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小諸城址再訪

2016-09-25 | 地球の姿と思い出
ヒューストン再訪(5)から続く。

(1)初めてのひとり旅
時は1961年、大学4年生の夏、人生で初めてのひとり旅にでた。京都駅から夜行列車に乗って中央線の小渕沢から小諸へ、小諸から高崎経由で東京へ、東京駅23時35分発の夜行列車で京都に帰るという5日ほどの行程だった。

この旅の目的は、中央線のスイッチバックと碓氷峠のアプト式電気機関車の体験だった。この二つは、日本からなくなる前にぜひ見ておきたいと思った。

当時の中央線はスイッチバックで峠を越える時代、信越線の碓氷峠はアプト式鉄道だった。スイッチバックは、列車が山腹を斜めに登り、次に斜め後進で山腹を登る。前進と後進のジグザグで峠を超える方法だった。アプト式はレールとレールの中間に歯車用の軌道を敷き、電気機関車の歯車と噛み合わせて急坂を登る鉄道だった。【参考:中央線のスイッチバックは1972年にすべて解消、碓氷峠のアプト式は1963年9月に廃止】

また、この旅では予期しない光景や親切に出会い、今も時々思い出す。その一つは小諸城址の草笛である。

小諸城址での光景、それは黒い頭巾に黒装束と地下足袋(ジカタビ)姿、まるで忍者か修験者のような人が石垣を背に草笛を吹いていた。口上もなく、ただ一心に草笛を吹き続ける姿が非常に印象的だった。後にも先にも草笛を見たのはあの時だけ、草笛は草でなく3センチほどの木の葉で吹くものと知った。今も、石垣を背に忍者姿で草笛を吹く光景が鮮明に現れる。

若い頃の記憶はいつまでも褪せることはない。あのスイッチバックと草笛は「黙々と何かに打ち込むこと」の記憶として頭に焼き付いている。それは、いわばスイッチバックと草笛の教え、その後の人生で難関に出会うたびにこの二つがこころに浮かび、努力した。

(2)小諸城址の草笛
最近、友人に誘われて、静岡の興津から52号線-141号線の約180kmを北上し、小諸城址を再訪した。もちろん、小諸と聞き反射的にあの石垣と草笛が浮かび上り、記憶をたどりたく思った。

昔の記憶を頼りに、ここに違いないと下の写真にある石垣を見付けた。近くで一休みする庭園の手入れをする人に、草笛の思い出を話すと、即座に「横山祖道」とその人の名前がかえってきた。この城址の有名人とは夢にも思わなかったので、驚きとともに来て良かったと思った。遅ればせながら、故人の冥福を祈った。

            小諸城址の石垣
            

下の写真は、草笛禅師「横山祖道」を紹介する看板と草笛再生ボックスである。再生ボックス中央のボタンを押すと、藤村の「千曲川旅情のうた」に対する「横山祖道」作の草笛の曲が流れる。

            石垣正面の横山祖道の看板
            

看板には草笛禅師「横山祖道」「昭和55年まで22年間の亘り雨の日も風の日もこの場所で難しい説教に代えて草笛の優しい音色で旅人や子供に教えを説いた」とある。この説明の下に島崎藤村の「千曲川旅情のうた」が記してある。

あれから55年、ふたたび同じ石垣の前で同じ草笛を聞いた。しかも、あの人はただ者ではなかった。道理で、あの草笛は時の流れに淘汰されることなくいつまでも生きている。半世紀振りの再訪で、目に見えない何かの存在を感じた。ふと、シャルル・トレネ作詞作曲の「詩人の魂」を思った。【詩人の魂:詩人が世を去った後も彼らの歌はいつまでも巷を流れる・・・といったフランスのシャンソン】

石垣のすぐ近くの展望台からは、下の写真のように千曲川が見える。この光景は今も昔も変わらない。懐かしさを感じるthe same old sceneである。

            眼下の千曲川
            

土曜日の城址は人影もまばら、静かに時が流れていく。日本の城の石垣は、大小の石が織りなす曲線美といえる。その曲面には武者返しの機能があり、同時に石垣の崩壊につながる壁面の張り出しを抑える効果もあるという。ヨーロッパでよく見る垂直で幾何学的な城壁とは異質、日本の城には天然とエンジニアリングの融合からくる「趣」がある。

帰途は、小諸から141号線と52号線を南下、興津に向かった。9月中旬の好天に恵まれ、川沿いの山々は美しく、水と緑が豊かな我が国の素晴らしさをつくづくと感じた。

            美しい山と川と集落
            

国道沿いの家々は手入れが行き届き、草むす屋根は見当たらない。外国の小さな集落に比べると、日本の豊かさが良く分かる。しかし、この豊かさはすでに陰り始めている。

国道から外れると途端に家並みが静かになる。舗装していない道はないが、行き交う人が少ない。あちこちにシャッターを下ろした店が目に付き、子供の姿は見当たらない・・・我が国の陰りである。しかし陰りがあれば、日差しもあるはず、見渡せば日差しに向かう新しい方向もある。

