船乗りの航跡

地球の姿と思い出
ことばとコンピュータ
もの造りの歴史と生産管理
日本の将来

JAL516便炎上とキャプテン・ラスト(臨時)

2024-01-03 | 日本の将来
昨日(2024/1/2)午後5時50分ごろ、何気なくTVのスイッチを入れたとき、画面の映像に目を奪われた。その光景は、画面中央で突然の大爆発、その中から火だるま状態で滑走し続ける大型旅客機、絶望的な画像だった。

繰り返し放映される画面のテロップに「乗客乗員全員脱出」とあったが、到底信じられなかった。

しかし、午後9時ころには各社のニュースからJAL516便の乗客乗員379人は全員無事脱出したと知った。海保機については、極めて残念ながらキャプテンが重症、残る5人の乗員は死亡、亡くなられた方々にはこころから哀悼の意を捧げた。

見るに堪えない映像だったが、救いは炎上する機体から脱出する人々の姿・・・あゝ、本当に助かっと。

一夜明けた今朝1月3日、筆者は「Yahooのニュースに次の記事を見つけた。

この記事対するコメント=594件

594件のコメントの筆頭はmhg********さんのコメント、その内容は次のとおりである。

mhg********
脱出映像を見るとCA2人とパイロットと思わしき方1名が最後に1番後ろのシューターから降りてきておりました。
パイロットと思われる方は機長でしょうか。コックピットに1番近いドアから脱出せず1番後ろまで回って残った乗客が居ないか確認したんでしょうね。
規則に則ったのでしょうが自分の命も危うい中しっかりと対応されて素晴らしい。
返信37件 共感した1万 なるほど361 うーん185

上のコメントは、まさにキャプテン・ラスト(Captain Last*)そのもの、筆者はmhg********さんのコメントに賛同する。516便クルーの仕事はExcellent Job、その結果は「全員生還」を実現した。また、英米インド各国のメディアが彼らを称賛するニュースもうれしい。【参考*:韓国客船沈没に思う(臨時)

現在の政治経済情勢は暗いが、これらの称賛に日本もまだ捨てたものではないと元気が湧く。

次回は「日本のバリアフリー遅れ」(現世代から次世代への脱皮)に続く。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

脳梗塞とリハビリ(5)---退院:80歳の脱皮

2017-05-25 | 日本の将来
脳梗塞とリハビリ(4)から続く。

4.新しい人生への夢
(1)過去からの脱皮
約80年の人生で入院生活は2回、一回目(2004/8)はバンコクの心筋梗塞で10日余り、今回(2016/10)は脳梗塞とリハビリを含む3ヶ月の長期入院になった。

バンコクでは、胸痛発生から6時間後に病院に到着、受付ロビーでいきなりニトログリセリンの口内噴射(心肺蘇生)、すぐに処置室で股間の剃髪が始まった。「口を開けて」と言う先生の声とニトログリセリンの刺激性の味は今も覚えている。

あの入院では数ヶ所の梗塞があり、最も大きな梗塞を心臓カテーテルとステントで治療、10日間の入院で一命を取りとめた。この緊急入院から数ヵ月後、容態の安定をみて日本に帰国、残る梗塞を延べ5回、2年3ヶ月にわたる心臓カテーテルによる治療を受け、今も問題なく生きている。

長い海外生活にまつわる体験だが、つい日本と外国を比較してしまう。日本人の公共モラルなどにはいいところが多く、誇りに思う。しかし、“教育”や“行政”が絡むと“日本特有の遅れ”が目立ってくる:たとえば、日本の教育、特に小学校から大学のIT教育は1966年以来、アメリカに比べて今も大きく遅れたままである。その言い訳は、ITに限らないが、“予算がない”が常套句である。かし、アジアのある国は予算が乏しかったが“国民のIT遅れ”を回避した(1990年代)・・・あれは知恵と努力、否、“やる気”の結果だったと筆者の記憶に深く残っている。


話はバンコクでの心筋梗塞に脱線したが、今回の脳梗塞による入院では二つの変化があった。その一つは、一時は諦めた自立歩行をリハビリで取り返した。

もう一つは、過去からの脱皮だった。車と運転との決別、すべてのマイレージ・クラブの脱退、身の周りの余計なものとはおさらばした。また、自然に逆らうこともしない。飛行機では途中下車ができないので海外にもいかない。パスポートや海外旅行用品は不要、手ぶらでも「記憶と想像の世界旅行」はいつでも好きな時にできる。オマケにただである。

無に還った心境のなか、リハビリ中に若い女性療法士さんと「永遠の0」(百田尚樹)の話しになった。その療法士さんから本を借り、読み始めるとたちまちはまり、数日で読破した。さらに、別の女性看護師さんから「海賊とよばれた男」(百田)も勧められ、それにもはまった。

意外にも、うら若き女性たちに勧められ、「日本のこころ」を物語る書に感動した。信念のある主人公たちの人生は堂々としている。その立派さに励まされて、せっかくの人生を後ろ向きではもったいないと思った。

しかし、残る人生は、老化現象+心筋梗塞&脳梗塞を抱えている。すでに手遅れとの感があるが、Nothing is too late to startと思い直して、貴重な人生を余すことなく生きようと思った。そこでドン・キホーテよろしく、今まで経験できなかったメンタル・タイム・トラベル(時空を超えた想像の旅*注)を思いついた。その旅を通じて少子高齢社会や日本の教育への思いをこのブログで発信するのも悪くない。
【*注:メンタル・タイム・トラベル=過去や未来を描く能力をいう。古代人の洞窟壁画や死者の埋葬と副葬品はこの能力に由来するという。「最古の文字なのか?」(後述) p.40】

(2)今後の夢
今回のリハビリでは自立歩行に苦戦したが、人類の二足歩行(=片足立ちの連続)はいつ頃からか?とよくある単純な疑問に直面した。そこで、人類の一人として人間の歴史を詳しく知りたいと「人類の足跡10万年全史」(S.オッペンハイマー著、仲村明子訳、草思社、2007/10)を読み直した。

この書物は、現生人類のミトコンドリアDNAを手掛かりに、15万年以上前のアフリカから8万5千年前の出アフリカ、さらに1万2千年前に南米チリに至るルートを示している。

遺伝子の追跡調査では、現生人類より遙か昔、300~400万年前の類人猿「ルーシー」も話題になる。「ルーシー」はアウストラロビテクス・アファレンシスの一族、身長1~1.5mの女性、「はっきりとした直立二足歩行」、現生人類とよく似た骨盤、脳容量は375~500CCだった。【参考:当ブログ、日本の将来---5.展望(1):人類の人口推移と日本(2014-03-25) の2.人類のイメージ、左端の写真が「ルーシー」】

別の書物「最古の文字なのか?」(G.ベッツィンガー著、文藝春秋、櫻井裕子訳、2016/11)によれば、世界最古の石器は330万年前のもの、あの有名な「ルーシー」の時代の石器である。さらに時が流れ、ホモ・エレクトスのアシュール型握斧(ハンドアックス)は150万年前の石器である。このハンドアックスは前期旧石器時代の主流だった。この頃の石器造りのプロセスには、大ざっぱであるが工程分割の概念があり、素材のある場所への工具の持運び(携帯)もあったらしい。

「最古の文字なのか?」のテーマは洞窟の壁画や幾何学記号の解明、さらには絵文字や文字・言語の研究である。著者はカナダ・ビクトリア大学人類学博士課程の女性研究者である。ヨーロッパ368ケ所の洞窟に潜り、収集した壁画の絵や記号をデータベース化した。そのデータベースから32種類の基本的な幾何学模様を割り出した。

この書物がカラー写真で紹介する1万6千年前の小さなシカの歯の首飾り48本に残された記号群は何を意味するか?石器で刻まれた記号は、顕微鏡分析では「ためらいや刻み直しが見られない」手慣れた仕事だった。さらに、シカの歯が遠くからの交易品だったため、25歳の若さで他界した女性の首飾りがきっかけで新事実が明らかになる可能性がある。現在、アフリカや他地域の洞窟は未調査、さらなる情報収集とデータベースの充実が楽しみである。

ここで「交易」という言葉がでてくるが、この言葉に、いろいろな人びと、珍しい品物、大道芸が集まる市場、その広場に漂うゴマの匂いに似た香料の香りを鼻に感じる。その香りは大昔から変わりなく、その香りと共に古代文明が開花した。特に筆者が思う「交易」には、スエズの砂丘を行く商船の船団と砂漠を悠々と進むラクダの商隊が同時に現れる。

一方通行のスエズ運河では、商船は船団を組んで運河を通過する。運河の湾曲部分では水面は小高い砂丘に隠れて見えなくなる。そこに船団が差しかかると、本船(自船)の視界には、貨物船の行列が砂丘の上をゆっくりと進む。その光景は、荷物を背にしたラクダたちが悠々と砂漠を移動する巨大な商隊に見えた。

現在の定説によれば、古代メソポタミアの楔形文字やエジプトのヒエログリフ(象形文字)は、せいぜい5000~6000年前のものである。楔形文字やヒエログリフは絵文字が進化した「読める」文字としている。

「図説、世界の文字とことば」(町田和彦著、2014/8)によれば、世界の言語は5000~7000だが、文字の種類は言語の100分の1以下という。ちなみに、このブログの「英語と他の言語(10)2013-03-25」でリンクした中西印刷株式会社の「世界の文字」によれば、現用文字は28種類、歴史的文字は98種類とある。

氷河期の終わり頃、1万年前頃から狩猟・採取社会は農耕社会に移行して、交易も盛んになった。最古のトークン(Token:商品引換票)は、1万年から8000年前のメソポタミアのものといわれ、取引品目の絵を描いた粘土板だった。

各地を結ぶ交易ネットワークの中心地である市場では何をどのようなことばで取引したのだろうか?また、何を食べ、どのような歌を歌い、どのようなパフォーマンスを楽しんだのか?興味は尽きない。「世界の美しい市場」(tabinote、田口和裕、渡部隆宏共著、2017/5)は世界各地の市場65ケ所を紹介している。

ヒューストン(2016/6)の次はアレクサンドリアの図書館、その次はウィーンのE2(イー・ツバイ:路面電車のルート番号)、、、と思っていたが、今回の脳梗塞でヒューストンが最後になりアレキ(アレクサンドリアの船乗り言葉)以降は夢に終わった。しかし・・・

次回から、「記憶と想像」の旅を続ける。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

脳梗塞とリハビリ(4)

2017-04-25 | 日本の将来
前回の「◇片足立ち」から続く。

◇視認:OT(職業/作業療法)の課題
投げ上げた「お手玉」のキャッチ。これがうまくキャッチできない。

簡単な作業だが「お手玉」が視界から消えるのでうまくいかない。冷静にみると投げ上げたときは見えるが、落下の途中で「お手玉」を見失う。さらによくみると、見えたり見えなかったり、「お手玉」が映画のコマ送りのような状態で見える。これは、目が「お手玉」の動きをリアル・タイムで追尾できないためである。

むかし西部劇で、拳銃の早撃ちは0.1秒のアクションと聞いた。相手の動きに1/10秒の早業で応える。それは、コンピューター用語ではレスポンス・タイム(応答時間)=0.1Sec.という。この応答時間が遅いため、目が「お手玉」を見失う・・・リアル・タイム性が悪いので「地対空」の制御がうまくいかない。(座っている筆者=地、空中のお手玉=空)

対策:
a.頭を静止、目を左右、上下に動かす。
b.頭を静止、目の前に親指を立てて左右に動かし目で追う。また、水平の親指を上下に動かし目で
  追う。
c.親指を静止、頭を左右、上下に動かし、親指を追う。また、頭を左右にかしげて静止した親指を
  追う。
d.お手玉やテニスボールのキャッチ、また、お手玉を3、4m先の壁に投げる。

眼球の分解掃除のように思ったが、目がスムーズに動くにつれ、キャッチのミスも減少した。しかし、タイミングのズレもありミスが皆無ではない。このミスは見えないので気付かない。

◇同時並行作業:OTの課題
一つの作業をしながら、別の作業をする。一般に言う「ながら作業」である。「ながら作業」が難しいのは老化現象のせいもある。

人間の「ながら作業」の処理方法とは違うが、コンピューターには並行処理(Parallel Processing)や多重タスク処理(Multitasking)がある。処理能力に余裕があるコンピューターは、見た目には多くの作業を同時に実行しているように見える。もちろん、これらの処理には一つの仕事だけに偏らないようにする仕組みがある。しかし、仕事の内容にもよるが、同時に多くの人がコンピューターを利用するとレスポンス・タイムが遅くなる。

ちなみに、コンピューターの高速処理を表す指標の一つに、MIPS値(Million Instructions Per Second:毎秒100万命令を実行)がある。1980年代の汎用大型機は1MIPS程度だったが、今日では1,000MIPSのコンピューターも存在する。【例:四則演算の“+”や“-”は一つの命令(Instruction)】

次の対策は「ながら作業」に慣れる作業である。かなり難しいが、実生活ではほとんどは「ながら作業」である。

対策:
a.ラケットにテニスボールほどの球を乗せて、廊下を歩く。対向者の回避や廊下の坂も歩く。
  (手元のボールから目線を上げると対向者が見えて回避可能・・・遠山を見る目つき)
b.サッカーボールほどのボールのドリブルで廊下を行き来、敏捷性を強化する。ゆるい坂もある。
c.体の柔軟性の強化・・・骨盤運動や平行棒と傾斜可動踏み台で柔軟性を改善する。
d.階段の上り下り、手摺を持たない上り下りも試みる。「下り」の不安感が大きい。
  (実生活では手摺がある壁際を歩く。転倒防止が最優先)

現在:
「視認」と「同時並行作業」を繰り返すうちに、自立歩行が安定し始めた。リハビリ室の平坦な床では、自立歩行は安定するが、芝生の柔らかな感触、横断歩道や通路の小さな段差、公道の歩行者や自転車の動きで自立歩行が不安定になる。足裏、目、耳からの情報が多く、脳の反応が遅れて体の制御が乱れる。街なかの実地訓練でかなり慣れたが、今でも立ち止まることが多い。

自分と相手それぞれが「空間を動く」、これは「空対空」の相対運動、その制御は複雑になる。渡り鳥の隊列や艦隊航法は相対運動の例である。車の自動運転もこの関係にある。リハビリの場合は、不安になれば立ち止まれば「空対空」⇒「地対空」に制御の難易度が下がるので安定しやすい。異常があればまずしゃがむ、あるいは何か寄り掛る。これはリハビリの基本と教わった。

◇同時並行思考:ST(言語・視聴覚療法)の課題
これは頭の中の「ながら作業」である。頭のすばやい反応が決め手、脳トレにもなる。

対策:
a.当日の新聞記事を音読しながら、特定のカタカナ一文字を見付け、記事の大意を記憶する。
b.カラーのブロックや絵を組み合わせて指定の模様を描く。
c.トランプ・カードをめくりながら、たとえばスペードの数字を加算する。
d.ランダムな一桁数字を聴き、突然ストップ、最後の3桁を答える。また、カセット・プレーヤーから
  流れる音声のうち、特定音声に応える。

ゆっくりと処理すれば簡単だが、スピードを上げると難しい。実際にはコンピューターと同様に、異なった仕事が交互に続く状態である。たとえば、a.では「音読」「文字検索」「文意の記憶」という3つの作業をすばやく切り替える。その切り替えで慌てと焦りが生じ、頭が混乱する。ちなみに、現在のコンピューターには感情はないが、早晩ビッグ・データ由来の知能や好み(Preference)を持つと思われる。その時、コンピューターも“もたつく”かも知れない。

現在:
STの検査項目の一部は、年齢層別に自己得点と最高、平均、最低点がグラフで図示される。客観的な自分の位置が分かるので大変役に立つ。得点の中には、最低点以下の項目もあった。それが自分の実力=実像である。自分だけは例外と過信するのは禁物である。

リハビリの入院生活で、体の柔軟性も一つのキー・ポイントと痛感した。

大学卒業からは仕事だけ、ゴルフやテニスその他の娯楽には無関心だった。そのせいか、筆者の体の硬さは当院の先生たちに有名で、柔軟性の改善を大きく阻害した。ただ一つ、握力だけは今も強く右40Kgと左35kg、学生時代の激しい運動(カッター部:端艇)の残り火は今も続いている。総じて、筆者の体の特性はリハビリには不利と分かった。しかし、毎日のリハビリでわずかな変化を重ねるうちに、変化が励みになり徐々に身体の動きも良くなった。

以上、3ヵ月間のリハビリは160回以上、22人の療法士の先生から指導を受けた。バランス感覚の障害で、立つことはもちろん、ベッドの端に腰掛けることもできなかったが、自立歩行までに回復した。リハビリの専門家たちに感謝している。

楽観ばかりではない復活、80歳代に向かう今後の自立歩行はポンコツ車ていど、高速道路をスイスイとはいかない。それがバンコクに続き今回も神に救われた自分の姿である。ポンコツとはいえ、胸を張ってつつがなく人生を全うすることが神への答礼である。

続く。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

脳梗塞とリハビリ(3)

2017-03-25 | 日本の将来
脳梗塞とリハビリ(2)から続く。

(3)リハビリ生活の中身
2)リハビリの本質
まず、リハビリの目的は、失った運動機能を取り返すことである。失った運動機能は手足の動きだけでなく、視覚や聴覚やバランス感覚など、目に見えないものもある。

具体的には、療法士の先生の動きを、何回も真似ながら失った動きを少しずつ取り戻す。その動きで、脳の中に新しい脳細胞の回路(ネットワーク)が生れ、動作の反復でその回路が活性化し、徐々に脳内に定着するという。

その論拠は、心筋梗塞では壊死した心筋は再生しないが、脳梗塞ではリハビリにより別の脳細胞が新しい回路を作り、失われた機能を補完する。心筋はOnly One、脳には使われない予備細胞が待機しているので再生が可能という。これが心筋梗塞と脳梗塞の違いだと先生たちに教えられ、絶望から希望が湧いてきた。

たとえば、筆者は体を右にひねると激しい目まいに襲われた。この症状に対して、輪投げの輪を10個左から右に移動、続いて逆方向の作業、これを繰り返しと徐々に目まいが改善した。この改善では、単に輪投げの輪の移動だけでなく、ベッドでのマッサージとストレッチも必要だった。さらにエアー・クッションを利用した骨盤の運動や平行棒での歩行訓練、また、平衡感覚を取り戻す目と首の運動や「同時並行動作」(後述)も必要だった。

リハビリを進めるにつれて、一つの症状に潜む多くの原因を探り当て、一つひとつを改善しなければならない。その作業から、人間は、脳という名のコンピューターと骨格・筋肉という名の動力系が構成する極めて緻密な生きものと知った。脳の指令であちこちの筋肉が動き、総合的に微調整を加えながら目的を達成する。80年近くも人間として生きたが、人体への無知さ加減を我ながら恥ずかしく思った。

動作の繰り返しで新しい脳の神経細胞の回路を生成することは、新しいコンピューター・プログラムを脳に刷り込むことに等しい。それは、今日の工場でみられる学習型ロボットに新しい動作を覚えさせるのと同じである。なお筆者の独断だが、脳内のコンピューターはデジタル・コンピューターでなく、アナログ・コンピューターに近いとみた。【補足1参照】
【補足1:コンピューター】
 今日ではコンピューターといえば、デジタル・コンピューターを意味する。しかし、1960年代のデジタル・コンピューター(デジコン)には、大きさ、計算速度、記憶容量、リアルタイム性に多くの課題があった。当時、デジコンとは別にアナログ・コンピューター(アナコン)も存在した。現在でも、微分回路(電気回路または機械的な仕組み)など、いろいろなアナログ系のシステムや機構が存在する。たとえば、このブログ冒頭の「ほのるる丸」の速度計は、ピトー管と回転子と回転円錐板から成る微分機構(メカ)だった。【参考:高校物理⇒距離を時間で微分=速度、速度を時間で微分=加速度】
 アナコンは電圧・電流などの強弱をそのまま数値に見立てて数値計算をするコンピューターである。数値の計測精度は低いが、変化への反応が速いというリアルタイム性に優れているため、制御系の分野で活躍した。
 さらに、アナコンとデジコンそれぞれの弱点を補完するために両者を連結したハイブリッド・コンピューター(Hybrid-computer)も存在した。ちなみに筆者がヒューストン大学で経験したシステム制御用のハイブリッド・コンピューターは32チャンネルのAD・DA変換回路(Analog Digital・Digital Analog Converter)がアナコンとデジコンを連結していた。当時、システム制御には便利だったが、小型化・軽量化には程遠い代物だった。
 デジコンとアナコンの大きな違いは、取り扱うデータにある。たとえば、デジコンが計算する数値は2進数(文字も2進値に変換)、他方、アナコンは電圧や電流の強弱(ボルトやアンペアの値)をそのまま使用する。人間が感じる温度、痛み、甘み、音などはアナログ系のデータである。
【補足2:神経細胞の伝播速度】
 新幹線が誕生した1960年代の中頃、運転手が前方に障害物を見付けてブレーキを掛けるまでの時間が新聞に載った。その記事で、神経細胞の伝播速度は、秒速約70mと知った。
 今日では、神経細胞の伝播速度は、情報の種類と伝達部位により異なるが、毎秒数mから100m程度といわれている。デジコンとアナコンが扱う電気や電波や光は秒速30万km(一秒で地球7回り半)、人間に比べて超高速処理が可能である。ただし、伝送する情報量は、データの圧縮やブロッキングの技術が介在するので伝播速度だけでは単純に比較できない。

