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京都再訪(3)---稲荷の「おもかる石」

2012-12-25 | 地球の姿と思い出

京都再訪(2)から続く。

(2)稲荷大社
10月の中旬、5年振りに稲荷大社を訪ねた。稲荷大社はJR京都駅から奈良線で2つ目の駅、乗車時間5分の近場である。京都と奈良を結ぶJR京都駅には外国からの観光客も多く、中央改札の女性係員は、流暢な英語でテキパキと質問者に対応していた。京都駅もすっかり変わった。

          JR京都駅
          

JR稲荷駅は蒸気機関車時代とほぼ同じ大きさ、昔ながらの小さな待合室は伏見街道に面している。待合室を出て道幅7、8メートルの伏見街道を渡ると、目の前に御鎮座1300年記念でピカピカになった新しい参道が広がる。

【参考】
昨年(2011年)は稲荷大神御鎮座1300年の記念、この機会に重要文化財である本殿とその関連施設には大きな改修があった。なお、この御鎮座の日付は奈良時代、和銅4年2月初午の日(711年)、延喜式神名帳(927年)参照。

下の写真は、筆者と同じ電車から降りた人々である。若い女性や外国人が多いように思った。

          JR稲荷駅前
          

下の案内図のとおり、稲荷大社は稲荷山(233m)の斜面27万坪に広がる大きな神社、全国の稲荷神社の総本山である。山を巡る参道は人の行き来が絶えない。昔からよく整備された参道、清潔なトイレの配置、治安良好、JRと京阪電車の駅が近くアクセスも便利である。参道の土産物店や露店、キツネうどんやイナリ寿司(キツネ寿司ともいう)の食堂がウォーキングを兼ねた参拝者を引きつける。参道のスズメの串焼きも有名だったが、最近はその店は少なくなった。

          稲荷山の案内図
          

下の写真は、京阪電車の稲荷駅からの参道である。中央の年配のご夫婦、日本人だと思っていたら日本在住のアメリカ人だった。稲荷大社は外国人に人気があるとインターネットにあるが、閉門時間なし、拝観料なし、駐車料金なしなどが人気の理由かも知れない。

今回の参拝で気付いたが、いつの間にか御神籤が200円になっていた。しかし、拝観料がないことや神社の維持管理コストを考えれば、御神籤の値上げはやむを得ないと思う。御神籤を買う買わないは本人の気持ち次第、その「気持ち」は拝観料とは本質的に異なるので御神籤代の値上げの方が受け入れ易い。ともあれ、拝観料なしの稲荷山はありがたい。

          参道風景
                                        

参道でスペイン人観光客の一行に出会った。ガイド嬢のスペイン語はなかなかのもの、その説明が少し分かるので上手く案内するものだと感心しながら、暫らく耳を傾けた。スペインの人には鳥居や神社の建物、土産物店が珍しいようで、カメラやビデオに収めていた。

          スペイン人観光客の一行
          

下の写真は、鳥居と楼門である。この楼門は、秀吉が母大政所の病気回復祈願のために、天正17年(1589年)に寄進したものである。1974年に永久保存のために解体修築、昨年は御鎮座1300年記念の補修で鳥居や楼門も色鮮やかになった。

今日は楼門の人影がまばらであるが、正月には人波で埋め尽くされる。2012年3ガ日の人出は270万人、全国第五位だった。ちなみに、第一位は明治神宮の315万人、第二位は成田山新勝寺の298万人、第三位は川崎大師平間寺の296万人、第四位は浅草寺の275万人だった。

          新表参道の鳥居と楼門
          

楼門から山に向かって外拝殿、内拝殿、本殿が並ぶ。本殿の背後には千本鳥居が二手に分かれて奥社奉拝所に続いている。下は、一方の千本鳥居から他方を見た写真である。内側では赤い世界に圧倒されるが、外から見る千本鳥居はおもちゃの鳥居のように見える。

          千本鳥居を外から撮影
          

千本鳥居を抜けると奥社奉拝所(一般に「奥の院」という)がある。下の写真の左手は所要時間約2時間の「お山巡り」の出発点、同時に東山トレイルの出発点でもある。写真右手には、「おもかる石」がある。

