こ も れ び の 里

長崎県鹿町町、真言宗智山派、潮音院のブログです。平戸瀬戸を眼下に望む、人里離れた山寺です。

血圧と妄想分別心の関係性

2015年12月30日 | 仏教

「 無常迅速(むじょうじんそく)時不待人(ときひとをまたず)」

「年々歳々花相似(ねんねんさいさい はなあいにたり) 

 歳々年々人不同(さいさいねんねん ひとおなじからず)」 

「人生一生 酒一升、あっという間に もう空か!」

  毎年、寒い冬が過ぎると梅が咲き、桜が咲き、例年同じように繰り返されるけれども、
私たち人間は、刻一刻と年齢を重ね老化へと変化を続けている。この大自然のいとなみを、諸行無常という言葉で表すことも出来る。
  そんな明日の我が身さえわからないはかない人生なのにもかかわらず、私たちは、くだらない欲望や妄想にとらわれて、争ったり憎しみあったり、殺し合い、・・・そんなことを繰り返している。
 そんなくだらない人間から脱出して、安らかな人生を送るためには、どうしたらいいのか?

 「平常心」という言葉がある。普通この言葉の持つ意味は、「何があっても心が動揺することなく、本来の力を発揮することの出来る心」と思われているが、それは本来の意味ではない。
  「平常心」とは「ありのまま」「そのまま」という意味で、分別する心のない状態のこと。
分別心とは、好き嫌い、おいしいまずい、上手い下手、高級だ安物だ、 健康だ病気だ、あ~でもないこ~でもない、と判別する心のあり方。要するに、われわれ人間のくだらない物差しで物事を判別したり妄想したりしている状態だ。そんな差別分別をやめて、全てを常に平かに見ることのできる心。
それが平常心。
 私は、毎朝起床時に血圧を測定するが、いつも適正値である。しかし、病院で計ってもらうと決まって高血圧の値が出てしまう。先生は、「家庭値が正しい値ですので」と笑いながら言って下さるが、私にとっては不甲斐ないこと極まりない。血圧の値が高くなってしまう要因は、測定時にいろんな雑念が湧いてくるからだと推察できる。その雑念や妄想、くだらない分別心が血圧を上昇させる。白衣を着たナースに計ってもらうと余計高くなる。まさしく平常心で臨んでいないのであろう。仏道修行そのものだ。
 

 

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通用玄関の門松は、平戸松浦藩に江戸の昔から伝承されている素朴なつくりです。

2015年12月28日 | 仏教

本堂前の門松。準備も終わりました。

大晦日は、300以上の竹灯籠と、ラミネート灯籠が境内を淡い光で演出してくれます。

通用玄関の門松は、平戸松浦藩に江戸時代の昔から伝承されている素朴なつくりです。

今年一年、有り難くもかたじけなくも、いろんなご縁によって生かされてきた思いを深くしております。

皆様方の来たる歳が、幸多からんことを、心より祈念申し上げます。有り難うございました。合掌

 

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手間ひまかけて準備。 きっと正月の神さま大喜びに違いない。

2015年12月26日 | 仏教

お正月を迎える準備、しめ縄飾り。

今年一番の寒風吹きすさぶ中、

各所に取り付けて頂きました。



 

寺ん田の稲刈りから始まって、

掛け干しし、脱穀、藁たたき、千羽こぎ、芯の選別と、

時間と手間を充分かけて製作された注連飾り。

一連の過程を目の前で見ていると、完成までのご苦労を

実感できました。お正月の神様をお迎えするのに、

これだけの手間ひまをかけて準備をする。

神様も喜んでいらっしゃって下さることでしょう。

ありがとうございました。

心より感謝申します。合掌

 

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パラダイスはここにある。

2015年12月25日 | 仏教

お大師さまの言葉 6

それ仏法、遙かにあらず、心中にしてすなはち近し。

真如、ほかにあらず、身を棄(す)てて何(いづく)んか求めん。

 