ここで書物の引用になるが、イルカは知能、運動能力、コミュニケーション能力ともに優れた高等動物といわれている。講談社の「イルカと人間」(黒木敏郎著、1973年)には、“イルカやシャチの脳の神経細胞がヒトの十分の一程度と仮定しても・・・イルカの脳作用と同じ作動を行い得る計算機や制御システムを組み立てたとした場合・・・たいへんな重量と大きさになり、そんじょそこらの潜水艦に積んだら、ただその装置の重さだけで沈んでしまう仕儀になりかねまい。”とある。

潜水艦はさておき、21世紀の現在でもコンピューターはまだまだ発展途上、ハードとソフトの将来は計り知れない。リハビリの分野でもコンピューターの活用が進み、近い将来にはCAP(Computer-Aided-Person:コンピューターに支援された人=筆者の造語)と呼ばれる人が現われ、高齢化社会の様相が一変するだろう。

想像に過ぎないが、内装型(Built-in:埋め込み型)や外装型(コルセット、服飾品、装身具などの着脱型)の補助具が現われ、遠隔操作が加わると夢が広がり、同時に危険性も増す。たとえば、90歳のジイサンが、今日はハイキング、人工筋肉を付けて行こうなどといった具合である。この種の補助具は、すでに物流や介護の業界で実用化に入っているが、軽量化とポータビリティーが進めば高齢者たちの日用品になると思われる。その頃、車の自動運転や社会のロボット化が進み、技術の発達に応じた法整備も欠かせない。経済格差以前に知識格差が深刻になる恐れがあり、STEM教育の必要性も忘れてはいけない。【参照:2)STEM教育(ステム教育)、ヒューストン再訪(3)】

コンピューターの話で脱線したが、ここで3ケ月にわたるリハビリで気付いた自分の姿を紹介する。

3)リハビリで判明した自分の姿
昨年10月3日の脳梗塞発症で失った運動機能は数々ある。「失った」機能の中で最も厄介なのは、「失った」と認識できない「失った」ものである。ある日、突然顕在化して大きな混乱を招く「プログラム・バグ(虫)」(注)のようなものである。これは生命にかかわるので、リスク管理の対象になる。【注:コンピューター・プログラムの最終テストでも発見できなかったエラーをバグという。バグの発見と修正には時間がかかる。】

なお、幸か不幸か役所の要介護認定で筆者は「非該当」(2017/1/17)、「介護保険」は役立たずだったが、それでいいと思っている。福祉社会といえど最後は「自分の身は自分で守る」ことになる。

以下、日常生活に欠かせない幾つかの基本的な運動機能のリハビリを「対策」と「現状」に分けて紹介する。ただし、この説明は筆者の記憶と解釈であり、リハビリ病院の治療指針とは関係ない点に注意されたい。

◇片足立ち・・・二足歩行は片足立ちの連続:PT(理学療法)の課題
脳梗塞の前は小学生の孫とよく競い合ったが、小脳の梗塞で第一に「片足立ち」ができなくなった。

人間が立ち止まっているときは両足で体重を支えている。この状態から前進(後進)するとき片足立ちの状態になる。この時、入院生活で筋肉が落ちて片足で体重を支えきれない、ふらつく、不安定などが原因でうまく直進できない。特に、階段の上下は支える足に大きな力が働くので転倒の危険性も大きい。「高齢者⇒転倒⇒大腿骨骨折⇒寝たきり」は最悪、しかしこのケースは意外に多いという。リハビリ中によく注意された。

対策:
a.平行棒を利用した片足立ちの練習、歩行訓練では継ぎ足歩行は非常に難しく今も困難
b.エアー・クッションなどの器具を用いた骨盤運動&バランス感覚の回復
c.お手玉投げ&真後ろ(マウシロ)を見るように身体を左右にねじる運動
d.リハビリ室、院内廊下(訓練用の緩い坂あり)、院内庭園(訓練用に設計した小道、飛び石、階段、
  芝生斜面など)、公道、電車の乗降車、横浜駅の雑踏、スーパーやショッピング街などの先生同
  伴の歩行訓練・・・指、手、足裏の触覚、視覚、聴覚が察知する外部情報とそれに反応する脳の
  細胞回路の活性化と定着
e.不意に前後左右から押された時の身体の立て直し、細い道への対応、ジャンプなどの訓練

現在:
今年(2017)1月5日の退院時点では30分1.5kmていどの自立歩行が可能になった。階段の上り下りが可能だが、必ず手摺に手を掛けて転倒を防止する。これでPTの目標達成。

現在は、家内と二人連れで徒歩/電車利用の2、3時間の外出も問題なし。単独行動を避け、できるだけ毎日近くのスーパーに買い物とお茶に外出、3月一杯は週一の外来リハビリを継続。

「◇視認」に続く。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

脳梗塞とリハビリ(2)

2017-02-25 | 日本の将来
脳梗塞とリハビリ(1)から続く。

3.リハビリテーション
(1)病棟の様子
小脳の梗塞は約3週間の治療で終了、自宅近くのリハビリ病院に転院した。この病院は4、5年前に小学校跡地に開設されたリハビリ専門病院である。カタログによれば、病床数は224、うち回復期リハビリテーション用132床、障害者用44床、医療用48床である。昔は子供たちの運動会で訪れた広々とした敷地、まさか自分がリハビリでお世話になるとは思わなかった。

(2)患者の顔ぶれ
筆者が入院した病棟は、回復期リハビリ棟の4階フロア、患者は40数名だった。患者数は入退院で常に変動するが、筆者が入院していた約2ヶ月半では女性が少し多めだった。

食堂に集まる患者の過半数は車椅子、次に歩行器や杖の人、自立歩行は5、6人だった。もちろん、車椅子から歩行器や杖に変わる人、逆戻りする人もあり、着席に必要なスペースが変化するので食卓の変動は日常茶飯事だった。車椅子での着席、手が不自由、食器の取扱い、薬の服用、食後の歯磨きなど、食事が始まると看護師・介護士さんたちスタッフは大忙しである。

患者の年齢層は30から80歳代、推定だが60歳代以上が圧倒的に多かった。リハビリの原因は脳卒中、脳手術、骨折など様々だが、食堂に初めて入った時の印象は、老人ホームのような感じだった。首に前掛けをかけて食事をとる人びとに、日本の将来を見た気がした。

79歳を迎えた筆者は高齢者よりさらに高齢の後期高齢者である。しかし、長年の独り旅で身に付けた「自分の身は自分で守る」と「余裕があれば他人を助ける」は忘れまいと本能的に考えた。また、その考え方がリハビリの本質だと後で気付いた。

(3)リハビリ生活の中身
入院中は、朝食=7時頃、昼食=12時頃、夕食=18時頃、消灯=21時、以降朝6時の点灯まで読書灯やTVはNGになる。50歳代より若い世代には、長い夜を苦痛に感じる人もいる。また、夜間のトイレの介助や見守りなど、ナース・コールを掛ける人も多い。なお、食事時間を「頃」としたのは、ひと口ひと口と流動食やスプーンで食事を取る人には定時前から定時後まで介護士さんが付きっきりになるからである。列車の時刻表のようにはいかない世界である。

リハビリの内容と時間は、患者に応じて異なるが、平均して1日3回ほどのリハビリを受ける。リハビリは1回1時間、リハビリとリハビリとの間に少なくとも1時間の休憩が入る。しかし患者が立て込むと休みなしの場合もある。患者別のスケジュールは週単位で決まっている。

前回でも触れたが、リハビリはOT(Occupational Therapy:作業療法)、PT(Physical Therapy:理学療法)、ST(Speech Therapy:言語聴覚療法)に分かれている。筆者の場合は、OTとPTが多く、STは週2~1回ほどだった。

1)リハビリの目標
OT、PT、ST併せて100人以上の療法士の先生が指導する内容は、患者一人ひとりの目標に対応している。自立歩行ができない人、右手が不自由な人など、障害とその度合いは百人百様である。患者はそれぞれの目標に向かって日々のリハビリに励んでいる。

筆者の目標は、「自宅から2、300m圏内にあるスーパー、公共設備、駅への自立歩行」だった。この圏内で日常生活はこと足りる。

リハビリ中の頭の中にはヨーロッパの静かな広場、そこには商、公、教、文化施設が整い噴水が憩の場になっている。噴水の木陰で街の芸術家がキャンバスに向かっている。あるいは、エトナの中心街のようなコンパクト・シティーが頭に浮かぶ。

青い空に浮かぶ真っ白な雲、緑の丘に囲まれたコンパクトで静かな町(City)を思う。エトナは山岳地帯の町だったが、ダウンタウンに坂道はなかった。今まで忘れていたが、コンパクト・シティーの要件として水に強い平坦な土地を追加する。坂道や山の斜面はもっての外、数百年に一度の津波を恐れて、岸壁の町から山の斜面に移住するなどという構想は、素人の発想、NGである。移住先の安全をとるか?数百年にわたり寝起きを共にして実現する岸壁の繁栄をとるか?二者択一でなく、数世代をかけて新しい技術を開発する気構えで取り組むべき課題である。その課題は、Risk Seeking(リスクを積極的に取る)/Risk Aversion(リスクを回避する)の観点で幅広く分析すべきである。

この問題については、200~300年の計で日本の姿を計画すべきである。国交省の2050年を目標にするGデザインではあまりにも近視眼的にすぎ、薄っぺらな紙に描かれた空論に見える。もっとも、百年単位の視点で地球を見ると、泡沫(ウタカタ)のように儚い国が多い中、200年先にも日本とその国土が存在するように「自分の身は自分で守る」ことがまず大切である。「自分の身は自分で守る」ことに「反対」「反対」では話にならない。いわれのない不安でヒステリックになるのをパニック・テラー(Panic Terror)という。・・・語源=ギリシャ神話

坂道で思い出すが、日本語の「山の手」には高級住宅街のイメージがある。しかし、たとえばリオの山の手は高級住宅街どころか貧民街である。他にも、ダウンタウンに比べて生活に不便な山の斜面に掘立小屋が立ち並ぶ光景もある。また、日本の大都市近郊では、1960年代は見晴らしのいい憧れの新興住宅街だったが今では過疎化が進み、交通の便も悪い。陸の孤島に残された街並みと老人にとっては、かろうじて生き残った2km先のただ一軒の八百屋への買い出しも一日仕事と昨年NHKテレビが放映した。5、60年前には想像もしなかったとため息をつく80歳代のおばあさんの姿が忘れられない。

小脳(バランス感覚)の梗塞で歩行障害を持って初めて分かったことだが、車椅子や歩行障害者にとっては、坂や階段やエスカレーターは鬼門である。特に、混み合った下りエスカレーターでは降りるときが危険である。もちろん、筆者が入院したリハビリ病院にはエスカレーターは一台もなかった。

参考だが、皇居(含外苑:230万m2)ほどの広さがるヒューストン大学(270万m2)のキャンパスには、約150の建物がある。筆者が知る限りだが、校内には昔からエスカレーターが1台もない。すべての建物の入り口はスロープ付き、古い建物の観音開きの出入り口も90年代には自動化を終え、電動車椅子の学生も自由に校舎を移動できた。出入りが多い学生センターやヒルトンホテルもエレベーターだけである。筆者の記憶だが、エレベーターは必ず2台(門)以上、しかも大型で低速である。物資の運搬用も兼ねているようだった・・・目先の流れに妥協しないある種の思想を感じる。他方、人出の多いショッピング・モールにはエスカレーターもあるが、その脇にはガラス張りのエレベーターが待機している。エスカレーターだらけの日本の建物は、今は便利だが将来が気に掛る。【参考:ヒューストン再訪(5)、(8)50年の時の流れ

リハビリは一日に3時間ほどだけ、後はベッドや食堂で時間をつぶす。まさにKill Time(時間をつぶす)である。おまけに、読書もできない長く暗い夜が待っている。そこで、夜ごと世界の音楽で懐かしい昔を、ヘッドホーンを通して頭の中に再現した。絶え間なく流れる百数十曲の音楽は砂漠のオアシス、乾ききった頭脳に水、こころがすっかり若返った。音楽は本当にありがたい。

バランス感覚を失って身体は不自由だが、幸い思考力には目立った不具合はない・・・と思っていたがそうではなかった。・・・頭の中に生きる梗塞前の自分は今では過去の人=虚像、その虚像のベールを剥がして現在の自分の姿=実像を明かしていくのがリハビリ。リハビリは単なる体操ではない。

続く。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブログ再開のお知らせ・・・脳梗塞とリハビリ(1)

2017-01-25 | 日本の将来
前回から続く。

1.「ブログ休止」変じて「脳梗塞入院」
前回「小諸城址」(2016-09-25)の末尾で、このブログを2~3ヶ月休止するとお知らせしました。その約1週間後の昨年10月3日に脳梗塞を発症、今月5日(2017-01-05)まで治療とリハビリで入院しました。現在は週1回の通院でリハビリを継続中。もしかして、あのブログ休止予告は、我が身に忍び寄る脳梗塞を本能的に察知したためかも知れないと人生の不思議を噛み締めています。

思わぬ不運との出会い、まさに人生の明日にはなにが起こるか分からない。しかし、不思議なことに今回も「途切れない糸」は途切れることなく、筆者は今も生きている。

生と死は紙一重というが、2004年8月9日のバンコクでの心筋梗塞も危なかった。あの時は、数ヶ所の冠動脈閉塞をリアルタイムで映す頭上の画面を見ながら独り静かに死を覚悟した。人間は、いざとなれば意外に冷静になれるものだと思った。しかし、径2.3mmのステントの挿入で生命の減算が加算に変わり、発症後6時間も経過した心臓は奇跡的に持ち直した。

バンコクの退院後、横浜市立大学付属病院(横浜市大病院)で約半年間隔のカテーテル検査とステントの追加、最終カテーテル検査は2006年10月、今も定期的に受診している。治療中も近場(バンコク)の海外活動は継続した。今回は、同じ病院の脳卒中科のお世話になった。

バンコク病院(Bangkok General Hospital)を退院するときに、あと何年(生きるか)?との筆者の問いにベテラン医師(タイ人)の答えは「自分の患者は、12年後に亡くなったが、その死因は心臓病でなくガンだった。しかし、12年後あたりは注意しなさい。」とのアドバイスだった。

あのとき以来「12年」がいつも心に引っかかっていたが、その「12年」が今回は小脳梗塞という形で現実になった。この異変は、こころの奥底に潜む気掛かりな「活断層」が2016年秋という名の「地表」に姿を現したと言える。

この脳梗塞にはもう一つの不思議がある。それは、前々回のブログで紹介したヒューストンへの旅行である。

かつて、国連を目指して入学したヒューストン大学、その入学からちょうど50年後の昨年6月に、国連ハノイ校(UNIS)5年生(10歳)の孫が夏期講座に参加した。その講座は、2015年秋に筆者の娘がインターネットで偶然に見付けた小学生向けゲーム設計コース、その開催地がヒューストン大学だった。

孫の夏期講座参加は筆者にとっては「ヒューストンの呼び声」、その呼び声に応えるように筆者・娘・孫の三世代3人は大学を訪れた。孫の「英語力」と「コンピューター能力」に問題なし、喜々と新しい世界に溶け込む孫の姿に筆者は大いに満足した。その満足感は、任務を終えた第一段目のロケットが大気圏で燃え尽きるのに似たものだった。

ヒューストン空港で娘と孫はNYへ、筆者は成田へそれぞれの旅路に向かった。あの日あの空港で50年にわたる一つの物語は幕、しかし次の世代が展開する新しい物語が楽しみである。

---◇◇◇---◇◇◇---

「ヒューストンへの旅」を終えた筆者の人生は、3ヶ月後の同じ日に暗転、次の幕開けは救急車だった。

人生はどこまで行っても未知の世界、不測の出来事だけでなく、そのタイミングでも明暗が分かれる。人生は、あれこれと興味深い。

今回の脳梗塞も知るよしもなかったが、もし脳梗塞が「ヒューストンへの旅」の前ならば旅行は中止、50年にわたる物語も立ち消えになったはずである。逆に、旅を終えた後の脳梗塞は望ましいタイミング、おかしな話であるが今回は歓迎すべき脳梗塞だった。救急車で始まったが、この“親愛な運命”とは誠実に付き合おうと考えている。当然、やり残しの課題も立ち消えないのでこれも大きい。

このようないきさつで、今回は予定を変更、当分は筆者が体験した脳梗塞とリハビリの世界を紹介する。それは、高齢化社会の傾向と対策にもかかわる話に発展する。

2.脳梗塞と入院
16年10月3日朝6時、PC(パソコン)を立ち上げようと机に座ったとたん、激しい目まいで椅子から転げ落ちた。床に伏してもなお続く目まいで椅子の脚にしがみ付いた。119番で近くの横浜市大病院に搬送された。

レントゲン、MRI、CT、心臓エコーと下肢エコーと首動脈エコーなどで小脳梗塞と診断され、10月11日までの9日間は昼夜の点滴が続いた。症状が落ち着くとベッドの端に腰掛けることができるようになった。しかし、右に振り向くと激しい目まいに襲われた。ベッド真上の天井が壁のように横に見えるのも小脳のダメージが原因と知った。

目まいの改善、看護師と介護士さんたちのサポートで車椅子を利用、次に歩行器、さらに点滴支持器に頼る歩行・・・次々と症状は改善した。どうしても改善したいという強い意志は、海外生活で身に付けた「自分の身は自分で守る」そのものだった。たとえば、1リットルほどのペットボトルを利用して腕や指の衰えを防いだのも一つの工夫だった。

10月17日の入院15日目から始まったリハビリでOT(作業療法)とPT(理学療法)を毎日受けた。しかし、この病院では治療が主、リハビリは副である。したがってリハビリが主の専門病院への転院をソーシャル・ワーカーに相談した。

リハビリでは、まず障害を克服するために、基本的な体の動きを療法士(先生)から教わる。その時、器具を使うこともある。患者は先生の助けを受けて、その動きをまねて習熟する。ときには、自分の症状に絶望感を覚える患者には、先生と周囲の人びとの声援も大きな支えになる。たったの数メートルだったが、補助具なしの自立歩行ができたときは心から感激した。二足歩行の理論は知らなかったことばかり、その奥深さをこの歳になって初めて知った。

横浜市大病院で脳梗塞治療と基本的なOTとPTを受けて、入院から19日目の10月21日に自宅近くの横浜なみきリハビリテーション病院に転院した。

【補足:リハビリテーションの基本用語】
リハビリテーションにはOT、PT、ST、3つの療法がある。これら療法は身体の動きと脳内の神経回路を生成(活性化)させる。療法士(Therapist)は国家資格を持つ先生である。略語とその内容は次のとおりである。
◇OT(Occupational Therapeutics:職業/作業療法)=部品や道具を使って手/指先作業などを改善
◇PT(Physical Therapeutics:理学療法)=マッサージ、平行棒や道具で身体の動きや歩行を改善
◇ST(Speech Therapeutics:言語療法)=計算、記憶、視覚、言語などの能力検査と改善
 STは、転院先のリハビリ専門病院で指導を受けた。