          奥社奉拝所
          

今日は日曜日、「おもかる石」に挑戦するのは若い女性が多く、なぜか年配の男女は見かけない。人は、寄る年波と共に夢と希望まで諦めるのだろうか。

「思ったより軽かった」「重かった」と入れ代り立ち代り挑戦する若者に交じって筆者も試みたが、以前より重く感じた。これはまずい、初めての「NG」だった。

          おもかる石
          

自然エネルーギーの活用に関する願いだったが、その対象は水力、風力、波力と広範囲、つまり、絞り込みが甘く、具体性に欠けると反省した。このように曖昧な願いは「NG」、「おもかる石」は正直だと思った。

下の写真は東山の将軍塚展望台(約216m)から京都市街の眺めである。京都を離れる直前に駅からこの展望台にタクシーで駆け上った。

          将軍塚展望台からの眺め(1)
          
          将軍塚展望台からの眺め(2)
          

行き詰まりや迷いがあるとき、山の上から眼下に広がる静かな街を眺め、その街に息づく百人百様の生き方を思う。将軍塚から京都の街を眺めるうちに小さな自分に気付き、つまらぬ些事にくよくよするなと気持ちをリセットした。今回の「おもかる石」はNGだったが、いつかまたと思った。

神戸再訪と京都再訪をここで終了して、次回は10月25日に中断した「英語と他の言語(5)」に続く。

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京都再訪(2)---疎水の飲料水、水力発電、水運

2012-12-10 | 地球の姿と思い出

京都再訪(1)から続く。

4)蹴上・南禅寺の疏水
琵琶湖疏水は、山科から第二トンネル(124m)と第三トンネル(840m)を通過して蹴上(ケアゲ)舟溜りに出てくる。大津市三保ヶ崎から蹴上舟溜りまでの距離は8.7km、落差は4mと資料にある。疏水は蹴上舟溜りからさらに南禅寺舟溜りに続き、その先は鴨川と宇治川に放流されている。

下の写真は、蹴上舟溜り手前の水門である。疏水の流れは、ここから南禅寺舟溜り、蹴上浄水場、白川・哲学の道に分かれていく。

          蹴上舟溜りの水門
          

蹴上公園から京都市街を展望すると下のような景色が広がる。平安神宮の大鳥居の斜め右上に左大文字の火床がかすかに見える。写真には写っていないが、写真中央から左寄りに金閣寺がある。

          蹴上から平安神宮を望む
          

蹴上の舟溜りは南禅寺の境内に続いている。境内の右手にはレンガ造りの水路閣がある。この水路閣は、田辺朔郎博士(疏水設計者)による全長 93.2m、幅4m、高さ14mのローマ風の水路である。

          南禅寺境内の水路閣(水道)
          

上の写真中央の石段を登り、右手の急坂を上がると、水路閣の上に出る。この流れは、白川の遊歩道に続いている。その遊歩道を「哲学の道」と観光案内などで宣伝すると、かえって世俗的で興ざめる。水路閣の流れは速く、水のざわめきが絶えず聞こえている。

          白川・哲学の道への流れ
          

山科からの流れは、水路閣とは別にすぐ近くの蹴上浄水場と南禅寺舟溜りに分岐する。下の写真は南禅寺舟溜りに続く落差36mの導管である。

          南禅寺舟溜りへの導管
          

この導管の一部は、蹴上発電所の日本初の商用水車発電機につながり1895年の日本初の路面電車を実現した。現在、発電所は関西電力の無人発電所になっている。ちなみに、1895年にスタートした京都市電は、1978年に83年間の歴史を終えた。折角の市電も簡単に全廃された。

下の写真は、導管と並行して南禅寺舟溜りに向かうインクラインのレールである。この582mのインクラインは、舟溜りの舟を台車に載せてケーブルカーのように蹴上と南禅寺の舟溜りを往復した。

          インクラインのレール
          

当時は世界トップクラスのこの設備、1891年に営業を開始したが、1948年に休止した。道路網と輸送技術の発達で荷物がなくなり57年間でその役目を終えた。

下の写真は、インクラインの舟台である。現在は、京都市文化財になっている。これより小規模だったが、伏見のインクラインは1895年から48年間の運用で廃止された。この文化財から、技術革新の移り変わりとその短さを実感する。

          インクラインの舟台
          

下の写真は、南禅寺舟溜りである。写真正面は岡崎動物園、手前は蹴上舟溜りからの放水路、右は発電所からの放水路である。この舟溜りは、左方向の平安神宮前につながっている。

