れる。

京都再訪(1)に続く。

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