『般若心経秘鍵(はんにゃしんぎょうひけん)』 弘法大師空海全集 巻2 p349

<訳>「安らかな世界というものは、どこか遠くにあるものではない。

それは、私たちの心の中にあって、本当に近いもの。

真理は外部にあるものじゃないから、この体を捨ててどこにそれを求めようというのか。」

*「自分探し」という言葉が流行った時期がありました。
自らの生きる道をつかめなかったり人生に挫折したりしたとき、
新しい何かが見つかることを漠然と期待しながら「自分探し」の旅する、
などといった表現をしていました。
しかし「自分探し」という行為には大きな落とし穴があります。
それは、自分というものを外部に求め過ぎてしまうことです。
もちろん、外部との関係性の中で自らの個性や力に気がつけば、
それは本当の意味の自分探し、ということになるでしょう。
 実のところ、悟りも、あたたかい心も、どうしようもない私に気づく力も、
すばらしい能力も、未知の力もすべては私自身の中にすでにあるんです。
外を見て探し回っても何もありません。そして、その輝かしい能力は、
あなたを取り巻くさまざまな環境との関係性によって、より昇華していきます。
仏教では、この本来持ち備えている能力のことを、「仏性(ぶっしょう)」という言葉で言い表します。

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オムツとぼろ雑巾と袈裟

2015年12月22日 | 仏教

  お坊さんが着用するモノといえば「袈裟」

(けさ)ですね。布の切れっ端を貼り合わせ

てつくったものです。みんなが使い古した布

、例えば、雑巾にもならないほどボロボロに

なった布とか、赤ちゃんのオムツとして使い

古された布など、そんな棄ててしまう布地を

施してもらい、それらをつなぎ合わせてつく

られたのが、「袈裟」なんです。「布施」(

ふせ)という言葉は、この布を施すというこ

とからきています。こんなことから、袈裟の

別名を糞掃衣(ふんぞうえ)とも言います。

インドやタイなどにいらっしゃる仏教僧が羽

織っている袈裟が黄土色をしている理由はこ

こにあります。

 お釈迦さまは、お坊さん達に労働や経済活

動をしてはいけないと命じました。「一切の

労働を放棄して、修行に全力を投入せよ」と

。しかし、食べていかねばなりません。そこ

でお釈迦さまは、「社会の余り物をいただこ

うという提案をされます。これが「布施」の

始まりです。これは一見、他人の労働に頼る

、都合のいい考えにみえますが、実際には非

常に厳しいルールが存在します。なぜなら、

一般社会からただで物をいただこうというの

ですから、それ相応の生活を続けていかなけ

ればなりません。人一倍清らかな生活を送る

ことが、「布施」をもらうための最低必要条

件となります。

  一方、一般の人たちは、極めてストイッ

クな生活を送る修行者の姿に感動し、それを

応援することで、何らかの果報が自分たちに

も戻ってくるのではないかと信じる。それが

「布施」の構図なんです。

 ところが、日本の仏教はこのルールを重視

してきませんでした。きわめて特殊な仏教と

して日本には受け継がれてきました。それは

仏教伝来のあり方に大きな理由があるようで

す。日本は、仏の教えそのものが欲しくて輸

入したわけではなく、国家の運営に役立つ仏

教に付随する文明文化を伝来したかったのだ

と思います。それは、芸術、文学、教育、医

療、福祉、町作り、天文、土木、工学、など

など多岐にわたっています。だから、寺院は

国営で、お坊さんは国家公務員だったわけで

す。
  きらびやかな金襴の袈裟を羽織る日本の

お坊さんは、仏教の本来から見ればとても異

質な存在です。とんちで有名な一休さんは、

このあり方を痛烈に批判します。しかし、厳

しい修行を重ねた徳高きお坊さんは、悟れる

覚者。すなわち仏そのものですから、そのお

坊さんの徳を可能な限りたたえる形、それが

きらびやかな金襴の袈裟を施すという行為に

なっていったのかも知れません。ともあれ、

これは1つの日本仏教の文化として、定着し

ています。

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