余談だが、転院のため横浜市大病院の玄関で拾ったタクシーは、今どき珍しい神風タクシーだった。病院からリハビリ病院は直線距離で約2km、広々とした道路で急激な左折と右折や不必要な追い越し、途中から筆者は目まいを再発した。妻の支えで下車、リハビリ病院の受付でしばらく動けなくなった。受付の関係者は、運転手を特定できるので苦情を云うべきと憤ったが、60歳代になっても身に染みついた乱暴な運転と接客態度は、今さら治るはずはない。あの種の人間は「死ななきゃ直らない」人である。この体験で、筆者は「今後は車を運転しない」に傾いた。

続く。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本の将来---5.展望(24):日本の工業製品:素材の底力

2016-04-25 | 日本の将来
「5.展望(23):日本の工業製品」から続く。

前回に紹介したとおり、身の回りの生活必需品は長もちするようになった。また、昔は道路わきに停まった故障車をよく見かけたが、今ではほとんど目にしない。

かつては先進工業国の特産物だった家電製品や車は今では途上国の産物、当り前の日用品になって世界各地に普及した。いわゆる、近代工業社会のグローバル化であり工業製品のコモディティー化である。

ここでは、世界のどこでも当り前の量産品が長持ちする理由を考える。

まず、今の製品は昔に比べてどこが違うのか?と考えた。その答えは、製品設計、素材、製造工程にあると思う。もちろん、筆者の“今”はここ十数年ほどの“今”、“昔”は50~60年ほど前の昔である。その間に筆者はコンサルとして、日本、欧米、東南アジアの輸送機器、機械、繊維、半導体、ソフトの量産品工場に出入りした。その経験で今も鮮明に残る記憶を断片的だがここに紹介する。

1.製品設計
この分野のキー・ワードはコンピューターである。アメリカでは、1950年代に始まったコンピューターによるロケットの軌道計算は、年を重ねて製品設計の分野で大きく成長した。

その背後には、コンピューター本体、通信技術、データベース・ソフトの3つの技術革新があった。たとえば、60年代後半にはインターネットの先駆け、ARPANET(アーパネット:アメリカの大学・研究所間コンピューター・ネットワーク)を工学部の講義で利用できるようになった。さらに、理数系学部ではコンピューターが必須単位というのも、アメリカ社会のコンピューター化に大きく寄与した。

大学のコンピューター・センターには主要メーカーの最新型が稼働してしいたが、そこにはメーカーの戦略も感じられた。それは、学生に卒業後も自社製品に愛着を感じさせようとするメーカーのブランド・ロイヤルティー(brand loyalty)戦略だったかも知れない。

学部に関係なく、IDを取得すればだれでも大型コンピューターを自由に(セルフサービスで)利用できた。学期末になれば、地下のコンピューター・センターから待ち行列が地上の芝生に伸びる様子を今でも思い出す。行列は男女半々ほど、理数系だけでなく教育学部や社会科学系のが学生も期末の小論文(term paper)などでコンピューターを利用していた。

ちなみに、2003年秋に筆者は工学部の聴講生になったが、すでに大きなワークステーション室が完備、待ち行列は解消していた。しかし、折角の大きな部屋はガラガラ、時の流れは学生が携帯するPCに移り変わったと実感した。

話が脱線したが、日本の製造業でも80年代にはCAD(Computer Aid Design)の導入が進んだ。コンピューターによる部品の強度計算は、材料費の削減と試作・開発の期間短縮に貢献した。この頃、設計者の製図板は床専有面積約11㎡(平米)だったが、設計者1人に1台の製図板が机上の画面に変わり始めた。RJE(Remote Job Entry:専用回線で接続)やTSS(Time Sharing System:公衆回線で接続)で社外の超高速コンピューターも利用した。

製品開発のコンピューター化はコスト・パフォーマンスを改善したが、反面、予期しない不具合もあった。たとえば、容易な設計は無駄な試作品の山を築いたり、部品の標準化に反した類似部品を増やしたり、さまざまな負の効果も現れた。とはいうものの、これらの弊害は経験とともに解消していった。

80年代のコンピューターは性能が向上し、計算結果の表現も進化した。たとえば計算で得た数値を図面(2次元)や立体図(3次元)、さらに動画(3次元+時間=4次元)で表現できるようになった。また、データのカラー化と漢字化も進んだ。

この頃の製品開発では、たとえば日本のエンジニアたちはアメリカのコンサルティング会社に出張、エンジンの回転数の上昇と共にシリンダーが鞴(フイゴ)の蛇腹のように縦横に変形する様子を画面で解析した。エンジンの固有振動数と共鳴の関係を高速コンピューターが動画で画面に映したものだった。

機械設計では構造解析による強度計算や材料コストの最適化が進み、部品そのものの耐久性も向上した。また、設計情報のデータベース化で過去のトラブルの調査も容易になり、設計者個人の記憶・経験だけでなく、情報の共有で製品設計の信頼性が高くなった。全般に、製品設計の初歩的なミスはコンピューター化でかなり減少した。

90年代には、大型汎用コンピューターがサーバーやパソコンに進化した。ハードウェアの小型化、低価格化と小回りが利く次世代システムへの変更、いわゆるダウン・サイジングという言葉が欧米のビジネス界で流行した。高価で大型しかも柔軟性が低い汎用コンピューター系のシステムは過去の遺産(レガシー:Legacy System)だった。レガシー・システムとの決別はサーバー、パソコン、次世代言語、通信技術が合体した新世界への脱皮だった。60年代はコンピューターの導入期だったが、90年代には普及期を迎えた。

当時、名刺交換で筆者が気付いたことだが、多くの会社のシステム部門は、その名称をIS(Information System:情報システム)からIT&S(Information Technology & System:情報技術&システム)に変更した。

この変化は、従来のシステム部門はソフトウェア開発と運用が主な仕事だったが、次第にソフト開発には通信技術の知識・経験も必要になってきた。オンライン・リアルタイム・システムの開発が急増した。また、いわゆる〝ソフト屋“や“パソコン少年”もSTEMスキル(Skill=技能)*を必要とする時代になった。【*注;STEM=Science, Technology, Engineering, Mathematicsの頭文字=科学技術工学数学の総合的な知識と技能を指す。子供へのSTEM教育は早くから始めるのが効果的と云われる。】

たとえば電話回線の媒体には、銅線に電波とグラスファイバー(繊維ガラス)が加わり、その中身は音声とデジタル・データ、さらに大陸間通信回線ネットワークには海底ケーブルに人工衛星が加わった。電話交換台はコンピューターに変わり、電話交換手は失業した。また、システムのオンライン化は伝票入力のキーパンチャー(Data Entry)を不要にした。同時に、大型コンピューターのダウン・サイジングがレガシー・システムの刷新を加速し、いわゆる“発展途上国”もこの波に乗り、業務処理システムのグローバル化が進んだ。

コンピューターの普及は利用分野の多様化にもつながった。3次元CADは機械設計から建築業界へ、さらにアパレル業界、CG(Computer Graphics)の分野にも広がり始めた。ビジネス界でも、90年代後半には、サーバー上の多言語データベースに受注・生産・財務を一元管理するオンライン・システムを米国の中堅多国籍企業が開発した。そのシステムの目的は、欧米アジア太平洋地域にわたる経営視界(Management Visibility)の改善とEU(欧州連合)への対応だった。

今や2010年代の地球、コンピューターの普及はグローバルな流れになって、世界各地に波及している。たとえばベトナム・ハノイのインター(ナショナル スクール)では10歳程度の小学生でもPC1人1台、自分のパソコンで宿題の動画を作成する時代になった。画面上の品物を、そのまま3次元プリンターで現物として製作できる今日、もの造りの将来はどれほど発展するのか筆者には見当が付かない。その領域は、作業服で身を固めた専門家の世界から老若男女・子供の世界にまで広がり、思わぬ発想も期待できる。

ここでいつも、筆者が残念に思うことが一つある。

それはコンピューター教育である。先に述べたとおり、60年代のアメリカの大学では大型コンピューターは使い放題、理工系では必須単位だった。そのころ日本の大学では学園紛争が花盛り、授業にはコンピューターのコの字もなかった。

さらに、2003年のアメリカの大学ではPCは必携品、PCなしでは(講義)教室の変更も分からなかった(筆者が聴講で経験)。時代はさらに進んで今や、ハノイのインターの小学高学年でもPCが必携品、本人はもちろん父兄とのやり取りもコンピューターで2003年頃のアメリカの大学と変わりない教育環境になった。

時代の先端技術(cutting-edge technology)は、いわゆる先進国・途上国というレッテルに関係なく、世界各地に一様に浸透する。政治家や経済学者が議論する“グローバル化の是非論”とは別に、地球を覆う通信ネットワークが発達した現在では、テクノロジーの進歩は世界の隅々まで同時に波及する。ただし、その“文明の利器”の利用を政治的な都合で規制する国も存在するがその効果は確かではない。

たとえば、日本では家庭の黒電話時代(固定電話)は60~70年前から始まった。しかし、タイやベトナムでは黒電話時代を飛び越して、いきなりケータイ時代(携帯電話)がやってきた。中途半端な中進国日本は、レガシー・システムが足かせになって、テクノロジーの潮流から取り残されないように注意したい。たとえばビジネス分野では、レガシー・システムからの脱皮は、技術者の判断ではなくSTEM感覚を備えた経営者の決断で実現する。

話はそれるが、日本の教育においては、コンピューターの活用はすでに20~30年の遅れを感じる。コンピューターの知識と使いこなしを身に付けた教職員の不足、筆者はこれを一番残念に思う。その人材不足は、教職員に限らず、ビジネス、特に大企業のシニア管理職層の「コンピューター音痴」にも現れている。

60年代にコンピューター教育を忘れて、ゲバ棒を振り回していた学生・大学当局とそれを座視した日本の政治家たちを筆者は本当に残念に思っている・・・60年代に大勢の若者を戦争で失ったベトナムの昨今に類似している。具体的には、知識・経験が豊かなシニア層の不足、さらにそのシニア層を土台としたより若くて高度な人材の不足、これらが国の発展を阻害している。

江戸時代の寺子屋では「読み」「書き」「ソロバン」を教えたが、60~90年代の日本の教育界は「ソロバン(コンユーター)」を忘れた。こともあろうに、大きな可能性を秘める電子ソロバン=コンピューター教育で出遅れたのは、返す返すも残念である・・・逃がした魚は超大物だった。

2.素材
工業製品の素材は金属系、プラスチック系、繊維系、塗料系、木材など多種多様、しかもそれらは日進月歩である。筆者には素材の専門知識はないが、ここに素材に関する経験を紹介する。

素材の重要性を認識したのはタイの日系工場だった。自動車部品、工作機械、繊維製品の工場では、点数は少ないが重要な素材/原材料はMade in Japanだった。高価だが、長い目で見ると経済的である。【参考:Cheapness安価とEconomy経済的の違い、3)利益管理、グローバル工場---機能の階層(6)(2012-03-11)】

染料や塗料などの化学薬品はかさばらないので十分なストックを持つことができる。しかし、製品の主要部分になる素材は、次々と日本から輸入しなければならない。ローカルのメーカーや近隣国では調達できない素材が、何かの理由で品切れになると生産中止という致命傷を受ける。見方を変えれば、そこに日系工場の価値がある。

ここで忘れてはいけないが、サプライ・チェーンの安定性も優れた素材そのものと同様に大切である。日本国内の工場火災や地震・風水害が原因で、海外の生産ラインがストップすることはよくある話である。月産1億個以上を生産する東北地方の小さな電子部品工場、11年震災では世界に大きな影響を与えたと想像する。海外工場の安全在庫で乗り切れるような問題ではない。日本は自然災害面では脆弱である:日本に位置する工場は、Weakest-link Theory(最弱リンク説)の最弱リンクの一つに成り得る。

昔はサプライ・チェーン(50年も昔の用語はメーカー・レイアウト、30年前はロジスティックス)の構築では、進出先のクーデター、政変、ワイロ、スト、為替変動への対策が重要だった。しかし、今後は政治経済の変動と自然災害に耐えうる柔軟な分散工場(Parallel Redundancy)や代替工場(Stand-by Redundancy)を備えた柔軟なネットワーキングが望まれる。職人技の高度な素材+簡単にダウンしない供給ネットワークが大切である。

今も思い出すが、日系工場のシンチュウ(真鍮)棒とステンレス鋼材が記憶に残っている。

ある工場で「担当者に同じことを100回言っても言うことを聞かない(社長談)」ので筆者が社員指導)に関わった。その工場の主な素材はシンチュウの六角棒、その素材からエアコンや冷凍機のナットなどを製造する単純な工程だった。

問題はそのシンチュウの六角材、どうしても日本製でなければならないという。その理由は、素材の成分でなく、シンチュウ材を製造するときの焼鈍(ショウドン)工程だった。焼鈍処理がまずいと、その素材から作ったナットは使っているうちにひび割れるという(焼鈍:焼きなまし=素材を加熱、分子間の残留応力を解消する熱処理)。たかが真鍮のナット一つといえど、その素材は見た目や成分分析だけでは分からないノウハウを秘めている。素材の高品質は日本の強み、その強みは独り大企業だけでなく多くの中小企業と職人たちの知恵と工夫が織り成す日本の底力である。

タイでも日本のODA(政府開発援助)で焼鈍装置を導入している。しかし、その装置を使いこなせないので、やはり日本製の素材を輸入しなければならないとのことだった。六角棒から部品を削り出す工程では、素材の半分近くが切り屑=スクラップになる。しかし、日本から輸入した六角棒を使うのは、金属疲労と経年劣化に耐える製品を作るためだった。

また、別の日系工場ではステンレス鋼材の品不足が問題になった。タイからかなり離れたインドまで、あちこちの素材を探したが、設計基準にあう素材がなく、一時は生産中止に追い込まれた。

この他、繊維系の工場では染色や塗装工程がある。染料、塗料、高価な化学薬品などもMade in Japanだった。染料や塗料は製品の色むらや色落ちばかりでなく、経年劣化によるトラブルがあるので過去の実績を蓄積した技術情報DB(Database)が大切である。たとえば、塗装の経年変化は、過酷な自然条件での10年単位の長期に亘るデータを蓄積する。

また、別の話になるが、ある外注工場がコスト削減のために、発注元に無断で材質を変えた。海外ではたまにある話、その後、製品トラブルが発生、部品の材質変更が発覚した。長もちする製品は、一朝一夕に生まれるものではない。ある時東南アジアのある国のイミテーション工場に踏み込んだが、純正品と寸法と外観はソックリ、しかし材質が違うので半値以下だった。

3.製造工程
工業製品は多くの製造工程を経て完成する。素材、たとえば鋼板を切断する工程や切断した鋼板に穴をあける工程などがある。さらに、部品の切削、溶接、メッキ、塗装、組立、最終検査などの工程がある。

製品の材料となる素材を初工程に投入し、加工を終えて次の工程に投入・・・次々と加工を終えて完成品が出来上がる。

洋の東西を問わず、形のあるものの製造工程では初工程から最終工程まで、加工を終えるたびにその仕上り具合をチェックする。チェックの結果、良品だけを次の工程に引き渡す。最終工程で加工を終えた仕上り品は、さらに最終検査を受け、合格品だけが製品として顧客に出荷される。

最終検査の内容は製品によりまちまち、製品にもよるが簡単な試運転や通電テストなどもある。特に、新製品の最終検査は、初期不良(前回のMortality参照)を念頭に綿密に検査する。新製品に使う部品も初期不良を回避するために仕上り品を“赤札”で識別、全品入念に検査する。なお、初期不良には設計変更や製造変更で対応する。

たとえば、タイの田舎の外注先、中庭兼駐車場にニワトリが遊ぶような工場でも、納品に不良品があれば売上金にかかわる深刻な問題になる。当然、製造担当者は仕上り品のチェックには真剣である。手抜きは自縄自縛、特に、“赤札”付きの納品物は、念入りに検査する。

ちなみに、10年を超えるタイの工場での経験だが、一般に、女性には「シッカリ者」が多い。生産管理、品質管理、経理の管理職や通訳は女性が幅を利かせている。ある機械加工の小さな工場で生産管理課長が全工程の作業とシステムを立て板に水で説明(英語)してくれた。その若い女性課長の自信に満ちた堂々たる説明は記憶に新しい。

日本のように管理職や議員の女性比率を意図的に高めようとする風潮は、タイにはない。しかし、実社会で人の上に立つ女性が多いのは、男女を問わず頼りになる人を選ぶ結果である。ただし、この種の統計は見たことがない。

ここで思うに、女性にシッカリ者が多い理由は南国の気候にあると思う。古来、女性は手抜きができない子育てに追われる。しかし、たとえばほっておいても年に2、3回も収穫できる稲作では、男性は木陰でゲームや噂話をしながら容易に自然の恵みを手にすることができる。豊かな自然の恵みで食うに困らない生活環境のもと、子供さえできればグウタラな夫をリストラ(離婚)、老後は子供に頼るという女性もでてくる・・・これは一種の「生活保障システム」、筆者はこの「生き方」に当てはまるケースをたびたび見聞きした。

話しを戻すが、製造現場の一人ひとりには“持ち場”がある。その“持ち場”、たとえば倉庫の荷受け場や部品の加工場では、そこで取扱う品物をチェックし、良品と不良品の数量を記録する。工場では、良品だけを次の工程に引き渡すという不文律がある。自工程で発生した不良品を次工程に引き渡すと次工程が迷惑する。もし、気付かずに不良品を加工すれば、その仕事はムダになる。

コモディティー化した家電製品や車の製造現場は、先進国や途上国の工業団地だけでなく東南アジアの田舎のボロ工場までに広がっている。そこで働く人々はさまざまな人種と風俗習慣の男女、もちろんその一部は日本国内の工場と日本人である。

筆者が工場で接した人びとの共通点は「無言で手早い仕事」だった・・・一人だけ遅いと工場全体のリズムが狂うので無駄口の暇もない。それは彼らの“持ち場”に対する責任感と一種の誇りでもある。いい加減な仕事は周囲の仲間からはじきだされる。それは、グループ作業に生じる本能的は自浄作用、いわば「自律的なリストラ」である。

その本能は、遠い昔の狩猟時代に由来するものであり、現代のあらゆる人種に共通すると筆者は信じている。タイでは「はじきだされる」のはいつも男性作業員、しかもそれは「インフォーマル(正式でない)」な形、つまりいつの間にか「来なくなる」だった。・・・この種の欠員を即刻補充するために、常に10~20人の余剰人員を抱える工場もあった。(従業員300人程度の人事課長談)

世界の需要を満たす量産品、とりわけ家電製品や車のブランド名は日本やアメリカなどである。しかし、製造国は先進国から途上国にわたっている。いわば、先進国の工業製品を世界中の人びとがその便利さを享受する・・・世にいうグローバル化、それは80年代の先進国から途上国への工場進出で始まった。

その中身は、製造現場の担当者が素早く不良品を工程から取り除く作業である・・・これは、工場の昔から決まり文句:「(製品の)品質を(製造工程で)作り込む」である。ここで注目すべきは、途上国の人びとは文明の利器を与えられるのではなく、彼ら自身が作業者になって、自分の手で品質を作り込んでいるという点である。

続く。

【おことわり】
 昨年末(2015)に突然、孫・娘・筆者の3世代が揃ってヒューストン大学を訪れるという話が持ち上がった。その旅行は、今年(2016)6月下旬にヒューストン大学のサマースクールに参加する孫に付添うためである。
 この突然の話で、次回(2016/5)は本筋から脱線して「途切れない糸」、次々回(2016/7)は「ヒューストン再訪」を数回に分けて紹介する。その後、日本の将来に復帰する。
 「途切れない糸」は、「船乗りの発憤(1963)」から次々回の「ヒューストン再訪」まで50年以上も続く目に見えない糸、途中で切れそうになったり時には忘れたり、しかし今も続く不思議な絆の話である。以上

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本の将来---5.展望(23):日本の工業製品:ものの寿命