          岡崎動物園前の南禅寺舟溜り
          

下は、南禅寺舟溜りから平安神宮方向を見た写真である。平安神宮前には、美術館や図書館などが集まっている。浪人の頃に通った図書館、いつかは自著を寄贈したいと思い、50年後に夢を果たした。小さな夢の積み上げ、それが一つの生き方と納得している。未達成の夢は、さらにいつかはと温める。

          平安神宮に向かう疏水
          

疏水を眺めているうちに、釣り人の対岸に大きな魚を見付けた。下の写真はデジカメでズームアップした魚影である。さらに見ていると水面に跳ね上がったので、周囲の人たちも魚と認めた。

          釣り人の対岸に見える大魚の影
          

次は、疏水から平安神宮前の大鳥居を見た写真である。外国人観光客が多い場所である。

          平安神宮の大鳥居
          

下は、大鳥居前の橋から疏水の下流を見た写真である。右岸は国立近代美術館、春になれば両岸の桜並木が美しい。

          鴨川方面に向かう疏水
          

5)三条・四条・錦市場の風景
疏水を離れて、東山三条の交差点から三条通りを西に進むと、三条大橋にでる。下の写真は、三条大橋から東山を振り返ったものである。

          三条大橋
          

疏水と京阪電車は1987年ごろに地下化されたが、それまでの三条駅は写真の右側にあった。1番線プラットフォームの先端は鉄橋のように疏水を跨いでおり、レールの下に疏水の流れが直に見えていた。

歴史上のエピソードが多い三条大橋から鴨川を覗くと、写真のような光景が見える。今は両岸と川底は石組で固められ、写真の通り殺風景な遊歩道である。

          夕刻の鴨川
          

三条大橋を西に数百メートル進むと河原町通りと交差する。その交差点を左に折れて賑やかな河原町通りを南下する。500mほど歩くと、四条河原町に出る。

四条河原町の交差点から東山を見ると、すぐ近くに南座が見える。南座、疏水、京阪電車、鴨川、高瀬川と並んでいたが、疏水と京阪電車は地下に潜ってしまった。

          四条河原町から四条通りと東山を望む
          

四条河原町から四条通りを西に200mほど進み、新京極通りに右折する。新京極を100mほど北上すると左手に錦市場がある。錦市場は四条通りと並行して西に延びる道幅3m足らず、長さ500mほどの小路である。三条大橋西詰めから錦市場の入口まで歩いて1キロメートル弱、京都はこじんまりした街である。この街は大戦の戦火を免れ、1200年以上もの歴史が続いている。そこらじゅうに史跡とエピソードがあるのは当たり前である。

錦小路は、平安京の建設当初は道幅12mだったらしい。しかし、次第に細くなり「応仁・文明の大乱」で荒廃したが、1500年代(秀吉時代)に復興したらしい。

錦小路の名称は、初めは「具足小路」だったが、1054年に後冷泉天皇によって「錦小路」に改名されたと「京都の大路小路」にある。「具足小路」「屎小路」「錦小路」の面白いエピソードは「宇治拾遺物語」にあるので興味ある読者は参照されたい。【PP.158-159、錦小路、「京都の大路小路」小学館、2003年】【巻第二、一 清徳聖奇特の事、宇治拾遺物語、1213-22年】および【京都錦市場商店街振興組合公式サイト

下の写真は、錦市場の魚・干物店である。筆者の勝手な想像だが、若狭湾の鯖も店頭に並んでいたかも知れない。祭りと云えば鯖寿司、鯖寿司と云えば鯖を締める大きな絵皿と母の姿など、筆者には懐かしい思い出がある。

          錦市場の魚・干物店
          

また、京都といえば漬物、さまざまな漬物の味は舌と頭脳に刻み込まれている。お茶漬けに漬物、この味は欧米人に分かる筈がないと食べるたびに考える。逆に、世界各地の食べ物を食べるとき、自分は地元の人と同じように味わっているのだろうかと疑問に思う。たとえばタイの片田舎の屋台、そこには日本人の知りえない懐かしい味わいがあると想像する。たぶん、それは、その地に生まれ育った人だけに分かる味覚と生活文化だと思う。

          錦市場の漬物店
          

次に、さつま揚げのような練り物を扱う店の前で、外国人カップルに出会った。どれでも1串400円、練り物に興味津々のこの女性、ジッと店を見つめていた。数分後に引き返したとき、この女性と連れの男性は1串を分かち合っていた。たぶん京都が初めてのお二人さん、お口に合ったことを願っている。

          錦市場のさつま揚げ店
          

京都再訪(3)の稲荷大社に続く。

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