まずは現状分析が大切、少子高齢化により誘発されるであろう事象とその対策を、国道を南下する車内であれこれと考えた・・・次回に続く。

お知らせ:
このブログを2010年8月26日に始めて、今回で119回になりました。その内容は、思いつくままに言語、コンピューター、生産管理、ビジネス、国内外旅行などと多岐にわたりました。ここで1、2ケ月の小休止、過去の内容を整理した上でふたたびグローバル化と少子高齢化を念頭に、日本がとるべき方向を検討する積りです。
以上

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ヒューストン再訪(5)---大学内のスシ店と日本車

2016-09-10 | 地球の姿と思い出
ヒューストン再訪(4)から続く。

(6)大学のスシ店
母国を離れた留学生が多くの時間を過ごすのはどこか?・・・筆者の場合は、学生センターと図書館だった。多くの時間を過ごしただけ多くの思い出が残っている。

二つの建物は、下の写真のように隣同士、外観は50年前とほとんど変りない。しかし、建物の中はすっかり今風に生まれ変わっていた。

            図書館(左)と学生センター(右)
            

かつての学生センターには、食堂、書店、日用品店、郵便局、理髪店、ボーリング場など、何でもそろっていた。特に、自炊をしない筆者には食堂は必須の場所だった。

1967年の秋、あるHonor Societyのヒューストン支部へのイニシエーション(入会式)もこの建物だった。2階の部屋で、ただ1本のローソクの明かりを前に、筆者の入会は認められた。居並ぶ人たちは黒いアカデミック・ガウンに四角い帽子、闇に浮かび上がる人びとのシルエットは幻想的な光景だった。もちろん、その儀式は現実の話、入会の証書と証(アカシ)の金製バッチは今も手元に保管している。

また、大学を訪れるたびに1階の書店で書物を買い求め、そのまま地階の郵便局から船便で自宅に発送した。専門書は重く、1冊1.5kg近くのものもある。今は齢相応にビジネス・クラスに乗っているが、エコノミー時代は手荷物の重量制限が気になった。この書店ではあれもこれも買いたくなる。

最近のリフォーム(Renewal)で学生センターの内部はすっかり変わってしまった。その一つは、日本庭園と呼ばれた庭がなくなったことである。20mX30m程度の小さな庭だった。

筆者が入学した1966年8月から聴講生として再入学した2003年秋まで、その庭園はこの学生センターの地階に存在した。1階の回廊から見下ろせたその庭園は、下の写真のようにステージ階段に変身した。ステージ階段は一種の階段教室である。

            日本庭園がステージ階段に変身
            

もともと、あまり日本風とはいえない庭だったが、今では跡形もなく消失した。さらに、庭園に面した学食は大きなフード・コートに変わり、マックやパンダなどが入っている。また、昔の日用品店はUHのロゴ入りコロンブス衣類店に発展、書店はスタバの横に読書コーナーを設けて1階から地階に移転、売場を拡張した。

建物の内部だけでなく、学生センターの北隣りに学生センター北館、美術館近くにサテライト学生センター(分館)も増設した。北館は体育系の施設、サテライトはフード・コートである。学生数の増加で、建物の増改築と駐車場の立体化が進み、270万m2(縦横約1.6km)の敷地も建物だらけの感がある。

下の写真は、サテライト学生センターのテラスである。テラスは地下になっており、建物は地下に隠れる構造になっている。

            サテライト学生センター(分館)
            

下の写真はサテライトのフード・コートである。今回、写真の右奥にスシ店があるのを知った。その名はスシック(Sushic)、しかし、サマー・タームは休店とのことだった。ニギリなどの「生もの」を扱うからかも知れない。

            サテライトのフード・コート
            

下の写真はスシックの店構え、背面にメニューがある。ニギリズシの写真もあるが、壁のメニューからロール(西洋巻き寿司)が中心の店だと分かる。

            サテライトのスシック
            

筆者は西洋寿司を食べたことがないので、外観と味はわからないが、壁のメニューを要約すると次のようになる。
注:メニューの英語は原文とおり、カッコ内の日本語は筆者のコメントである。ここでは「Imitation Crab(偽物のカニ)」はカニカマと訳す。また、手掛かりがないものは「内容不明」とした。
CONVENTIONAL ROLLS(伝統的で標準的な巻き寿司)
 CALIFORNIA ROLL(*1補足参照)、PHILADELPHIA ROLL(*2)、ATOMIC ROLL(アトミック巻き=内容
 不明)、CATERPILLAR ROLL(*3)、CRUNCHY ROLL(天かす巻き)、RAINBOW DRAGON ROLL(*4)、
 SHASTA ROLL(シャスタ巻き=地名?内容不明)、TEMPURA ROLL、TEMPTATION ROLL
 以上の巻物はいずれも一品$5.99~$9.99程度
COMBOS(盛り合わせ)
 ALL STAR COMBO・・・・・$11.99(カリフォルニア・ロールとカニカマなどのオール・スター盛り合わせ)
 DELUXE NIGIRI SUSHI・・・・・$7.99(デラックス・スシ=ニギリ6個、すし種は不明)
TERIYAKI BOWLS(テリヤキ丼)
 CHICKEN・・・・・$7.99(トリ)
 SHRIMP・・・・・$7.99(エビ)
 VEGGIE・・・・・$6.99(野菜=人参、椎茸、ブロッコリ、ピーマン、玉ネギ)
以上、29種類の料理のうち、主なものをリストした。