2016-03-25 | 日本の将来
「5.展望(22):日本の食品・サービス(続き)」から続く。

1.ものの寿命
世に在るものには寿命がある。生き物はもちろん、身の回りの品物や食べ物にも寿命がある。

人間や品物の寿命(Life)を統計学ではMortality(モータリティー)という。Mortalityの和訳は死亡率や失敗率などとなっている。機械工学、生命保険、医学などの専門語であるが、分野により和訳も異なっている。余計なことだが、これも日本語の難しさの一つである。このような混乱を避けるため、ローマ時代では科学、医学、哲学、天文などの用語をラテン語で定義した。(なお現代ではラテン語・英語・現地語の三言語主義)

ここでは統計学上の説明は省略するが、Mortalityを簡単に図解すると下の図になる。【参考:実際の曲線はガンマ分布やワイブル分布(Gamma/Weibull Distribution)で表現するが、ここでは曲線の特徴からMortalityの概念を理解するだけで十分である。】

下に示すとおり、Mortalityには3つの基本的なタイプがある。その3つのタイプはInfant Mortality, Chance MortalityおよびWear-out Mortalityである。一般的な英和辞典によると、図の左上から初期故障、偶発故障、磨滅故障(摩耗故障)という和訳になっている。

なお、一番目の“初期故障”は“初期不良”ともいうが、人口動態統計(政府統計)では乳児死亡率、一般的な英和辞典では幼児死亡率としている。さらに3つ目の磨滅故障は生命保険や医学の用語としては違和感があるが、これに該当する日本の専門語は、筆者には分らない。

          Mortalityの3つの基本タイプ(Three Basic Mortality Types)
   

上の図は、3つの基本タイプと「Human Mortality(人の死亡率)」との関係を示している。また、工業製品や動植物のMortalityも「人の死亡率」と同じような形の曲線になる。なお、参考だが、この曲線(確立分布)を積分すると(=曲線で囲まれた面積)、その面積=1.00=100%、したがって、人の場合は「人は必ず死ぬ」ことになる。

ここでは補足する意味で、3つの基本タイプを人、物、ソフトに分けて説明する。

Infant Mortality(初期故障)=時間の経過につれて発生率が減少し、偶発故障に続いていく。
◇人:幼児死亡率という。衛生環境、経済状態、医療状態の改善、成長すると死亡率が低下する。
◇物:工業製品などの完成度と試作テストが甘いと初期故障(不良)が多発する。改善で安定する。
◇ソフト:テスト・データによる単体、連動、実地テストが甘いと初期不良が多発する。
注:Infantの語源=Infans(ラテン語:幼児)。自然科学、哲学、医学、法律の用語はラテン語源が多い。

Chance Mortality(偶発故障)=発生率はランダムで、確率分布はUniform(一様分布)になる。
◇人:交通事故やケガや病気、天災、動乱によるトラブルである。本人の注意で事故を回避できる。
◇物:事故や過大な負荷による故障、定期点検&手入れや予防保守で故障を回避できる。
◇ソフト:外部環境の異常、サイバー攻撃、ハード故障などによる偶発的な障害

Wear-out Mortality(摩耗故障)=確率は右肩上がりで大きくなる。寿命は有限である。
◇人:病気、老衰、自然死。
   人は130歳ぐらいまで生存可能との説があるが、上限は未知
◇物:部品の摩耗や経年劣化や金属疲労などによる破損
◇ソフト:外部環境や技術の進歩に起因するソフトの陳腐化・・・時代遅れのソフト

2.身の回り品の寿命
近年は生活環境の向上で人の高齢化が進むとともに、科学技術の進歩で品物の寿命も長くなった。筆者の身の回りにも、4~50年前には考えもしなかった便利なものが出まわり、しかも10年以上も故障しないものがある。

たとえば、筆者が使っている折り畳み傘や腕時計などはなかなか故障しない。

最近、横浜発明振興会の仲間との話で、20年以上も使い続けている筆者の折り畳み傘が話題になった。あらためてその傘を調べてみるとオーロラという専門メーカーの製品だった。

さすがに専門メーカーの品物、骨組みは軽くて丈夫、布の撥水効果が良い。また、薄手の布の折り目は正しく自然に収納袋に収まり、糸のほつれもない。よく見ると良いとこだらけ、それらを意識していた訳ではないが、知らないうちに20年以上もこの傘を使っている。高級品とは思わないが、雨に降られて飛び込んだ三越で4、5千円で買った。なによりも「助かった」という思いが今もこの傘に付きまとう。

下の写真はその折り畳み傘である。大きさは手ごろ、撥水効果が良くて使用後にすぐ鞄にしまえるのが便利である。

            20年以上使っている折り畳み傘
            

折り畳み傘はこれ1本というわけではなく、冠婚葬祭の引き出物でもらったものが数本、洋服ダンスに眠っている。なぜか、何気なく今もこの傘を使っている。当分、こわれそうにない。

下の写真は、セイコーのソーラー電波時計(左)とアメリカン・イーグル(American Eagle)のイミテーション(右)である。本当の名はAmerican Eagleだが、文字盤にはAmerica Eagleとあり、これは“イミテーションだよ”といっているところが可愛い。

            2つの時計:ソーラー電波時計(左)と560円の時計(右)
            

2006年夏、昼食帰りにシーロム(バンコク)の屋台で夜光塗料の針が気に入り、200バーツ(約560円)で買った。東南アジアでは電波時計を使わないので、このイミテーションを常用するようになった。

200バーツの時計、もし止まってもケータイがあるので困らない。面白半分で買った時計だが、意外に正確、いつの間にかこの時計だけを使うようになっていた。その正確さは、今では「筆者の七不思議」の1つになっている。

写真左のセイコーは電波ソーラー時計、買換えて5、6年になるがベッドの枕元に置きっぱなし、もちろんほっておいても時間は正しい。

上の写真を撮ったとき、イミテーションの電池交換日を確かめるため裏蓋を開けた。もちろん百均のボタン電池、その交換日は2015年10月26日、そのとき時刻を合わせて以来、今も写真のとおり狂いはない。もしかして、このイミテーション時計の水晶発振素子は電波時計の素子以上に正確なのかも知れない。(電波時計は、常に誤差を自動的に修正するので、自動修正なしの精度は使用者には分らない。)

イミテーションの中身には“SINGAPORE”“NO JUWELS(軸受摩耗防止用の宝石なし)”“UNADJUSTED(調整なし)”との文字が読み取れた。その構造は、おもちゃのように単純、余計なものがない。"Simple is best"の好例である。

このイミテーションを買った2006から2012年の6年ほどの間に60回以上も成田―バンコクを往復、120回以上も2時間の時差修正を繰り返した。しかし、今も竜頭に問題はない。「筆者の七不思議」の1つがいつまで続くのか、できるだけ長生きして欲しいと願っている。

他にも身の回りを眺めると、いろいろなものが長持ちしている。
◇便座:16年間無故障、長く使用したので故障を待たずに昨年春に買換え
 【同じ機種を19年間も使った人をインターネットで知った。参照:もの造りのプロセス(2015-04-25)】
◇6畳用エアコン:14年間無故障、不要になったので今週初めに撤去
◇ガス給湯器:15年目で無故障(過去に温度センサ2回交換)、平均寿命超えのため今秋買換え予定
◇IH調理器、食器洗浄機、エアコン:今年で11年目、無故障
◇テレビ&オーディオ機器:5~12年無故障
◇日本車:4台の乗用車、どの車も10年以上使用、走行5万キロ以下、無故障で下取り
◇パソコン:OSのアップグレードに応じて5~6年のサイクルで延べ9台購入、無故障で廃棄
◇冷蔵庫:12年目にコンプレッサー故障、買換え

総じて、工業製品は世界のどこの国で生産してもインチキや手抜きがないかぎり長もちする。幸い、日本の製品もここ20~30年で改善を重ね、世界に信頼されるようになった。

日本の家電製品も長寿化したが、この業界には長寿化にマッチしない商習慣がある。生産中止後7年で補修部品の供給責任をなくすというルール、それは30~40年昔からのこの業界の商習慣である。先日も、このルールで内臓電池が手に入らず、本体には問題がない小さなオーディオ製品を廃棄した。本体の廃棄が「もったいない」というより、バックアップしていなかった中身(音楽)を失ったことが「残念」である。ハードよりソフトが大切なケースもある。

家電製品の内臓電池の汎用化と素人でも簡単に交換できる方法など(例:百均のボタン電池の活用)、将来のIoT時代に向けて一考の余地がある。文明が進展するにつれて、ものの使い捨て時代は長寿時代に変化する。その流れは、工業製品だけでなく人間にも言えるので、人類にとってはかなり厄介な課題である。

他方、40年ほど前の記憶だが、筆者が勤める輸送機器業界にはこの種の商習慣がなかった。ある時、すでに生産を打切った古い製品の補修部品を営業部門が受注した。その部品のカタログ価格は10万円、しかし生産打切りで金型も廃棄済みだった。もし、図面からその部品を手造りすれば、150万円との見積もりがでた。

ユーザーに事情を説明して同じ型式の最新製品で代替する案などを提案したが、ユーザーは同じ部品を強く希望、最終的にはカタログとおりの手造り品を10万円で提供した。当時、補修部品の供給責任を7年限りとする家電業界を気楽な業界と羨ましく思った。

続く。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本の将来---5.展望(22):日本の食品・サービス(続き)

2016-02-25 | 日本の将来
「5.展望(21):日本の食品・サービス」から続く。

1.農林水産省への要望
前回は、日本食と食文化を海外に普及させるようとする農林水産省の取り組みを紹介した。その結果として、2020年には日本食材の輸出額を1兆円にしたいという。ちなみに、2020年の世界の食料市場は、推定で680兆円という。

日本の食材と食文化の海外普及というが、それは抽象的で分かりにくい。しかし、たとえば郷土料理といえば少しは具体的になる。

筆者の勝手な解釈だが、観光地に軒を並べる食べ物屋のメニューには郷土料理が多い。その土地の食材をその土地独特の方法で調理した料理である。なお、筆者の経験では、観光地と郷土料理が一体になっているのは日本だけ、他の国では観光地と食文化は別ものである。

さらに、筆者の独断であるが、日本の食材と食文化の組み合わせを売り込む農林水産省の戦略は、日本の観光ビジネスの延長、郷土料理の料理教室のように見えてくる。料理教室で食材を販売するのであれば、その売り上げ目標はせいぜい1兆円程度であろう。しかし、680兆円の市場が相手では、1兆円の売り上げ目標はないに等しい。農林水産省は、目を覚ましてしっかりとして欲しい。

観光ビジネスの延長のような輸出戦略より、農業や水産業と食品加工業界を含む食品産業の近代化が最優先事項であると筆者は考える。まず、国内の食料供給体制と自給率の改善を目指して、最新のテクノロジーの導入と人材の育成である。その能力を確保した上で食材の輸出に乗り出すべきである。

たとえば、日本の農業においては品種改良や農機具の開発では実績がある。その上にバイオテクノロジーやロボットの活用を始めとする生産技術も充実してきた。近年のロボット展でも分かるように、工業製品の製造職場だけでなく食べ物の加工職場でもロボットが活躍し始めた。この意味で、今や食べ物と工業製品の生産の垣根は低くなった。特に、工業製品の生産には多くの国での経験が豊富、そのノウハウを食べ物の分野に移転することも可能である。

今は潮時、長期的な視野に立ってテクノロジーという名の満ち潮に乗るべき時である。その先には、近代的なテクノロジーを備えた日本の食品産業が、アメリカ(12.3兆円2010)は別としてオランダ(7.9兆円2010)やフランス(6.4兆円2010)と肩を並べるときがくる。これは、国土の広さや人口の数の問題ではなく、政策の問題である。

2.食に関するテクノロジー
次のリストは、筆者の目にとまった最近の新聞記事のタイトルである。これらは、現在の食品産業にみえる変化の兆候である。全文を掲げると長くなるので、ここでは要約と筆者のコメントを示しておく。
(1)できたて和食をそのまま世界に 冷凍技術に革命 2015/12/1 日本経済新聞 電子版
(2)飲食業にもIT 「完全ロボットレストラン」実現への道 2015/11/11 日経 電子版
(3)日本が先導 「魔法の泡」で起こす農業再生 2015/10/9 日経 電子版
(4)庭やビルでもウナギが育つ 陸上養殖が変える漁業 2015/9/14 日経 電子版

【記事の要約】
(1)できたて和食をそのまま世界に 冷凍技術に革命 2015/12/1日経 電子版
 低コストで味を落とさずに冷凍できる日本発の独自技術が、世界の外食チェーンや冷凍食品業界のあり方を大きく変える可能性を秘めている。
■「おいしい」和食を世界中で
 米中西部、カンザス州の片田舎に住む女性。日光の小さな日本料理店で食べた手作りの味を忘れられなかった。近くのスーパーを探したところ、「NIKKO」ブランドの冷凍の豆腐を見つけ、半信半疑で買った。ところがびっくり。日光で食べた食感や味、香りはそのままだった。
 実現のカギを握るのが「不凍物質」と呼ばれる素材だ。冷凍する前にこれを食品に加えておくだけで、普通の冷凍庫でも解凍した後も解凍前と変わらない品質に保てるという。
■コスト抑え急速冷凍と「同等以上」の品質に
 不凍たんぱく質はもともと1969年、米の研究グループが南極海に住む魚から発見した。しかし、これまで実用化されなかった。
 「身近な生物にないものか」。関西大学化学生命工学部の河原教授が、カイワレダイコンに不凍たんぱく質があるのを突きとめた。この不凍たんぱく質はわずかに青臭いが、0.02~0.2%を加えるだけ、食材の味や色は変わらない。
■すでにあなたも食べている
 化学メーカーのカネカが河原教授と協力して2012年、不凍物質を製品化した。すでに100社以上の食品メーカーなどに不凍たんぱく質を供給している。「多くの人はすでに口にしているはず」(カネカ)という。食材を新鮮な状態で比較的長期間保存できるようになったため、ある飲食店では「食品ロスを大幅に減らすことができた」という。
 冷凍のフライや空揚げなどには「不凍多糖」という素材を使う。こちらはエノキダケに含まれている成分。揚げ物や酸性の強いヨーグルトの品質保持に役立つ。
 海外メーカーでは遺伝子組み換えの不凍たんぱく質を使ってアイスクリームの品質を保持するケースはあるが、カネカの不凍たんぱく質は「世界で唯一の安心・安全な天然由来の添加物だ」と胸を張る。
 数百万円単位の急速冷凍機とは異なり、追加の装置が不要でコストも安く、冒頭の日光の冷凍豆腐のように味はそのままで、地方の特産品を世界に届けることが容易になる。TPP発効後、日本の農産品を使った食品の輸出を後押しする大きな武器にもなりそうだ。
 ただ、不凍物質はまだ発展途上にある。河原教授は野菜など生鮮食品を長期保存できる素材の研究も進めている。さらに、不凍多糖で飛行機の翼の着氷除去や雪下ろしの省力化なども研究中である。
【筆者のコメント】
 この技術とロボット技術の組合せは製造リード・タイム(製造時間)のコントロールを容易にする。したがって、「もの造りのプロセス」に示した食品・サービス分野の「素材―加工―消費」と「流通」のプロセスに大きな変化をもたらす可能性がある。(5.展望(17):もの造りのプロセス2015-04-25参照)また、工業製品のように最終工程の海外進出も可能、100%Made in Japanの食品を現地で生産できるかも知れない。

(2)飲食業にもIT 「完全ロボットレストラン」実現への道 2015/11/11 日経 電子版
 将来の人口減少は、飲食業に大きな打撃を与える。市場の縮小だけでなく、飲食店では人手不足が深刻化しそうだ。ここでは、接客ロボ、3D プリンター、人口知能の実例を紹介する。

1)【接客ロボ】 人間そっくり 常連の顔も判別
 長崎の「ハウステンボス」が2015年7月にオープンした「変なホテル」は、フロントに女性や恐竜のロボットを設置したことで大きな話題となった。このロボットは、人間の代わりにチェックインやチェックアウトなどのフロント業務を担う。
 ロボットはカメラと音声認識機能でリピーターと新規の客をほぼ間違いなく判別できるほどの精度を有するという。 価格は1体1500万円からと安くはないが、故障は少なく、30年ぐらいは稼働するという。

2)【3Dフードプリンター】 精緻な生地のデザートはお任せ
 ものづくりの分野で浸透してきた「3Dプリンター」の技術をメーカー各社が新たな市場として、3Dフードプリンターを開発している。
 ピューレ状(Puree:裏ごしでこしたもの)の食材を入れたカートリッジを内蔵、ノズルから食材を搾り出して薄い層を重ね、クッキーを作る。たとえば、造形後オーブンで焼き上げたクマのクッキー。サイズは長さ9cm×幅7cm。1枚を作るのに22分かかった。
 台湾の展示会では予価1799ドル(約22万円)。今後、造形のスピードが向上すれば、店での使い勝手は良くなる。

3)【人工知能】 キーワードでレシピ生成、メニュー開発の負担軽減
 米IBMの人工知能「ワトソン」を活用したメニュー考案サービス「シェフ・ワトソン」は、米国の人気料理雑誌「ボナペティ」に掲載された9000種類のレシピをデータとして持つ。
 ウェブ上でユーザーが複数のキーワードを指定すると、ユーザーの希望を推論して、データを基にオリジナルのレシピを作成してくれる。キーワードには「焼く」「蒸す」などの調理方法、「日本料理」「イタリア料理」といったカテゴリーを指定できる。
 ただし、現状では「実際には、口に合わない場合も少なくない。これをヒントに料理人が味を調整するという使い方が向いている」(日本IBM広報)という。
【筆者のコメント】
 ここに紹介された接客ロボ、3Dフードプリンター、人口知能の実例は知能ロボットである。将来は、知能ロボットの活動領域が広がり、工程管理やメンテナンスまでもカバーする自動化率が非常に高い食品処理が実現すると思う。無人化と無塵/無菌化も進む。

(3)日本が先導 「魔法の泡」で起こす農業再生 2015/10/9 日経 電子版
 静岡県菊川市の茶畑や田んぼが広がる一角に農業生産法人サングレイス(杉山社長)のトマトのビニールハウスがある。このハウスでは、10トンのタンクで小さな空気の泡と肥料をトマトの苗に送り込む。その結果、収穫量が約10%高まったという。空気中の酸素が土中に行き渡ることで「トマトの酸欠を防ぎ、トマトの成長を促す土中の微生物の動きが活発になった」(杉山社長)。
 実は小さな泡の効能は以前から知られていた。キユーピーは小さな泡を一部のマヨネーズ製品に混ぜて、ふわっとした口当たりにしているという。汚れを浮き出す界面活性の作用なども確認されており、西日本高速道路(NEXCO西日本)はサービスエリアのトイレ洗浄に使う。
 この小さな泡は従来の技術では最小でマイクロメートル単位までしか作れなかった。しかし、制御用機器大手のIDECは100ナノ(ナノは10億分の1)メートル程度の小さな泡を作る技術開発に成功した。
■1ミリリットル(1cc)に1億個の泡
 IDECと共同で研究している大阪大学の研究室、1分間に4リットルの微細気泡の水を生成できる。目には見えないが、 1ミリリットルの水に1億個の泡が溶け込んでいるという。
 瓶に入った炭酸水をコップに注ぐと、はじめは炭酸の動きが活発だが、時間がたつと消滅する。微細気泡の場合は熱運動する水分子とのランダムな衝突により泡は浮上せず、水中に気体としてとどまる性質を持つため「半年間は消えない」(IDEC)。
■オールジャパンで国際規格化目指す
 日本発の技術として売り込もうと、2012年には資生堂やパナソニックや大学、研究機関が組み、「ファインバブル産業会」(FBIA、約50社)を立ち上げた。微細気泡はまだ効果や効能がはっきりと分かっていないため、経済産業省は14年度に補助金を出すなど、研究の後押しに動き始めた。
 新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)は民間企業と協力し、タイで微細気泡を使った水質浄化に関する研究を始めた。
 「ファインバブルの産業化に成功すれば地方創生にもつながる」(FBIA)。高知県では産官学のプロジェクトチームが発足。農業や漁業での有効活用をもくろむ。
 経産省は微細気泡の世界市場が30年には12兆6700億円に達すると試算する。研究は日本以外の国でも進められているが、ナノレベルの細かい泡を発生させる装置を作る技術は「日本以外にない」(FBIA)。今後の有望株であることは間違いない。トマトのハウスでは酸素の気泡も研究中である(杉山社長)。
【筆者のコメント】
 筆者が思い出すのは、気泡による船体と水の摩擦抵抗低減の効果である。高速潜水艦のイラストなどは1950年代の知識だが、現在も次世代船舶の分野で研究が進んでいる。液体中の微細気泡は流体力学の話だけにおさまらず、それだけ未知の部分も大きい。

