前回の日本人たれ(1)から続く。
(2)まず、日本人たれ
京都は、西山、北山、東山と呼ばれる山々に囲まれた東西約12kmの盆地である。その南側は、桂川、鴨川、淀川、木津川の合流地を経て大阪方面に開けている。
盆地の東側の山々は東山36峰、北の比叡山から南端の稲荷山まで続いている。最後の稲荷山は、稲荷神社の総本山、その歴史は和銅四年(711年)に遡る。
稲荷神社の本殿から、三ノ峰、二ノ峰、頂上の一ノ峰(233m)へと参道が通じている。頂上まで一気に登るとかなりきつい参道である。二ノ峰は中之社あたり、あの清少納言も苦しさを我慢しながら登った坂道である---“稲荷に思ひおこしてまうでたるに、中の御社のほど、わりなうくるしきを、念じのぼるに…(枕草子158段、993年)”。
頂上の上之社の左手の小道を進むとほどなく灌木の斜面にでる。その斜面に立つと、右前方の眼下に京都駅が東西に横たわり、その右手には京都の市街地が箱庭のように展望できる。京都駅には、新幹線の細長い列車がゆっくりと出入りする。右前方に西山の最高峰、愛宕山(924m)が見える。比叡山(848m)と鞍馬山(584m)は右手の森に隠れている。
1200年の歴史を持つ京の街を一望するとき、さまざまな史実がビデオの早送りのように頭の中を通り過ぎて行く。時には早送りを止めて、平安神宮前の京都府立図書館の文献で詳しく調べ、改めて過去を振り返る。この点で、稲荷山と平安神宮前の図書館が筆者の頭の中で結びついている。
見たところ静かな街並みだが、平安の頃、この盆地をたびたび襲った火の災い、風の災い、水の災い、地の災いの話が方丈記に出てくる。その方丈記は、この斜面の反対側、視界には入らないが5~6km東の日野山の奥で記された(1212年)。
南を見れば、南西に岬のように突き出る山の端は山崎、そこには水無瀬の宮がある。昔、業平一行が花見酒を酌み交わした場所である。“世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし”と業平、これに対して“散ればこそいとど桜はめでたけれ憂き世になにか久しかるべき”との返歌(伊勢物語82段、905年)。高校の古文で教わったこの歌に感銘し、さっそく自転車で水無瀬の宮を訪れた。その時の様子は今も記憶に残っている。
この一ノ峰の斜面に立つとき、眼下の街並みの歴史を思うと同時に、自分の将来についてあれこれと考えた。
話は変わるが、この稲荷山には、「おもかる石」という試し石がある。
伝えによれば、石燈籠に向かって願い事をする。次に石燈籠の空輪(頭の丸い石)を両手で持ち上げる。持ち上げたときに予想より軽ければ願いが叶い、重ければ叶わないとのことである。
2002年にたまたま撮影した写真があるのでここに紹介する。
本殿近くの千本鳥居を抜けると、奥社奉拝所という小さな社に突き当たる。
「おもかる石」への道(千本鳥居を抜けると奥社奉拝所)
奥社奉拝所の右奥に、石燈籠が2基、写真のように並んでいる。
2基の石燈籠(奥社奉拝所の右奥)
多くの人々がこの石を持ち上げたので、空輪と受け口はかなりすり減っている。それぞれの願いは、千差万別、その内容と結果は知る由もない。
「おもかる石」(すり減った空輪)
筆者が、この「おもかる石」を知ったのは高校生の頃だった。その時から、稲荷神社の熱心な信者ではないが、この「おもかる石」のご厄介になった。その頃の願いは“船乗りになりたい”だった。清少納言と同じように“稲荷に思いおこしてもうでた”といえる。
船乗りの願いは2年後に実現したが、その後も次々と願い事が出てきた。そのたびに、「おもかる石」に幸先(さいさき)を尋ねたが、答えは必ず“叶う”だった。それもそのはず、腹に力を入れて本気で持ち上げると「おもかる石」は意外に軽かった。ある意味では、吉や大吉ばかりのお神籤ともいえる。それでも、何もしないよりましと、真剣に「おもかる石」を持ち上げ、期待どおりの“叶う”に安心した。
コネも知り合いもいない海外への夢には、かなり無理がある。その雲を掴むような願いに、“叶う”とのお告げを受けて、本気になって夢に向かって歩き始める。姉には、いつまでも夢を追っていると叱られた。
夢の手掛かりを探すとき、名を名乗らなければ誰も相手にしてくれない。簡単な自己紹介と手紙の目的をタイプライターで書けば、必ず返事が返ってくる。ダメという返事や無回答も貴重な情報、その情報で一つの可能性を消去する。このような試行錯誤で少しずつ夢を具体化していく。善良な願いでかつ本気であれば、必ず手応えが返ってくる。
夢は、こころに描くだけでは実現しない。また、他力本願や金の力でも実現しない。自分の道は自分で切り開く、それが人生だと考えた。別の言い方では、自分の井戸は自分で掘るともいう。いつとはなく、このことを「おもかる石」から学び取った。この意味では、あのすり減った石は唯の空輪でなく、人のこころにやる気を起こさせる貴重な石だといえる。