【補足説明】
以下、Wikipediaの「巻き寿司」の説明で上のメニューを補足する。

*1)カリフォルニア・ロール
補足=アボカド、カニ(またはカニカマ)、きゅうり、トビコ(またはマサゴ)を巻いたもの。裏巻きにする場合はトビコ(マサゴ)を外側に乗せたり、白胡麻をまぶすことがある。

*2)フィラデルフィア・ロール
補足=ベーグル・アンド・ロックス(ベーグル#動向を参照)が基になっており、生またはスモークサーモン、クリームチーズを使用。きゅうり(またはアボカド)やネギ(または玉ネギ)を含むものもある。

*3)キャタピラ・ロール
補足=カリフォルニアロールの上にアボカドだけを乗せたもの。「キャタピラ」はイモムシのこと。

*4)レインボー・ドラゴン・ロール
補足=カリフォルニアロールの上にマグロ、サーモン、白身(ハマチ、タイ、アバコ、ヒラメ、オヒョウなど)、エビ、(またはエビの天ぷら)、アボカド、アナゴ(またはウナギ)などを乗せたもの。
---補足説明おわり---

学生センターから日本庭園がなくなり、代わりにスシ店が現われた。どちらも「生粋の日本」とは言い難いが、「アメリカ生れの日本」には違いない。

(7)学内の日本車の割合
前回の2003年秋に続き今回は約10日の滞在、キャンパスを歩きながら思い出すたびに駐車している車が日本車か否かを「Yes/No」とカウントした。

前回は約2ヶ月の滞在、サンプル数は忘れたがキャンパスの車の6割以上が日本車だった。その理由として、学生は中古でも故障が少ない日本車を好むと推定(独断)した。

今回は、サンプルの総数が217台、うち日本車が106台、日本車の比率は約48.8%だった。本当は、1000台ほどのサンプルが望ましいが、今回はサンプル数が少なかった。また、今回は6月のサマー・ターム、学生は少なく職員や一般の訪問者の車が多かった。なお、日本車のメーカーはトヨタ、ニッサン、ホンダ、マツダの順に多く、スズキとミツビシそれぞれ1、2台だった。

(8)50年の時の流れ
今回の再訪で、このキャンパスに立って50年の時の流れを振り返った。

昔に比べてキャンパスの大きさはほとんど変わらないが、古い建物に新しい建物が加わり、バリアーフリー化と自動扉化やコンピューター化など、その中身は大きく変化している。ウエルカム・センター(歓迎館)やビジネス・センターや研究所の新設だけでなく、出入りする人々の幅も幼稚園児からシニアまでに広がっている。先頭と後尾を先生が誘導する幼児の集団を2回ほど見た。売店では子供のスポーツ服を売っている。

一方、大学内ではエスカレーターを見たことがない。ふと、60年代にロンドン地下鉄で見た大規模なエスカレーターは、今や時代遅れになったのだろうか?と思った。

いつの間にか消滅した日本庭園、代わりに現れた「アメリカ生まれの巻き寿司」、学内の半数近くが「日本車」という事実・・・「社会・文化的な距離」が日本から一番遠いこのキャンパスに「日本」が存在する。さらに、もう一つの驚きは、アメリカでも最も典型的な車依存社会といわれたヒューストンで、キャンパスを取り囲むように路面電車が走っている。その案内書は英語とスペイン語の2ケ国語である。

また、目を筆者の傍らの孫と娘に移せば、孫は朝8時から夕方6時まで10時間のパソコン教室、友だちもでき皆との食事も楽しく、ヒューストンが大好きと言う。娘もアメリカ国内でしか入手できない品物を手に入れ大満足、この地でアメリカを感じると言う。

今、このキャンパスには筆者と娘と孫の過去と現在と未来が混在している。その混在の一つの共通項は「フレンドリー(Friendly)」、そこに新しい視界が開けて未来への方向性を感じ取った。これは大きい。

10日少々の旅を終えて、娘と孫は知人たちの待つNYへ、筆者はダラス経由成田へ、ヒューストン空港からそれぞれの目的地に向かう。

今回のヒューストン再訪は三段ロケットにみえる:筆者は第一段目のロケット、娘と孫は第二段と三段目のロケットである。ミッションを終えた第一段目は、思い出深いヒューストンで娘・孫と別れ、気ままな一人旅モードでダラスを経て故国日本に向かう。・・・補足:2016/10/6の脳梗塞でこれが最後の海外旅行になった。

次回は国内旅行「小諸」に続く。

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