(4)庭やビルでもウナギが育つ 陸上養殖が変える漁業 2015/9/14 日経 電子版
 ジャパンマリンポニックス(岡山市)は小型で低コストのシステムでウナギの陸上養殖にのりだした。
■浄水装置を小型化 設備の初期投資は数分の1に
 10トンの水槽を使う設備の初期投資は1000万円程度で、従来の数分の1。年間で約1万匹のウナギを育てることができる。微生物のすむ浄化装置を約1立方メートルと小型化した。浄水装置の小型化で電気代も削減。浄化した水の再利用で給水コストも減らせる。現在、湖などを使って行われているウナギ養殖にも、十分、コストで対抗できると考えている。
 設備を導入した顧客には、稚魚の供給から、ウナギの養殖・販売、かば焼き用のたれの提供まで一貫して同社が担うサービスも提供、養殖事業に参入しやすくした。稚魚が安定して入手できるように、東南アジア種で年間約100万匹の割り当ても確保している。これまでに同社のシステムを導入したのは企業が中心だが、個人が導入した例もある。
■カイコを使いエサ代を削減
 エサ代の削減も大切である。岡山市にある同社の研究施設では大量のカイコの幼虫を育成。これを冷凍、粉砕、エサの一部にする研究が進んでいる。また、アナゴやカワハギの養殖にもチャレンジしている。
【筆者のコメント】
 かつての浜名湖近辺、東海道線の車窓を流れる100m四方ほどの小さな養鰻池、池の中央に水面を撹拌する水車が記憶に残っている。この記事の陸上養殖は、あの養鰻池をさらにコンパクトにしたものと思われる。
 ウナギの養殖のほかに、日本には養蚕、養蜂、養殖漁業の歴史がある。明治時代の養蚕業は当時の代表的な産業、また、ミキモトの養殖真珠は世界シェア約70%(繊研新聞2015/1/30)を占める一大産業である。ウナギに限らず、蚕、蜂、真珠、魚介、海藻と対象は異なるが、養殖業は手抜きを嫌う日本人の得意技だと思う。

次回は、工業製品に続く。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本の将来---5.展望(21):日本の食品・サービス

2016-01-25 | 日本の将来
前回の「ハノイ旅行(10)---ハノイの食堂(2015-12-25)」から続く。

昨今は、食の安全と栄養バランスへの関心が世界的に高まり、外国では日本食ブームという報道もある。また、TPPでは農産物や農業の将来が話題になっている。

すでにこのブログでも触れたが、最新の農林水産物の輸出額は6,117億円(2014年)、農林水産省はこれを2020年に1兆円に引き上げるとはいう。その一環として、農林水産省は「海外における食文化の戦略的調査」を日本総合研究所に委託した。

その結果は「日本食・食文化の海外普及戦略」(H27/2)としてインターネットに公開されている。この22ページの報告書を要約すると次のような内容になる。

日本食・食文化の海外普及戦略」(日本総合研究所)の要約

1.総論(グランドデザイン)
(1)世界に通用する食文化の理念の確立
「いただきます」や「ごちそうさま」を候補の1つに挙げた。・・・しかし、報告書ではこの候補を採用せず、「食文化の理念」はうやむやになった。

「和食」の考え方
1)素材の持ち味の尊重⇒調理技術、道具の発達
2)栄養バランスに優れた食生活⇒長寿、肥満防止
3)季節の移ろいの表現⇒調度品や器(ウツワ)の利用
4)年中行事との関わり⇒家族や地域の絆

「和食」と「日本食」:一般家庭向け(広義)のものでほぼ同義
「日本料理」:京料理、精進料理、懐石料理など、専門店や料理人向け(狭義)のもの

(2)日本食・食文化プロモーション「基本指針」の必要性
従来:日本食の紹介が中心
今後:マーケティングのアプローチを導入

具体的には次のような点を明確にして日本食・食文化の普及活動(戦略)を展開する。
1)プロモーションの対象の明確化
対象を「日本食文化」「日本食」「日本食品」に絞る。
2)対象マーケットの優先順位・絞込みの明確化
海外各地の消費者と外食産業関係者を対象に、市場分析、商品開発、パッケージング、使い方や食べ方の情報提供、物流、各国の法規制の実態把握
3)ターゲットの絞込み
下の図に示すハイエンド層→ミドル層→マス層の順序でターゲットをトップ・ダウンで絞り込む。

            図1.ターゲットの階層図 
            

4)単年度のプロモーション企画を複数年度の企画に変更・・・継続性の重視
5)海外の研究機関、食品プロモーション企業、団体の活用
6)単発から長期的継続的な戦略への変更・・・継続性の重視
7)現在の見本市中心のプロモーションからの脱皮

2.各論(具体策)
(文化面)
(1)日本食・食文化の教育・検定認定制度の確立
(2)「複合文化パック」による訪日観光プロジェクトの実施・・・例:医療と観光の複合パック(シンガポール)
(3)日本食文化への目に見える尊敬と誇りを示す必要性・・・例:フランス最優秀技術者賞
(4)ジャパン・エキスポなど日本のサブカルチャーイベントの活用
【参考・・・以下は報告書からの引用文】
 “今回の仏現地調査中に、パリで毎年開催されている「ジャパン・エキスポ」を視察する機会が得られたが、日本のアニメや漫画などのポップカルチャーを通して日本に関心を持つ欧州の若い世代、ティーンエイジャーに限らず、ローティーンや大人なども含め、5日間の開催期間中に25万人が来場した。
 そこでは、単純に営利だけを求めた品質が低くて価格の高い日本食が販売されており、25万人もの来場者に間違った日本食のイメージが刷り込まれている。”・・・引用文の終り
(5)海外留学生向けの奨学金制度・・・日本食・食文化関係の留学生
(産業面)
(6)日本食・食材の物流体制の確立
(7)原産地証明制度の導入

3.日本食・食文化の海外普及に関する基盤整備(アクションプラン)
(中期計画)
(1)日本食・食文化親善大使(仮称)の制度の創設
(2)日本食文化サポーター制度の創設
(3)教育・資格認定制度の創設
(4)「複合文化パック」による訪日観光プロジェクトの実施
(長期計画)
(5)カルチャーイベントの活用
 1)カルチャーイベントの実態把握
 2)実態に基づいたプロモーション計画の立案
(6)日本食料理人への勲章授与の増大
(7)海外の日本食材物流体制の構築
(8)原産地証明制度の創設

【参考Ⅰ】聞き取り先レストランにおける食材・食品の調達状況一覧(フランス料理編)
【参考Ⅱ】聞き取り先レストランにおける食材・食品の調達状況一覧(イタリア料理編)
 ・・・参考Ⅰ、Ⅱ共に日本国内のレストランの聞取り調査・・・調査目的不明(筆者感想)

以上が「日本食・食文化の海外普及戦略」の要約である。要約を終えたとき、情報収集の不足を感じた。この戦略は大切な国家プロジェクト、多少お金をかけても現地の情報を広く収集し、その分析結果を踏まえた戦略を策定して欲しいと思った。この戦略は当たり障りがないが、頼りない。さらなる検討を望む。

4.戦略への筆者の要望
「日本食・食文化の海外普及戦略」の前に気になるのは、農林水産物の輸出の現状である。
(1)現状
A.2010年の主要国の輸出実績(FAOの2010年データ参照)
  米=12.3兆円、蘭=7.9兆円、仏=6.4兆円、伊=3.7兆円、、、日本=0.34兆円
B.日本の輸出実績(農林水産省の統計)
  2013年 0.55兆円
  2014年 0.61兆円(6,117億円)
C.世界の食料市場
  2009年 340兆円・・・日本の輸出実績=4,454億円(農林水産省の統計) 0.13%

(2)輸出の現状と普及戦略への要望
平成27年2月の報告書に見当たらない項目は次のとおりである。
1)最終消費者の声
日本国内のレストラン(フランス&イタリア料理)の聞取り調査はあるが、海外の最終消費者の声が聞こえない。
現地レストラン経営者、現地人と現地日本人(レストラン利用者や日本食材購入者)の声を収集、戦略に反映すべきである。特に、現地の食生活や食文化には商習慣、生活習慣、宗教が深くかかわっている。この点を忘れずに分析して欲しい。
2)物流体制の戦略
文化面以上に産業面、特に物流体制が日本食の普及に大切である。産地から消費者に至るサプライ・チェーンの構築が日本食(材)普及のキー・ポイントである。
日本国内の物流体制の整理と海外ネットワークとの連携を検討して欲しい。また、新技術の動向と実用化時期を時間軸上に展開して欲しい。
3)海外産と国内産の日本食の輸出予測
たとえば、味の素やキッコーマンは東南アジアのスーパーでは定番商品、また外国産の日本米や水産物もよく見かける。これら海外産の日本食材と日本国内産の食材を考慮した需要予測が今後の戦略に役立つ。情報は公開できる範囲、また需要予測が困難ならば、目標値でもよい。一つの目安になる。・・・海外の日系食品メーカーや商社とのオール・ジャパンのコラボが必要
4)他国の戦略研究
アメリカ、オランダ、フランス、イタリアなどの農産物輸出額は日本とは桁違いに大きい。彼らの戦略を分析し、「日本食・食文化の普及」を重視する日本の戦略との比較が必要である。その比較で日本の戦略の妥当性も検証しなければならない。

現在、日本に出回っている外国の食材や加工品は、牛肉、ワイン、乳製品、水産物、野菜、果物など多種多様である。これらの食品は、生産地の食文化に関係なく即物的に味と価格や品質と供給体制で競いあっている。たとえば、鮭マスではノルウエー、チリ、ロシアなどの国々が参戦、日本産は影が薄くなり日本の漁業が心配になる。

輸出以前に、少子高齢化に向かう国内の農業、林業、漁業の見直しが最優先事項である。その見直しにもとづく施策で段階的に農林漁業の生産体制と国際競争力を強化する。そのためには、日本人が身に付けた生産技術と新しいテクノロジーが役に立つ。味、品質、価格の国際競争力を高めれば、食料自給に余裕がでて数兆円単位の輸出も夢ではない。

余談になるが、「いただきます」と「ごちそうさま」は食への感謝を表す日本語、アメリカの家庭ではディナーは主人(家長)の神への祈りから始まる。また、トルコの友人がソーセージにポークが含まれていないと確かめるのを見て、食品の成分表示は宗教上でも大切だと思った。あるとき航空機の食事で鶏肉ソーセージの存在を知った。
 タイではワイ(合掌)で相手に敬意を表す。食事に合掌する人をときどき見たが、道路わきの道祖神や仏像に一瞬立ち止まり頭を下げたり合掌する人は意外に多い。老若男女貧富に関係なく仏への信仰心が厚い。
 お寺にはお供えも多く食料が豊富、野犬も多い。観光上の理由で当局が野犬狩りをお寺から始めると、殺生を嫌うお寺と摩擦が起きる。人は困難に出会うとお寺に救いを求める。お寺はセーフティー・ネットの一部、故に「本物の物乞い」は少ない。バンコク市内でよく見る子連れの物乞いは組織的なビジネス、周辺国からの出稼ぎが多く同情は無用という。
 ジャカルタの日系工場、バンコク、成田、羽田空港にも礼拝室がある。日本では神様仏様キリスト様など、商売繁盛のためなら誰でもOK、しかし外国では日常の食生活と宗教の関係を見落としてはいけない。

続く。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本の将来---5.展望(20):輸出入農林水産物の中身

2015-07-25 | 日本の将来
5.展望(19)から続く。

(5)日本食の輸出入品
ここで、前々回(2015-05-25)に示した農林水産省資料(H26/9)にあった2012年における日本の食品輸出実績、4500億円の具体的な中身を知りたく思う。

実際に調べてみると、農林水産物輸出入統計は、平成15年(2003)~26年(2014)の実績を公開している。そこで、2012年よりさらに新しい2014年の統計で、日本の食品と農林水産物の輸出入の実態を大ざっぱに見ることにした。

1)2014年の経済指標
まず、2014年頃の基本的なデータを示すと次のようになる。
【参照:世界経済のネタ帳(為替、GDP)と農林水産省(自給率)

為替レート:
2013年1月= ¥89.1/US$、12月=¥103.4/US$
2014年1月=¥103.9/US$、12月=¥119.3/US$

2014年のGDP:
名目GDP=487.9兆円、実質GDP=527.0兆円

2013年(H25年)の食料自給率:
カロリー・ベース=39%、生産額ベース=65%

2)2014年の輸出入総額と農林水産物の金額
下の表は、2014年の輸出入総額と農林水産物の金額のサマリーである。この頃の為替レートは大きく変動し、円・USドルでは13年1月と14年12月を比較すると30円程の円安になっている。

14年の輸出総額は約73兆円、このうち農林水産物は約6,000億円、総輸出額の0.8%である。これに対して、輸入総額は約86兆円、うち農林水産物は約9兆2,000億円、総輸入額の10.7%、輸出に対して輸入が圧倒的に多いことが分かる。

輸出入の差額では、総額ベースでは約12兆8,000億円の入超(輸入超過)であるが、そのうち約8兆6,000億円が農林水産物の入超である。この入超には、急激な円安も響いているが長期的な農林政策の影響が大きい。

  

ここで、単純に農林水産物の輸出額と輸入額を比較すると次のようになる。

農産物の輸入/輸出=63,223/3,569=17.7倍
林産物の輸入/輸出=12,615/211=59.8倍・・・(注)
水産物の輸入/輸出=16,569/2,337=7.1倍

(注):
日本は森林率=68.57%の世界有数の森林国である。しかし、日本の林産物の輸入が非常に多いのは、一般の日本人には不思議な現象にみえる。・・・この疑問への回答は、黒岩直樹著「木を伐り払って国土再生を」(評論新人賞、佳作受賞、月刊ウイル、ワック出版、2015/8)にあった。・・・“昭和39年(1964)には米の高関税を維持するために木材が犠牲となって外材の輸入が完全自由化され、建材は安価な外材が圧倒します。林家(リンカ)は先行きの不透明感からか、下草刈りや間伐などの管理が不十分となってゆきます。”・・・「木を伐り払って国土再生を」の一文

今から100年先には日本の人口が半減するという(2105年の推計=4.610万人)。しかし、人口が半減するか否かは国あっての話である。まず、国土が荒廃しては元も子もない。まさに“森林問題は国家百年の計です。”と黒岩氏が指摘されるとおり、自国の将来は自国で決める以外に道はないが、その道のりは遠い。

地球の歴史を振り返れば、国土の守りや食を他国任せで繁栄した国のためしがない。このことを念頭に日本の現状をよく認識したい。

3)農林水産物の輸出入の品目と相手国
ここでは、最新のデータで農林水産物の輸出状況を理解する。同時に、輸出と同じ形式で輸入データも表示するので、ものの出入りの全体像を大まかに把握していただきたい。

下に示す表2は、農産物・林産物・水産物の輸出先上位10ヶ国を示している。香港の1,343億円を筆頭に、米国、台湾が続きカナダまでの10の国・地域で輸出総額、6.117億円の84%をカバーしている。

さらに、表2から分かるように、香港、米国、台湾への輸出額が総額の50%を占めており、日本の農林水産物の輸出先は意外に狭い。この表では省略したが、実際の数量は金額と同様、大した量ではない。したがって、日本でいわれる“世界は日本食ブーム”は、“日本食を食べられる場所”に行った日本人が感じる誤解かも知れない。

          

参考であるが表3は輸入の状況を示している。農林水産物の総輸入額、9兆2,407億円の半数は米国、中国、カナダ、タイ、豪州の5ヶ国からの輸入品である。

          

次の表4と表5は、農林水産物を農・林・水に分けて、それぞれの輸出入相手国を示している。表4の輸出では、農産物・林産物・水産物の6~7割を上位5つの国・地域が占めている。

  

表5の輸入でも農産物・林産物の過半数、水産物の約49%を上位5つの国・地域が占めている。

  

農林水産物の輸出品の中身は、表6と7に示すとおりである。表6は国別の品目、表7は輸出額の上位20品目を示している。

  

ホタテ貝は米国、中国、韓国、ベトナムの人気商品である。表6と7から、ホタテ貝の輸出総額、約446億円のうち、米中韓ベトの3ヶ国向け、約364億円は総額の約8割を占めている。

表7には表れないが、味の素、醤油、インスタント・ラーメン、日本茶(ペットボトル)などの現地生産品は各国のスーパー・マーケットに出回っている。特に、インスタント・ラーメンでは、元祖日本をよそに各国の製品が混戦状態、品質と価格ともに優劣を付け難い。

ここで、表7の真珠と同様に、いつの日にか完全養殖マグロやウナギが表7の上位に浮かび上がることを願っている。

        

表8と9は輸入品の中身である。米国からは、とうもろこし、豚肉、大豆、牛肉、小麦のような食材が多い。輸入とうもろこしは飼料として国産の牛、豚、鶏肉を育てるので、国産肉といっても育った場所が日本に過ぎない。また、輸入大豆や小麦に依存するミソ、ショーユ、トウフ、ナットウ、パン、ウドン、ソバ、ラーメンなども、素材はアメリカ、カナダ、ブラジル製である。

このように輸入農産物の流れを辿ると、日本の主な食材も外国頼りになっている。この現象は、日本製の素材や部品を使用する世界の工業製品に類似している。世には「グローバル化」への賛否両論があるが、ものの流れ=もの造りのプロセスそのものが一元化(Unified)しているのが世界の現状である。

  

表9の16番の冷凍野菜もかなりの規模(1,671億円)で輸入されているのは意外だった。主な輸入相手国は中国である。

        

ここで、国産・輸入品を問わず日本の食料自給率:カロリー・ベース=39%、生産額ベース=65% (2013)も気になる。せっかく輸入した食材や貴重な国産品が、消費されることなくゴミ箱に直行するのではないかという恐れである。

高齢化で小食化が進めば消費カロリーの減少が期待できる。しかし、食品の多様化と高級化で、生鮮食品、パン、弁当、総菜、加工食品や残飯、華やかなデパ地下の廃棄物の価値とその処理行程とコストは見当がつかない。機会があれば、日本の食品リサイクルとフード・バンク(Food Bank)の実態を調査したい。

続く。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本の将来---5.展望(19):世界に知られる日本食(ハワイのインスタント・ラーメン)

2015-06-25 | 日本の将来
5.展望(18)から続く。

(3)世界に知られた日本食
スキヤキやテンプラ、スシといった典型的な日本食は70年代のアメリカで少しずつ知られるようになった。あの頃は日本食だけでなく、スキヤキ・ソング(60年代初頭)や日本の経済成長を高く評価する“ジャパン・アズ・ナンバー・ワン”(E. F. Vogel著, 1979)など、日本への関心が高まった時代だった。

しかし、日系ホテルの高級日本食レストランは別として、当時のスキヤキやテンプラはかなりいい加減なものだった。もちろん、まれなことだったが日本人が経営する食堂が出すゴマ油のテンプラは日本の味そのもの、しかしその味が分かるのは日本人だけだと思った。やがて、スキヤキやテンプラだけでなく、庶民的な日本食、たとえばカツ丼やラーメンなどが世界各地域に広がった。

東南アジアでは日系工場の進出と共に、日本人を対象にする居酒屋風の小規模な店が見られるようになった。当時の日本食は特殊な食べ物、値段も高く、現地の人々には馴染みの薄いものだった。

そのような状況を打ち破るように、92年に石川県の8番ラーメンがバンコクに1号店を開いた。食べてみると味と価格は妥当、これで日本食の敷居が急激に低くなった。

2000年に筆者が訪れた8番ラーメンでは、テーブルにコショウ、グラニュー糖、赤い唐辛子のガラス容器を並べていた。お客はすべてタイ人、ラーメンの外観と味は日本と同じだったが、そのラーメンに大匙1~2杯の砂糖と唐辛子を振りかけて食べるのには驚いた。それがタイ流の食べ方、砂糖が唐辛子に合うとのことだった。現在、バンコクでは日系レストランがあちこちにオープンしている。刺身の盛り合わせを注文するタイ人グループや家族は珍しくない。