商船大学への夢と「おもかる石」のお告げだけでは見事に不合格。そこで、本気になって平安神宮に近い予備校と府立図書館に通うのが日課になった。その結果、2年も浪人したが夢が叶った。やはり、努力なしには何事も成功しないと知った。
浪人の頃、図書館に近い南禅寺の疎水、丸山公園、桜並木の山科疏水【補足1&2参照】などを希望と不安、時には不合格という絶望を抱えて独り自転車で徘徊した。その後も「おもかる石」や京の街並みに助けられながら、ただ一度の人生は貴重、その貴重な人生を、努力を惜しまず、思う存分生きようとこころに決めた。
この肉体と考え方はメードインジャパン(日本製)、次回はその頭の一部にコンピューターと英語の知識を装備する。
【補足説明1】
長く日本の中心だった京都は、明治維新の東京遷都(1869年)で産業の衰退と人口の流出で危機に直面した。しかし、当時の北垣知事や技術者たちは琵琶湖疏水の建設で京都の活性化に成功した。飲料水、水力発電、工業用水と水運を確保し、新しい工業や日本最初の路面電車で京都を単なる歴史的な古都に終わらせなかった。
困難へのチャレンジと時代の先端技術を導入した結果が琵琶湖疏水である。今も、音もなく流れる続ける疏水だが、その流れは人間の英知と実行力をわれわれに物語っている。春はさくら、秋は紅葉が美しい桜並木の山科疏水は、知る人ぞ知る穴場である。インターネットで「琵琶湖疏水」を参照すると面白い。
【補足説明2】
日本の平安時代と同じ頃、ペルシャ(イラン)にはオマル・ハイヤーム (Umar Khaiyam:1048年-1131年)という人がいた。彼は、数学者かつ正確なジャラーリー暦を作成した天文学者である。さらに、哲学者で詩人でもあった。彼の四行詩(ルバイヤート)は、英国人のフィツジェラルド(Edward FitzGerald、1809-83年)の英訳(1859年)で一躍有名になった。日本でも明治時代に訳本が出たが、小川亮作はペルシャ語の原詩を和訳した(岩波文庫、S22年)。
143段の詩集で、イスラム教に反するが、酒をこよなく愛する詩人の四行詩は日本の「無常」にも通じる。ドライであっけらかんとした無常観は的を射ている。
大学浪人時代に知った“(大切な)酒を売って何を買う?(110段)”は筆者の頭で“魂を売って何を買う?”に変化して、今もこころにかかる問いである。
次回に続く。
(2)まず、日本人たれ
京都は、西山、北山、東山と呼ばれる山々に囲まれた東西約12kmの盆地である。その南側は、桂川、鴨川、淀川、木津川の合流地を経て大阪方面に開けている。
盆地の東側の山々は東山36峰、北の比叡山から南端の稲荷山まで続いている。最後の稲荷山は、稲荷神社の総本山、その歴史は和銅四年(711年)に遡る。
稲荷神社の本殿から、三ノ峰、二ノ峰、頂上の一ノ峰(233m)へと参道が通じている。頂上まで一気に登るとかなりきつい参道である。二ノ峰は中之社あたり、あの清少納言も苦しさを我慢しながら登った坂道である---“稲荷に思ひおこしてまうでたるに、中の御社のほど、わりなうくるしきを、念じのぼるに…(枕草子158段、993年)”。
頂上の上之社の左手の小道を進むとほどなく灌木の斜面にでる。その斜面に立つと、右前方の眼下に京都駅が東西に横たわり、その右手には京都の市街地が箱庭のように展望できる。京都駅には、新幹線の細長い列車がゆっくりと出入りする。右前方に西山の最高峰、愛宕山(924m)が見える。比叡山(848m)と鞍馬山(584m)は右手の森に隠れている。
1200年の歴史を持つ京の街を一望するとき、さまざまな史実がビデオの早送りのように頭の中を通り過ぎて行く。時には早送りを止めて、平安神宮前の京都府立図書館の文献で詳しく調べ、改めて過去を振り返る。この点で、稲荷山と平安神宮前の図書館が筆者の頭の中で結びついている。
見たところ静かな街並みだが、平安の頃、この盆地をたびたび襲った火の災い、風の災い、水の災い、地の災いの話が方丈記に出てくる。その方丈記は、この斜面の反対側、視界には入らないが5~6km東の日野山の奥で記された(1212年)。
南を見れば、南西に岬のように突き出る山の端は山崎、そこには水無瀬の宮がある。昔、業平一行が花見酒を酌み交わした場所である。“世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし”と業平、これに対して“散ればこそいとど桜はめでたけれ憂き世になにか久しかるべき”との返歌(伊勢物語82段、905年)。高校の古文で教わったこの歌に感銘し、さっそく自転車で水無瀬の宮を訪れた。その時の様子は今も記憶に残っている。
この一ノ峰の斜面に立つとき、眼下の街並みの歴史を思うと同時に、自分の将来についてあれこれと考えた。
