こ も れ び の 里

長崎県鹿町町、真言宗智山派、潮音院のブログです。平戸瀬戸を眼下に望む、人里離れた山寺です。

某県教委のコラム

2006年05月11日 | つれづれ
すいません!
「目暗ケ原ものがたり」進展しませんねえ。
神様が降りてきません。執筆の神様が。
GWボケもさっさと払い除けたいものです。

ところで、ある会議でつぶやいた思いが、
某県教委のWebコラムの一部に取り込まれてあり、
有り難かったので、ここに転載。

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         「 こどもの日に思ったこと 」

  子どもたちはどこへ行ったのだろうか?子どもたちの姿が町から消えた。というようなことをよく耳にする。
 簡単なことである。子どもたちは大人になったのだ。

むかしむかし そのむかし
 子供は 花のなかにゐた
  しあはせばかり 歌ばかり
   子供は とほく旅に出た     立原道造「風のうたつた歌」より
                         
 子どもと大人の境界がひどく曖昧になっていないだろうか?
 去る3月に開催された県社会教育委員会においてある委員の発言である。私も日頃からもっともだと思っていたことである。
「……(生徒が)学校で学校の先生と、ため口を聞くような間柄というのは、私にとっては特に許せない。保護者が学校の先生をつかまえて、ため口聞いているというのも僕は許せないですね。そういう生活規範もそうですし。何て言ったらいいんでしょうか。基本的なコミュニケーションのあり方というのを。………」
 私感であるが、子どもにとって大人の世界は、はるか“とほい”所にあった。ましてや、学校の先生などは、近寄りがたい存在であった。大人の世界へ行くということは、それほど途方もない“とほい”所へ旅立つことのように思っていた。

 ところで、むかしの子どもたちは、しあわせだったのだろうか?
 そして、その子どもたちは、しあわせな大人になったのであろうか?

悲しみをひとひら かじるごとに 子どもは悲しいと言えない大人に育つ                             中島みゆき「誘惑」より

 いつのころからだろうか?数少なくなった子どもたちが数多くの悲しみを背負うことになったのは。
 子どもたちをそうしてしまったのは誰なのか?
 それは、今の大人だろうか?
 むかし、しあわせだったはずの大人だろうか?
 私もそのひとりなのだろうか?

 今の子どもたちをめぐる大人たちの思いは、なぜ、なぜ、なぜの疑問符の連続である。
 皮肉なことに、子どもたちの悲しみが重なり合うたびごとに、そんな思い悩む大人たちの輪は拡がっていく。
 しかし、いつかその輪の拡がりが、子どもたちをひとりふたりと、確実に、しあわせにしていくと信じたい。
 その輪に、たくさんの人たちに加わっていただくことを願いつつ
コメント (6)
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