ここで「世界で愛されるMADE IN JAPAN 100」(大橋俊哉編集、英和出版、2015/5)を参考に、世界における日本製品の評判をチェックする。

この本は順位付けの根拠を説明していないが、01から10の品目は次のとおりである。
 01=トヨタ・プリウス(誕生:1997年)
 02=ウォシュレット(1980年)
 03=紙おむつ(2007年)
 04=カップヌードル(1971年)
 05=ポキー(1966年)
 06=青色LED(1993年)
 07=デジタル一眼レフカメラ(プロフェッショナルの現場はMADE IN JAPAN一色)
 08=味の素(1909年)
 09=マンガ(1984年)
 10=ハローキティ(1976年)
 ・・・以下99=数独(数字パズル2004)、100=アウトドア用品(MADE IN燕三条が有名)となっている。

さらに「MADE IN JAPAN 100」に含まれる食品と料理に関係する品目をピックアップすると28品目、下の一覧表に示すとおりである。

 

上の表に挙げるほとんどの品目は工業製品、「和食」と「吉野家」を除く26項目のうち、「サカタのタネ(種)」「フルーツ・野菜」「枝豆」だけが「農産物」である。

さらに別の参考書だが、「図解 世界に誇る日本のすごいチカラ」をチェックする。この参考書は104項目の日本の「すごいチカラ」を技術、発明、文化、自然、人に分けて紹介している。その中から食料・食品関係の項目をピックアップすると下の表になる。

下の表でも「MADE IN JAPAN 100」と同じように、筆者の判断で工業製品と農水産物を区分した。

 

上に示した2つの表から、日本で育てた農林水産物の味をそのまま海外の人びとに届けるという「日本の使命」は、この先の仕事といえる。前回の農産物の輸出統計からも分かるように、今日の日本の輸出額は微々たるものであり、世界の需要に応じるには一層の努力が必要である。

(4)エピソード
上の2つの表に挙げたいくつかの品目には筆者の思い出がある。そのエピソードは次のとおりである。

1)No.12 カルピス(MADE IN JAPAN 100)
1967年、ヒューストン大学のマーケティングの講座、製品の開発戦略の宿題で「カルピス」の広告宣伝を数ページの小論文にまとめて先生に提出した。

「パナマ帽の黒人とストロー」と「初恋の味」が非常にエキゾチックで清涼感があり、こころのときめきと夢があるといった内容だった。根強い人種問題を抱えるアメリカ南部(テキサス州)の大学だったが、あの「黒人マーク」を人種差別とは違った立場で論じた。その理論展開はアメリカでは意外だったらしく、評価はAだった。ただし、筆者の小論文の内容は筆者のオリジナル、カルピス社の意図するものだったかどうかは分からない。

あの「黒人マーク」の小論文からすでに50年、今ではカルピスは世界に愛される立派なブランドに成長した。

参考だが、あの講座のテキストはPhilip Kotler," Marketing Management," Prentice Hall, 1967、工学部修士課程(graduate school)の必須単位だった。

65年の初代マスタング(Mustang)は若者をターゲットに、スポーティーかつ低価格車を目標にして大ヒットしたこと、ドイツ人はお風呂好きでないので下着より香水を売り込めとか、コルゲイト(歯磨き)のテスト広告と売り上げの関係など、非常におもしろい講座だった。また、真空管工場は月面に作るべき、街全体の空調は効率的など、夢のある話は今もその通りと信じている・・・街(区)全体の空調は、90年代初頭のアメリカ各地に現れたショッピング・モール(全体の空調)が実現したと筆者は思っている。

この書物は、コンピューターによる市場調査とデータ分析の重要性をフローチャートで解説している。マーケティング戦略と顧客満足度の分析、ブランド・ロイヤルティー、製品の価格設定、お客様は常に正しい(The customer is always right if she thinks she is right.---Marshall Field & Co.シカゴの百貨店、従業員マニュアル、p.11, P.Kotler)・・・後に「お客様は王様/神様」に変化した)など、製品開発に携わる工学部の学生に必須の知識、日本の理工系でもこの種の教育が必要だと思った。(日本でよく耳にする“文系”“理系”という言葉は早く“死語”なって欲しい。)

なお筆者の経験だが、日系工場ではB/S、P/L、G/Lなど、財務諸表の読み方が分からない日本人社長や管理職にときどき出会った。理工系でも、工業経済/簿記(Engineering Economy/Accounting)を必須とし、採算性や原価に対する基礎知識を常識として教育すべきである。(アメリカのプロフェッショナル・エンジニアの資格試験には経済、簿記、倫理(Ethics)が含まれる。)
【参考:B/S=Balance Sheet貸借対象表、P/L=Profit and Loss Statement損益計算書、G/L=General Ledger総勘定元帳、以上が主な財務諸表。複式簿記を理解すれば財務諸表の計算・作成は簡単】

筆者が学んだ初版(628頁)は50年も昔だが、今は15版で日本語もある。国内外で今も初歩的なミスを犯す世界的に知られた日本の大企業、少しは世界の潮流と基礎的な知識を学ぶべきである。このままでは、日本企業とその人材供給源たる大学は世界舞台で淘汰される恐れがある。日本も心機一転蒔き直しの時期にきている。

今の日本企業に感じることは、世界各地に展開する拠点からの情報収集とデータ分析のスピードが遅い。また、情報処理のスピード化に対する経営陣の反応も鈍い。・・・もしかすると、反応が鈍いので情報処理の迅速化も必要でないのかも知れない。・・・IT部門は、生々しい情報を経営陣に提供するのが責務、一週間も遅れたコンピューター・アウトプット(経営情報)は死亡診断書に等しい。もちろん、死亡診断書では打つ手はなく手遅れ、折角のコンピューターも「紙くず製造マシーン」に成り下がる。

2)No.15 サバ缶詰
60年代前半の頃、「ほのるる丸」の寄港地の一つは清水港だった。その主な積荷はオートバイとゲイシャ印のミカンの缶詰だった。4ヶ月ごとに寄港して大量に積込むミカンの缶詰を見て、よくこれだけの需要があるものだと感心した。ゲイシャ印の缶詰はミカンだけと思い込んでいたが、他にもサバ缶があり、そのサバ缶がガーナやナイジェリアの国民食とは想像もしなかった。

社史によればGEISHA印は1912年にアメリカで登録したノザキのブランド名、日本より世界が良く知る缶詰である。また、ノザキの牛マークのコーンビーフは48年発売、日本ではお馴染みの牛マークの缶詰である。現在はタイ工場で生産、日本と同じ缶詰をバンコクの大手スーパーでも販売していた。しかし、牛肉がポピューラーでないタイ、そのせいか08年頃から大手スーパーからあの牛マークの缶詰が消え、今では日系のフジ・スーパーだけが販売している。

3)No.20 ラーメン(ハワイのインスタント・ラーメン)
1962年7月、商船学校の実習生90人を乗せた練習船「海王丸」はマウイ島カフルイに入港した。

             1962年頃の海王丸
             
             出典:筆者所有の写真
【*参考:運輸省航海訓練所の海王丸2,238総トン、全長97m全幅13m、1930(進水)-1989(引退)、4本マスト、バーク型帆船,メインマスト水面高46m、総帆数29枚2,050㎡,機走用ディーゼル・エンジン2基。帆走実習:1962/4/1-9/1東京-シアトル-カフルイ(ハワイ)-東京,実習生=東京(41名)/神戸(29名)両商船大学/商船高等学校(20名)=計90名:現在の海王丸Ⅱ(二世)は2,556総トン、全長110m全幅13.8m、1989(進水)-現在就役中】

一週間の停泊、朝は早くから岸壁に人びとが集まった。島内案内のために学生たちをピックアップする人、船内を見学する人、メイン・デッキの急ごしらえのテーブルとベンチでセルフサービスのコーヒーを飲みながらいつまでも談笑する日系お年寄りたち、「海王丸」全体が即席の社交サロンに変化した。

船内を案内すると別れ際(ギワ)に、胸ポケットのボールペン、万年筆や帽子など、自分の持ちものを感謝の印(シルシ)としてプレゼントしてくれるアメリカ人、お互いに初対面ながら非常にフレンドリーな日米交流だった。

ハレアカラ火山やパイナップル工場の見学は団体行動だったが、日系人家庭にも分散して招かれた。パイナップル工場の大きな作業室を見学した時、作業中の女性たちから口笛で歓迎されて驚いた。今でもスーパーなどでパイナップル缶詰を見ると、あの口笛と白い作業服の女性たちを思い出す。日本では考えられない光景に、文化が違うと思った。

日系家庭ではステーキやハム、ソーセージなどの他にインスタント・ラーメンもご馳走になった。その時、「ワシ(私=I)」と男言葉を話す妙齢の可愛い娘さんが器用な手つきでフォークとスプーンでインスタント・ラーメンを食べるのを見て、大きなカルチャー・ショックを受けた。

帰りには、庭に成るマンゴーやパイナップル、MJB(モカ・ジャワ・ブラジルのブレンド・コ-ヒー)の大きな缶詰、パイ缶、ハーシーのキスチョコなどの食料品に衣類まで、手に余るお土産を持たされた。敗戦した日本では、もの不足ではないかと心配する日系人たち、その心遣いはありがたく、今も忘れない。

ハワイの思い出は「ワシ(I)」「ハマネゴ(日本語のような英語=Ham and Egg)」「ハワイ大学生のフラダンス」「豊かな南の国」である。日系人の家庭で初めて食べたマンゴーは少し松脂(マツヤニ)のような匂いがしたが、今では一番好きな果物である。

4)No.16 & No.17 マグロ & ウナギの完全養殖(日本のすごいチカラ)
マグロは1970年に研究着手、2002年の近畿大学水産研究所で完全養殖に成功、32年にわたる地道な努力が実を結んだ。現在は年間2000尾ほどの出荷だが、10年には豊田通商が参入、商業化に拍車がかかっている。近畿大学で完全養殖した近海もののシマアジ、マダイ、ブリ、マグロを直営の銀座店で提供している。

ウナギは60年代に研究着手、73年に北海道大学で人工孵化に成功、2010年に水産総合研究センターが完全養殖に成功した。12年からシラスウナギ量産技術に取り組み中、20年に商業化を目指している。

生命の謎にも触れる奥深い事業、完全養殖で生まれる安全なマグロとウナギへの期待は大きい。

続く。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本の将来---5.展望(18):日本の食品、戦後イナゴも食べた

2015-05-25 | 日本の将来
5.展望(17)から続く。

3.日本の食品・サービス
今回は、世界における日本の「食品・サービス」の強みを考える。(前回の「もの造りのプロセス」参照)

(1)食との関わり
人はみな「食」に関わる。その関わり方は人によりさまざまである。そこで、まず筆者の「食」への関わりに触れておきたい。

一言でいうと、筆者は「食」には無関心である。若いころは、食事は車のガソリン補給のようなもの、中身はともかく、手っ取り早く済ませるのがいいと考えていた。しかし、なぜか食べ物の「味」はよく分かった。したがって、怪しい味のものは反射的に受け付けないので、食あたりの記憶はない。

「食」には無関心だが、いろいろな場所で食事をしてきた。船のサロン、中北米、欧州、中近東、太平洋、東南アジアの屋台からグランド・ピアノを備えた個室レストランやアラビアン・ナイトの話に出てくるようなレストランも経験した。

長い人生で人はいろいろなものを食べる。たとえば東南アジアでは昆虫や蛙や鳩、筆者は小学校で若い女性の先生に連れられ皆でイナゴ取りに出かけた。戦後の食糧難、もちろん、食べるためだった。あの頃は児童も先生も空腹だったと思うが、首飾りのように糸に通した多量のイナゴ、黄色い卵持ちの煎りイナゴ、これらの記憶は懐かしい。

東南アジアの夜店や市場などでよく見る昆虫の蒸し焼きにいやな顔をすると食べる人に失礼である。バッタやイナゴやサソリその他いろいろ、筆者にとってはどれも似たり寄ったりの味だが、現地の人びとにとってはそれぞれ特別の味と思いがあると思う。蛙の姿焼きは敬遠するが、鶏の手羽元ほどの蛙の太ももは柔らかくカニの風味がある。

Tボーン・ステーキとドイツのパンはおいしいと思うが、その他は似たり寄ったりである。また、祭りの思い出が重なる京都の鯖寿司や鱧(ハモ)寿司はいつでも頭の中に生きている。しかし、やみつきになるような味ではない。カナダの個室レストランではピアノ演奏付きエスカルゴ料理、金網から一瞬立ち上るオレンジ色の炎とエスカルゴ・トングは今も思い出すが、味の記憶はない。
◇納豆とパクチー(香菜)以外は何でも食べる。
 タイの食堂や屋台では「マイ・サイ・パクチー(パクチーを入れないで下さい)」といえば問題はない。
◇自炊派でなく現地調達主義である。米、味噌汁、梅干し、日本茶などには執着しない。
 テキサスに留学中は勉強に専念、自炊なし、大学卒業とともに日本食からも卒業、雑食性になった。
◇果物は別として、海外ではサラダと生ものや汁ものはできるだけ避ける。食あたりの自衛である。

食べ物の好き嫌いは別として、その食べ方、特に「ナイフとフォークの使い方」「箸使い」「食べる姿勢」は人の品位にかかわるので大切である。大学卒業直前、遠洋航海実習の帰途に横浜の磯子プリンス・ホテルで洋食のマナーを教わった。船乗りが世界で恥をかかないようにとの実習だった。帆船の航海実習、洋食マナー、社交ダンス、この三つが船乗りの要件といわれたが、ダンスは性に合わないので途中であきらめた。

余談だが、当時の磯子プリンスは、海が見える丘のひなびたホテルだった。そこで学んだ洋食のマナーは今も世界のどこでも通用する。食のマナーにかかわるとき、いつもあの整然としたレストランが年老いた先生のように筆者の脳裏に現れる。容貌と肌の色に関係なく、食事のスタイルや両手の位置でその人が大陸系(欧州系)かアメリカ系かが分かるのでおもしろい。

商船大学の在学期間は4年半だった(うち1年は乗船実習:春夏冬休み期間中の航海実習∔帆船実習150日⇒国家試験に必要な1年間の乗船履歴取得)。特に150日の帆船実習では古代以来の人類の知恵、すなわち風力による帆走、天文航法、真水の節水を学んだ。また、40日間にわたる太平洋帆走横断では真水(freshwater)の補給なし、毎朝のタンツー(Turn to:砂擦り[スナズリ])は総員参加、使用する砂は駿河湾の灰色の砂が定番だった。砂擦りには長期航海による足腰の弱り防止効果があるが、太平洋に出れば一週間ほどでデッキ(甲板:コウハン)は清潔でスベスベになった。大洋には“いろいろな埃”がないことを実感した。

話は変わるが、「ほのるる丸」に乗船する直前まで約1年間、東京本店営業に陸上勤務、大阪商船の大森寮に宿泊した。寮にはいろいろな社員がいたが、なかでもベテランのパーサー(事務長)から聞いた話は今も役に立っている。寮は旧家の大邸宅、暖炉が中央に控える食堂に全員が揃う朝食が楽しみ、先輩たちの話はおもしろかった。

パーサーの話は食事作法の話だった。さる高級ホテルの会食で身なり卑しからぬ和服のご婦人が「持ち箸」でお替りをしたということだった。「箸の禁じ手」のすべてを覚えていないが、京浜東北線が大森駅を通過するとき、今でもときどき懐かしいあのパーサーとこの話を思い出す。高価な服装で身を飾ることはできるが、その人の品位は簡単に変えられない、なんだか人間の切なさを感じるエピソードだった。

会社の上司(営業課長)は分かり易いフランス語を話す東大卒、筆者は課長のフランス語をフランス人並みと思った。彼の会話で香港を(フランス語では)オンコンと発音することを知った。また、係長は京大出でチェスの世界選手権保持者、もの静かで聡明だが気さくな紳士だった。メガネをかけた彼の傍にいると自分も聡明になったような気分になるのが不思議だった。皆、今も忘れない人びと、大阪商船ではいろいろなカルチャー・ショックを受けた。

古今東西を問わず食事マナーは紳士淑女の嗜み、要はナイフとフォークや箸の使い方で周囲に不快感を与えないのが基本である。最近の欧米人は箸使いも慣れたもの、日本の「箸使い」もグローバル・スタンダードに昇格した。

またも余談になるが、船のサロンでの昼食をよく思い出すのでここに付け加える。サロンにはテーブルが5列、中央のテーブルの中央がキャプテンの席だった。キャプテンの左手の列に4人の航海士(見習い士官[apprentice officer]を含む4人)、右手の列は4人の機関士、隣のテーブルは通信士とパーサーとクラーク(事務職)の指定席だった。当時、「ほのるる丸」のクラークは東大卒だった。

他のテーブルは、ドクターやナース*注)、パセンジャーや来船客用である。テーブルには厚手の白いテーブル・クロス、これがサロンのレイアウトだった。航海中は空席が多いが、レセプションやパーティーなどでは満席になる。正月などには、紅白の幕でサロンを飾り豪華な食事がでる。
【*注)船舶設備規定で貨物船でも客室(定員12名以下)を備えている。当時は人員削減で船医・ナースは欠員、航海中の傷病には資格保有者が対応する:筆者は船舶衛生管理適任者(運輸省資格)として航海中の船内医務・薬品を管理した。また、在外公館の要請で送還日本人一家を豪華な客室に乗せたこともあった。】

サロンの左ウイングにはステレオ・セットがあり、陸地に近づくとまず現地のラジオ放送が聞こえてくる。やがて、ランドフォール(Landfall:陸地初見・・・実際はレーダーの映像)、次に空にカモメが現れ、水平線に港の街が見えてくる。陽気なラテン音楽などがスピーカーから流れると、船内がソワソワとする。帆船時代のランドフォールの喚声が想像できる。

航海中の昼食は全員制服姿**注)、黒服のウエィターたちは細身の黒ネクタイで左手に黒い丸盆とナプキンを腕に掛けてお替りに待機(スタンバイ)している。二等航海士(2nd Officer)、二等機関士(2nd Engineer)、二等通信(2nd Wireless Operator)は当直で空席になる。誰が何回お替りをするかをウエィターたちは心得ていた。さすがに客船を持つ船会社の厨房スタッフ、彼らは帝国ホテルの研修を終えた人たち、洋食ではパン(船内で焼く)とスープの味が決め手になると聞かされた。もちろん「持ち箸」は馬鹿にされる。
【**注):航海中の正午頃、キャプテンと全航海士がブリッジ(船橋)に集まり、各自セキスタント(Sextant:六分儀)を手にウイング(舷側)に出て太陽のトランジット(南中=ナンチュウ:太陽が真南を通過する時刻、太陽高度が最高になる)を観測、各自の観測結果を平均してキャプテンが船内の正午時間を決定する。新しい正午をもとにすべての船内時計を(自動的に)Ahead(進める)またはAback(遅らせる)して、船内放送で時間調整を全乗組員に通知する。その後、航海当直のセカンド・オフィサー(2nd Officer)とクォター・マスター(Quarter Master:操舵手)をブリッジに残し、キャプテン以下全航海士はサロンに降りて昼食をとる。曇天の日は推定船位から南中時刻を計算、船内時計を調整する。】

洋食器は一般に平たく重心も低い。ナイフとフォークも適当な重さがある。タイやベトナムの日系工場のようにペラペラで歪んだフォークとスプーンではない(どこの工場も、シッカリとしたフォークやスプーンを出すと従業員が持ち帰るという)。

食事中に突然、船が揺れ始めることがある。このとき、ウエィターたちはすかさず水差しでテーブル・クロスに水を打つ。厚手のテーブル・クロスが水を含むと多少の揺れでも食器は滑り落ちることなく、何事もなかったように平然と食事は進行する。紳士・淑女は、船が少々揺れてもワーワー、キャーキャーと騒がない。厚手の白いテーブル・クロスを掛けたテーブルと静かな雰囲気が高級レストランの要件だと思っている。

航海中の揺れでは今も思い出す光景が一つある:12月31日の深夜、横浜港で積荷を終えてパナマ運河に向かった。浦賀水道から太平洋に出たときはすでに元日、やや時化(シケ)気味の太平洋を北上、金華山沖ではシケが本格的になった。