話は変わるが、この稲荷山には、「おもかる石」という試し石がある。
伝えによれば、石燈籠に向かって願い事をする。次に石燈籠の空輪(頭の丸い石)を両手で持ち上げる。持ち上げたときに予想より軽ければ願いが叶い、重ければ叶わないとのことである。
2002年にたまたま撮影した写真があるのでここに紹介する。
本殿近くの千本鳥居を抜けると、奥社奉拝所という小さな社に突き当たる。
「おもかる石」への道(千本鳥居を抜けると奥社奉拝所)
奥社奉拝所の右奥に、石燈籠が2基、写真のように並んでいる。
2基の石燈籠(奥社奉拝所の右奥)
多くの人々がこの石を持ち上げたので、空輪と受け口はかなりすり減っている。それぞれの願いは、千差万別、その内容と結果は知る由もない。
「おもかる石」(すり減った空輪)
筆者が、この「おもかる石」を知ったのは高校生の頃だった。その時から、稲荷神社の熱心な信者ではないが、この「おもかる石」のご厄介になった。その頃の願いは“船乗りになりたい”だった。清少納言と同じように“稲荷に思いおこしてもうでた”といえる。
船乗りの願いは2年後に実現したが、その後も次々と願い事が出てきた。そのたびに、「おもかる石」に幸先(さいさき)を尋ねたが、答えは必ず“叶う”だった。それもそのはず、腹に力を入れて本気で持ち上げると「おもかる石」は意外に軽かった。ある意味では、吉や大吉ばかりのお神籤ともいえる。それでも、何もしないよりましと、真剣に「おもかる石」を持ち上げ、期待どおりの“叶う”に安心した。
コネも知り合いもいない海外への夢には、かなり無理がある。その雲を掴むような願いに、“叶う”とのお告げを受けて、本気になって夢に向かって歩き始める。姉には、いつまでも夢を追っていると叱られた。
夢の手掛かりを探すとき、名を名乗らなければ誰も相手にしてくれない。簡単な自己紹介と手紙の目的をタイプライターで書けば、必ず返事が返ってくる。ダメという返事や無回答も貴重な情報、その情報で一つの可能性を消去する。このような試行錯誤で少しずつ夢を具体化していく。善良な願いでかつ本気であれば、必ず手応えが返ってくる。
夢は、こころに描くだけでは実現しない。また、他力本願や金の力でも実現しない。自分の道は自分で切り開く、それが人生だと考えた。別の言い方では、自分の井戸は自分で掘るともいう。いつとはなく、このことを「おもかる石」から学び取った。この意味では、あのすり減った石は唯の空輪でなく、人のこころにやる気を起こさせる貴重な石だといえる。
商船大学への夢と「おもかる石」のお告げだけでは見事に不合格。そこで、本気になって平安神宮に近い予備校と府立図書館に通うのが日課になった。その結果、2年も浪人したが夢が叶った。やはり、努力なしには何事も成功しないと知った。
浪人の頃、図書館に近い南禅寺の疎水、丸山公園、桜並木の山科疏水【補足1&2参照】などを希望と不安、時には不合格という絶望を抱えて独り自転車で徘徊した。その後も「おもかる石」や京の街並みに助けられながら、ただ一度の人生は貴重、その貴重な人生を、努力を惜しまず、思う存分生きようとこころに決めた。
この肉体と考え方はメードインジャパン(日本製)、次回はその頭の一部にコンピューターと英語の知識を装備する。
【補足説明1】
長く日本の中心だった京都は、明治維新の東京遷都(1869年)で産業の衰退と人口の流出で危機に直面した。しかし、当時の北垣知事や技術者たちは琵琶湖疏水の建設で京都の活性化に成功した。飲料水、水力発電、工業用水と水運を確保し、新しい工業や日本最初の路面電車で京都を単なる歴史的な古都に終わらせなかった。
困難へのチャレンジと時代の先端技術を導入した結果が琵琶湖疏水である。今も、音もなく流れる続ける疏水だが、その流れは人間の英知と実行力をわれわれに物語っている。春はさくら、秋は紅葉が美しい桜並木の山科疏水は、知る人ぞ知る穴場である。インターネットで「琵琶湖疏水」を参照すると面白い。
【補足説明2】
日本の平安時代と同じ頃、ペルシャ(イラン)にはオマル・ハイヤーム (Umar Khaiyam:1048年-1131年)という人がいた。彼は、数学者かつ正確なジャラーリー暦を作成した天文学者である。さらに、哲学者で詩人でもあった。彼の四行詩(ルバイヤート)は、英国人のフィツジェラルド(Edward FitzGerald、1809-83年)の英訳(1859年)で一躍有名になった。日本でも明治時代に訳本が出たが、小川亮作はペルシャ語の原詩を和訳した(岩波文庫、S22年)。
143段の詩集で、イスラム教に反するが、酒をこよなく愛する詩人の四行詩は日本の「無常」にも通じる。ドライであっけらかんとした無常観は的を射ている。
大学浪人時代に知った“(大切な)酒を売って何を買う?(110段)”は筆者の頭で“魂を売って何を買う?”に変化して、今もこころにかかる問いである。
次回に続く。