元旦の朝7時頃、航海当直(ワッチ=08:00~12;00パーゼロ)前に朝食のためサロンに入ったちょうどその時、ハンマリングが起こった。船体が衝撃を受けた瞬間、テーブルに並べられた正月料理が、乱れることなくそのままの状態で空中1メーターほどの高さに浮上した。

一瞬、魔法のフルコースを見た:空中に並べられた皿と皿の間隔は元のまま、そのままスロー・モーション映画のようにサロン後方に向かって弧を描き、紅白の幕を張った壁に次々と激突した。もちろん、その日からお握りの食事が始まった。今も正月には、紅白の幕と床に散らばったロブスターやタイの姿焼きをリアルに思い出す。

(2)日本の食材
海外の日本食材を思うとき、まずヒューストンの冷凍サンマを思い出す。1966年頃、場所はダウンタウンの小さな台湾食材店だった。その店に切り餅のようなイカの冷凍切り身と冷凍サンマがあった。

貴重なサンマ、さっそく日本人留学生数人でサンマの塩焼きをガス・オーブンで試みた。空き缶の蓋に釘で穴をあけておろし金を即製した。醤油なしの大根おろしとサンマの塩焼きだけ、その味は記憶になく、たぶん期待外れだったと思う。

当時、ヒューストンにトーキョー・ガーデンという日本食レストランがただ1店、メニューはスキヤキ、鉄板焼き、トンカツ、うどん程度だった。小さな白い皿に黄色いタクアンが3切れ、それが1ドル(\360)、学業に専念する私費留学生が出入りする場所ではなかった。琴の音とししおどし、和服姿の日本人ウエートレス、それは今も海外でお馴染みの日本レストランの典型的なスタイルである。琴の音に反射的に日本レストランが頭に浮かんでくる。

筆者が知る限りでは、60年代のアメリカではスキヤキとテンプラ=日本食、他の日本食の知名度は零(ゼロ)だった。生魚の刺身やにぎりズシは生卵と同様に、アメリカの食文化になじまない料理にみえた。

ついでながら、タイの人びとは牛肉をほとんど食べない。その食文化は田舎では根強いが、90年代末のバンコクになぜか牛丼チェーンが上陸した。しかし、すぐに失敗、早々と撤退した。タイやベトナムでは、事前の市場調査なしにいきなり上陸してくる日本企業が後を絶たない。大胆というより無謀だが、意外に日本企業は経営層を筆頭に勉強不足である。もし小手調べ(test marketing)ならば、国の選択と方法を熟考すべきだと思った。

バンコクでは、97年のタイを震源とする通貨危機が収まるにつれて、炊飯器やミキサーなどの家電製品と野菜や調味料が外資系スーパーに並び始めた。そのうちに共稼ぎが増えて05年頃から市民の食文化も変化し始めた。中心街にはハンバーグ店も進出した。10年頃から牛丼チェーンも再チャレンジを始めたが、元気はいま一つである。

牛肉を食べない理由をタイ人に聞くと、ニワトリや豚に比べて、牛は大きいからとの答えだった。それ以上の話はなかったが、大きな牛は家庭で捌(サバ)きづらいことを察した。・・・タイに限らないが、東南アジアや北米の市場では近年まで生きたニワトリやウサギを売っていた。しかし、鳥インフルの流行で生きたニワトリはタイの市場から消えて久しい。他方、昨今の日本の主婦は「ニワトリはおろか魚すらも捌けない/捌かない」は単純な話ではない。

60年代のアメリカでは敬遠されていた日本食は、70年代に西海岸で生まれたカリフォルニア・ロール、一種のサラダの海苔巻きが西海岸から東海岸に広がり始めた。74年にはキッコーマンのアメリカ工場(ウィスコンシン州)が稼働、その後83年にシンガポール、97年にオランダで工場が完成、次第にキッコーマンは日本の味として世界に広がっていった。キッコーマンとともに有名な味の素は、1910年から海外に進出したと資料にある。

筆者は、キッコーマンと聞くと条件反射のようにある美人のシステム・コンサルタントを思い出す。彼女はキッコーマン・カリフォルニア工場のシステム開発に参加したことを大きな誇り(自慢ではない)にする親日家、今もキッコーマンを愛用していると思う。

一方、日本食、特ににぎりズシには欠かせないのは米である。幸い、欧米にはパール・ライス(カリフォルニア米=加州米)と呼ばれる日本米のような大粒の短粒米があった。加州米の由来は確かではないが、筆者はカリフォルニア州の日系移民が日本米を改良した米と理解している。アメリカやオーストリア/ドイツの高地でも、圧力釜で炊けば日本米と同じ甘い香りと粘りがあるご飯ができあがる。

ここで60年代から今日に至る世界の日本食を振り返るとき、次のような記憶が頭に浮かんでくる。
◇パール・ライスと味の素とキッコーマンが世界に普及して、日本食の素地が広がった。
◇冷凍技術と運送システムの向上で日本食材が世界各地に流通し始めた。
◇日本企業の海外進出で在留邦人が増加した。また、日本人には日本食を求める人が多い。
 70年代初頭にはロンドンにも日本食材店が開店し、80年代初頭にはロスで吉野家が営業していた。
 日本食材店は高くて近寄り難い(英国人主婦談)、ロスは吉野家の味ではなかった(筆者感想)。
◇立食パーティーなどに出るスモークド・サーモンの延長線上で魚の生食への抵抗感が弱まった。
 日系企業はさまざまな立食パーティーを開催、日本食の高級感と安心感を出席者たちに与えた。
◇カリフォルニア・ロールや日本食はヘルシー、低脂肪、低カロリーとの認識が一般化した。
◇日本の工業製品への信用が高まるにつれて日本へのポジティブ(肯定的)な関心が芽生え始めた。
◇漢字コードが整い、2000年頃から日本にもインターネットが普及、日本と世界の距離を縮めた。
 ゲイシャ、フジヤマ、ハラキリ、カミカゼなどはよく知られた日本語、そこに日本の実像が加わった。
 観光地のカラー映像や音声による情報は言葉以上に強力だった。⇒百聞は一見にしかず
◇世界的な肥満の増加と健康食品への関心は日本食への関心につながった。
◇農薬や飼料添加物、加工食品の防腐剤や発色剤など、食の安全性への関心が世界的に高まった。
 “あの市場の葉物は虫食いがない“などとケータイで噂が飛ぶと、出荷量が減少する。(東南アジア)
◇日本食は素材の味を生かす料理法、味と形と器が一体になって料理の特徴を引き立てる。
 バンコクの富士レストラン、やよい軒、8番らあめん、らあめん亭など、チェーン店の味は100%
 日本、お客は90%以上がタイ人・・・タイ人は日本食の味と価格を受け入れた。【参考:農林水産
  省資料(H26/9)9ページ
◇スキヤキ、鉄板焼き、ラーメン、スシなど、客席から見える調理はお客に清潔感と安心感を与える。
 タイのあるラーメン・チェーン店では、調理担当者の日本での研修証を客席に掲示している。

以上のような背景のもと、日本食とその食文化は本物、代用品、創作品、偽物を交えながら世界に広がった。その本質は“本当の味”より“日本食への好奇心”だと思った。

一般にJapanese Foodと呼ばれる日本食店舗は玉石混交だが、その数は、06年には24,000店舗、13年には55,000店舗と農林水産省は推定している。また、13年12月には和食がユネスコの無形文化遺産に登録されたので、現在は、Japanese Foodはさらに増えたと思う。【参考:日本食・食文化の海外普及について、農林水産省資料(H26/9)、8ページ

話は変わるが、筆者の経験によれば本物の味は、本物の素材と本物の味を知る料理人が作るものと考えている。この考えは、日本食だけでなく、タイ料理などにも当てはまる。また筆者の体験だが、外国発のビジネスクラスでも名前は日本食、中身が酷いものもある。

数年前に、バンコク行きの便でたまたまタイ料理店を営むタイ人の女性と隣り合せになった。彼女の悩みは、日本ではタイの食材を入手することが困難、本場の味を出すことに限界があることだった。この話を聞くまで、東京や横浜のタイ料理は日本人の口に合うようにと手加減し、本場とはかけ離れた中途半端な味になっていると思っていた。しかし、それは誤解だった。

有名な世界3大スープの一つといわれるトム・ヤン・クンは、パクチーと激辛が苦手の筆者には唯の激辛スープに過ぎない。しかし、観光案内書には載らないバンコクや地方の町には、タイ人や日本人が共に認めるおいしい料理がある。バンコクの一軒は裏通りにある小さな店だが、ベンツで乗り付けるお客もいる。店のオヤジさんは筆者を日本人と知り、わざわざまともなナイフとフォーク(ペラペラでない)とキッコーマンの小瓶を用意するが、そこの料理は醤油にも合う。これらは年配のオジサンやオバサンが目の前で作る味、時には材料、たとえばエビがないと断わられる日もある。

ここで日本食に話を戻すが、世界に流通するMade-in-Japanの食材は微々たるものである。日本の食材、特にコメや野菜のような素材は、工業製品のように工場進出で生産できるものではない。これが、筆者が認識する農産物の難点である。タイやベトナムでは日本米を生産するが、それは現地の土壌、水、気候で育ったものである。現地生産でなく、Made-in-Japanの米や野菜が日本食の本命である。

下のグラフは、当ブログの5.展望(3)(2015-04-25)に示したグラフ「25.世界の農産物輸出額」である。ここでは、「25.世界の農産物輸出額」のグラフに2013年の実績と農水省の目標を追加した。

  
  出典:NHKクローズアップ現代(2014/4/14)、FAO資料、農林水産省資料(H26年9月)

上のグラフを説明すると次のようになる。

1)グラフの濃い緑色は2010年の実績である。フランスの数値だけは08年の実績である。
2)イタリアの左隣りはオーストラリアである。
3)日本の農産物輸出額は10年の実績=3,400億円、13年の実績=5,505億円、20年の
  目標=1兆円である。
  地勢と気候の違う他国とは単純に比較できないが、20年の目標は10年のベトナムの実績(1兆
  900万円)以下である。
  テレビで昨年度(2014)の農産物輸出は6,000億円になったと“誇らしげ”なニュースがあったが、
  このグラフ上の6,000億円は他国に比べて微々たる数字、日本食の評判が高い割に拍子抜け
  の数字である。
  なお、メディアの“伝え方”に関する感想を一言・・・数年前の試験捕鯨に関するニュース・・・
  BBC(英国):捕鯨の残虐性を強調、NHK(海外放送):試験捕鯨の正当性を強調・・・BBCと
  NHKの“伝え方”が正反対だと記憶に残っている。同じニュースにもメディアの主観を反映でき
  るので要注意。
  “農産物輸出が6,000億円を達成”は胸を張って伝えるような偉業ではなく、無策と成行きの
  結果の数字かも知れない。
4)参考であるが、10年の日本の総輸出額は63.8兆円、うち農産物は3,400億円、総輸出額の
  約0.5%である。
5)63.8兆円は、海外の日系工場が生産する「日本の製品」は含まないことを忘れてはいけない。
  この63.8兆円の輸出品(日本の製品)は日本のGDPの増加に貢献する。しかし、63.8兆円
  をはるかに超える海外の現地工場が生産する「日本の製品」は日本のGDPに貢献しないが、
  世界に「日本の強み」を大きくアピールしている。
  いわば、日本の工業製品は世界に目を向け、世界に進出し、世界に受け入れられた。
  他方、上のグラフから、日本の農産物は、世界の大きな市場に目を向けているとは見えない。  
  日本農業の実態と政策に関する知識は皆無の筆者であるが、「減反」や「補助金」という言葉を
  聞くたびに、日本の農業界は「鎖国」状態ではないかと思う。
  バンコクの日系スーパーの産地直送品は一例だが、安全な日本農産物への世界の需要は大きい。
6)今から5年先の20年には、世界の食料市場は680兆円、09年の340兆円が倍増する。
  680兆円の市場に対して、日本の輸出目標は1兆円と非常に小さな金額である。

下の図は。目標値 1兆円の内訳である(農林水産省資料(H26/9)6ページを編集した)。

  2020年の目指す姿 ~国別・品目別輸出戦略~(1兆円の内訳)
  

上の図の注意点は次のとおりである。
1)1兆円の目標のうち、水産物=3,500億円、加工食品=5,000億円、合計=8,500億円(85%)、
  残りの1,500億円(15%)がコメ、コメ加工品、林産物、、、牛肉、茶の6分野にわたる産物である。
2)資料(H26/9)ではよく分からないが、筆者が期待する日本産の素材の輸出額は非常に少ない。
  コメなどの素材の輸出入はTPPの交渉ごと。TPPを突破口に負の連鎖を断ち切る可能性もある。

続く。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本の将来---5.展望(17):もの造りのプロセス

2015-04-25 | 日本の将来
5.展望(16)から続く。

1.日本の姿
千数百年にわたる日本の歴史は、独自の文化・文明に外来文化を融合させながら今日まで続いてきた。その歴史には、古(イニシエ)と今が共存する貴重な有形・無形の資産が息づいている。古典の詩歌を解するこころと最先端の科学技術を活用する知識、ていねいな仕事、それらの資産は日本特有の強みである。これらは国内外の日系工場の仕事ぶりから受けた日本の印象、言い換えれば、筆者に宿る日本の姿である。

今日の日本では、自動炊飯器や温水洗浄便座は生活必需品、日本製品は使い勝手が良く、しかも長持ちする。長持ちの一因は製品の精密な加工精度、そのため長年使用してもガタが起きにくい。

筆者の温水洗浄便座は16年間も使用したが無故障、あまりにも長く使ったので故障のないうちにと新品と交換した。もちろん、自身で交換するので、製品の改善点やコスト削減の跡が良く見える。インターネットには同じ機種を19年使用したという話があったが、筆者もうなずける。単純なスタンダード品が、一般に長持ちするのは自然の理(コトワリ)である。

ちなみに、タイの水洗トイレには水道栓に直結の洗浄ホースが付いている。単純で洗浄力は強力だが、日本の便座の方が人に優しい造りになっている。ハノイ在住の娘一家も現地日系メーカーの特製便座を使っている。

余談になるが、タイの人たちには「紙で拭くなんて不潔」との感覚があると聞いた。確かに紙より水で処理する方が清潔である。昔からの習慣のためか、バンコクの寺院や地方のコンビニで、柄杓(ヒシャク)付きの水槽(バスタブ程度)を備えたトイレに出会った。もちろん、手入れも良く清潔だった。この種のトイレはイランやトルコでも見たが、事後の洗浄という点では、タイやイスラム圏は日本の先輩だと思っている。

さらに話は飛ぶが、バンコクは東洋のベニスといわれた水の都、チャオプラヤ河のデルタに立地するバンコクには古来、大小の運河が縦横に広がっていた。家々は運河でつながり、耳にしただけの話であるが、ソイ(Soi:表通りから枝分かれした小道や路地)も運河の名残とか。いわれてみれば、ホテルの眼下に見る住宅の庭先には、大きな魚の泳ぐ池があり、その形は運河の名残のように見えた。今も残る多くの運河には、朝夕のボート通勤のルートになっているものもある。

炊飯器や便座に限らず、もともと日本人はもの造りに工夫と改善を重ねる民族のようである。工夫の蓄積とノウハウの伝承で完成度の高い領域に至り、そこから新たな仕掛けを生み出す。いわば、向上心の強い民族といえる。

その背景には、戦争に明け暮れ、ときには国民すらも異民族と入れ替わる大陸諸国とは異なった歴史がある。また、植民地の経験もなく、大局的には単一民族、単一言語、単一国家、日常生活の隣近所は同じ顔ぶれという点も向上心につながっている。近所のミヨちゃんに良く思われたいと若い衆もあれこれと工夫する。

基本的には平和な日本、そこでは、古くから何事にも「道を究める」ことや「習い事」を目指す傾向がある。「ソロバン」「習字」「ピアノ」「琴」「三味線」「都都逸」「落語」「料理教室」「柔道」「空手」「弓道」「書道」など、まだまだ続く。「生け花」「茶道」「礼儀作法」「和服着付け」「料理」などは無形だが「嫁入り道具」に数えるものもあった。

これらは、頭数(Head-count)の問題でなく頭の中身や身のこなしと精神の話、人口が少なかった古(イニシエ)から今日まで続く日本人の特徴である。結果として、日本の「もの」が世界で有名になったり求められたりする。なかには、風俗習慣が異なる他国の人々への押し売りでなく、彼らの生活に自然に溶け込んで行くMade-in-Japanや日本発の現地製品がある。

商品の外観は日本のものと変わらない現地製品、たとえばタイのペットボトル入り日本茶はかなり甘く、普通の日本人の口には合わない。スシや日本食にも見まねが多く、なかには日本食でない日本食がある。しかし、日本食と呼ぶほうが売れるらしい。これも、広義の「日本の強み」かも知れない。

にぎりズシと日本茶で思い出したが、アリゾナでにぎりズシを食べながら「このスシは大したことはない」といったら、相手にあなたはコカコーラを飲みながらスシを食べていると指摘され恥じ入ったのを今も覚えている。本当のスシと本当の日本茶とスシ屋独特の湯飲みはセット食品、単体ではその価値を発揮できないとアリゾナで認識した。60年代のアメリカやヨーロッパ在住の日本人は、ビネガー(Vinegar:食用酢)に砂糖を加えてスシ酢を作り、パール・ライス(大粒の加州米)でスシを握っていた。これで問題はないが、コカコーラとは合わなかった。なお、ビネガーに砂糖を少量加え、小さな泡がでる程度に加熱するのが頃合いとスシ作りの達人(日本人男性工学博士)から聞いた。

ついでながら、東南アジアの祭りやバザーの人混みで“ヤキソバ”と声を掛けられると大概の日本人は笑って振り返る。歓楽街の客引きは“シャチョウ”と呼びかけて近寄ってくる。ヤキソバは日本の身近な食べ物、シャチョウは海外出張の日本の遊び人、これらの言葉に日本人は反応する。いわば「日本人判別語」としてヤキソバやシャチョウも世界に浸透している。

タイでは当たり前のキッコーマン、味の素、即席メン、ソーメン(腰がある)、即席カレー、スーパーやデパ地下の色とりどりのにぎりズシ、海苔巻、カニカマ(日本製は高価)、ヤキソバ(中身よりヤキソバという言葉の認知度大)、タコヤキ、テリヤキ、ラーメン、ショウガヤキ、カツドン、サンマ(鮮度に問題アリ)、日本米(現地生産)、炊飯器、湯沸しポット、洗濯機、エアコン(日本ブランドは静か)、交差点のダイオード信号、車、バイク、デジカメ、カラオケなどと数え上げれば切りがない。製造国はさまざまだが、現地ではいつの間にか現れた便利な品物といった程度の認識であり、カラオケを日本発の装置と知る人はほとんどいない。

また、仕事仲間のタイ人は日本みやげに米を10kgも買った(2001年)とか、別の人も日本みやげに米を買ってきた(2012年)。世界的な米どころのタイは米の種類と量は豊富、しかし、重くても日本の米を家族にぜひ食べさせたくなったそうである。2010年頃には、すでにタイ産のコシヒカリなどはスーパーに出回っていたが、やはりMade-in-Japanにはかなわないらしい。

なお、ハノイ在住の筆者の娘は、Made-in-Vietnamの日本米を食べている。UNISハノイ校の祭ではベトナム産日本米のオムスビやカレーが人気商品だという。バンコクのサンマはかなり新鮮、ハノイのサンマは形がかなり崩れて、内臓が怪しくなっている。これらは同じ大型スーパーの鮮魚売場の状態だが、バンコクに比べるとハノイの道路網と流通システムに7、8年の遅れがあり、その差がサンマの鮮度に現れている。魚や青果物の鮮度へのこだわりは、日本の食文化の一部である。

2.もの造りのプロセス
単に「日本の強み」というだけでは、抽象的である。その強みを具体的に知るために、まず、もの造りのプロセスを頭に思い浮かべる。そのプロセスのどこで、日本のなにが強いのかを知れば、その強みをさらに伸ばす方策も明らかになる。

この意味で、ここでは工業製品だけでなく食事や料理も含むもの造りのステップを整理する。

下の図は、素材、加工、消費、流通の関連をブロック図で表したものである。非常に大ざっぱであるが、食品・サービスと工業製品に分けてものの流れを示している。食品の加工には一般家庭、工業製品の加工には手工芸品の制作も含まれる。

      

上に示すプロセスは、5W1H(ゴ・ダブリュー・イチ・エッチ=When:いつ、Where:どこ、Who:だれ、What:なに、Why:なぜ、How:どのように)があって意味を成す。この5W1HにHow Much(いくら:コスト)を加えて5W2Hとすることもあるが、古代のピラミッドや巨石文明の時代にコストと採算性を計算したかどうかは不明である。

このもの造りのプロセスに日本の強みを重ねるとき、さまざまな具体的な強み、時には弱みが浮かび上がってくる。

たとえば、東南アジアに味で評判のスシ屋がある。その店のマグロは築地直送とのことである。「築地直送」は、上の図の「素材」の「流通」に当たり、マグロの運搬技術に関係している。また、「加工」の「素材処理」はマグロの解体技術と保管技術(魚肉のねかせ=牛肉のAging(熟成)に近い処理)に関係している。さらに、マグロの解体や「加工・調理」に使う包丁は刺身包丁の製造技術に関係している。さらに、「配膳・包装」に使う器(ウツワ)は日本の焼き物の技術に関係する。

このように、日本食のスシを一つとっても、もの造りのプロセスに照らし合わせると、日本特有の技術とその技術を使いこなす修行(例:調理師の修行)が浮かび上がってくる。それらは、日本に生まれた有形・無形の資産であり、調理師などは国家資格である。さらに、その資産価値を理解する外国人の存在が、海外のそのスシ屋を「味」で有名にする。味より値段だけで人を引き付ける偽装食品とは次元が異なる世界である。

もちろん、スシの有形資産は米粒やマグロの切り身、また無形資産は食べた人の舌が感じる“おいしいマグロのにぎり”である。その味を解する人の味覚が大切であり、その舌を持つ人の人種、性別、年齢、国籍を問うことはない。価値観の共有は、気心の知れた間柄に他ならない。

上の例で、技術に焦点を合わせると、スシ職人さんが大切に扱う刺身包丁は日本刀の流れを受け継ぐ“引き切り”の技術に由来する。この技術は、有名なドイツのゾーリンゲン地方の“押し切り”の刃物とは造り方も使い方も違っている。
【補足:筆者が「ほのるる丸」で初めて訪れたハンブルグ、そこで購入したドイツ土産はゾーリンゲンの鋏だった。当時は、“引き切り”や“押し切り”の知識もなく、刃物はとにかくゾーリンゲンに限ると信じていた。ドイツに行って初めてゾーリンゲンは社名でなく、刃物で有名な土地の名だと知り、非常に恥ずかしく思った。そこでツヴィリング J.A. ヘンケルス社(Zwilling J.A. Henckls)と双子のマークを知った。】

ここで問題なのは、ゾーリンゲンの刃物は日本でも昔から有名だった。他方、スシ、刺身、包丁などは近年になって世界に知られるようになった。フジヤマ、ゲイシャ、ハラキリで日本が有名になり、次に京都や奈良が観光地として世界的に有名になった。しかし、お茶、米や農産物、焼き物、工業製品などで世界に知れ渡る日本の地名を筆者は聞いたことがない。

このような事実を頭に入れて、もの造りとは何か?国際競争力とは何か?その根源をなす人材とは何か?人材とは農作物のように学校で栽培できるものだろうか?大学のグローバル化とは何か?英語を話す人をグローバル人材と呼ぶのだろうか?礼節を知って衣食は足りるだろうか?などと今も昔も筆者に付きまとう疑問を、再びここで振り返る。そのレビュー(Review)で何かを見出すことができれば幸いである。

日本の強みと将来に向けて伸ばすべき点を検討するに当たり、前回に示した参考書と上に示したもの造りのプロセスを参照する。

【参考文献】・・・前回に示した参考書
1.成毛眞「巨大技術の現場へ、ゴー メガ!」新潮社、2015年2月
2.V.シュタンツェル「日本が世界で愛される理由」幻冬舎2015年1月
3.前島篤志(編)「文藝春秋SPECIAL2015冬日本最強論」文藝春秋、2015年1月
4.中原圭介「シェール革命後の世界勢力図」ダイヤモンド社、2013年6月
5.竹田恒泰「日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか」PHP研究所、2013年3月
6.インタービジョン21「図解 世界に誇る日本のすごいチカラ」三笠書房、2012年1月
7.Beretta P-08(ベレッタ ピーゼロハチ)「東京町工場散歩」中経出版、2012年1月
8.平沼光「日本は世界1位の金属資源大国」講談社、2011年5月

筆者は「食」の門外漢で、食に付いての専門知識はない。しかし、次回は食品・サービスから始める。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本の将来---5.展望(16):ヒューストンの昨今

2015-03-25 | 日本の将来
5.展望(15)から続く。

ローカルとグローバルを検討する前に、今回は街の発展と景観の変化について最近気づいたことを紹介する。

筆者は、日本や東南アジアの途上国では経済の発展と同時に街や地域の景観が大きく変わると思いこんでいた。経済発展でまず、でこぼこ道が舗装され、新しい道路も開通する。昨年5月に訪れたハノイも、上空から見れば赤土がむき出しの道路や新空港の工事現場だらけだった。

しかし、街の中身が大きく変わっても、外観はほとんど変化しない地域があることに最近気づいた。

前回に図示した駅前広場であるが、その広さは十分かとグーグル・マップでいくつかの駅前広場をチェックした。そのとき、ついでにチェックしたテキサスのヒューストンは、ダウンタウンのビルの林立は別としてここ50年近くほとんど外観が変わっていないことに気づいた。近年、ヒューストンではLRT(路面電車)が走り始めたが、それは既存のメイン・ストリートにレールを敷いただけ、航空写真に写る幹線道路はほとんど変わらない。

そこで今回は、ヒューストンに焦点を合わせて昔と今の状況を比較する。

筆者は、ヒューストン大学に1966年8月から69年2月まで在学した。45年ほど昔の話である。その後もときどき訪れて、この街にかなり詳しくなった。

昔のヒューストンは石油化学工業の街、もっと昔は綿花の積出港だと予備校で教わった。そこに60年代からNASAのアポロ計画、メディカル・センターの臓器移植が加わり、この地域の中身は大きく変化した。また、アポロ計画と臓器移植では新しいコンピューター・ネットワークとデータベース・ソフトが必要になった。

なかでも、研究機関や大学を結ぶコンピューター・ネットワーク、ARPANET(アーパネット)の開発は全米にわたる国家プロジェクトだった。そのARPANETプロジェクトはTCP/IP(Transmission Control Protocol/Internet Protocol)を生み出した。67年の授業では大気圏突入時の有人カプセルの温度変化を解析した。その解析ではARPANETを利用していたが、ネットに接続するソニー・テクトロ社の画面は解像度が優れていると教授が学生たちの前で日本製品を褒めてくれた。

TCP/IPは今日のインターネットの基本技術である。また、DBMS(Database Management System:データベース・ソフト)も60年代後半に大きく進歩し、今日の世界的なIT社会を支えている。今後は、IoTやM2M(Machine to Machine)から生じるメガ・データの処理技術も楽しみである。

筆者が学生だった当時、先生たちは授業が終わると早々にNASAに駆け付けるので、授業後に落ち着いて質問に答えてもらえないと学生から苦情がでた。

その頃の日本は学園闘争にうつつを抜かしていた。その混乱は、なぜか猿山のケンカに見えたが、そのために日本のコンピューター教育が遅れた。その遅れは年ごとに拡大し、2000年代になって、ようやく日本企業もインターネットやe-mailの世界に参加した。その頃、にわかにグローバル化という言葉が流行りだし、その言葉だけが独り歩きを始めた。覆水盆に返らず・・・海外の日系工場のコンサルティングで感じることは、日本企業(本社)のコンピューター・システムへの認識の低さにため息が出た。この意味で、当時の学生を含む教育界の罪は重い。・・・大学のグローバル化は別の機会に検討する。

西海岸や東海岸の人には田舎と映るが、医学と宇宙分野では、ヒューストンは発展の震源地の一つだった。しかし、60年代から今日まで、ヒューストンの景観は大きく変わったとは見えない。2010年の人口は210万人、今も昔も全米第4位の都市だが、実際には人情豊かな小さな地方都市のように感じる。いつ来ても、タクシーや見知らぬ人もフレンドリー、住めば都である。

そのヒューストンのダウンタウンと大学のキャンパスをグーグルで覗いてみると次のような状況である。

下の写真は現在のヒューストンの航空写真、ダウンタウンは小さく、その右下方向約2~3Kmにヒューストン大学のキャンパスがある。地図にはないが、ダウンタウンの左上方向には広大な落葉森林が広がっている。その中に高級住宅が立ち並び、秋の紅葉は美しい。そこに住むホスト・ファミリーとのハロウィーン、クリスマス、メキシコ旅行、ボランティア―活動などの思い出が蘇える。

  現在のヒューストンのダウンタウンの航空写真
  
  出典:Google Map(as of 2015/03/21)

80年代にダウンタウン西方約10kmに新しいショッピング・モール、ギャレリアができ、ダウンタウンの商店街は急激にさびれた。そこで、市は人出を取り戻すため、LRT(ライトレール:写真の赤い破線)を導入した。

下の写真はダウンタウンの現在の姿である。画面右上から左下方向にメイン・ストリートが走っている。66年には一番高いビルは104mだったが、年と共に高層ビルが建ち並んだ。高層ビルが林立するにつれて、人々はビルからビルへと移動し、街路に出なくなった。真夏には電光掲示板に華氏104度(40℃)とでる暑さのせいかも知れない。
【参考:ダウンタウンのライバルであるギャレリアは全館空調⇒68年頃のマーケティングの授業で将来構想として街全体を空調するという話があった。他に、宇宙の真空工場など数々の面白い話を今も覚えている。ギャレリアではモール全体を空調しているので、アイス・スケート場もオープン・スペースにある。】

  ダウンタウンの様子
  
  出典:Google Map(as of 2015/03/21)

2003年の秋には、LRTのレールをメイン・ストリートに敷いていた。現在は下の写真のようにLRT(路面電車)が走っている。ダウンタウンの中心から5~600mも離れると、メイン・ストリートも写真のとおり昔の景色になる。

  
  出典:Google Map(as of 2015/03/21)

LRTがない60年代には、このメイン・ストリートには人と車が多かった。筆者がメーシー(Main St.の百貨店)前にうっかり駐車したら、10分ほどのうちにレッカー車で車を持って行かれた。バスで保管庫に車を引きとりに行ったのを覚えている。

66年にこのメイン・ストリートで、黒っぽい小さな不格好な車を見た。あれは何の車?と問うと“日本車”とのことだった。ハイウエーの高速・長時間運転はできない車とのことだった。もの好きがちょい乗りで使っているのだろうとのことだった。66~69年の間に日本車を見たのは、あの1台だけだった。

下の黄色い枠内はヒューストン大学である。66年の学生数は2万人程度、現在は3~3万6千人に増加した。校舎や会館が増えたが、270万平方メートルのキャンパスは昔と変わらない。自転車はなく、80年頃からマイクロバスが循環し始めた。

  ヒューストン大学のキャンパス
  
  出典:Google Map(as of 2015/03/21)

上の写真右上を左から右に斜めに横切るのはR45(45号線)である。ガルベストンの港(ヒューストン港)と海水浴場に直結している。ヒューストン港に日本船が入ると、テンプラ、とんかつ、味噌汁などをご馳走になった。明日はテンプラにするといわれて、嬉しくて眠れなかったのを思い出す。(台所付きの部屋だったが、自炊は一切しなかった。)

下の写真は、工学部の一角である。美術館は90年代の建物、「工学部Annex(付属棟)」の丸印に筆者の部屋があった。今もAnnexが存在するのには驚いた。あの部屋で、大学院で学ぶ傍らコンピューター・プログラミングを学生に指導していた。

  工学部の一角
  
  出典:Google Map(as of 2015/03/21)

2003年秋、ふたたび学びたくなり、聴講を申し込んだ。経済とシステム設計の講座を聴講した。【聴講については、グローバル工場---機能の階層(3)2012-01-24の「余談」を参照】

2003年のキャンパスを歩くとき、駐車中の車を“日本車?”“否”と一台ずつメーカーを確かめた。思い出すたびに確かめると、トヨタ、ホンダ、マツダなどの日本車が全体の6割以上を占めるのには驚いた。市内でも、筆者が乗る路線バスを追い抜く車も3割近くが日本車だった。日本がアメリカと貿易摩擦を起こしたのはよく理解できた。

66年に〝見にくいアヒルの子”のような日本車を見たが、その後35年で日本が自動車の生産大国に成長した。世の移り変わりの早さをひしひしと感じた。

聴講で受講した品質管理の教授に、当時(66年頃)の日本製品は“安かろう、悪かろう”だったが、今(03年)は違う。日本のもの造りには長い歴史があり、製品にはその国の歴史と国民性が表れると先生にいわれた。金がない学生にとっては、中古でも故障が少ない日本車に人気があるはよく分かる。日本車を経験した人が、金回りがよくなれば新しい日本車に乗る可能性もある。それはブランド・ロヤルティーの理論である。

下の写真にある図書館は改装されている。卒業する学期の学生は、申請すれば24時間利用できる机一つの個室を与えられた。世界各国の学会誌や論文やマイクロ・フィルムの蔵書も完備、市民も利用していた。多くの学生がパート・タイマーで働いていた。

日本には講義だけを英語化して「本学はグローバル大学」だということがある。文部科学省も大学のグローバル化を進めている。しかし、もし講義を英語化すれば、参考書籍、学会誌、試験、宿題、論文の英語化も必要である。また、学内図書館だけでなく公立図書館の英語書籍の収集、データベースの英語化、・・・やるべきことが多く、時間もかかる。先生の外国人化ではなく、日本の知的資産の英語化も忘れてはいけない。英語化が進む将来はさておき、過去の資産の英語化は、backlog(積み残し)として切捨てる?・・・さまざまな問題を一つずつ潰さなければならない。

筆者もこの大学で、受講コースごとに3~10冊ほどの副読本を授業初日に先生から指定された(assignment)。教科書と副読本が試験の範囲だった。そのとき先ず、この図書館で指定書籍を探した。中には、持ち込み参考書3冊まで許可のFinal Examinationもあったが、そのときもこの図書館に駆け付けた。この意味で、図書館のグローバル化を忘れてはいけない。さもなければ、洋食器に和食を盛り付けて、これが洋食というに等しい。【参照:グローバル化への準備---英語と他の言語(7)(2013-02-10)の最後のページ】

  大学の中心地
  
  出典:Google Map(as of 2015/03/21)

上の写真の大学本部には扇型の大講堂がある。そこでは年に一度の「International Day」で各国留学生が出し物(演芸会)を披露した。欧州・近東の学生には芸達者が多く、次から次へと出し物が続いた。残念ながら総勢十数人の日本人学生には芸達者がいなかった。

学生センターの中庭はなぜか日本庭園、その周りに郵便局、大レストラン、会議室などが並んでいる。2階の書店は教科書や参考書、衣類から記念品までの万屋(ヨロズヤ)だった。娘を連れていくとダウンタウンより楽しいといった。

上の写真下部のヒルトン・ホテルは「ホテル・レストラン経営学部(College of Hotel and Restaurant Management)」が経営するホテルである。80年ごろに新設された学部である。2003年秋の聴講ではこのホテルに滞在した。65歳以上の聴講は無料だったが、2ヶ月も聴講するとホテル代($100/day)は痛かった。しかし、貴重な体験はお金に替えられないと割り切った。

66年当時は、4年制学部の留学生は強制的にキャンパス内の寮(20階X2棟:Twin Tower)、大学院生は大学周辺に下宿することになっていた。筆者も大学の紹介で近くに下宿した。

下の写真の矢印は下宿先への道筋である。大学から3kmほど、矢印の先にある野球場の近くに下宿した。緑ゆたかな住宅街である。

  筆者の下宿先への道筋
  
  出典:Google Map(as of 2015/03/21)

下の写真に下宿先の家が66年と変わりなく写っている。

  下宿先の家
  
  出典:Google Map(as of 2015/03/21)

下宿した家をさらに拡大すると下の写真になる。大家さんはすでに引っ越したが、家は今(2015年)から47年前と全く同じである。右下の「○」の中に郵便ポストの影が写っている。ポストのタイプと位置も変わりはない。母の手紙が頻繁に届いた懐かしい郵便ポスト、非常に懐かしい。2、3の建替えはあるものの周辺の住宅もほとんど変わりない。この写真で50年近くの歳月が突然消え去り、浦島太郎になったような気がする。

  家の拡大図
  
  出典:Google Map(as of 2015/03/21)

1階の車庫は筆者専用だった。その右に2階への階段が見えるがその位置も昔のままである。階段を上がると正面に姿見、左手のドアーを空けるとキチン、バス・トイレ付き1ルームだった。車庫の上が筆者の部屋だった。

68年8月23日の卒業式には、義兄が参列してくれた。義兄は研究炉の廃棄物を処理するために訪米、その帰りの参列だった。筆者は卒業の翌日から2、3日も眠りこけた。その間に、義兄は筆者の車で散歩にでかけた。(市内を案内できなので自由に車を使って欲しいと事前に義兄に伝えていた。)

義兄は郊外で逆走して道に迷った。ようやく人家の明かりを見付け、助けを求めた。その家の主人は、私の車の後についてくるようにと指示して、無事にこの住所に義兄を誘導してくれた。

昨年10月の食事会で姉と義兄からこの話を聞き皆は驚いた。次回はこの写真を義兄たちに見せようと思っている。親切なアメリカ人にお礼をいうには手遅れである。【参照:道路-R10---アメリカの親切(2010-09-16)】

当時の大家さんの家族はハンガリー系アメリカ人、金髪・碧眼だが日本人と同じ東洋系だといって家族同様に扱ってくれた。おばさんとはリンゴ一つでも分けて食べたのを懐かしく思う。

この大家さんはカラカス(ベネズエラ)にアパートを所有しているとか。ヒューストン大学の卒業を機に、大家さんの家族たちと共にそのアパートに移り住まないかとの誘いがあった。また、工学部の学部長(Dean)からは、大学が身元保証をするからNASAで働かないかという誘いもあった。ありがたく思ったが、もともと国連に応募するための修士号取得、当初の目的とおり、日章旗の下(モト)で国連を目指すとすべての誘いを辞退した。

68年8月の卒業後は、博士課程に在籍しながら、大学の仕事を後任に引き継いだ。トルコ人の後任にあの下宿部屋を紹介、車も譲り、69年2月11日の建国記念日にホノルル経由で母が待つ日本に帰国した。帰国の数年後、大家さんから「このアパートの1室を空けてYouを待っている」と白亜のアパートの写真が届いた。今でも、カラカスやベネズエラと聞くたびにあの白い大きなアパートを思い出す。

この写真に写る郵便ポストを見ると、当時のヒューストンがよみがえり、思い出が尽きない。

なにもない地域や場当たり的に発展してきた街に新しいことが起こると、その地域は大きく変貌する。しかし、ある程度の余裕と計画性をもって成熟した街では、中身が大きく変わってもインフラはほとんど変化しない。今回はヒューストンの航空写真からそんなことを学んだ。

次回は、下の参考書を読んだうえで日本の競争力を考える。その競争力とは何か、日本のローカル製品とグローバル製品の違い、グローバル化の本質も考える。これらの参考書の通読に時間をかけるので、次回は4月25日に投稿する。

【参考文献】
1.成毛眞「巨大技術の現場へ、ゴー メガ!」新潮社、2015年2月
2.V.シュタンツェル「日本が世界で愛される理由」幻冬舎2015年1月
3.前島篤志(編)「文藝春秋SPECIAL2015冬日本最強論」文藝春秋、2015年1月
4.中原圭介「シェール革命後の世界勢力図」ダイヤモンド社、2013年6月
5.竹田恒泰「日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか」PHP研究所、2013年3月
6.インタービジョン21「図解 世界に誇る日本のすごいチカラ」三笠書房、2012年1月
7.Beretta P-08(ベレッタ ピーゼロハチ)「東京町工場散歩」中経出版、2012年1月
8.平沼光「日本は世界1位の金属資源大国」講談社、2011年5月

続く。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする